ティウの献身
牢屋と呼ばれる天幕は、実に粗末で狭いものだった。そしてろくに手入れもされていないためか、これまでここに入れられてきたものたちの体臭が染みついている。
この牢屋に入るのは、上官に黙って脱走しようとした兵士がほとんどで、ゲルガンドは辞めたいものは辞めればいいと思っていたから、一定の手続きが済めば彼らを逃していた。だからこの牢屋に長居をした者はいない。
――しかし私はそうはいかないな。
ティウは格子の入った窓から点を見上げて呟いた。
ティードリーアは混乱したまま自分の天幕に戻った。
「一体何故私が謹慎で、ティウが牢屋に入れられるのだ? こういった場合上官が責を負うものだろう? ティウはホイガに何を言ったのだ?」
そう聞かれても、ただの近侍の「じいや」と光一には答えようがない。一緒について戻ってきたアチェが難しい顔で黙り込んでいた。
「何か理由は思い当たらないか、アチェ?」
「そうだねえ……ひょっとしたら……」
とアチェが何か言いかけたとき、ドンドンドンとティードリーアの天幕の扉を慌ただしく叩く音がした。一人ではない人数の気配がする。
「ティード将軍、お尋ねしたいことがあります。入ってよろしいでしょうか?」
一番隊長バダンの声だった。
「もちろん構わない。入っておいで」
ティードリーアの返答を受けて、バダンを先頭に男たちがぞろぞろと入って来た。ティード軍の各部隊の隊長たちだった。それぞれ真剣な顔をした者がいれば、困惑した顔の者もおり、そして何故が非難がましい顔をした者もいた。
バダンが口を開いた。
「ティウ准将は『身体を盗んだ罪』に問われているとか。本当ですか? ティード将軍」
ティードリーアは目を見開く。
「何だと? 『身体を盗んだ罪』? ……ティウが牢屋に入れられているのはそのためなのか?」
「ティード将軍もご存じないのですか?」
「知らぬ。私もわけがわからないのだ……」
ティードリーアは衝撃を受けた表情で固まってしまった。光一が小声で隣の「じいや」に尋ねる。
「『身体を盗んだ罪』ってなんなんですか?」
「相手の許しを得ずに、その身体を……うむ、主に男が女に襲い掛かるというか……」
「『強姦』ということですか?」
「じいや」は声をひそめて叱った。
「こら、若い者がそんなあからさまな言葉を使うでない。……まあ、その通りなんじゃが……。もしティウがこの罪を犯したとしたら大変なことじゃ」
「どんな罰を受けるんですか?」
「死罪じゃが、恐ろしいのは地上の罰より天上の罰じゃ。この罪を犯したとされる者は皇都にて神官たちの裁きを受ける。そして罪があったと認定されたら、もはやその魂は天上に上ることはかなわなくなってしまう」
「あの……?」
「『河の信仰』では、人の魂は死後魚となり、時が来れば天に昇って、また命の滴として地上に生まれ変わる。しかしこの罪を犯した者は、生まれ変わりの環からはじき出され、魚のまま永遠に海の中をさまよい続けるのじゃ」
「…………」
「ワレギアでもこのような罪は厳しく裁かれるものじゃが、『河の信仰』では本当に厳しい罪を、これ以上ありえようもないほどの罪を課すものじゃ」
「じいや」のため息交じりの説明を引き取った声があった。
「それだけ汚らわしく卑劣な罪だということだよ」
三番隊長だった。彼は光一にそう言うとティードリーアの方に向き直った。
「ティウ准将がそんな卑怯な真似をする人間だとは思えません」
「そうだ、そうだ」
他の者たちも賛同の声を上げる。
「ティウ准将は確かにティード将軍に想いを寄せておられた。それは皆知っていることです。けれども、ティウ准将は、相手の許しも得ずに無理矢理身体を奪おうなどとする方ではありません」
「俺もそう思います。あれほどティード将軍のことを想っていたんだ。ティウ准将が欲しかったのはティード将軍のお心であって、身体じゃない」
ティードリーアは皆に向かってはっきりと言った。
「皆の言う通りだ。ティウはそんな卑劣な男では決してない」
初めての夜、ティウは少し強引だったかもしれない。けれどもティードリーアが拒めば決してそれ以上のことはしなかったに違いない。二夜目だってちゃんと彼女に選択肢を与えた。
ティードリーアは改めて自分の心を確認する。自分がティウを求めたのだ、と。最初は「孤独」から逃れるために、そして昨夜は共に「孤独」と闘うために。
四番隊長が声を上げた。
「でも、ティウは牢屋に入ってティード将軍は謹慎で済んでいる。これについて嫌な噂が他軍の者たちの間で囁かれております」
他の者が横から諌める。
「やめろよ、そんなことをティード将軍のお耳にいれるもんじゃない」
「でも、ティード将軍の口からはっきり否定してもらいたいんだよ」
ティードリーアが四番隊長に先を続けるよう促した。
「よかろう。どんな噂がたっているのだ?」
「それは……。『ティード将軍は、部下に罪を着せて自分の地位と名誉を守ろうとしている』と。合意があってのことでしたら、情を通じた場合罪に問われるのは主に上官のティード将軍ですが、ティード将軍の許しなくティウ准将が身体を盗んだのであれば、ティード将軍は単なる被害者で、もちろん罪に問われるのはティウ准将のみです」
別の声が大きく響く。
「ティード将軍が部下に罪をなすりつけるようなお方じゃないって、みんなわかってるじゃないか!」
しかし、他の隊長が弱々しく声を発する。
「だけども、ゲルガンド将軍の実の姫君の件が……。『ティード将軍は自分の養女としての立場を失うのを恐れて、ゲルガンド将軍に実の娘御がいらっしゃることを秘密にしていた。そんな人間なら、部下を踏み台にすることだって平気でやるだろう』と、他軍の者が……」
アチェがぴしゃりと言い放った。
「冗談じゃないよ」
一息入れてからアチェは皆を見回して言った。
「ティード将軍の地位や名誉を守りたい、と一番思っているのはティウだよ」
「あ……」
皆は、はっとした顔をし、そして納得がいった表情を揃って浮かべた。アチェはそんな彼らに向かって話を続ける。
「私は軍法会議の場にいたけどね。ティウは自分から裁判長席に近寄って行ってホイガに何か囁いたんだよ。そしてティードの縄が解かれたんだ。ティウが『身体を盗んだ罪』に問われてるなんて、ティードも私も今初めて知ったところだよ。言っとくけど、ティードはティウを踏み台にするようなことはしない。ティウがティードを守るために、自分の身を犠牲にしたんだよ」
ティードリーアがすっと立ち上がった。
「私は今からホイガのところに行って事実を話してくる。おそらく今度こそ私は牢屋行きとなるだろうが、アチェ、後を宜しく頼む。皆もアチェの許で、今まで通り皇軍に忠誠を尽くしてくれ」
「ティード、それじゃあ、あんた……。あんた、やっとティウの想いに応えてやったという訳なんだね」
ティードリーアはうっすらと頬を染めながら、しかししっかりとした口調で告げた。
「そう、私とティウは共に心を通わせて夜を共にしたんだ。それが罪だというなら、私は罰を受けよう」
それから、と彼女は続けた。
「私はもっと大きな罪を犯していた。ゲルガンド将軍の実の娘御の件だ。他軍の者が言うように、私は自分の為に娘御の件を秘密にしていた。それを明かさなければならないとわかっていても、私は全てを失い孤独になるのが怖かった。それでも、その罪を打ち明けることができたのはティウがいたからだと思う。そしてこれからも、この罪の報いを含め人生にはいろいろな困難が待ち受けていると思うが、ティウとなら乗り越えていけると思う」
「じいや」が困惑した声をだした。
「ですが、姫様……」
「ティウの身分のことは、私は何とも思っていないよ、じいや。私は立派な王女でありたいと願う一方で、秘密を抱え孤独を恐れて生きて来た。でも、ティウとなら、もうそんな生き方をしなくてもいいと思う」
「しかし……、やはり今少し身分の高い者と……」
「じいや。ミツルがゲルガンド将軍の実の娘御と分かってから私はずっと苦しかった。でも、その中で私は気づいた。ティウは私にとって特別な存在だ、と。今まで意識していなかったけれど、ティウが私を想い続けてくれることは、私の中で大きな支えになっていたのだ、と。他の者、とじいやは言うが、他にティウほど強く長く私を想ってくれたものはいない。私はティウがいてくれることに感謝と喜びで一杯だ。ティウ以外の男性なんて考えられないよ」
それでも何か言いたげじいやをアチェが諭した。
「ティードは王女様でもあるけど、一人の女でもあるんだよ。男女のことは周りがあれこれ口を出すもんじゃない。それに相手がティウならいいじゃないか。今回のあいつの献身ぶりには、私は舌を巻くね。ワレギアの人間にはわからないかもしれないけど、『河の信仰』の中で育った私たちは、あいつは本当にそら恐ろしい選択をしたもんだと思うよ」
「わしも、今回の件では、あの男は本当に姫様を自分より大切にするつもりなんだとわかった。そうじゃのう、そういう男こそ姫様には必要なのかもしれん……」
「そうだよ。ティードの傍にはティウがいるべきなんだ。これでティードは独りじゃなくなる。さあ、行っておいで。しばらく牢屋で過ごすけど、出てくればティウが待っているさ。あんたはもう将軍でいられなくなるけど、私は今までどおりあんたを尊敬しているし、ここにいる連中だってそうだよ。なあ、みんな、そうだろう?」
アチェに声を掛けられた隊長たちは一様に喜色を湛えた表情で、口ぐちに賛意を示した。
「将軍、将軍はいつまでもわれらの将軍です」
「受けたご恩は忘れません」
「軍を離れられても、いつまでもお慕いしております」
ティードリーアは、瞳を潤ませながら頷いた。
「有り難う、みんな」
「さあ、行った、行った。そして幸せにおなり、ティード」
ティードリーアは、この親友に大きな笑顔を向けると、歩き始めた。今まで見守って来た者たちに見守られて、新しい人生を生きるために。そのために必要な伴侶を救い出すために。
このとき、彼女の心は幸福で満たされていた。