再び尖塔の街へ
ふわっと巻き起こった風が、思ったよりも冷たさをはらんでいて、光一は思わずシャツの前を掻き合わせた。
――長袖シャツで十分だと思ったんだけどな。
光一はいったん自分の天幕に戻って、数日前に支給された上着を羽織ることにした。
ナイア姫暗殺に失敗したホイガが遁走し、輜重隊が物資を出し渋ることはなくなっていた。それで本格的な秋が来る前にさっさと上着を支給してくれたのだった。
光一は自分の天幕から上着を手に出てくると、それに袖を通しながら空を見た。すうっと高い空は、あの夏の終わりの悲しい事件を浄化してくれるように思えた。未だにゲルガンドやミツルを憎み続けているティウにとっても、そうであって欲しいと思いながら、光一はミツルの天幕に向かう。
天幕の群れが拡がる駐屯地の向こうには、何本もの尖塔の影が見える。ゲルガンド率いる「彷徨える皇軍」はもはや彷徨うのをやめて、皇都を目指し、この「石の国」の「尖塔の街」に戻って来たのだ。
挙兵を決意したゲルガンドは、本来向かうはずだったメイドウ国に使者をだした。「自分は皇帝位を目指して皇都へ進軍するので、貴国には立ち寄らない」という書状に対し、メイドウの使者は、メイドウ国王のゲルガンド蜂起への賛意と激励、そして王が手勢を率いてゲルガンドに同行したい旨伝えてきた。
それに対し、ゲルガンドは丁重に礼を述べつつ、王自身の出兵は断った。皇帝となればこれから数多の国々を公平に扱わねばならない。故に特定の国に借りをつくりたくないと思ってのことだった。
もっとも、メイドウに駐留していた皇軍がゲルガンドを慕ってメイドウを離れ、ゲルガンド軍に合流することは拒まなかった。
この「石の国」にくるまでいくつかの国を通り過ぎ、その都度各王に歓迎され、中にはメイドウ王と同じく自分も参戦したいと言う王がいたが、ゲルガンドはメイドウ同様に、王の出兵は断り、その国駐留中の皇軍の参加のみ認めてきた。
それでも各国に駐留していた皇軍のほとんどがゲルガンドの下に集まって来たので、その数は膨大なものとなっている。
――前とは違うなあ。
光一は天幕の立ち並ぶ中を歩きながら思う。何月か前、この「尖塔の街」で光一とミツルはティウと「じいや」に出会い、職を求めて「彷徨える皇軍」の駐留地に出向き、そしてティード将軍に召し抱えられたのだった。
その時に比べると、天幕の数はずっと多い。人一人が通るのがやっとという狭さしか空けずに、びっしりと立ち並んでいる。そしてこれからいよいよ皇都に攻めのぼる緊張感。戦士たちの興奮。光一も知らず知らずの内に肩を怒らせて歩きたくなってしまう。
そんな自分に気がついて光一は苦笑をもらし、ため息を一つついた。
――何より違うのは人間関係なんだよなあ。
あの時、ミツルと光一はお互いだけが仲間だった。それがティウに気に入られ、ティード部隊に迎え入れられ、「じいや」と一緒に仕事をし、ティード軍のみんなと仲間になった。
光一の方はそのまま仲間がいる。こうやって歩いていても、顔なじみの兵士が「よう!」と声を掛けてくれる。しかし、ミツルに関しては事情が一変してしまった。
未来の皇女は皆から恭しく扱われ、誰も気軽に声を掛けない。かつての仲間の中には、こだわらない者もいるが、ティウを筆頭に、ティード将軍の死の原因になったミツルに冷ややかな視線を送ってくる者もいる。「尖塔の街」を出発した時より、ミツルは孤独になって帰ってくることになってしまった。
――だから僕が傍にいてあげないと。
光一はミツルの天幕に向かっていた足を速める。輜重隊が物資を円滑に支給してくれるので、「じいや」の仕事はなくなった。光一も今は、ティード改めティウ軍の天幕で寝起きしながら、今度はミツルの近侍のような仕事をしているのだった。
「遅いわ、コーイチ。もうすぐ出かけるのよ」
光一がミツルの天幕に入ると、ミツルが口を尖らせてそう言った。
「あ、ごめん。あれ、何かいつもと違う……。ええっと、これからどこか行くんだっけ?」
「あ、そうか。コーイチにはまだ何も言ってなかったのよね。ごめんなさい」
ミツルは指先でこめかみをコツコツ叩いた。少し神経質になっているようだった。
「いいよ。でも、その格好は?」
ミツルは髪を結いあげており、見たことの無い綺麗なドレスを身に纏っていた。彼女の好きな花柄ではないが、その分上品で落ち着いた装いで、首飾りや髪飾りが華やかに彼女を彩っている。
光一は「綺麗だよ」と声を掛けようとしたが、その前にミツルが説明を始めてしまった。
「今日は『石の国』の王宮に行くのよ」
「へえ、『尖塔の街』に王宮なんてあったんだ」
「昨日ゲルガンド将軍が地図を見せて下さったんだけど……」
ミツルはゲルガンド将軍をまだ父と呼べない。実感がわかないから、今まで通りゲルガンド将軍と呼んでしまう。
「前に私とコーイチがうろついていた辺りは下町だったらしいわ」
「そうだろうね。そりゃモグリの宿屋があったりしたくらいだから」
「でも今日はゲルガンド将軍と一緒に、街の中心の王宮に行って、王様に会わなきゃいけないの」
「どうして?」
今まで通って来た国では、ゲルガンドと国王との間では使者を交わすことでやりとりが終わることが殆どだった。たまにゲルガンド単独でその国の王を訪ねることがあったくらいだ。
「そりゃ、私――ゲルガンド将軍の娘を検分するんでしょ」
「君を?」
あのね、とミツルは一息ついた。
「今までの国は、帝国から『河の文化』を押しつけられていたから、ゲルガンド将軍の蜂起に簡単に同意してくれたわ。でも『石の国』と『土の国』はもともと『河の文化』だから、ゲルガンド将軍に味方する動機が弱いわけ」
「でも、リザ皇女のような我儘な人間が女帝になるより、ずっといいじゃないか」
「ゲルガンド将軍の人柄に関してはね。でも娘の私はどうかしら?」
「君は我儘なんかじゃないよ」
「『石の国』と『土の国』の王もそう思ってくれればいいんだけどね」
「ああ、それで『石の国』の王様が君に会おうとするわけか……」
「そういうこと」
ミツルがふうと息を吐いた。顔色も少し悪い。緊張しているのだ。
光一は笑みを浮かべて見せた。
「大丈夫だよ」
「ん?」
「君なら絶対大丈夫だ」
「うん……有り難う」
ミツルも光一に微笑みを送って返した。
ゲルガンド将軍とミツル、そしてナイア姫の従者である光一が王宮で通された部屋は、まことに贅を尽くしたものだった。
「尖塔の街」の下町ではお目にかからなかった白光りする大理石がふんだんにつかわれ、窓には光沢の美しい、厚みのある毛織物のカーテンが掛っている。中央に置かれたテーブルと椅子は、こういったものには詳しくない光一が見ても、良質の素材を丁寧に扱って出来たのだろうと思われるとても重厚なものだった。
そして、ゲルガンド達の入室と共に立ち上がった小柄な老人の頭上に光る黄金の王冠。それにはゴロゴロと大きく、色とりどりの宝石がはめ込まれ、それぞれの光を放っている。
気おくれのためについ足を止めてしまった光一に、ミツルが小声で素早く囁いた。
「富貴を見せびらかすのは、それしか持ってないからよ。大丈夫、何とかなるわ」
王冠をかぶった小柄な老人が、愛想笑いを浮かべて歩み寄って来た。
「これはゲルガンド様。我々の宮にお運び下さり、誠に有り難うございます」
ゲルガンドはミツルの肩に手を置いた。
「国王よ、これが私の娘だ」
老王は一瞬だけ、ギョロっとした目で真剣にミツルを見つめ、再び愛想笑いに表情を戻した。
「これはこれはお美しい姫でいらっしゃる」
そしてゲルガンドとミツルを用意されていた椅子に案内した。光一は、この国は商業の国なだけあって、この老人も王というより大きな商店の主のようだと思いながら、二人の椅子の後ろに立った。
運ばれてきたお茶をすすった後、老人が口火を切った。
「さて。いよいよゲルガンド様が皇帝位におつきになる御決意を固められた由。我らと致しましても、ゲルガンド様こそ皇帝に相応しい器の持ち主とかねてから思っておりました。ゲルガンド帝の誕生には助力を惜しまぬつもりです。どうぞこの地で必要なものを全て揃えて、『森の国』まで攻めのぼって下さいませ」
「礼を言う。勿論対価は支払うつもりだ」
「いやいや、それは……有り難う存じます」
老人は如才なく頭をぺこりと下げると、今度はミツルを見た。笑みは絶やさないが、その眼は明らかにミツルと言う若い少女を値踏みしていた。ミツルの方もここでグッと肩を張ったのが、後ろに控える光一にもわかった。
「ただ、我々もゲルガンド様には投資を惜しまぬつもりですが、その後の王朝の行く末次第ではあれこれ考えなくてはいけません。ワシの言うことがおわかりですかな? お嬢様」
「わかります」
ミツルは即答した。強すぎも弱すぎもしない、適度に張りのある声だった。いいぞ、ミツル。光一は心の中で応援する。
「ゲルガンド帝の後、私が女帝になったらどうなるのか。それに関心をお持ちなのでしょう?」
老人は目を細めた。しかし眼光の鋭さは消えない。
「ご賢明なお嬢様じゃ。ただし、賢いというだけならリザ皇女も学識豊かでいらっしゃる」
「学識の方は後から頑張って身につけます。でも、貴方にとって重要なのは、皇帝がどんな人物かよりも、皇帝が何をしてくれるか、ではありませんか?」
「ほほう」
「それも……そうね、皇帝が何をしてくれるか、よりも『何をしないでいてくれるか』が一番大事なんじゃないかしら?」
「ほうほう」
老王は心底楽しげにミツルを見つめた。ミツルもにこっと笑んで滑らかに先を続ける。
「もし私が皇帝になったら、旅に対する規制を解くわ。貿易商はいちいち免許なんか気にせずに、自由に帝国領内を行き来できるようにする。どうかしら? 商業の国はこれで一段と活気づくわ」
老王は破顔した。ミツルの口調はますます滑らかになる。
「今だって免許破りの商人で大賑わいの『尖塔の街』だけど、旅の自由を皇帝が許せば、もっと発展するに違いないわ」
しかし老王はここで首を振った。見ていた光一の頭が冷たくなる。何かミツルはまずいことを言ったのだろうか。ただ、老人は笑みをたやさなかった。いや、むしろ一層楽しげに、悪戯小僧のような顔でミツルにこう言った。
「ナイア姫。この『石の国』に免許破りの商人などおりませんよ」
「え、……でも、商人は掟を破ってナンボよ。市にはそんな生き馬の目を抜く逞しい商人が一杯いる……」
「ナイア姫」
ミツルの言葉を遮るように、老王は言葉を発した。
「この国に掟破りの商人など居てはならないのです」
老王は明らかに作りものと分かる、済ました表情をしている。「ああ、そういうことね」とミツルは小さく一人ごちると、老人に返した。
「おっしゃるとおりです。この国に帝国の秩序を破る者などいないはずですものね。でも、その秩序を私は変えてさしあげますわ。そうすればこの国はもっと栄えることになるでしょう」
わっはっは。老王は大声で笑った。そして満足げな顔をゲルガンドに向けた。
「これはこれは、このお嬢様は本当に素晴らしい。下々の暮らしにも通じているが、かと言って建前を無視するほど幼稚でもない。何より頭の回転が早い。これは先々楽しみな姫君……いや、皇女でいらっしゃる」
ゲルガンドは苦笑するばかりだった。
「ふう、危なかったわ」
天幕に戻ると、ミツルは椅子に身を投げて嘆息した。光一はその傍に立ちながら尋ねる。
「あの免許破りの商人がどうとかいうことかい?」
「そう。考えてみりゃそりゃそうよね。行政の長たる国王の前で、貴方の国では法が守られていませんよ、なんて言うもんじゃないわよ。全く私ったら」
「うーん。でも、まあ僕達実際知っちゃってたし、つい口が滑ってしまうのは仕方ないよ」
ミツルは首を振った。
「駄目なのよ。見聞きしたからってそれをそのまま口に出しちゃ。相手を見て言っていいことと悪いことを考えないと」
ここでミツルは「ふう」とさっきより深く息を吐いた。
「皇宮に入ったら一層そうなるんでしょうね。皇宮に仕える人たちや諸国の王たち。いろんな人がいろんな立場でいろんな思惑を抱えてる。私も、私の口から出る言葉にうんと気をつけないといけないわ」
ミツルは光一を見上げた。
「コーイチ、私……出来るかしら? 今日あんなヘマをやらかしておいて……」
「えっと……」
光一は言葉を探した。
「……ええと、こんな言葉があるよ。『失敗は成功のもと』ってね。今日失敗したけど、ミツルなら同じ失敗はしないさ。むしろ今失敗しておいて、自分の立場が自覚できてよかったじゃないか。それにあの国王はミツルのことを気に入ったみたいだったよ。結局次の皇帝はミツルだってことも込みで、今回全面的に支援してくれることになったんだし」
光一の言葉にミツルはほっとした表情を浮かべた。それが光一にはとても嬉しかった。
「そうね。私はとりあえず『石の国』の王のお眼鏡にかなったものね。これからも大丈夫かも」
でも……とミツルは光一を見つめたまま続けた。
「皇帝位は本当に孤独ね。思ったことをそのまま口に出せないなんて。でも、私の場合は違うわね。だってコーイチがいてくれるもの。ね?」
光一は、ミツルの無防備な表情の、美しいワインレッドの瞳を見つめ返し、半ば陶然とした思いで頷いた。
「大丈夫だよ。僕が傍にいるから」
と。