新しい皇女として
ミツルがナイア姫だとわかってから、光一が彼女と話をしたのは、ティードリーアの葬儀が初めてだった。父ゲルガンドと共に参列した彼女は、光一の姿を認めると、手で招いた。
「ミツル……いや、ナイア姫……」
光一のこの言葉にミツルは微かに眉をひそめた。
「嫌ね。コーイチまで私をナイア姫なんて呼ばないで。今まで通りミツル、って呼んで欲しいわ」
「え……でも……」
「それから、後で私の天幕に来て」
ミツルは視線を光一に向けていたが、それだけを言うとすぐ目をそむけてしまった。光一が自分の後を振り返ると、ティウの突き刺さるような視線がこちらに向かっていた。火花を発しそうなほど鋭く、憎しみの籠ったものだった。光一も息を吐いて俯いた。
――ミツルは偉いよ。
葬儀はティード軍が執り行っている。彼らの中には、慕っていた女将軍が死んだのはミツルのせいだと思っている者も多く、ミツルを迎える雰囲気はあたたかなものではない。
ミツルも心底申し訳なさそうな、沈痛な面持ちで葬儀に臨んでいる。ティウのあからさまな憎悪にぶつかって、その顔色は青い。
また、ティウのようにミツルに向かった訳でもない言葉、例えばアチェの言葉のように「あーあ、軍になんて長居するもんじゃなかったね。私が大事な友人の葬式を出すのはこれで二回目だよ」と嘆く声でさえ、ミツルにとっては自分が責められているかのように感じるのか、ますます白い顔で頭を垂れるのだった。
ミツルだって辛いだろうに。と光一はミツルの心情を慮る。自分のせいで人一人、それもティード将軍のような自分たちに親切にしてくれた優しい女性が命を落とした。その事の重大さを思うと、ミツルの背負ったものがとてつもないものだと思われるのだった。
「コーイチ、来てくれたのね!」
光一がミツルの天幕を尋ねると、ミツルは心底嬉しそうな声をあげた。そして次は少し口を尖らせて言う。
「どうしてもっと早く来てくれなかったのよ」
「えーっと。ティード将軍が亡くなって、ウチの部隊じゃいろいろあったから……。それにミツ……ナイア姫は僕達より身分が上になっちゃったし」
「何それ」
光一の話にミツルが素早く割り込んだ。
「私は私よ。私のことは今までと同じように『ミツル』って呼んで。そして前みたいに私の側にいて」
「で、でも……」
「大体貴方が私にへりくだる必要なんてないじゃないの。貴方は『海から来た者』で、この帝国の者じゃないんだから。帝国の臣民でもないのに、私にへりくだるなんておかしいわ」
「あ、そうか。そう言われればそうだね」
光一の肩から力が抜けた。
「じゃあ、ミツル。僕を呼んだのはどうして?」
ミツルは少し鼻白んだ様子を見せた。
「馬鹿ね。理由がなきゃ友達と会っちゃいけないの? 私ずっと一人になってしまって、寂しくて、そして苦しかったのよ」
そう言うとミツルは肩を落として、悲しげな顔をした。
「私、なんでティード将軍にあんなことを言っちゃったのかしら。そりゃ、ティード将軍が私の母さんの行方を黙っていたのは悪いと思うけど。でも、母さんが死んだのはリザ皇女のせいで、ティード将軍が直接悪いわけじゃないのに。むしろ、ティード将軍が今まで築いてきた地位や名声を捨てて、私のことをゲルガンド将軍に教えてくれたことに感謝しなくちゃいけないのに。大体ゲルガンド将軍のしたことはティード将軍に無神経だったわ。……なのに、私はティード将軍を一方的に罵ってしまって……しかも頬をぶったりなんかして……」
ミツルは半分べそをかいていた。そして光一におそるおそる目を向けた。
「コーイチ、ここから先は軽蔑しないで聞いてくれる?」
「うん、ちゃんと聞くよ」
「私……私……もしティード将軍が死ななかったら、ずっと同じように将軍を責めていたと思うわ。たまたま責める対象が亡くなってしまったから、今こうして反省しているけど、もし生きていたらずっと責め続けていたかも知れない……」
「…………」
光一は黙って顎に手を当てた。ミツルは不安そうな顔になる。
「ねえ、やっぱり軽蔑する? 他人を責める私みたいな人間のこと」
「ミツル……」
光一は静かに呼びかけた。
「僕の思っていることがうまく伝わるかわからないけど……」
「なんでも言って。わからないところは私も考えるから」
「お母さんが亡くなったっていうのは、とても大きな出来事だと思うんだ。違うかい?」
「ええそうよ、とても悲しい、悲しいわ」
ミツルの目に涙があふれてくる。
「でも、だからってティード将軍を責めるのは筋違いだって、分かっているのに……」
「あのさ、気を悪くしないで欲しいんだけど……」
光一は少し躊躇ったが先を続けることにした。ミツルは自分に不快な指摘をされて怒りだすような愚かな少女じゃないと信じながら。
「他人を責めたくなるのは……自分に後ろめたい気持ちがあるときなんじゃないかな」
ミツルはほんの一瞬だけ険しい顔をしたが、真面目な顔になって光一の次の言葉を待った。
「僕は、ミツルとお母さんが別れるところを見ていたわけだけど、君はお母さんに随分素っ気なかった。まるでお母さんのことを捨てるかのような別れ方だった」
「…………」
ミツルは口を真一文字にひきむすんだ。無言で拳を固く握りしめる。そして長い間考え込んだ後、ミツルは、はあーっと長い時間をかけて息を吐いた。
「光一の言うとおりね。私はティード将軍を責めることで、隠そうとしたことがあったわ……」
こう言った途端、ミツルの目から涙が堰を切ったようにぼたぼたと零れおちた。その涙を拭うことなく、ミツルは両手で顔を覆い、膝につっぷしておいおいと泣き始めた。
「私は……私は……なんて悪い娘だったのかしら。母さんにあんなひどいことを言ってしまって……。もう一生会えないだろうとわかっていたのに……最後の別れだというのに、あんなに冷たくすることなんてなかった。こうやって死に別れてしまうと本当に自分は馬鹿だったって思う……」
「ミツル」
光一の声にミツルは首を振った。
「酷い別れ方だったわ、私、酷いことをした」
「じゃあ、ミツル。良い別れ方ってどんなのだい?」
「え?」
ミツルが涙で濡れた顔を上げた。
「理想的な別れ方ってそうそうあるわけじゃないんじゃないかな。もっとひどい別れ方もあるよ。例えば親に黙って何も言わず、遺書だけ残して死んでしまうとか」
光一は寂しげな笑みを浮かべると先を続けた。
「君はお母さんに『自分はこの村を出て新しい人生を生きる』って宣言したんだ。キツい言い方だったし、お母さんを否定するような余計なことも言っちゃったかもしれないけど。でも、子供が親から独立するのは当たり前のことなんじゃないかな。君のお母さんだって、寂しかっただろうけど、そのことはちゃんとわかってたと思う」
「あんな言い方でも許してくれたかしら……」
「自分の娘が鼻っ柱が強くて、ときどきキツい物言いをするってことは、誰よりもお母さんがわかってたんじゃないかな」
「子供の側の甘えた理屈だわ……」
「甘えたっていいんじゃないかな、最後に一つくらい。何も言わずに自殺なんかされるより、親にとってはずっとましだと思うよ」
「そうかしら……」
「お母さんは君のことを許してたと思う。だって出発の時、僕達が見えなくなるまでずっと見送ってくれていたよ。君に腹を立てていたなら、さっさと扉を閉めてあとは知らんぷりだったと思う。だから、だいじょうぶだよ、お母さんは怒ってない」
「……有り難う」
ミツルは立ち上がると机に向かい、引き出しを出して手巾を取り出した。そして再び椅子に腰を下ろし、時折手巾を目がしらにあてながら、静かに泣き続けた。光一はそんな彼女を黙って見守っていた。
ミツルの涙が止まろうとする頃、天幕の扉をトントンと叩く音がした。ミツルはささっと目元の涙を拭きとると、扉に向かって声を掛けた。
「どうぞ」
「失礼します」
その声と共に入って来たのはアチェだった。
「アチェ副将……」
ミツルは椅子から立ち上がった。アチェが口を開く。
「ナイア姫に、旧ティード軍改めティウ軍を代表して挨拶に参りました。本来ティウ将軍が伺うべきなのですが、将軍は未だ感情が静まっていないので。代わりに私が参りました」
ミツルは当惑した顔で、さっき光一に頼んだのと同じことをアチェにも言った。
「あのう、アチェ副将、私のことはミツルって呼んで、今まで通り普通に接して欲しいんですけど?」
「ふう」とため息をついて、アチェは真っ直ぐミツルを見据えた。
「貴女にとってはそれが気楽でいいんだと思いますがね、ナイア姫」
「あの……」
「ナイア姫。貴女は立場が変わってしまった。それは認めなくてはいけない」
「立場……」
「そう。ゲルガンド将軍はとうとう皇帝位につく決心を固められました。今までスヘイド帝やリザ皇女のしてきたことや、ゲルガンド将軍こそ皇帝位にふさわしいと多くの人々が思ってきたことを考えれば、当然のことです」
「…………」
「現皇帝からは多少の抵抗はあるでしょうが、最終的にゲルガンド将軍が皇帝になるのはほぼ確実でしょう。そうなると貴女は皇女になります。そしてゆくゆくはこの帝国の女帝となるのです」
「……でも、だからって私にへりくだらないで。私は今まで通り皆と仲間でいたいわ」
アチェはミツルを一瞥すると、淡々と言い放った。
「私が貴女に敬語で接するのは私の問題じゃない」
「え?」
「貴女は、ティードの近侍ではもうないんです。貴女は、この帝国の全ての民の魂を守ってやらねばならない皇帝になる身です。貴女にとって他人は臣民であり、彼らを幸せにする義務が貴女にはあるのです。だからみんな貴女に敬語を使う。それが嫌だというのは、自分の義務から身を遠ざけておきたいと貴女が思っているからなのではないですか? 失礼ながら貴女は自分の義務から逃げようとしているように思えますね」
「…………」
ミツルは暫く押し黙ったが、それでも再度食い下がった。
「でも、皇帝にだって気安く接する仲間がいてもいいでしょう?」
「それは、貴女が未来の皇帝としての責任を心から理解し、そのことを周囲に認めさせてからでも遅くはないでしょう。今、たまたま面識のあった旧ティード軍とこれまでと同じように振舞うというのは賛成できませんね。それはただの慣れ合いです。他の軍にも示しがつきません」
「子供っぽいことを言ってるって自分でも分かっているけど、アチェ副将、貴女の言っていることは私には少し意地悪に聞こえるわ。アチェも、私のせいでティード将軍が死んでしまったことを怒っているの?」
「ナイア姫。その質問の前に、貴女に未来の皇帝になる覚悟がおありなのか、それを糺しておきたいですね」
「覚悟……」
ミツルはごくりと唾を飲み込んだ。そして続ける。
「そんな重大な覚悟なんて一朝一夕には固まらないわ。でも、アチェの言うとおり、旧ティード軍と今までどおりの気安い仲ではいちゃいけない――みんなから敬語を使われる立場になっても、それを寂しいなんて思ってなんかいられないことはわかったつもりです。だから、私頑張る。皆に敬語を使われるのに値する人間になるように」
これを聞いてアチェは目を細めた。
「結構。ではナイア姫の質問に答えましょう。私はね、姫、ティードが死んだのは不幸な事故だと思ってますよ」
「事故?」
「ええ、ティードは別に死ぬつもりで貴女を助けたわけじゃない。貴女を助けるにしても、矢に当たらないで済む、あるいは当たっても鎧で矢を撥ね返せると思っていたのでしょう。彼女は今まで長い間いつも鎧を身につけていましたからね。鎧を着ていなかったあの時も、いつものその感覚が抜けなかったんだと思いますよ」
「……でも、ティード将軍は死んでしまったわ」
「確かに貴女の命はティードの死の上にある。けれど貴女が必要以上に自責の念にかられるのをティードは望んでいない――彼女の親友として私はそう思います」
「有り難う……有り難う、アチェ副将」
アチェは肩をすぼめてから付け加えた。
「もっともティウはそう思っていない。貴女に対してすっかり恨みを抱いてしまっている。彼の恨みに対するには、貴女はティードに救われた命で、しっかり未来の皇帝としての責務を果たし続けることが必要だと思いますよ。それなら彼も文句は言えないし、時間が彼の気持ちをほぐすこともあるかもしれない」
「わかりました。私、頑張るわ」
「それでは」
アチェは左胸を右手で押さえる礼をとると、天幕から出て行った。
アチェが出ていくと、ミツルはドサッと身体を投げ出すように、椅子に腰かけた。そのまま両肘を両膝の上に乗せ、さらに頬杖をつく。そしてふーうと長いため息をついた。
「わかっちゃいるのよ、私はこのままいくと皇女になるってことは。そして皇女になったら、リザ皇女のように甘ったれてちゃいけない、ってことも」
でも、と言いながら、ミツルは傍に立っていた光一を見上げた。ミツルは眉根を寄せて、泣きだしそうな顔をしていた。旅の間を通じてミツルがこんな顔を見せたことはなかったし、こんな顔をするなんて想像することもできなかった顔だった。
「怖いわ」
ミツルは両腕で自分の身体を抱きしめる。
「皇女になるなんて、そんなこと……。だって今まで私はただの『浜辺の者』だったのよ? 最底辺の賤民だったのに、いきなりこの世界の至高の地位である皇帝になれだなんて。しかも、それがあのティード将軍の命の上にあることなんて。そんなこと……簡単に受け入れられないわ」
「そりゃそうだよ」
光一は思わずミツルの両肩に手を置いた。
「すっごく混乱すると思うよ」
ミツルは光一に言い募る。
「そう、それよ、混乱するのよ。私は、今まで単に、自分の幸せのためだけに、新しいことに挑戦していれば良かったわ。でも、今からは違う。私はこの帝国の全ての人々の幸福を守ってあげなきゃいけないのよ。今までなら、私はいろんなものに、他人事としてただケチをつけてれば良かった。でももう私はそんな気楽な立場じゃない」
「ゆっくり、ゆっくりでいいんだと思うよ、ミツル。君のお父さんが皇帝を務めている間に、ゆっくり皇帝のお仕事について勉強していけばいいよ」
「ねえ」
ミツルは光一の目を覗き込むように言った。
「その間、コーイチは私の傍にいてくれる?」
光一はミツルの勢いに一瞬だけたじろいだが、そのたじろぎを振り払うかのように力強く頷いた。
「うん」
「私、リザ皇女の気持ちが分かるの。皇帝位は孤独なものだわ。アチェは他人は全て臣民だっていってたけど、本当にその通り。でも、でも私にはコーイチがいるわね? コーイチは臣民じゃないもの。コーイチは私の傍にいて支えてくれるわよね?」
まるですがりつくように、ミツルは光一の左腕を掴んだ。
「も、もちろんだよ。僕はずっと傍にいるよ。君は孤独なんかじゃない。僕がいる」
光一は自分の中に熱いものがこみあげてくるのに気付いた。
一つは自分がミツルを愛しているということだった。それも、まるでティウがティード将軍とそうであったように、大人の男としてミツルと結ばれたいという熱情を伴う「好き」だった。
もう一つはミツルを守らなくてはいけない、という決意だった。日本の自分の高校では、自分自身さえ守れなかった光一だが、今はそんなことを振り返る気にはなれなかった。今までの自分なんてどうでもいい。それより未来だ。僕はミツルを助け、支えていく強い人間になるんだ。
光一はミツルの右手を自分の両手で握りしめた。
「大丈夫だ、ミツル。僕が傍にいる。一緒に頑張ろう」
ミツルの強張っていた肩が、すとんと降りた。そして半べそをかきながらも、唇の両端を上げて笑みを作ってくれた。
「うん、頑張る」
自分の言葉にミツルが励まされているという事実に、光一は幸福だった。この幸福がある限り、これからどんな辛いことがあっても乗り越えていけると、この時の光一は思っていた。