一本の矢
ティードリーアはひりひり痛む左頬に手をあてながら、ミツルの憎しみの籠った視線を受け止めていた。その視線をそらしてはならないと思っていた。それは自分が犯した罪に対する報いなのだから。
けれども、少し前までミツルが、自分のことを実の姉のように慕っていたことを思うと、静かに悲しかった。
怒り、悲しみ、驚き――その場に居合わせた人々が各々の感情の中にあるのに対し、ティードリーアは来るべき時が来たという諦観の中にあった。そのため彼女は比較的冷静だった。だから、彼女はその音を耳に留めることができたのだ。
――ヒュルヒュルヒュル……。
ティードリーアは目を見開く。これは矢だ。矢が空気を穿つ音だ。どこから? 左手側だ! 狙いは? ミツルだ! 彼女はとっさにそう判断すると、ミツルに腕を伸ばし、思い切り突き飛ばした。
――ガッ。
矢は、ミツルが突き飛ばされてできた空間に飛び込んだティードリーアの右腕に刺さっていた。矢を射かけられたことを知って周囲は騒然とする。
「何者の仕業か!」
「下手人はどこだ、追え!」
「捕まえろ!」
何人かの武将が駆け出していく。ティードリーアは安堵の息を漏らした。ああ、もう大丈夫だ。これで暗殺者はもう矢を射かけてこない。
ティードリーアは自分の腕に刺さった矢を引き抜こうとした――しかし、それはかなわず、その場に崩れ落ちてしまった。
「ティティ!」
ティウが弾かれたように動いた。素早い動作でティードリーアを抱き取り、矢を引き抜くと、傷口に口をつける。傷口から血を吸っては、地面に吐き捨て、吸っては吐き捨て……。それを見たティルバが呻いた。
「畜生、毒矢か……」
ゲルガンドも、懸命に毒を吸い出そうとするティウと、その腕のなかでぐったりとしているティードリーアに駆け寄った。ミツルは蒼白な顔で立ちつくしている。光一はたまらずミツルに近づくとその肩を抱いた。彼女の華奢な肩は小刻みに震えていた。
「……助かる……わよね?」
「……うん、大丈夫だよ……」
光一はミツルにそうとしか答えられなかった。しかしながらティードリーアの顔はどんどん青ざめて行く。ドゥームが呟いた。
「標的はナイア姫だった。皇族を狙おうとしたのだ、生半可な毒ではあるまい……」
誰かが声を張り上げた
「一体誰がこんなことを!」
ゲルガンドが苦々しく返した。
「ホイガだ。ホイガが部下に命じたのだろう。もうとっくに逃げたと思うが、一応奴の天幕を調べよ」
「はっ!」
何人かが駆け出していく。その足音に気がついたのか、ティードリーアが閉じていた目を開いた。
視野がどんどん狭くなっていくようにティードリーアには思われた。懸命に瞼を持ち上げているつもりなのに、少ししか周りが見えない。それも鮮明さを欠く像しか目に映らない。
「ティウ……」
彼女は弱々しく恋人の名を呼んだ。だがティウは毒を吸い出すのを止めない。
「待って、ティティ。今毒を吸い出してる。毒さえ抜けば助かるはずだ!」
「……もう、良いよ、ティウ。それよりお前の顔を見せておくれ」
ティウはぴくっと肩を振るわせると、ティードリーアの顔を見た。彼はようやく、最愛の恋人の上に死の幕が降りつつあるのに気付いたようだった。
「ティティ……」
ティウはティードリーアに顔を近づけた。
「ティウ、済まない……私はいつも……鎧を身に着けていたから……それで、大丈夫だと……思ったんだが……」
そうか。皆が哀しみとともに納得した。ティードリーアは鎧があると思って、それで矢を弾き返そうと思っていたのだ。
「ティティ、ティティ、行かないで、どこにも。私の側にずっといて下さると約束したでしょう!」
ティウはティードリーアの肩をゆすって叫ぶ。自分の腕の中の恋人は、死に目も耳も塞がれつつある。彼女を死から取り戻したい一心で、ティウは力の限り叫ぶ。
「ティウ……」
ティードリーアはその叫びを遠くに聞きながら、なんとか意識を失うまいとする。しかしそれは彼女にとって苦しい戦いだった。
「ティティ! ティティ! ティティ!」
ああ、自分は、こんなにも私を想ってくれる男を残して逝かねばならないのか……。ティードリーアはティウが可哀そうでならなかった。
「ティウ、済ま……な……い……」
済まない。済まない。済まない。何度も彼女は呟く。
「許さない! 許さない! ティティ! 死んでしまうなんて許さない!」
ティードリーアは、意思に反して殆ど閉じかかっていた瞼を、渾身の力でこじ開けた。そしてティウが腰に差している剣に指先を伸ばし、それを何度かなぞった。
「剣? 剣がどうかしたのですか、ティティ!」
ティードリーアは剣に触れた指を自分の胸にあてた。そしてひどく億劫そうに再びティウの剣に指を伸ばそうとする。ティウは慌てて剣を差し出した。
「ティティ、剣ならここにあります!」
ティードリーアは差し出された剣に人差し指と中指と薬指の三本の指を乗せると、ほうっと息を吐いた。
「姫様……」
いつの間にか駆け付けていた「じいや」が声を上げた。
そこにいた誰もがティードリーアが再び息を吸うのを待った。
……しかし彼女はもう次の息はしなかった。
「ティティ! ティティ! ティティ!」
半狂乱でティウは、息絶えた恋人を揺さぶった。カクカクと揺れる彼女の首が、何かを伝えたがっているように思えて、ティウはさらに激しく彼女を振り回さんばかりに揺さぶる。
そんなティウにしばらく誰も声を掛けられなかった。しかし日が傾きかけた頃、周りを取り囲む幾人かの間で目配せが交わされ、とうとう温厚な人柄のジガリがティウの肩に手を置いた。そしてなるべくティウを刺激しないよう、穏やかに声を掛けた。
「ティウ准将。もう、そっとして差し上げよう……」
ティウは放心したようにジガリを見上げ、次いで血の気の失せた美しい恋人の遺体をひしと抱きしめた。
獣のような咆哮が、ティウの口から発せられた。吠えては途切れ、また吠える。その声はティウの声が嗄れるまで止むことはなかった。