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水の砂漠の魚たち   作者: 鷲生 智美
人の旅路
66/82

甘やかな時

 「彷徨える皇軍」の軍吏長ホイガの天幕は、分厚い布の特注品だ。暑さ寒さの中でも快適に過ごしたいからだった。将軍ゲルガンドに遠慮して、装飾はほとんどないものの、他の軍人たちの天幕とはどことなく違う雰囲気がホイガの天幕にはあった。


 そのホイガの天幕に、馬の蹄の音が近づいてきたのは、ホイガが就寝しようという頃だった。既に寝台に身を横たえていた彼は、その馬が自分の天幕の前で止まった気配を感じて不快そうに眉を寄せた。こんな時間に、貴人たるこの自分を訪ねてくるとはなんと無礼な奴だと思いながら。彼は訪問者など追い返すつもりで半身を起した。


 バタン。荒々しく扉が開けられた。訪問者はホイガの誰何を受ける前に、何かをホイガの寝台に向かって、投げて寄越した。


 ゴロンゴロンゴロン。


 それは球体のようで、地面の上を2、3回転がるとホイガの寝台の脚元で止まった。


「……?」


 ホイガはそれを見た。そしてそれが切断された人間の頭部であるらしいとわかった。瞬時に驚愕が彼の身体を走り抜ける。そして更に、悲鳴を上げるその刹那、死体の恨めしげな目と彼の目とが合ってしまった。


「ギャアアァーーッ!」


 ホイガは貴族としての体面も何もかも放り出して、慌てふためいて寝台の最も奥まで後ずさった。


「ななな、何だ、これは!」


 甲高く上ずった声でホイガは叫び、ようやくそのとんでもない物を寄越した訪問者に目を向けた。


「お、お、お前はティウと申したな。な、な、何の真似だ」


 ティウは傲然と胸を反らしつつ、軽蔑もあらわに声を発した。


「これは我々の敵、蛮族の首長の首級。間違いなくこのティウが手に掛けたもの。ついてはこの武勲に対して報償を頂きたい」

「ど、どのような報償でも与えてやる。は、早くそれを持って出ていけ」

「ではお願い申し上げる。今すぐティード将軍を牢屋から出して頂きたい」

「構わん。……た、ただし、罪状が晴れたわけではないからな。将軍職には戻せぬぞ。軍装もならぬ」

「とりあえず自由の身にしていただければ結構。では――」


 ティウは敵の首級を手に取った。ホイガはほうっと肩で息をはいだ。ティウはそんなホイガに一瞥もくれずに、さっさと彼の天幕を後にした。




「ティード将軍、釈放です」


 牢屋の番人がティードリーアに告げた。


「釈放?何故?」

「さあ、私にはわかりませんが、ホイガ殿の許可は出ているようです。お迎えが来ておられますよ」


 ティードリーアは訝しく思いながら外へ出た。しばらく待たされていたらしい長身の男が、彼女に気付いて顔を向けた。


「ティウ……」


 ティウはすばやくティードリーアの様子を観察し、そして、ついさっきまで命の遣り取りをしていた殺ばつさなど微塵も感じさせない笑みを浮かべた。二人はどちらからともなく歩み寄る。


「ティード将軍、お元気でいらっしゃいますね。良かった」


 ティードリーアはティウの右頬に目をとめた。血糊がべったりとついており、皮膚がめくれて肉が剥き出しとなった穴がある。


「ティウ、頬に傷が……」


 ティウはこともなげに答えた。


「不調法で……。敵の矢を受けてしまいました。ああ、蛮族たちは退散しましたよ。私の立てた作戦は大成功でした」

「ティウ、私のためにかなり無茶をしたのではないか?」

「なんの。大したことはありませんよ」


 ティードリーアが、そのしなやかな指をティウの右頬に伸ばした。


「痕が残るかもしれぬ……」


 ティウはティードリーアの腰を軽く抱いた。


「貴女の為なら、この身が傷だらけになろうとも本望というものです」


 ティードリーアはティウの瞳をじっと見上げた。見つめる相手への愛情が、その瞳の奥底から湧いて出てくるまなざしだった。そして美しい唇を動かす。


「ティティ、と……」

「え?」

「私のことはティティと呼んでおくれ、ティウ」

「ティティ?」

「ティードリーアの愛称だ。ワレギアでは、王族の女を愛称で呼ぶのは、両親と夫にしか許されない。ティウ、私をティティと呼んでおくれ」

「ティ……」


 感激を湛えた面持ちで、ティウは暫くの間ティードリーアをまじまじと見つめた。そしていきなり勢いよく抱きしめた。そして彼女の頬に、額に、首筋にせわしなく接吻しながら、喜色満面で繰り返した。


「ティティ、ティティ、私のティティ……」





「幸せそうですね」


 光一がアチェに話しかけた。ティウは敵の首級をあげた報償として、ティードリーアの身柄の解放に加えて、十日間の休暇を要求した。それは認められ、彼は彼にとっての初めての休暇を満喫している。そのため、ティード軍の用事は全てアチェ一人でとりしきっており、光一はアチェに仕事の報告をしにきたのだった。


「まったくだね。けど、アンタはあんまり見ない方がいいよ」


 アチェが答えるそばから、横にいた二番隊長も光一に声を掛けた。


「ありゃあ目の毒だよ、特に坊主みたいな子供にはな」


 坊主よばわりされても光一は反駁せず、苦笑しつつ答えた。


「ええ、確かに刺激が強いですね」

「まあったく……」


 アチェの声と共に三人は、ある一定の方角に視線を向けた。そこには人目をはばからず睦みあう二人の男女の姿があった。


 石の上に座るティウは、膝の上にティードリーアを乗せて、愛おしげに見つめている。ティードリーアも両腕を彼の首に回し、熱っぽい瞳で応えている。ときどき男が女の頬をつついたり、二人でクスクス笑いあったり、そして抱きしめあうと長い口づけを交わしたり……。


「朝から晩まであんな調子で、見せつけてくれちゃって」


 アチェがそう言いつつ軽く首を振る。二番隊長もため息まじりにつぶやいた。


「お互い相手のことしか眼中にないって感じだよなあ」


 光一は昔の流行歌にあったとかいう表現を思い出した。


「『二人のために世界はあるの』って感じですよね」


 アチェと二番隊長は揃って賛意を示した。


「ああ、それだよ」

「その通りだなあ」


 しばらく三人は黙り、再び二番隊長が口を開いた。


「それでも最初の五日間に比べりゃ、少しは落ち着いたんですかね」


 アチェが窘める。


「こら、青少年のいる前でそんな話を蒸し返すんじゃない」

「あ、僕だったら大丈夫ですよ」


 と言いつつ、光一は自分の頬が紅潮するのを止められなかった。


 ティウは休暇に入って五日間、ティードリーアと自分の天幕に籠りっきりだった。アチェは皆に、特に光一には厳しくティウの天幕の側に近付くのを禁じた。


 二人が何をしているか、などと愚かな疑問を誰も口に出したりしなかった。光一でさえそうだ。想い合う男女のことである。想像するまでもないことだ。


 それでも軍務上、どうしてもティウに聞かなければならないことがあり、一番隊長がティウの天幕を訪れた。


 一番隊長は多くを語らなかったが、ティウは腰に布を巻きつけただけの半裸の姿で天幕の出入り口に姿を現し、その身体は火照って微かに汗ばんでいたという。そして不機嫌そうに用件を済ますと、さっさと扉を閉めてしまったとか。


「ともかく」


 アチェは、どんどん顔が赤くなりもそもそと落ちつかなげにしている光一を見やりながら、話を切り上げることにした。


「あの二人が幸福なのは結構なことだよ」

「そりゃそうですとも」

「ええ、良かったですよね」


 これはティード隊の全員の思いでもあった。上官たちのいちゃつく場面に苦笑しつつも、皆、彼ら二人の幸福を心から喜んでいた。



 その二人は本当に幸福だった。


「夕日が美しいな、ティウ」

「ええ、でも私はティティを見て以来、何を見ても心が動かされることはないのです」

「何故?」

「だって、貴女の存在ほど感動的なものは私にはない」


 ティードリーアは笑って、ティウの首筋に口づけをし返事に代えた。


「それに、ティティ、私は早く日が沈んで欲しい。貴女を抱きしめるのに衣服や鎧が邪魔で仕方ない」


 ティウは休暇中とはいえ、軍人の身分であるので鎧を着けている。ティードリーアは、軍事法廷にかけられた時点で武人の資格を剥奪されているので、鎧は着けず衣服だけを着ている。


「……ああ、そう言えば私はもう鎧をつけていないのだったな……」


 ティウの熱っぽい言葉に対して、ティードリーアの返事はちぐはぐなものとなってしまった。彼女は今まで朝から晩までずっと鎧を着ける暮らしを続けてきたので、鎧を纏わないことに違和感を覚えるのだった。


「ティティ、貴女にはもうそんな無骨なものは要らない。いや、服だって私にとっては必要ない……」

「ティウ、もう少しで日が沈む。それまで夕日を眺めていよう」


 ティウはふうっと息を吐いた。


「でもティティ、夕日なんて明日も明後日も見られる、それより……」

「夜だって、これから何度も何度も迎えることができるよ、ティウ」


 ティウはティードリーアに口づけた。熱い吐息と共に。


「幾晩あっても足りないくらいだ……」




 ――しかしながら、この恋人たちに許された夜はいくばくも無かったのだった。


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