軍法会議
その夜更け。
ゲルガンド軍の天幕に、蛮族たちの動向を探っていた斥候が飛び込んできた。「敵の一部が谷間を出てこちらに前進している」という知らせと共に。
ゲルガンドの留守を預かるトゥームも、その側にいたティルバも、これは敵の単なる挑発に過ぎないと思ったが、かといってそのまま敵軍を前進させるわけにはいかない。
トゥームは、ともかく夜の明けないうちにティルバに軍勢を率いて皇軍の陣を出発させ、その後どうするかは明朝早く、各将軍を集めて幕僚会議を開くことにした。
ティウは、ティードリーアの大きな緑宝石のような瞳が、満足と幸福で満たされているのを、この上もなく幸せな思いで見つめていた。
ふふっ、とどちらからともなく笑みがこぼれて、二人はまた唇を寄せあい、四肢を絡ませ、そして再び見つめ合う。互いの瞳に喜びが宿っているのを確かめて満足し、そして……。
「もう止しておこう、ティウ。私はそろそろ自分の天幕に帰らなければ」
「もう少し、もう少し良いでしょう? まだ夜は明けきっていません」
「でも、夜が明けきってしまう前に私は帰らなければならないよ、ティウ」
この時、ティウの天幕の扉を叩く音がした。そしてティウの返事を待たずに若い男の声が飛び込んできた。
「ティウ准将、大変です! ティード将軍が行方不明です! 幕僚会議の招集が掛っているのに、将軍の天幕にはいらっしゃらないのです!」
声の主は扉を開けて、ティウの天幕の中に踏み込んだ。
「一体どこへ行かれたのでしょう? ティウ准将、ティード将軍の行方をご存じありませんか……」
その声が尻すぼみになっていく。
ティウ准将は寝台の上に半身を起している。なぜか裸で見事な肉体美を晒しつつ、そして、背後に誰かを隠している。女だ。顔を伏せているが、しかし、寝台の縁から流れ落ちているこの群青色の髪は――。
天幕の入り口で口をパクパク動かしている若い兵士に、ティウは落ち着いた声で命じた。
「ティード将軍は間もなく幕僚会議に出席される。そうしかるべき方にお伝えせよ」
「は、はい」
若い兵士は踵を返すと、慌てて飛び出していった。
生まれたばかりの恋人たちに、早くも試練が訪れようとしていた。
ティードリーアの幕僚会議出席は叶わなかった。衣服を整え、会場に息せき切って駆け込んだものの、入口にいた軍吏ホイガによって、指定された場所で謹慎しているように指示されたのである。
幕僚会議は特に内容のあるものとならなかった。派兵されたティルバの軍が蛮族の部隊を蹴散らしたという一報が既に入ってきていた。そして、相手を深追いすることなく、ティルバ軍は今日の午後には帰還する予定となっている。
トゥームが、今後もこれまで通り兵糧攻めを続けることを諸将に確認しただけで幕僚会議は閉会となった。
出席者たちの関心は、次に開かれる軍法会議へと移っていった。
皇軍では兵士同士が恋に落ちることを禁じている。特に上官の責任は重く、軍法会議に掛けられ、その大半は軍を放逐されることになる。
たった二日前まで人望も厚く、人々の尊敬を集めていた女将軍が、部下の男と情を通じた。この知らせに、心ある将軍は困惑した表情を浮かべ、そうでない将軍は好奇心一杯の顔つきで囁きを交わす。
「信じられん。あの自ら律するところ並び無きティード将軍に限って……」
「しかし、ゲルガンド将軍の実の娘御の件では、兵士たちにも噂が立っておりますぞ。ティード将軍は、ゲルガンド将軍を独り占めしたいがために、実の娘御の存在を知っていながら隠していたとか……」
「まさか。あの人柄のよいティード将軍が……」
「いやいやそんなことより、情を通じた相手が『浜辺の者』とは本当か? 本当なら『石の国』出身のワシからすれば、とんでもない話だ」
「いや、ティード将軍は『河の三国』から離れた辺境の国の出身ですから、『浜辺の者』を特に賤しいとは思わなかったのでしょうけれども。ただ……。あれほどゲルガンド将軍を慕っていながら、ゲルガンド将軍に妻子が見付かって自分が捨てられそうだからって、そうすぐ簡単に他の男と……なんてねえ」
軍法会議では各将軍と副将とが傍聴を許された。ティウもアチェと共にその会場の椅子に座っている。ティウこそティード将軍が「情を通じた」相手だと知る者たちから、遠慮のない好奇心満々の視線が彼に突きささってくる。しかしティウはそんなものに一瞥もくれず、軍法会議に設けられた被告人席を睨み据えていた。
やがてホイガが現れ、裁判長席に勿体ぶりながら腰を下ろした。続いて書記官二名がその傍の卓につく。
そしてティードリーアが腰に縄を掛けられ、その一端を一兵士に握られながら入場してきた。それを見たティウの頬に朱がのぼる。自分の恋人が、あんな辱めを受けるなど我慢ならなかった。
いきり立つティウの腕にアチェが手を置いた。
「落ち着きな、ティウ。あの腰ひもはただのホイガの嫌がらせだよ」
この時ティードリーアは鎧を身に纏っていなかった。実は腰ひもより彼女を戸惑わせていたのは、こちらの方だった。
武人は朝起きてから夜就寝するまでずっと鎧を身につけている。敵襲のない普段の暮らしの中では最も軽装とはなるが、それでもいきなり矢を射かけられても、それを跳ね返せる程度の軍装はしているものなのだった。
もっとも、いくら普段着用の鎧でもそれなりの重みがある。けれども長年武人をつとめてきたティードリーアにとってはその方が当たり前のことで、こうやって鎧を纏っていない状態というのは、着るべきものを着ていないような気がして落ち着かないのだった。
ホイガは一段高くしつらえられた裁判長席から、ティードリーアを憎々しげに見おろす。
姉ペイリンを死に追いやった女たちと同じく王族に生まれた娘。自分の可愛い姪より早く、そして皇帝の許しもなしにゲルガンド将軍の「婚約者」と名乗りおった蛮族の娘。女のくせに武人となり、将軍にまで上り詰めた生意気な女。男女の仲では決してないが、リザを差し置いて、今まで最もゲルガンドに大切に扱われてきた女。
だが、その憎たらしい女は愚かにも全てを失い、目の前に突っ立っている。さあ、これからこの女に最後の一撃を下してやるのだ。ホイガはことさら粘着質な声で、軍法会議の開会を宣言した。
「まず、被告人については将軍位を剥奪されたものとし、ティードとのみ呼ばれる」
「異議あり」
立ちあがったのはアチェだった。
「お待ちください。この会議には皇軍の最高責任者であるゲルガンド将軍がおられない。ティード将軍から将軍を奪うかどうかは、将軍がお戻りになってから決めるべきでしょう」
「ふん、『浜辺の者』めが」
ホイガはアチェを虫けらでも見るような目でちらとみたきり、後は議場全体に向かって声を発した。
「『皇軍にあって同じ軍人と情を通じたる場合、上官は軍位剥奪の上、軍より追放処分とする』。このことは軍法百二十一条によって決まっている。そして細則三十五条によれば、裁判の開始から、上官の軍位は召し上げられたものと扱われる。よいですか、皆さま。法というものは権力者が居ようと居まいと粛々と執行されるべきもの。異論は認めませんぞ」
ホイガの言い分は正論ではあるので、アチェはしぶしぶ席につく。
「さて、ティード」
粘着質な声がティードリーアに向かって発せられる。
「敵軍に動きがあったというその夜に、お前は部下の男――准将などとありもしない称号を与えて可愛がっている男と情を通じたのは事実であるな?」
ティードリーアは起きた事実については肯うつもりではあったが、恥じらいのため少し返答が遅れてしまった。その隙をついてホイガが続ける。
「そのティウなる男、なかなかの美男子。若くて、女の身体を如何にも歓ばせそうに見えますな。我々から見れば、頭の先から足のつま先まで汚濁に満ちた賤しき『浜辺の者』でしかありませんがね。だが、ある兵卒の目撃によると今日の明け方、お前はそんな賤民の寝台に裸で横たわっていたという……。それは事実なのですか? え? 先ほどから私はまだ答えを貰っていませんぞ」
ティードリーアは顔に血が上ってくるのを感じながら、出来るだけ平静に答えた。
「事実です」
さすがにその声に、普段の部下を率いる時のような張りはなかった。しかし、彼女はしっかりと顔をあげ、視線をまっすぐホイガに向けている。それがホイガを苛立たせる。
「情を通じた理由はやはり何ですかな、ゲルガンド将軍に実の娘が見付かり、二人してその母親の所へ向かったからですかな? ふん、ティード。お前は捨てられたわけだ。それが寂しかったか? それで賤しき『浜辺の者』を使って身を慰めようと思ったか?」
「それは……」
ホイガの言うことは、確かにティウに身を委ねたきっかけではあったので、ティードリーアは口ごもってしまう。反対にホイガの口はますます滑らかになっていく。
「確かに、その賎民くらいしか、お前の味方はおらぬかもしれぬな。噂では、お前は十七年前からゲルガンド将軍に実の娘がいることを知りながら、嫉妬のためにそれを隠していたというではないか。やはり所詮女は女。お前はそういう卑怯な手で、自分の恋敵を遠ざけておいたのだ。見下げ果てた奴よ。そんな卑怯者を一人前に扱う者などこの皇軍にはもはやおるまい。お前はせいぜい『浜辺の者』に慰めてもらうのがお似合いだ」
「…………」
「で? どうだった?」
「え?」
「その男のことよ。お楽しみはどうだったのかと聞いているのだ」
ホイガは済ました顔を作っているが、口元に卑猥な笑みが浮かんでいる。ざわざわと会場も騒がしくなる。皆小声なのだが、その中には猥談の時にしか使われないような単語が飛び交っていた。
ティードリーアはここで、視線を落とさざるを得なかった。そればかりではなく、耳を覆ってその場にしゃがみ込みたい衝動をこらえるのに懸命だった。猥褻な言葉ばかりが耳にはいり、頭の中で反響する。誰もかも、自分とティウの結びつきの内実などお構いなしに、ただ男女の肉体関係だけを面白おかしく騒ぎ立てている。
ティードリーアの顔が自分の遺志に反して紅潮していく。このままではあまりの惨めさに涙をこぼしてしまうかもしれない。彼女はぐっと歯を食いしばった。
アチェは拳を振るわせていた。自分と違ってティードは、こういったことにはウブな女だ。このような辱めにどれほど傷ついているだろうか。そう思うと悔しくてたまらない。そして隣に座るティウともその悔しさを共有しようと彼を見た。
ティウは恐ろしいほど真剣な顔で、ただ前方を睨みつけている。目に映っているのは、ホイガでもティードリーアでもなく、何か別のもののようだ。アチェがたやすく声を掛けることができないような、そんな凄みのある顔つきだった。
誰もがこのような雰囲気を楽しんでいる訳ではなかった。それまで隅に座っていたジガリ将軍が発言を求めた。
「ホイガ殿。もういいでしょう。貴方の質問は裁判に必要な尋問の本筋からずれている。むしろ軍法会議の品位を貶めていると言わざるを得ない。これ以上このような発言をなされるなら……」
ジガリはそこで口を噤んだ。ジガリだけでなく会場にいた他の人々も黙って裁判長席の方を見つめていた。金色の髪をした美しい若い男が、背筋をぴんと伸ばし、裁判長席にむかって、ゆったりとした歩調で歩いていた。
「な、なんだ。今は裁判中だぞ。さっさと席に戻らぬか」
ホイガが落ち着きのない声でそう命じるのにお構いなく、ティウはズイッと壇の下からホイガの耳元に自分の口を近づけた。そしてしばらく何事かを囁く。
「む?」
聞き終わったホイガは少し奇妙なものを見るような目でティウを見、
「ううむ」
と考え込んだ。皆が何事かと見つめる中、しばらくホイガはそのまま無言でいた。それから仕方ないといった風に「うむ」と一言呟いてから、会場全体にさほど大きくない声で宣言した。
「この男を牢屋に収監せよ。そしてティード将軍には自分の天幕で謹慎願う。ではこれにて閉廷」
「え?」
ティードリーアをはじめ、多くの人がそれぞれに不審そうな声を上げる中、ホイガは不機嫌そうに立ちあがって天幕から出て行ってしまった。軍吏に左右を挟まれたティウがそれに続き、人々の視野から姿を消す。ティードリーアは呆気にとられたまま立ちつくし、多くの人々も戸惑いの声をお互いに交わすだけだった。




