真実の扉が開くとき
ティードリーアはゲルガンドと顔を合わす局面を出来る限り避け続けていた。しかしながら、彼の天幕に全将軍が集合するようにとの伝令が来たからには、出席しないわけにはいかない。
彼女が刻限にやや遅れて着くと、既に幕僚会議が始まっていた。ゲルガンドの副将トゥームが議事進行を務め、ジガリ将軍が意見を述べていた。
「皆さんご承知のように、蛮族たちは円陣を組んで谷間から出てきません」
ゲルガンドのもう一人の副将ティルバが口を挟んだ。
「まあ戦略上、谷間を出ると、あちらさんには一気に不利な状況になるからねえ」
ジガリはティルバに一つ頷いて続ける。
「そうです、ティルバ殿。そして我々は今こうやって蛮族達と睨みあっておりますが、こうしているのが最良の策だと思うのです」
ティルバが尋ねる。
「なぜだい? 僕はさっさと戦闘を始めて、思う存分暴れ回りたいんだけどね」
トゥームが目でティルバを制し、ジガリは話を進める。
「我々は街道を来ました。もし物資が尽きたとしても、街道を用いていくらでも後方から物資を補給することが可能です。しかしながら蛮族たちは違う。彼らは道なき道を踏み越えて、この戦場までやってきました。今ある物資が尽きれば補給は望めない立場です」
別の将軍が声を発した。
「兵糧攻めか」
「そうです。我々はここに陣を敷いたまま、相手の撤退を待つ。これが一番穏当な策と思われます」
軍吏のホイガが不満そうな声を挙げた。
「随分消極的な策ですな。その間、私ども軍吏や輜重隊が物資の確保のために動きまわらねばならぬわけですか」
ティルバが不快げな顔をホイガに向けた。そして先ほど好戦的なことを言ったことをすっかり忘れたかのようなことを言う。
「それがあんた達の仕事だろう? それより、しなくていい戦闘で兵士の命が失われたらどうするんだ? 人の命より自分の手間暇の方が大事だとでも?」
天幕内の諸将からも、ざわざわとティルバに賛同する声が上がる。ゲルガンドを慕って集ってきている将軍たちは、皇帝の間諜であるホイガと元々敵対する立場であったし、今回はジガリやティルバの言い分の方が圧倒的に正しかった。
ゲルガンドが天幕中の空気を引き締めるように宣した。
「我が軍はジガリ将軍の案を採る。各軍もその心づもりでいるように。ホイガ殿、手間を掛けるが、兵站については宜しくお願いする」
ホイガが不承不承ながら頷き、軍議は散会となった。
「ティード将軍」
早く自分の天幕に戻ろうとしたティードリーアの背に声が掛った。聞き間違えようのない声だった。
「ゲルガンド将軍……」
「この間は茶をご馳走になった。今から私は茶を淹れさせて休憩をとるつもりだ。君もここで休むがいい」
ティードリーアは躊躇ったものの、好意に満ちた誘いを断る言葉を思いつくことが出来ず
「はあ……」
と歯切れの悪い返答で応じた。
茶を飲みながらゲルガンドは義理とはいえ娘にあたるティードリーアを気遣う。「健康はどうか」「人間関係は上手くやっているか」などなど、温かい口調で彼女に尋ねる。
それらの質問に、どこか気の無い様子で答えるティードリーアに対して、ゲルガンドは苦笑しつつこう言った。
「親とは心配性になってしまうものだな。君はもう将軍としての地位を確立して久しいというのに。これでは、まるで新米扱いだ。失礼だったかな?」
「いえ、そんな……」
「親というのはいくつになっても子の心配をする、とはこういうことなのだろうな。君の父上ガルムフも、もし生きていれば、未だ夫も持たず、危険な武人の道を選んだ愛娘のことで大層気をもんでいたはずだ」
お父様――。ティードリーアは亡き実父を思った。父は今際の際に望んだとおり空気の精霊になったと彼女は信じていた。戦場で突風に助けられたり、寂しい折にはそよ風に慰められたり、その度に彼女はそこに父の存在を感じ取っていたからである。
――お父様は今も私の傍で、私を見て下さっているだろう。
ならば父はこの自分を見ていて、なんとお思いになるだろう。父の親友であり、義父でもあるゲルガンドを裏切り続けているこの娘を。
浅ましい、そんな言葉で責めることはあるまいと彼女は思った。そういう父だった。娘に甘く、いつも優しい父だった。今だって父ガルムフは、ティードリーアの罪よりも、罪から逃れることができず苦しみ悶えている様を悲しく思っているに違いない。それが返ってティードリーアの気持ちをいたたまれないものにする。
ゲルガンドの近侍が気を利かせて、新しく淹れた茶を運んできた。その近侍が立ち去ると、ゲルガンドが尋ねてきた。
「ところであの近侍の娘はどうなった? この間君の陣を尋ねた折に給仕してくれたあの赤い瞳の娘だ。赤い瞳をしているので、何か心当たりはないかと君がこの辺りの王族に問い合わせているそうだが」
一瞬ティードリーアはぞくっと寒気を覚えた。ひょっとしたらゲルガンドは何もかも知っているのではないかと思われたからだ。しかし、ゲルガンドの表情を窺ってみても、彼は何の含みも無さそうな顔で、黙り込んでしまった義理の娘の顔を、やや不審そうに見つめている。
何もご存じないのだ。ティードリーアは一つ息を吐いた。ゲルガンド将軍は何も知るはずはない。それでも彼の言葉に何か隠された意味がないかと怯えるのは、自分が疾しいせいだろう。ああ、そしてこの疾しさは終生自分の心に付き纏い続けるに違いない。
ゲルガンドは続けた。
「私もどうもあの娘が印象に残るのだが……。やはり赤い瞳が珍しいのと、母上を思い出すせいかもしれないな」
ティードリーアは黙って俯いた。惨めだった。父を悲しませ、一生後ろめたさを背に負って生きようとする自分が情けなかった。
それにミツルが不憫でならなかった。自分の可愛い部下であるのに、あの娘はティードリーアのせいで、自分の父親は妻と子を捨てた冷血漢だと誤解したまま一生を送る。それは死に別れても、温かみとともに父を思い起こす自分より、ずっと不幸なことを強いているようにティードリーアには感じられた。
「もしあの娘の親が現れたら私にも知らせてくれ。一応部下の部下なのだし……」
ゲルガンドはここで一旦言葉を区切り、少しだけ迷ってから付け加えた。
「それに、どういうわけだか私にはあの娘が他人のように思えないのだ」
「……!」
ティードリーアは無言で俯いたまま、目を見開いた。今だ。ゲルガンドの言葉に、彼女は背中を押された気がした。今ここで真実を明かすべきなのだ。これ以上実の親子を隔てようとしても、良いことなど一つもありはしない。これ以上の裏切りは決して許されることではない。
「どうした? 先ほどから黙っているが……。どこか身体の調子でも悪いのだろうか、ティードリーア?」
ティードリーアは俯いていた顔を挙げた。そして口から声を絞り出した。
「……ゲルガンド将軍」
口の中が粘ついて、舌を動かしにくく感じる。しかし、それが返って、言わなければならないという気にさせた。
「お話しなければならないことがあります」
光一とミツルは二人で荷車を押していた。輜重隊から各部隊に水の配給があり、荷車に水甕を積んで受け取りに行った帰りだった。ティード将軍の部隊に近づくと、天幕の間から長身の人物が駆け寄ってきた。
「ゲルガンド将軍だ」
「本当ね」
光一は不審に思った。この皇軍の総大将がどうしてこんなところにいるのだろう。しかも、なぜ自分たちを待ち構えていたかのようにこちらに近寄ってくるのだろう。
もっとも、ゲルガンドは光一には目もくれず、真剣な顔でミツルの前に立った。そして膝をおり、ミツルの顔を覗き込むようにして尋ねる。
「君は、本当の名前をナイアというのか?」
「…………」
ミツルは絶句し立ち尽くした。光一以外に自分の本名を明かしたのはティード将軍だけだ。そして立場上、ゲルガンド将軍が今ミツルの本名を知っているのはティード将軍から知らされたからに違いない。
でも何故? ティード将軍に本名を告げた時の将軍の様子もどこかおかしかった。自分がナイアだと知れるのは、自分が思ってもいない波紋を広げているようで、ミツルは不安に思った。そしてつい、光一の方に顔を向けた。
光一も、ミツルから、ティード将軍に本名を告げたこと、その時の将軍の様子が普通ではなかったことを聞かされていた。そしてミツル同様、ゲルガンドがなぜミツルをわざわざ訪ねてきて、その本名を確認しようとするのか訳が分からないでいた。
それなのに、ミツルは困った顔を自分に向けている。光一も困惑した顔で彼女の顔を見返すより他はなかった。
ゲルガンドはミツルの両肩を掴み、揺すらんばかりにして再度尋ねた。
「教えてくれ、君は本当にナイアというのか。君の母親はマイア・トゥーべレンというのか」
ゲルガンドは皇都を去る前に大学府に確認していた。自分がネルヴァとして愛した女性の本名はマイア・トゥーべレンという名だということを。
「あ、あの……」
「ああ、驚かせてしまったようだな。無理もない。ただ安心して欲しい。君の素姓が明らかになっても、君を軍から追い出したりなんかしない。別に君を咎めているわけじゃないんだ」
ミツルはもう一度光一を見た。光一は頷いた。ミツルはそれでもおそるおそるといった口調で、真実を明かした。
「あのう……。確かに私の本当の名前はナイアといいます。そして母の名もマイア・トゥーべレンです。でも、それが一体……」
一体どうしたのか、とミツルは続けるつもりだったが、そうはいかなかった。ゲルガンドがいきなり彼女を抱きしめたからである。そして彼は驚くべきことを口にした。
「……我が娘よ……」
ミツルは大きく目を見開き、そしてゲルガンドに抱きしめられたまま、また光一に顔を向けた。何か言いたげに口を開いていたが、結局何の言葉も出てこない。光一も驚いた顔で応じるしかなかった。
ゲルガンドはミツルを離し、それでもミツルの両肩に自分の両手を置いたまま、しげしげとミツルの顔を見つめた。その目が感涙で潤んでいる。
「ナイア、私は君のお母さんと恋をした。だけど、君のお母さんは皇女の襲撃を受けて皇都から逃げた。細かいいきさつは今は省くが、その時君のお母さんが君を身ごもっていたことや君のお母さんがどこに逃げようとしたのか、私にはわからなかったのだ。私は自分に娘がいることさえ今まで知らず、君のお母さんの行方も調べようがないまま今に至っていた。その間、君は『浜辺の者』として苦労していたのだな。よく、よくここまで出てきてくれた。ああ、よくここまで大きくなった……」
「あのう……。ゲルガンド将軍、将軍が私の父なのですか?」
ミツルの人一倍回転の早い頭は思い出した。皇女の襲撃からただ一人、大学の女性研究官が逃げたということを。今まで他人事だと気にもとめていなかったが、その女性こそ、自分の母親だったのだ。確かに、あの穏やかで読書を好む母の人柄は、元研究官にふさわしい。
「そうだ。今まで君や母さんに苦労を掛けて済まなかった。だが、これからはちゃんと父親として君を守ろう。まず、ネルヴァ……いや、母さんの所へ行こう。母さんは『浜辺の村』に居るんだね?」
「え、ええ……」
「では道案内を頼む。さあ、今から馬をとばして母さんに会いにいくぞ」
ゲルガンドは、戸惑いの表情を浮かべているミツルの手をとって、立ち去ろうとした。ミツルは未だ何の実感も湧かず、事態が急展開していくのについていけない。ゲルガンドに手を引かれて二、三歩進むと、もう一度光一に目を向けた。
光一もあまりにも思いがけない事実に驚愕していたが、ミツルよりは客観的に事態を飲み込むことが出来た。
――大丈夫だよ、そして良かったね。そういう思いを込めながら、光一はミツルに頷いてみせた。ミツルはそれに少しほっとした様子で、足早に進むゲルガンドについて行った。
その二人の後姿を見送る光一の耳に、バサッという羽音が届いた。人の頭ほどの大きさの黒い鳥が、飛び立つ羽音だった。
――あんな鳥が、そばにいたんだ。
光一はぼんやりとその鳥が上空へ舞い上がるのを眺めていた。
だが、それもほんのわずかの間のことで、いつの間にか出来ていた人垣が崩れて光一に群がって来た。
「おい、こりゃどういうことだ? ミツルがゲルガンド将軍の娘だって?」
「坊主、坊主は何も知らなかったのか?」
「いったいどういういきさつで、ミツルがゲルガンド将軍の娘だってわかったんだ?」
光一は、
「あの、僕にも何が何だかよくわからないんです」
と、押し寄せる人々に繰り返しそう答えるしかなかった。