恋人たちの誕生
ティードリーアはゲルガンドの天幕の中で、冷めきった茶を前に、ただ一人椅子に腰かけていた。
太陽はとっくにその日の軌道の頂点を通過し、あとは西へ沈むばかりだった。窓から差し込む初秋の午後の光の中で、彼女はただ呆然と誰もいなくなった茶卓を見つめていた。
彼女がゲルガンドに真実を告げた時、彼は彼女については何も言わなかった。ただの一言も。彼は彼女から全てを聞き終わると、その内容について二、三質問しただけで、それも尋ねたいことを尋ね終わるとすぐさま立ち上がり、天幕から駆け出して行った。
その間、彼の思考の中にティードリーアのことなど、欠片もないことは明らかだった。
罵倒された方が余程ましだ――ティードリーアはそう思っていた。彼の全くの無関心が、身に突き刺さるほど彼女には寂しかった。もちろん頭では、ゲルガンドが自分の実の娘に関心の全てを向けるのは当然であることも、そして自分はもう彼に何の愛情も望める立場ではないことも、理解はしていた。けれども――。
彼女は眼を瞑って息を吐いた。寂しい。彼女は自分の周りには何物も存在しないような気がした。あるのは冷たくて虚しい空白だけ。彼女の過去も未来も全てが崩れ去ったのだ。
ゲルガンドにとって良き娘であろうと努力し、優れた武将として彼を援ける。その生涯の果てるまで、たとえ男女の仲でなくても、彼にとって大切な存在として寄り添っていく。それが彼女の人生だと、彼女は今日の朝まで思い定めていたのだった。けれども彼女の人生は今や灰塵と帰し、ゲルガンドが立ち去る際に軽く巻き起こした風の中に、舞い散ってしまった。
ゲルガンドの態度、いや彼が彼女に何の態度もとらなかったことは、彼女が真に孤独になったことを、くっきりと彼女に思い知らせるものだった。孤独、それだけしか彼女の人生には残されていない。その冷え冷えとした事実に思い至って、彼女は思わず自分の両の腕で自分の身体を抱きしめた。
意外にも、その掌は温かかった。彼女はそれに気付くと顔を上げた。そして自分には、自分以外にも温かく抱きしめてくれる腕があることを思い出した。そしてその腕の持ち主の名を呟く。
「ティウ……」
だが、彼女はすぐに目を伏せ、軽く頭を横に振った。
ティウは自分の天幕に飛び込むと、武具を立てかけてある辺りから馬の鞭を探しだし、すぐさま飛び出そうとした。慌てて立ち止まったのは、椅子に項垂れて座る上官、ティードリーアの姿を見つけたからである。
ティウは笑顔と共に深く息を吐いた。
「ティード将軍。良かった、ご無事で」
俯いたままのティードリーアに歩み寄りながら、そのまま語りかける。
「お探ししていたのです。昼前にゲルガンド将軍がミツルの前に現れて、親子の名乗りをあげました。皆大騒ぎでしたよ。ティード将軍、将軍は真実を明かされたのですね?」
ティードリーアは悄然としたまま黙って頷いた。ティウはその様を痛ましげに見ながら、出来るだけ穏やかな声で言った。
「ティード将軍のご心中は如何ばかりかと思って……。ともかくお探ししたのですよ」
ただの近侍の娘が実はゲルガンド元帥の実の娘だった。この事実に皆が湧きかえっている中、彼はティードリーアを案じて、彼女の天幕に駆け付けた。けれどもそこに彼女はおらず、すぐさまゲルガンド将軍の天幕に向かった。けれども、そこでは、彼はたやすくそこへの出入りを許されず、再度訪ねた際には、「ティード将軍はお帰りになりました」と聞かされただけだった。
その後も彼はティードリーアを探して陣中を駆けずり回ったが、彼女を見つけることができなかった。彼はティードリーアが身投げでもすまいかと最悪の場合まで心配して、馬で近辺を探そうと鞭を取りに来たのであった。
「ともかくご無事で良かった……」
顔を上げずにティードリーアが呟いた。
「来ようかどうしようか迷ったんだ……」
「え?」
「私はどこまで虫の良い女なのだろうと思って……。今まで何年もお前の想いを拒んできたのに、全てを失った今になって私は慰めを求めてお前のもとにやって来た……図々しい女だな、本当に」
「ティード将軍」
ティウは、ティードリーアの両手を自分の両手で握った。
「ティード将軍は私を信じて下さったのでしょう?」
「……?」
「全てを失ったと仰るが、何もかも失っても、このティウの心だけは失っていないと信じて下さった。だからお越し下さったのでしょう?」
「ティウ……」
ティウはにっこりとほほ笑む。
「私は貴女様のその信頼が嬉しい」
ティウは真摯な瞳で、そして心からの深い思いやりのこもった声で言った。
「お辛くていらっしゃったでしょう。貴女のような方が罪を背負って生きるのは」
ティードリーアは顔を上げた。ティウは穏やかに笑んでその視線に答える。彼女は眼を瞑った。そこから涙が一筋頬を伝う。
「ティウ。お前は父上のようなことを言ってくれるのだな」
事実彼女は、小さな少女の頃に戻り、父王ガルムフの大きく温かい掌で頭を撫でて貰っている心持がしていた。しかし女将軍がその追憶に浸っていたのはほんのしばらくの間で、それから覚めると、自分の手を握っている部下の手を見つめた。
「私の今まではなんだったのだろうな」
「ティード将軍……」
「子供の頃から、私はワレギアの第一王女として誇り高く生きようと思っていた。父母を失おうとも国を追われようとも、自分は王女としての矜持を忘れてはならないと思ってきた。そしてゲルガンド将軍への想いと、養い先で身を立てねばという思いとで、私は武人となった。ワレギアの王女、ゲルガンド将軍の義娘として恥じぬよう、懸命に励み、私はお前を含めて部下を持つ将軍にもなった。そして……そして今は何も持たない」
「…………」
「私は将軍職を解かれるだろう。そしてゲルガンド将軍の娘としての立場も失う。ワレギアの第一王女という称号だって、公には存在しない。あの夜、ワレギアから追われたあの時から私は王女でもなんでもなかった。私は自分の矜持を守るために幻影にしがみついていたにすぎない。私は結局何者でもない……」
ティードリーアは乾いた笑い声を立てた。
「未練だな。あんな罪を犯したのだから、当然の報いだというのに……」
ティードリーアの自嘲を断ち切るように、きっぱりとティウが言った。
「ティード将軍。ティード将軍は私の想い人でいらっしゃいます」
「……?」
「ティード将軍、貴女様は自分は何者でもないと仰った。それは違う。貴女様は私の想い人です、この私の。准将ティウの想い人、これではご不満ですか? それとも『浜辺の者』の想い人であるなど、迷惑なだけですか?」
「ティウ、お前が『浜辺の者』だからどうだとも私は何とも思わない。けれどもティウ、どうしてお前はそこまで私を愛してくれるのだ?」
ティウはここでもきっぱりと言い切った。
「理由なんてありません。貴女という女性がいるだけで、私は貴女を愛さずにはいられません」
「ティウ……」
「私が十歳の頃、私は周囲の人々から軽蔑され憎まれる毎日を送っていました。まるで動物のようにその日一日を生き延びるのに必死だった。貴女はそんな私の前に現れ、跪き、私の頬を優しく撫でて下さった」
ティウがそっと右手を上げる。ティードリーアは少し驚いた顔をしたが、特に動かなかった。ティウは右手の指で、ティードリーアの頬の、涙の伝った痕を優しく、何か脆くて繊細な美術品を扱うように、そっと撫でた。
「ティード将軍。貴女様の頬を拭って差し上げるのが、この私の夢でした」
「ティウ、でも私という女は……」
「貴女は懸命に生きてこられた。貧しく賤しい私にとっても、生きることはただそれだけで闘いだった。貴女にとってもそうだった。父母をあのような形で失った時、故国を追われた時、婚約者を取り上げられた時、そして罪を抱えた時。貴女は苦しく、悔しく、悲しかったでしょう。でも貴女は生きることを手放さなかった。死、という絶望に陥ることがなかった。浅ましくたっていい、だって闘いに美しいも何もありはしないんですから。ティード将軍、将軍が今生きておられるのは、絶望と闘って勝利した証です」
「ティウ……」
「今だって、貴方は絶望に負けたくないと思って私の許にこられたのです。貴女は闘う、強い女性です。そんな貴女に私は心惹かれずにおられない」
ティード将軍、と呼びかけながら、ティウはティードリーアの両手を胸の辺まで引き上げ、自分の両手で押し包んだ。
「これからはもう、貴女独りで闘うことはありません。私がおります」
それからティウは、今までの中で最も優しくティードリーアの身体を抱き取り、片手を彼女の頭に置きながら、耳元で力強く宣言した。
「貴女はもう、決してお独りではないのです」
かすかな水音を聞いた、とティウは思った。
美しき女将軍が、自分の腕の中でで嗚咽を漏らしていた。それと共に涙が静かに、とめどなく彼女の瞳から滴り落ちてくる。ティウが指先で拭っても拭ってもそれは止まらない。それは少女時代からずっと長い間堰きとめられていたものが、その堰を切って流れ出はじめたのだと彼は思った。
やがてティードリーアが顔を上げ、ティウに瞳を向けた。夕闇に包まれた天幕の中でも、その大きな緑宝石のような瞳は濡れた輝きを放っていた。
「ティウ。どうか今宵も私を独りにしないでくれるか?」
「もちろんですとも」
ティードリーアは彼の腕に抱かれてそっと瞼を閉じた。ティウは腕の中の女性の唇に優しく口づけ始める。今や「孤独」など、この二人からすれば世界の中でも最も遠く、その果てにかろうじて名前だけが残っているものだけにしか過ぎなかった。