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水の砂漠の魚たち   作者: 鷲生 智美
人の旅路
59/82

二つ目の夜

 翌朝、ティードリーアは困惑していた。


 男性と共に朝を迎えたことが過去にないわけではなかった。ゲルガンドを忘れようと、他の男からの恋の誘いに応じ、その中には結婚寸前までいったものもあったからである。


 男性はこのような朝、満足と幸福に満ちた顔でティードリーアを見つめる。一方でティードリーアはこのような朝、男性とは正反対の感情を抱いてしまう。夜を共にしてもなお、その男性をゲルガンドほどには愛していないことに気づかされるからだ。


 今のティウも、満ち足りた、幸せそうな表情を顔に浮かべ、愛情をこめてティードリーアの乱れた髪を直している。しかし今朝のティードリーアは、他の時よりも、もっと複雑な感情を抱えていた。


 ゲルガンドと比べて云々とは思わない。ゲルガンドを忘れようとかそんな明確な意志があったわけではない。自分は自分の孤独を埋めてもらいたいがために、意志よりも感情に流されて、ティウに身を委ねたのだ。


 ――ああ、私は自分の弱さから、ティウの純粋な恋心を利用してしまった。


「済まない、ティウ」


 ティードリーアの言葉に、ティウの、ティードリーアの髪を弄っていた手が止まる。


「私はお前に身体を預けることができても、心まで預けることはできないんだ。それなのに、私は自分が独りになるのが恐ろしいばかりに……」


 ティウの顔を翳が一瞬だけ覆ったが、彼はすぐ優しく微笑み、ティードリーアの言葉を遮った。


「貴女は何も考えなくて良いのです。貴女はただ、ひどく動揺しているところを卑劣漢に付け入られた。ただそれだけのことです」


 ティウは、何か言いたげなティードリーアの額に口づけを落とすと、起き上った。


「お身体だけでも預けて頂いて、私は幸せなのですよ、ティード将軍」

「ティウ……」

「そろそろ朝の支度が始まる。私は誰にも見付からないうちに行かねばなりません。ティード将軍、今日もミツルが近侍として将軍の世話にくる。もし昨日のことを不審がられたら、こう仰ればよいでしょう。『ティウが突拍子もない作戦を立てようとしたので驚いて平静を欠いていたのだ』と」

「上手い言い訳には思えないが……」

「ミツルは賢く思いやりもある娘です。下手な言い訳でも、昨日のことについてティード将軍は説明したくないのだ、ということは理解して、そしてそれ以上詮索しないでしょう」

「そうか……。そうだろうな……」


 こんな遣り取りの間にティウはもうしっかりと服を着こんでいた。


「では。今日は訓練を視察に来て下さる予定でしたね」

「え……、あ、ああ。そうだったな」

「では、後ほど」


 ティウは天幕の出口へ向かい、扉を開けた。


「ティウ」


 ティウが扉を開けたまま振りかえる。


「済まない。ティウ。私は本当に済まないと思っている」


 朝日を背にしたティウは、ティードリーアからは逆光となってしまい、彼女は彼の表情がどんなものか見ることはできなかった。ティウは何も言わず静かに扉を閉めると、そっとティードリーアの天幕を去った。



 ティウは、駐留地から少し離れた小高い丘のふもとで訓練を開始した。全体を二手にわけ、模擬刀・模擬槍を使った戦闘訓練である。


 ティードリーアと副将アチェは、丘の上に立ってその様を見おろす。兵士全体の動きを俯瞰するためである。


 ティウは一方の騎馬隊の将となって、采配を振っている。ティードリーアは兵士全体を見なければいけないとわかっているのに、先ほどしかティウの姿しか目に入らない。


 ティウは、金の髪を靡かせ、美しい顔立ちに余裕を浮かべて、歩兵役の突きだす槍を軽々とよけている。馬を自在に操り、刀を鋭く振り、次々と歩兵の槍を弾き飛ばす。


 均整のとれた、引き締まった身体。鍛え抜かれているが、決して厳つくはない。その身体が、しなやかに、かつ獰猛な獣を感じさせる猛々しさをもって動く様は、見る者にある種の美を感じさせる。


 ――自分はあの身体を知っている。


 ティードリーアの身の内が甘く疼く。自分はあのティウの身体が如何に美しいか赤裸々に知っている。そう、昨日の夜、あの若々しい身体は、自分を抱きしめ、組み敷き、そして二人で絡み合ったのだ。


 ほうっ、と彼女は熱い吐息を漏らし、軽く首を振った。今は訓練に集中しなくては。しかし、そう思いながらも彼女の目は自然とティウに吸い寄せられる。


 ――彼はもう大人だった。


 彼が二十歳を超えたことは、彼女も勿論知っていた。けれども、ティードリーアの中では、ティウは負けん気だけは強いものの身体が追いつかない少年、という印象が抜けていなかった。


 ――いつの間にあんなに大人になっていたのだろう。


 彼は心まで大人に成長していた。昨夜のことをティードリーアの動揺に付け込んだ卑劣な行為だと、彼は自分を貶める。そうやって彼女の心の負担を軽くしてくれているのだと彼女にはわかっていた。彼はそんな包容力まで身につけているのだ。


 それに引き換え自分は……。ティードリーアは苦いため息を吐いた。自分はゲルガンドに真実を告げなければならないのに、その責任から逃れようとしている。少なくとも今日一日、ゲルガンド将軍を尋ねる勇気を未だ持てない。


 そしてティウに対しても大人としての態度をとることが出来ない。自分の孤独を慰めるためにだけティウに身を許し、心は他の男を想っている。そして、それを申し訳なく思うから、ついティウに対して「済まない」と謝ってしまう。けれども、それはかえってティウを傷つけてしまうのだ。それでも自分は自分の罪悪感を薄めるために、言わずもがなの謝罪の言葉を口にせずにいられない。


 ――私はどこまで自分中心な女なのだろう。


「ティード」


 不意に隣のアチェから声が掛った。


「ティード、あんた、さっきからティウばかり見て全体を見ちゃいないよ。そんなんで兵士たちの動きを把握できているかい?」

「あ、ああ、そうか。済まない。全体を見ているつもりだったんだが……」

「ほら、もう前半が終わっちまうよ」


 アチェの言うとおり、ティウは戦闘を止めさせると、号令を掛け兵士たち全員を整列させ、しばらく休憩するように命じた。


 そして彼自身は、丘の上のティードリーアに向かってゆっくりと歩いてくる。ティードリーアの前まで来ると敬礼し、普段と全く変わらぬ様子で尋ねた。


「どうでした? 騎馬隊と歩兵隊に分かれて、騎馬隊は歩兵隊をなぎ倒す訓練を、歩兵隊には騎馬隊を突き落とす訓練をさせてみましたが」

「あ、ああ……」


 ティードリーアは顔を赤らめて、俯き加減で答えにならない答えを返した。昨夜のことを思うとティウと目線を合わせることが出来ない。


 昨夜、自分に重なったその身体が、激しく上下していた喉仏が、自分の身体中を口づけて回った唇が、そして愛おしげに撫でてくれたその手が、太陽の光を浴びながら、彼女の前に存在している。


 ティードリーアの頬がますます火照ってくる。けれど、どうしてもそれを消すことができない


「ティード将軍は体調がすぐれないのではないですか? 先ほどから顔が赤くていらっしゃる」


 ティウがしれっとそんなことを言う。誰のせいだ、とティードリーアは思うがもちろん何も言うことはできない。


「ここは日差しを遮るものが何もない。こんなところで長時間立っておられたのがよくなかったのかもしれませんね。あちらの木陰で将軍もお休みになって下さい」


 とティウは、丘の中腹に何本か木の生えている辺りを指差した。アチェもティードリーアの顔を覗き込む。


「確かに赤いね。風邪でもひいてたのかい?」

「いや、……あ、ああ。少し前から風邪気味だった。うん、ティウの言うとおり少し休ませてもらおう」


 赤面した顔を風邪のせいにして、ティードリーアは木陰へ向かった。ティウは丘の下の兵士たちのところに戻って行く。アチェはティードリーアについてくる。ティードリーアは、本当は一人になりたかったが、ここは「ついてくるな」と言う方が不自然だろう。


 二人の女は、木立の作る陰の中に並んで腰を下ろした。アチェが心配そうに言う。


「大丈夫かい?」

「あ、ああ。風邪と言っても軽いものだし。私は滅多に風邪はひかないし、治りは早いし。こうして涼んでいれば大丈夫だ」

「ティード……」


 アチェはさりげない口調で聞いてきた。


「ティウと何かあったのかい?」

「…………」


 少し言葉につまってから、ティードリーアは答えた。


「い、いや。何も、何もないが……」


 アチェはその返事に興味のない様子だった。


「ティード。私はあんたとティウの間に『何かあった』方がいいと思っているけどね」

「アチェ……」

「私はあんたの親友だと自負しているし、あんたも私の事をそう認めてくれてると思ってる。けど、あんたには私に言えないことも一杯あるんじゃないか? ああ、別にそんな顔をしなくていいよ。私は親友ってのは、相手のことを何もかも知っているかどうかってことなんかより、何かあったときどれだけ相手を信じ、支えることが出来るかってことの方が大事だと思ってる。だから、あんたに起こったことを逐一知らせてくれなくても全く構わないよ」

「有り難う、アチェ」


 自分のあさましい罪を知っても、アチェは自分の側を離れないでいてくれるだろうか。ティードリーアは自問したが、すぐやめた。アチェの言葉に従えば、自分もアチェを信じるべきなのだ。


「有り難う、アチェ、本当に」

「で、話はティウなんだけどね」


 その名を聞いてティードリーアの心臓は跳ね上がる。


「あんた、恋人を持った方がいいと思うんだよ。親友に明かせなくても、恋人となら共有できることもあるだろうしさ。まあ、逆のことだってあるけど。あんたは生真面目になんでも自分で抱え込むところがあるからさ」

「…………」

「あんたはティウのことをいつまでも少年だと思っているのかもしれないけど、今のあいつは身も心も立派な男だよ。普段、私はあいつをけなして見せたりしてるけど、本当言うと中々の人物に育ったもんだと思ってる。私はゲルガンド将軍の人柄の全てを存じ上げてるわけじゃないし、立派な方であることは確かなんだろうけどさ、ティウの方だって、いろいろ屈折を経て大人になってきてなかなか深みのある男に育ったと思うんだけどね」

「でも……」

「確かに初恋は特別なものさ。このアチェ様にも切ない初恋物語が実はあるんだよ。でもその後だって恋は何回かしてきたよ。そしてそれで良かったと思ってる」

「アチェ、私だって、ゲルガンド将軍を忘れられないかと恋人を作っていた時期もあった」

「そうだったね。でも、それも『ティウが哀れだから』という理由で止めてしまった。けれども、それから随分時間が経ったよ。そしてティウは大人の男になってあんたの側にいる。だからさ、そのゲルガンド将軍を忘れるために恋人を作るってのをティウ相手に今やってみちゃどうだい? 私はそう思うんだよ」

「ティウは……、ティウは他の男とは少し違うんだ……」


 ティードリーアは、少し当惑していた。アチェの言うことももっともだ。以前だって、自分の方は恋愛感情を持っていない男を相手に、恋人になっていたのだから。ティウとだって、今から恋人になってもおかしくはない。けれど……。


「ティウは、私のことを随分と想ってくれている。だから、自分に心もないのにティウに応じてしまうのは、なんだかティウを弄んでいるようで……」

「以前だって、あんたは自分に惚れてる男と、その気もないのに付き合ってたじゃないか。いやにティウには慎重なんだね」

「それは……」

「あんたにとってもティウは特別な存在なんだよ。あんた自身気がついてないかもしれないけれどさ。長い間あんなに想われ続けば、あんただって情が湧くってもんだ。ゲルガンド将軍と同じってわけにはいかないだろうけど、恋ってのは何通りもあるもんだよ」

「ティウは弟みたいなものなんだ。それに叶わぬ恋をしている点で、自分を重ねて見てしまう。だから……」


 アチェはさばさばと言った。


「まあ、くっつく時はくっつくし、くっつかない時はくっつかないしね。私は無理にとは言わないよ。ただ、あんたがティウを好きになっちゃいけない理由なんてないよ。まあ、軍法会議に掛けられて、あれこれ詮索された上に、軍をやめなくちゃならなくなるかもしれないけどね。でも、ティウを好きになって、ゲルガンド将軍を諦められたらあんたも軍に居る理由はないし。ま、少しはティウのことも前向きに考えてみちゃどうかい、とだけは言っておくよ」

「うん……」

「さあ、訓練の後半が始まるよ。今度は騎兵役と歩兵役を入れ替える。今度はちゃんと見ておくんだよ、ティード将軍」

「わかっているよ、アチェ副将」


 二人は再び丘の上に登り始めた。




「誰か?」


 日が暮れ、夜が更け始めた頃、ティードリーアの天幕を訪れる者があった。


 夕食を皆と一緒にとり、一人で天幕に引き上げてきたティードリーアは、夜が深まっていこうとするのにつれて、いたたまれない気持ちが募ってきていた。


 軍務が終わり、就寝するまでのこの時間が、ゲルガンド将軍を訪ねるのに適した時間だ。自分には彼に告げねばならないことがある。それなのに、足を踏み出す勇気を持てない。


 真実を明らかにしなければならない。でも、それで自分が失うものはあまりにも大きい。でも真実を……。無限に反復を繰り返す葛藤が彼女の胸の中で始まりつつあった。


 そこへの来客に、彼女はほっとしたのだった。少なくとも客と話している間は自分の苦悩から逃れられる。けれども、来訪者は、彼女の心を安らかにしない者だった。


「ティウです。今日の訓練の報告書を持ってきました。入ってもよろしいでしょうか」


 ティードリーアの心は複雑に揺れ動く。


「……報告書?」


 ティードリーアは語尾を上げて扉の外に声を掛けた。


「ええ、報告書です。ちゃんとありますよ」


 ティウの苦笑が見えるかのような返事に、ティードリーアもこう言わざるを得なかった。


「では、入っておいで」


 ティウは確かに報告書を作成していた。そこには各々の部隊が、歩兵と騎兵のどちらに適しているかが示され、更に、敵を攻撃するならどの隊を先陣とし、その後他の隊の動きをどう展開させていくか、ティウの所見がまとめられていた。


「ティウ准将は、兵の三分の二を歩兵として敵陣側方の山に密かに登らせておき、正面からは騎兵を当てるという作戦をとるのだな」

「そうです。大雑把な流れを申しますと、まず、前の日に歩兵に山を越えさせておきます。そして森の中に潜ませておき、早朝敵の寝込みを襲わせます。そうやって相手の兵力を削ぐ。それから頃合いを見計らって騎馬兵を正面からぶつけます。これで敵軍は後方へ敗走するしかない。このように計画しております」

「この皇軍の中で、必ずしも我が部隊が攻撃に起用されるとは限らないが。もし起用されるなら、私もこの戦術でいくだろう。この報告書は良くできていると思う。有り難う、ティウ准将」


 ここでティードリーアは唾を飲み込んで続けた。


「下がっていいぞ」

「…………」


 ティウはゆっくりと瞬き一つしただけで、静かな表情でそのままそこに立っている。


「下がっていい、ティウ。聞こえなかったか」

「そして貴女はお独りになる。そして苦しい時間が貴女に訪れる」


 ティードリーアは机に両手をつき、俯いて、机に叩きつけるように強い口調で言った。


「下がれ。命令する。今夜は下がれ」

「私は、貴女が苦しんでいらっしゃるのではないかと思うととても辛い。――そう、このティウという男は身勝手な男です。自分が辛いから貴女を独りにできない」


 そう言いながら、ティウは机をまわって、ティードリーアのすぐそばまで来た。そして視線を机の上に向けてみせる。ティードリーアが彼の視線の先を追うと、そこに彼女の懐剣が置いてあった。机に向かう時は必ず、利き手の届く範囲にそれを置くのが常だった。


 ――あの剣を手に取り、ティウの喉元に突き付ければ……。


 ティウはきっと引き下がるだろう。ティウは視線を送ることで、ティウを拒む選択肢を自分に与えたのだ。


 ティードリーアは右手を動かし、しかし途中で止めた。泣きだしたい気分だった。今の自分は彼を求めているのだ。孤独を自分のそばから払ってくれる彼を。


 でも、それはティウを利用しているだけのことだ。アチェの言葉が耳に甦る、「あんたはティウを特別に思っているんだよ」と。そうかもしれない。でも特別だからこそ、こんな利用する真似はしたくないのだ。きちんと自分の気持ちを確かめて、そして順を踏んで結びつきたいのだ。でも……。


 ティウは、ティードリーアが黙って動かないのを暫く見詰めた後、ティードリーアに身を寄せた。そして彼女をすくい上げるように抱き抱える。


 ティードリーアは深いため息を吐いた。


「ティウ……」


 何かを諦めたような声音に、ティウは優しい笑みを返し、そして彼女を抱き抱えて寝台へ歩き始めた。



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