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水の砂漠の魚たち   作者: 鷲生 智美
人の旅路
61/82

黒い鳥の運ぶもの

 帝国の中心、皇都。皇帝の住まう皇宮の中で最も高い塔。その塔の窓辺に黒衣の女が佇んでいた。黒い髪と黒い瞳を持つ、美しい女だった。

 もっとも、その女は美しいには美しいが、大人の女性らしい成熟味は、その美の中に含まれていなかった。気の強い美少女がそのまま背丈だけ伸びたかのような。


 ――それが十七年帰らぬ婚約者を待ち続けた皇女リザだった。


 秋の訪れの早い森の国の青い空は高く、その色からは早くも夏の青みが抜けきろうとしている。その薄青い空に、黒い点が現れた。その黒い点はますます大きくなる。それを見ながらリザ皇女は満足げに頷いた。


 バサッと羽音を立てて黒い鳥が窓辺へ舞い降りた。そしてリザが何か言おうとする前にカタカタと嘴を動かす。


「大変なことが分かりましたぞ、皇女」

「どうしたの? 何があったの?」

「ゲルガンド将軍に娘がいたのです」

「娘がいた、ですって? 子供がいたの? ゲルガンド将軍に?」

「さようでございます」


 寝耳に水の事実に、皇女はしばし呆然と立ち尽くしていたが、事実を飲み込むにつれてその白皙の頬に朱が上っていく。


「まさか、母親はあのマイア何とかという平民の女ではないでしょうね?」


 五匹の水蛇を放って唯一取り逃がしたあの女。


「さようでございます。マイア・トゥーべレンがゲルガンド将軍の娘の母親です」

「そんな……。皇帝の従兄たる将軍が、平民の女研究官など相手にするわけはないと思っていたのに……。それに……」


 リザは驚きから覚めると、眉間に深い縦皺を刻んだ。


「それに、念のため、『石の国』出身のあの女が河を遡って『森の国』に入れないよう、河には『時間の環』の術を掛けておいたはずよ。何回か引っかかった者はいたけど、それはマイアという女の血族の者が、『石の国』の中の港町を行き来してただけだったじゃないの」

「しかし一件、船を途中で降りたまま行方知れずになっていた少年二人連れがおりましたでしょう? 片方が『海から来た者』だったという二人連れが」


 その件はリザも聞かされていたが、その頃はまさかゲルガンドに子がいたなどと思いもよらなかったので、一応彼らの行方を捜させはしたものの、それを急かしてはいなかった。


「でも、その二人連れは男の子が二人だったのでしょう?」

「リザ皇女、マイア・トゥーべレンの娘は、『海から来た者』を手に入れて旅の自由を得、少年の恰好をしてまんまとゲルガンド軍にもぐりこんだのでございますよ」

「なんですって! それではもうその娘はゲルガンド将軍に会っているの?」

「はい。今、ゲルガンド将軍とその娘は、マイア・トゥーべレンの許へと馬を走らせております」

「マイア・トゥーべレンはどこにいるのっ」

「『砂浜の村』に住んでおります」


 「砂浜の村」……皇女は唇を噛んだ。普通の人間ならあんな汚らわしい場所に逃げ込もうなどとしはすまい。そう思って、皇女は「砂浜の村」にまでマイア・トゥーべレン捜索の手を広げなかったのである。


「そのゲルガンド将軍の娘とやらは、『砂浜の村』で育ったからには『浜辺の者』なのでしょう? それなのにゲルガンド将軍は自分の娘だと認めようというのですか! そして浜辺の腐臭に染まっているに違いないマイア・トゥーべレンを妻に迎えようというのですか! この、帝国皇女という、この上もなく高貴な婚約者がいるにもかかわらずっ!」

「さようでございます、皇女様」

「そんなことさせないわ!」


 皇女は荒々しく窓辺から踵を返した。そして居室へ向かい、すっかり手になじんだ呪術書を開く。そして、その最終章の辺りで頁を繰る手を止め、熱心に読みふけり始めた。




 ほどなく、皇女は呪術書を抱えて「海の源流」を覆うドームの中に入って来た。いつもであれば、神官たちは音も立てずに自分たちの仕事に立ち働いており、神官長だけが挨拶に現れる。


 しかし、この時は違った。皇女が一歩ドームの中に足を踏み入れた途端、白衣の神官たちは無音のまま一斉に皇女を振り向いたのだ。そしてリザの行く手をふさぐように一人、また一人と集まってくる。


 リザは戸惑い、歩みを止めて立ち尽くした。それに合わせたかのように、無数の小さな声が円蓋の中に拡がる。


「お止めなさいませ……『大返しの術』を用いるのはお止めなさいませ……」


 それらの声は円蓋に反響を繰り返し、まるで空気が圧を持って自分を押しとどめようとしているようにリザには感じられた。


「お黙りなさい!」


 リザは金切り声をあげた。


「神官長、出てらっしゃい」


 押し黙る白衣の神官たちの群れから神官長が歩み出た。そしてリザが叱責を加えようとする前に、口を開いた。


「リザ皇女、皇女のその目的のために『大返しの術』を用いてはなりませんぞ」

「何故私が『大返しの術』を使おうとしているのかわかるの?」

「我々神官は、辻の巫女ほどではなくても、大事の際にはその先触れを感じ取ることができるのです。つまり、それだけの大事を貴方はなさろうというのですよ」

「大事ですって? 『大返しの術』を使ったところで『浜辺の者』の数が少し減るだけのことじゃないの。賤しい、人の姿だけとったあさましい生き物が……」

「皇女、賤しき『浜辺の者』とて、元はこの『海の源流』にしたたり落ちて来た滴であることに変わりございません。確かに河の流れの低きに生まれた賤しい者たちではございますけれども、皇帝は全ての『命の滴』の守護者なのでございますよ」

「でも神官長……」

「それに、皇女様が命を絶ちたいと願ってらっしゃるのはゲルガンド将軍の娘の母親だけでございましょう? それなら私兵に暗殺させるなり他の方策もございましょう」

「それでは間に合わないのよっ。黒い鳥が私に知らせにくるのに三日掛ったわ。私が今から刺客を送っても、ゲルガンド将軍があの女に会ってしまうのには間に合わないわ」

「しかし、皇女、その為に貴女は何の罪もない『浜辺の者』たちの命を――」

「お黙り!」


 リザ皇女は胸を反らせてぴしゃりと言い放った。手で呪術書の後扉の頁を開き、相対する神官たちに掲げて見せる。


「う……」


 神官長は呻いた。その呪術書の後扉の頁にはこう書かれてあった。


 ――我々「海の源流」を守る神人は、汝トゥオグルとその子孫にこの呪術の行使を全て委ねるものなり――。


 昔、「海の源流」を守る神官がトゥオグル帝に全権を委譲することを示す誓約書が、呪術書の後扉に貼付されていたのだ。


「どう?」


 皇女は勝ち誇った表情で神官たちを見渡した。


「お前たちには私に指図する権利はないわ。さあ、道をあけて。私を『海の源流』まで通して頂戴」


 皇女は割れた人波の中を傲然と歩いた。それを見つめる神官たちの瞳に暗い翳がさしていることになど全く気にとめることなく。


 「海の源流」の銀の水盤は、先ほどまでの騒ぎなど無かったかのように静かに泉の水を湛えていた。

 皇女は満足げに頷くと、呪術書を開き呪文を唱え始めた。この呪文は今まで用いた術の中でも最も長く、リザには覚えられなかったのである。


「ダナハ二・ドキ・ナム・コーフラ・ライラ・ヨム・ミーシア……」


 皇女の呪文が続くにつれ、銀の水盤がぶるぶると震え始める。あたかも皇女の呪文に身震いするかのように。王女は忌々しい思いでガタガタと身を揺する銀盤を睨みつけながら、呪文を最後まで唱えあげた。


そして、その白くて細い指をまっすぐ、銀盤から溢れて小さな川となっている流れの下方へすいっと向ける。


「さあ、お行き。賤しき分際で、この神聖なる皇女を侮辱した女など、飲み込んでしまうがいい」


 銀盤の水面の上で何かがパチリと弾ける音がした。そして「何か」の気配は銀盤の水面から小川へ飛び降り、水の流れより速くその川の上を駆け抜け、円蓋の外へ飛び出していった。


 皇女は満足げな顔で、「海の源流」を背に帰途についた。神官たちも音もなく、円蓋周辺の自分たちの仕事場へ散っていった。


 同じ未来を予見した彼らの顔には、一様に厳しいものが浮かんでいた。

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