悲しみの底から
ティードリーアの天幕に、ティード軍の主だった者達が集まってきていた。けれども、その天幕で暮らしていた美しき女将軍の姿はそこにはない。また、准将ティウの姿もない。
彼は最愛の恋人の亡骸を抱きしめて自分の天幕に籠ったままだ――もう何日も。
「……なんとかならないかねえ」
とアチェが深々とため息をつきながら呟いた。この女性がこんな風に途方に暮れるのを見るのは、光一も初めてだった。
ティード軍の皆が代わる代わるティウの天幕を訪れて、ティードリーアの葬儀をしようと説得してきた。光一も、ティウとその腕に抱かれる遺体を何度も見ている。
「あれは……、良くないよなあ……」
と誰かが言い、光一も頷いた。
ティードリーアの遺体はもう腐敗が始まっていた。ティウの天幕の扉を開けると異様な臭気が鼻をつく。肉は溶け、髪は抜け落ち、眼球は一つ失われている。
そんな骸を抱きしめたまま、ティウは自分の寝台に腰掛けたまま動こうとしない。ティード軍の皆が訪れても、彼は反応らしい反応を示さない。明らかに狂気の淵をのぞきこんでいる目つきで、じっと俯いたままだ。
皆が言う「早くティード将軍を弔ってさしあげないと」という言葉には、彼は地獄の底から響くような暗い声でこう返すのだ。
「私からティティを奪おうと言うのか」
「しかし、もうティード将軍は……」
「殺せ」
「え?」
「そんなに私からティティを奪いたければ、私を殺すがいい」
そう言い放つとティウは腐臭を放つ恋人を抱きしめなおす。そうやって彼はずっと恋人と過ごすのを止めようとしないのだった。
どうすればティウを説得して、ティードリーアの葬儀ができるのか。ティードリーアの天幕に集まった面々の上に、重苦しい空気がのしかかる。
そこへ一人の人間が現れた。扉を開けて入って来た、その上背のある人物を認めて全員が立ちあがった。
「ゲルガンド将軍!」
ゲルガンドは一つ頷くと皆に座るように命じた。アチェが、ティードリーアが普段使っていた椅子を彼に勧めた。彼はその椅子を感慨深げに見つめた後、腰を下ろした。
「ティウ准将は相変わらずなのだろうか?」
アチェが代表して答える。
「はい。未だティード将軍を抱きしめて離そうと致しません」
「そうか……。実はティウ准将と話をしたいのだが、誰か案内してくれるか?」
「ゲルガンド将軍、将軍自らティウとお話になるのですか? しかしティウは准将といっても正式なものではありませんし、そもそも彼は『浜辺の者』です。皇族であられる将軍が直々にお話とは……」
「アチェ、彼は、義理とはいえ私の娘の夫だ。彼と私は義理の親子なのだ――もっとも彼が私を許してくれればの話だが」
アチェが眉間に皺を寄せた。
「ゲルンガンド将軍。ティウは今半ば正気を失っております。将軍に筋違いな恨みをぶつけてくるかもしれません」
穏やかにゲルガンドは返した。
「いや、筋違いではあるまい。そもそも私が悪いのだ……。覚えているかね、アチェ、ティードリーアの『花冠の儀式』の時に君が忠告してくれたことを」
「覚えております。賤しき『浜辺の者』たる私を、将軍は娘の友人として遇して下さいました」
ゲルガンドは苦笑しながら首を振った。
「君にも謝らなくてはならないな。君は賢明だった。君は私に、ティードリーアにとって、マイアと私の関係は重い意味を持つのだと忠告してくれた。それなのに、私は注意を怠った。マイアを救うための使者に、ティードリーアの心情を無視して彼女を選んでしまった。私は無神経な人間だ」
「ゲルガンド将軍……」
「もうティードリーアに謝ることは出来ないが、せめてその夫となった男に私の謝罪を聞いてもらいたい」
それに、とゲルガンドは続けた。
「私のもう一人の娘、ナイアのティードリーアに対する仕打ちも、親として謝りたい」
光一が思わず声を上げた。ミツルは彼女専用に与えられた天幕で過ごしており、ここにはいない。
「ミツル……いや、ナイア姫はあの時ちょっと普通じゃなかったんです。お母さんを失って動転していて……。それで、つい全てをティード将軍のせいにして、八つ当たりしてしまったんだと思います」
ゲルガンドは光一に顔を向けた。
「君がコーイチか。ナイアから話は聞いている」
そこでゲルガンドは微妙な間をあけて光一の顔を見つめた。
「『海から来た者』、か……」
「え? は、はい、そうですけど……」
「君には礼を。ナイアと共に旅をして、良き友人になってくれたそうだね。有り難う。ただ……それ以外のことを私は君に言わねばならないが、それは日を改めるとしよう」
光一は後日聞かされるという話が何か勿論気になったが、問いかけはしなかった。今は自分の話どころではない。
ゲルガンドも光一から視線を外し、皆に向かって再び話しはじめた。
「私がティウ准将と会うのは、ティードリーアの父だからという理由だけではない。この皇軍を率いる者として、ティウに正式な将軍職を与え、このティード軍を任せたいのだ」
一番隊長が言った。
「ですが……。ティウは『浜辺の者』です。だから今まで正式に将軍になれなかったんです」
ゲルガンドはその言葉を意に介さない。
「今は身分どころではない。私は有能な部下を必要としている。ティウ准将が私の不在の間に蛮族を討ち取った話は聞いた。鮮やかな手腕だ。ティードリーアが彼を高く評価していたのに改めて納得がいった。彼のような逸材にこれから働いて貰わねばならぬ」
誰よりも勘の鋭いアチェが、興奮を押し殺しながら尋ねた。
「では、いよいよ……。いよいよ皇帝に叛旗を翻すおつもりですか?」
皆が一斉に息をのむ。そうか、ついに――。
「そうだ、それにはティウ准将に謝罪し、そして彼の力を借りたい。さあ、誰か案内を頼む」
ゲルガンドはそう言いながら、もはや椅子から立ち上がる。
「では、私が……」
とアチェも立ちあがった。そこへしわがれた、けれどもどこか切迫した感じの声が上がった。
「いや、わしに行かせて頂きたい」
ティードリーアの「じいや」だった。皆の視線を集めながら、老人はどっこいしょと大儀そうに立ちあがる。主の死後、この老人がどっと老けこんだことに気づかされて光一は胸の痛む思いだった。
老人はゲルガンドに歩み寄り、将軍の顔を見上げながら説いた。
「アチェ副将の申し上げました通り、ティウはゲルガンド将軍を見て怒り狂うでしょう。姫様が長らく想いを寄せておられたゲルガンド将軍に、あやつはもともと敵愾心を抱いておりました。それに真に悪いのはリザ皇女じゃが、ゲルガンド将軍とナイア姫の存在が、ティードリーア姫様の不幸のきっかけになってしまったわけで……あやつは、誰にも見せたことのない、激しい怒りを示すじゃろうと思うのです」
アチェは「じいや」を痛ましげに見た後、他の者達に目をむけた。
「じゃあ、私や『じいや』じゃなくて、もっと腕の立つ者に立ち会わせよう。ティウが興奮して暴れだしたら、私や『じいや』じゃ敵わないからね」
「いやいや」
「じいや」は首を振った。
「怒りでもなんでもいいんじゃ。今のような半ば狂ってしまった状態から、あやつが出てくるなら。あやつが激昂していても、正気を取り戻したなら、わしはあやつに教えてやらねばやらんことがある」
「でも、『じいや』には危ないよ、誰か若い者を……」
「いや、あやつは姫様になら、おとなしく従うことじゃろう」
「……?」
「わしは、あやつに、『姫様の夫らしくせい』と言ってやらればならんのじゃよ」
老人はこれ以上言葉を発することなく、天幕の出口に向かって歩き出した。ゲルガンドはアチェに一つ頷くと、「じいや」に続いて天幕を後にした。
天幕の扉がギィと開く音に、ティウは顔を上げた。今まで誰に対してもそうであったように無表情であった。
ところが訪問者が皇軍の総指揮者ゲルガンドであることが分かると、彼の顔面は久しぶりに驚きと言う表情をこしらえて見せた。
もっともそれは僅かな間だけだった。ティウはすぐに冷笑を浮かべる。その中には、ゲルガンドの登場にたった一瞬とはいえ驚いた自分自身への嘲笑も含まれているようだった。
ゲルガンドは手近な椅子に腰掛け、話すべきことを話した。自分がティードリーアに無神経だったばかりに彼女を苦しめてしまったこと。娘ナイアが母の死をティードリーアのせいにして、その怒りを彼女にぶつけたこと。そしてゲルガンドはこれから皇帝に叛旗を翻すつもりであること。
ティウは終始冷ややかな顔で、ゲルガンドの話を聞き流している風だった。そしてゲルガンドが話終えると、唇の片方だけを上げて「はん」と吐き捨てるように言った。
「これであんたもやっと自分の無責任な性格を改める気になったか」
ゲルガンドの傍らに立っていた「じいや」が慌ててティウをたしなめた。
「これ、ティウ、ゲルガンド将軍に『あんた』などと失礼じゃろう」
「無礼が嫌なら殺せばいいさ」
ティウはあっさりそう切り捨て、ゲルガンドをねめつけた。
「ゲルガンド将軍。あんたは人望篤いとか寛容だとか誉め称えられているが、本当は冷酷な人間だ。自分で分かっているか?」
「……反省はしている。ティードリーアには気の毒なことをした」
「ティティに対してどうこうってだけじゃない。あんだ自身が冷たい人間なんだ」
「…………」
「リザ皇女にだって、あんたはっきり言ったのか? 自分はお前を愛せない、と」
「面と向かって言ったことはない。だが、こうして距離を置いていればいつか私のことは諦めて下さると思ったのだ」
「相手を傷つけることが怖いんだろう、臆病者」
「……リザ皇女一人の問題ではない。リザ皇女との縁談を拒めば、私は皇帝に翻意ありと見なされてしまっていた」
「皇位を簒奪しようという気概は無かったんだな、あんたには」
「ティウ准将……」
「結局あんたはそうなんだ。人を傷つけず、人に反抗せずに暮らしていれば、そりゃ人望篤い名将軍でいられるだろうよ。だが、私は、あんたはただ自分のことしか頭にない人間だと思うね」
「…………」
「一度でもリザ皇女の立場になってみたことがあるか? 気位の高い皇女なら、あんたの仕打ちは『愛せない』と直接言われるよりこたえたかもしれないぜ。あんたは皇女に『愛せない』と告げて、もし皇女が泣いたり喚いたりしてもそれにとことん付き合って、それでも自分は愛せないのだと納得させる手間を惜しんだんだ。あんたは皇女を愛さなかっただけじゃなく、相手が感情を持った人間なんだということを無視したんだ。そんな無関心の方が、単に嫌うことよりずっと相手を傷つけることもわからずに」
ゲルガンドは、この若者が自分の中の最も痛い部分を突いて来たのだと感じた。
――こんな若造に。
つい、そんな反発が心の中に湧きおこり、ゲルガンドは普段の彼らしくなく嫌味を口にする。
「君はやけに皇女の肩を持つんだな」
「皇女の件だけじゃないさ。あんたという人間について考えることはいくらでもあったからな。あんたには言ってやりたいことが一杯あるんだ。あんたは、自分を慕う人間の気持ちになって考えてみたことがない。そうだろ?」
「……何が言いたい?」
「あんたに皇位を継いでもらいたい人間はそれぞれ逼迫した事情があったんだ。この帝国の様子をあんたはよく知っているだろう? 帝国は支配下に置いた国々に『河の信仰』を押しつけて、あちこちでワレギアのような悲劇が起こっている。『河の文化』に属する『土の国』『石の国』『森の国』でも河の上流に生まれるか、下流に生まれるかで差別される。この帝国のありようは間違っている。それを正して欲しくて皆あんたのもとに来ている」
だが、あんたは――。ティウはゲルガンドを見据えて滔々と続ける。
「あんたは皇位に着こうとしなかった。あんたは簒奪者と呼ばれるのが嫌だったんだろう。それに皇位に伴う責任や窮屈な暮らしが嫌だった。あんたは楽な人生を送ろうとしてきたんだ。自分だけ気楽な生活を送る――帝位の簒奪をしない謙虚さ、争いを好まない温厚さを誉め称えられながらな。だが、あんたはそんな立派な人間なものか。あんたは単に自分以外の人間に無関心なだけだ」
ここでティウは皮肉げに笑って見せた。
「これまで気楽に生きてきて、自分の妻が殺されてやっと蜂起するだって? 随分ちっぽけな理由だな。皇帝位を奪ったところで、こんな偽善者が皇帝とは。この帝国も救われないな」
「…………」
ゲルガンドは言葉が無かった。今まで彼は賞賛されるだけだった――武勇、教養、人格全てにおいて。しかしこの若者の糾弾をうけて過去の賞賛は色褪せていく。
そうだ。自分は賞賛の声を受けるだけ受けて、それを送る側の期待に応えようとしなかった。いや、自分が何を期待されているのか、気にとめることがあまりに少なかった。自分はもっと周囲の人々の想いに敏感であるべきだったのだ。皇帝の施策から己の恋愛に至るまで、もっと他者に思いをいたすべきだったのだ――。ゲルガンドは言葉もなく茫然と立ち尽くすばかりだった。
二人の男が押し黙るのを待っていたかのように、老人が声をあげた。
「ティウよ」
ティウが視線をゲルガンドから「じいや」に移した。
「それでお前はどうするのじゃね?」
「私? ……私はティティと共にありたい。もう放っておいてくれ。みんな皇都に戦いに行きたければ勝手に行くがいい」
「お前さんには、お前さんの生きるべき道がある」
「終わりだ、爺さん。ティティがいなければ私の人生も終わったも同然なんだ」
「そのようなことを言うもんじゃない。姫様が聞いたらお悲しみになるぞ」
「は。随分陳腐な言いまわしだな。亡き者が聞いたらどう思う? か」
ティウは再び腐りかけている肉の塊を抱きしめた。
「ティティはもういない……。私に朽ちゆく身体だけ残して、逝ってしまわれたのだ……」
そう呟くと、ティウは頭を垂れようとした。それを押しとどめるかのように「じいや」は慌てて声を掛けた。
「ティウよ、この爺さんの言うことを聞いてくれ。姫様の魂はお前のそばにある。本当じゃよ」
「気休めはいらないよ、爺さん」
「姫様は術を使われたのじゃよ」
「術?」
ティウは怪訝そうに「じいや」を見た。
「姫様は術を使われた。ワレギアに伝わる『精霊の信仰』の最後の巫女としてな」
「じいや」の話は具体的になり、ティウはまじまじと「じいや」を見つめる。
「姫様は今際の際に、お前の剣を気に掛けておいでじゃったろう?」
「あ、ああ……」
「お前の剣に触れ、ご自分の胸に触れ。その時姫様は呪文も唱えられたはずじゃ。そしてお前の剣に、人差し指と中指と薬指の三本の指を乗せられた」
「それが術なのか? それでその術で何が起こったというんだ?」
「ワレギアに有名な伝説があるのじゃよ。昔ワレギアに大きな狼が現れ、羊を飼って暮らす民を苦しめておった。武勇に優れた当時の王が、何とか狼と闘って民を守っていたが、その王が病に倒れてしまった。残されるのは病弱な王子一人だけじゃ。そこで、王は臨終を迎える際、その御代の巫女を呼んだのじゃ。巫女は術を用いて、王の魂を抜き取り王の剣へと移したんじゃ。ティードリーア姫様がなされたように、剣に触れ、心の臓の上に触れ、そして三本の指で再び剣に触れることで」
「魂を剣に移す?」
「そうじゃ。その病弱だった王子は、それまでろくに武器を扱ったこともなかったが、その剣の力で狼を仕留めることができたそうじゃ」
「爺さん、ティティの魂は私の剣に宿っているというのか?」
「その父王は病弱な息子とワレギアの民が心配でたまらなかったのじゃろう。きっと姫様もお前さんと帝国のことが、それはもう心配で死ぬに死にきれなかったんじゃ……」
「ティティ、ティティが剣に……」
ティウは死体を片手に抱きしめたまま、片手で寝台の枕の下を探った。そして、あの時ティードリーアが三本の指を乗せた自分の剣を引っ張り出すと、目の前にかざした。
その時不思議が起こった。剣がぽうっと光を放ったのだ。ティウは大きく目を見開く。
「ティティ……」
ゲルガンドも暫しの間、驚きと共に光る剣を見つめていた。そして感に堪えない様子で目を瞑った。涙が一筋頬を伝う。再び彼が目を開いたとき、そこには強い決意がみなぎっていた。
「ティウ准将。君の言うとおり私は愚かだった。事なかれ主義で生きているうち、こうして妻と義娘――親友から預かった大事な娘を失うまで、私は自分の愚かさに気がつかなかった。だが、もう私は自分のしなくてはならないことから逃れまい。力を貸してくれるだろうか、ティウ准将」
ゲルガンドの言葉を後押しするように、剣が一段とまばゆく光った。
「ゲルガンド将軍」
ティウは短く呼びかけた。ことゲルガンドに対しては、ティードリーアの魂が残った喜びよりも、彼女が魂だけになってしまった恨めしさの方が勝るようだった。
「あんたと、あんたの娘がその責任を果たすというなら、私も協力する。いや、あんた達親子が、ティティが命がけで守るに値する人間なのかどうか、私はこれからついていって見届けてやる」
「よし。どのような理由であれ、共に戦ってくれることに感謝する、ティウ准将――いや、ティウ将軍」
この二人のやりとりにほっとしたかのように、光が消えた。いつの間にか日が暮れており、天幕の中は闇につつまれた。その中で、ゲルガンドの瞳は静かに力強く、ティウのそれは複雑な激しさで炯々と光っていた。