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水の砂漠の魚たち   作者: 鷲生 智美
人の旅路
72/82

峰を越えて

 「石の国」から「森の国」へ入るには、「森の国」を囲む急峻な峰を越えなくてはならない。


 ゲルガンド軍は、食糧などの物資や登山のための装具を備え、いよいよ皇都に攻めのぼるという興奮もあって気力も十分。そんな状態で山越えにとりかかった。


 ミツルも登山用の靴をはき、徒歩で山に挑んでいた。とはいえミツルにとっては始めての本格的な登山で、光一は心配だった。


「大丈夫? みんなが勧めてくれるように輿に乗ったらどう?」


 ミツルは既に上がっている息をおさめようとしつつ、光一に答える。


「大丈夫よ、山なら前も登ったことあるじゃない」

「いやあ……。あの時の山と今登っている山は高さが全く違うよ」


 以前ミツルと一緒に登った山は、光一が日本で家族とハイキングしたことのある山と似たようなものだった。しかし今度は違う。この峰の標高は、何百メートルどころか、二、三千メートルはあるだろう。


 幸い雪の季節にはまだ遠いので、特殊な用具は必要としないが、それでも靴や杖などが皆に支給されたことからしても、普段の街歩きと同様にはいかないのは明らかだ。


「君は浜辺で育ってきて坂道は苦手だろう? この先坂はもっときつくなるよ。ミツルにはちょっと無理だと思う」

「全部は無理でも、歩けるだけ歩いておきたいの」

「でも……」

「理由は二つあるわ。私が輿に乗ったら、輿を担いでくれる人が疲れちゃうわよね。その分私はゲルガンド軍の兵力を無駄にしてしまったことになるわ。それが理由の一つ。もう一つは……」


 ミツルは目指す頂きを見上げた。


「この山を越えてしまうと、私はもう『森の国』から出られない。この山を越えるのは最初で最後になるのよ。だから出来るだけ自分の脚で歩きたいの」

「……わかった」


 そうか。ミツルは「森の国」に入ったら皇女様になるものな。皇宮から外に出られない生活が待っているのだから、ここは確かに自力で踏破したいというミツルの気持ちは光一にも理解できた。


「じゃあ、頑張ろう、ミツル」


 光一の励ましにミツルは極上の笑みで応えてくれた。光一は急に背中に羽がはえたような、浮き浮きとした気持ちで歩きだした。




 ゲルガンド軍は長い列をなして国境の山脈を登っていたが、列の先頭の方から大声が上がった。


「おおーい、前方から敵兵だーっ」


 その声を聞いて列の後方にいるミツルの周辺にも緊張が走る。けれども、しばらくたっても一向に戦闘の気配はしない。そのうち、ミツルの許に、先頭近くを行くゲルガンド将軍からの使いが来た。


「ナイア姫に申し上げます。先ほど皇軍の武装した兵士が数名、峰の向こう側よりこちらに降りて参りました。我々も一時は戦いを覚悟したのですが、敵ではありませんでした」

「敵じゃないの?」

「はい。皇都を守る兵士が、ゲルガンド将軍蜂起の知らせを聞きつけ、わが軍に味方すべく駆け付けて来たのです。父上のご威光でございますよ、ナイア姫様」

「そう。知らせてくれて有り難う」

「彼らが言うには、『森の国』の皇軍の大半がゲルガンド側につきたいと思っているとのこと。脱走兵がこれからも次々とわが軍に帰順すると思われます」


 ここで使者はにこっと笑った。


「兵力は十分でございます故、姫様は輿に乗られてはいかがですか?」

「いいえ。まだ大丈夫。自分で歩けます。もし私の足が遅くて皆さんの邪魔になるようになったら、その時は輿を使います」

「かしこまりました」


 周りでこの遣り取りを聞いた者たちは、「賢明な姫様だ」と好意的な視線をミツルに送ったのだった。



 最初にゲルガンド軍に駆け付けた兵士達が言ったように、次から次へ五月雨のように、「森の国」の皇軍がゲルガンド軍に投降してきた。そして彼らは奇妙な情報をもたらす。


 ゲルガンドが最も気に掛けているのがスヘイド帝の動向なのだが、それについても


「近年は殆ど廷臣たちにも姿をお見せにならないと聞いております」

「ごくごく重要な祭事にはお出ましになりますが、どこか心あらずといった風だそうで……」

「そうそう、皇帝のお姿を見た者は『まるで魂のない人形が誰かに操られているようだ』などと申しておるそうな」


 などと兵士達は語る。


 リザ皇女も常軌を逸した生活をしているようなのだが、原因はゲルガンドにあるのは明白なので、ゲルガンドに報告するのは躊躇いがちになる。それでも尋ねてみると


「リザ皇女は……あのう、申し上げにくいのですが、ゲルガンド将軍に去られた悲しみを表すのだということで、黒い服ばかりをお召しになってばかりです」

「そして日がな一日、皇宮の中でも最も高い塔の一室で過ごされ、ゲルガンド様がいらっしゃると報告を受けた国の方角を見つめてばかりいらっしゃるとか」


 ということだった。


 ゲルガンドはリザ皇女の話には渋い顔をして、「そうか」とのみ返した。


 が、この時、彼は心の内でティウの言葉を思い返していた。ティウはゲルガンドのことを「他人に無関心だ」と断罪し、「リザ皇女のためにも、自分はリザ皇女を愛せないとはっきり言っておくべきだった」とゲルガンドに主張した。


 その通りだとゲルガンドは思う。もし「愛せない」と一言だけでもリザ皇女に伝えていれば、リザ皇女もここまで自分に執着することはなかったのではないか。そしていつかゲルガンドを忘れ、廷臣の中で気に入った男と新しい恋をしていたのではないか……。


 自分が一言怠っていなければ、リザ皇女もゲルガンドの妻子など気にかけず、自分は妻を失うことは無かったのではなかったか。自分が、他人の気持ちに無関心なばかりに――。


 ゲルガンドは身にのしかかってくるような重苦しい後悔に耐えていた。



 ゲルガンド軍は山中で一泊し、次の日の午後山頂に到着した。そして峰を越え、山道を下って行くと眼下に「森の国」が拡がる。半ばまで降りたところで、ゲルガンド軍はそこで野営をすべく、休止をとった。


 日没まで時間があり、そこからは皇宮を中心とした建物群も見て取ることができる。


 ミツルは視界に姿を現した皇宮を見て、深々とため息をついた。


「皇宮だわ……これから私が一生住むことになるお家」


 光一は傍でうなずく。


「うん……」

「何だかヘンな感じ。私が皇女になるって責任はできるだけ自覚してるつもりだけど、いざ自分があんな大きな宮殿に住むとなると、ちょっと気おくれしちゃうわね」

「ミツル……」

「ううん。大丈夫よ。まだ実感がわかないだけ。最初は慣れないかもしれないけど、何だって最初はそんなものでしょ。私は大丈夫。時間だってあるし、コーイチが傍についてくれるし。私、ちゃんとあの宮殿の女あるじになってみせるわ」

「うん。ミツルなら大丈夫だと僕も思うよ。でも、あの建物全部が皇宮じゃないよね?」

「そうね」


 と言いながらミツルは巨大な建物群の一つを指差した。


「皇帝が生活する皇宮はあれだと思う。ねえ、コーイチ、小川が流れているのは見える?」


 光一はしばらく目で探してから答えた。


「ああ、あった。あれがラクロウ川の源流なんだね。まだ小川だけど。ということは……」


 光一は視線をその小川の上流に向ける。


「あのドームから小川が流れ出てる……。あの中に『海の源流』があるんだね」

「そうね」

「その『海の源流』から僕はあっちの世界に帰れるんだ……」


 光一の言葉にミツルはしかめっ面をして見せた。


「まさか、コーイチ、私を見捨ててあちらに戻るつもりなんてないでしょうね?」


 光一は笑う。


「ないない。ずっと君の傍にいるよ」


 二人は見つめ合い、手に手をとろうとしたのだが――傍にいた兵士の一人が「うおっほん」と大きくわざとらしい咳をしたので、手を引っ込めてしまった。そしてお互い首をすくめてくすくす笑いあった。



 

 そのころ。ゲルガンドは各将軍を集めて幕僚会議を開いていた。新しく将軍職を拝命したティウも当然そこにいる。


 ドゥームが重々しく口を開いた。


「皇宮の前方に巨大な三角陣が見えます。我々を迎撃するつもりでしょう」


 ゲルガンドが「数は?」と問うた。


「もともと皇帝が手元に置いておいた兵が五万人。内二万人が我々の軍に帰順致しました。となると残りは三万。この全てで以ってこの三角陣を形成しているようです」


 ティルバがヒューと口笛を鳴らした。


「皇宮を守る兵士は無し、か」


 ジガリも呟く。


「いや、皇宮にも多少は護衛の兵士はいるでしょうけれど……。それでもほぼ全員が三角陣の方にいるとなると、皇宮にいるのはごく少数のようですね」


 他の将軍から声が上がる。


「なら話は早い」


 皆考えていることは一緒だった。ティルバがそれを代表するかのように口にする。


「こちらは二手に分かれて、一方はその三角陣と戦い、その間にもう一方は皇宮に攻め入ればいい」


 そうだ、そうだ、とあちこちで賛同する声が上がった。しかしトゥームは慎重な口ぶりで述べた。


「しかし、我々が二手に分かれることくらい、向こうも分かっていることだろう」


 ジガリも首を傾げる。


「やはり皇宮の守りが気になりますね。我々が思っているより多くの兵が潜んでいるということはありませんか?」


 座は少しの間静まり返ったが、あちこちからブツブツと「あの三角陣は三万人だ」「うむ、二万よりはずっと多い」とささやく声が聞こえる。ドゥームが場を纏めるように言った。


「あの三角陣は三万人程度、という目測は皆同じらしい。こちらに帰順した兵士についても記録をとっているから、約二万人という数字は正しい。元々皇都にいた皇軍は五万なのだから、やはり皇宮にいる兵士はごく少数だとしか考えられない」


 ティルバがすかさず声を上げた。


「皇帝も皇女も勝てるなどと思っていないでしょう。帝国のほとんどがゲルガンド将軍に好意的なんですから。一応迎撃の態勢をとってはいても、案外、ゲルガンド将軍に捕えられるのを待っているのかもしれませんよ。ゲルガンド将軍ならこのお二人に温情をおかけになるでしょうからね」


 ゲルガンドが口を開いた。


「確かに、私は皇帝皇女を弑する気はない。ただ皇帝はともかく皇女が大人しく我々に負けようとはなさらないと思うのだが……。なにぶん気位の高い姫君だから……」


 ティルバがじれったそうに言う。


「皇女の精一杯の虚勢があの三角陣なんじゃないですか? そもそも相手の真意はともかく我々の作戦は決まっていますよ。こちらは向こうの倍以上の兵士がいるんですからね。半分を三角陣に当てて、半分で皇宮を攻める。これが定石でしょう?」


 皆も頷き、ドゥームもそれを認める。


「確かに三角陣を攻める兵を多めにしても、まだ我が方の兵士は余るくらいだからな。それを皇宮に向かわせるのは当然だ。うむ、そうだな。別にこちらは勝ちを急いでいる訳ではないから、もし皇宮に伏兵が潜んでいたら、一度兵を引き上げて、改めて切り崩しにかかればいいだろう」


 ゲルガンドも同意した。


「よし、では四万の兵を以って三角陣を攻め、残りの兵で皇宮に攻め入る。もし皇宮に伏兵がいれば深入りを避け、皇宮を包囲するに留めよう。どの将軍がどちらの任に当たるかは私の決めることではあるが……」


 ここでゲルガンドは言葉を切り、将軍たちの末席に座ったまま今まで一言も発していないティウに視線を向けた。


「ティウ将軍、私が君に、皇宮ではなく三角陣に向かえと命じても、君は従わないのだろうな」


 ティウは首を巡らし、傲然とゲルガンドを見返した。


「私は亡き愛妻の敵を打つためにこの戦に参加している。私の敵は皇宮にいるのだから、皇宮にしか行きたくない」


 軍紀違反だ! と誰かが叫んだ。ティウはそちらを一睨みしてからゲルガンドを見据えた。


「私はリザ皇女を殺しに行く。それが気に入らないなら、今、ここで私を殺して貰おうか」


 そう言われてしまうと、誰もティウに反対できない。ゲルガンドも嘆息し、諭すしかなかった。


「わかった。君には皇宮攻撃を命じよう。ただし、他の将軍が皇女の身柄を拘束した時には、その将軍の皇女の処遇に従うように。いいな? ティウ将軍」


 ティウ将軍は唇の右端だけを持ち上げて答えた。


「あんたらしい、中途半端な妥協案だな」


 そう言ったきり、ティウはプイと横を向いた。ティウの言葉はゲルガンドの胸に刺さったが、かといってゲルガンドには他の案は浮かばなかった。


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