孤独を払う者
人の会話が聞こえてティードリーアは我に返った。驚いたことに、外はもう日が暮れかかっている。まだ昼前だと思っていたのに。
ティウが天幕の入り口で兵士と何か喋りながら、盆を受け取っているところだった。兵士に礼を言って、ティウは盆を持って卓に近づいてくる。
「夕食が届きました。召し上がりますか?」
「……もう夕刻か」
「はい」
ティウがさりげなく答えながら、卓上に二人分の夕食を置いた。
「ティウはずっとここにいたのか?」
「ええ」
「何故?」
「御身が心配でしたので」
そうか。とティードリーアは呟き、視線を落とした。ティウは昼前から夕刻まで、呆然自失していた自分に寄り添っていた。確かに心配してくれたのだろう。ただ、その一方で、私が何にこれほどまでの衝撃を受けたのか、思案を巡らしてもいただろう。
「夕食は如何なさいますか?」
考え込んでいたティードリーアにティウが聞く。
「折角だが、食欲がない。それから、ティウ。もう下がっていい。私は独りで考えたいことがあるから」
「…………」
ティウはしばらく無言でティードリーアを見詰め、静かに問うた。
「お独りになれますか?」
「……もちろんだ」
「お独りで、この事態と向き合うことができますか?」
今度はティードリーアが無言になる番だった。かなり不自然な間を開けて、ティードリーアはようやく口を開いた。
「何が言いたい?」
ティウはティードリーアをまっすぐ見詰めて単刀直入に言った。
「ミツルはゲルガンド将軍の娘なんですね?」
「…………」
ティードリーアは暫く軽く口を開けたまま無言だった。そして、口中が乾いて喋りにくい中、自分でも無意味だと分かっている質問を投げた。
「どうして、そんな突拍子もないことを言い出すのだ?」
一方、ティウは淀みなく解説を始めた。
「貴女をあれほど動揺させることができるのはこの世でゲルガンド将軍のみ。そうでしょう? だから今回のことはゲルガンド将軍に関するものだと私は考えました」
「…………」
「おそらくミツルの母親だというマイア・トゥーべレンというのは例の女性研究官なのでしょう。皇女が、ゲルガンドの親密な五人の女性を襲った時に、一人だけ逃げたあの女性研究官。この点は、皇都に問い合わせればはっきりすることですが」
「…………」
「その女性研究官ですが、逃げだしたからには何か事情があったのだろうとは思っていました。ただ当事者でなければ真相はわからないと思っていましたがね。しかし、彼女が妊娠していたと仮定すればいろいろ辻褄が合う」
「…………」
「妊娠していなければしらを切って皇都に留まることもできたでしょう。けれども、妊娠しているからにはその父親が誰か、皇女は厳しく取り調べるに違いない。だから彼女は逃げるしかなかった。けっして皇女に居所をしられてはならないところへ。これなら何故ミツルの母親が『砂浜の村』にまで身を沈めたのかが納得できる。たとえ賤しい者として虐げられる生活が待っていようと、彼女がミツルを守るためには、それは仕方がない選択だった」
「…………」
「それが十七年前のこと、ミツルの年齢ともちょうど合う話だ。それから、ミツルがゲルガンド将軍の娘なら、あの赤い瞳も説明がつく。あれは祖母のルキア第一王女の血をひく証だ」
「…………」
「以上です。ティード将軍。何か私の推論に訂正はありますか?」
ティードリーアは顔を伏せて無言のまま首を横に振った。そして疲れ切った表情を彼に向けて言った。
「ティウ准将の推察力は素晴らしいものだな。准将などと非公式の階級に留めておくのは実に惜しい」
それからため息を一つついて続けた。
「ゲルガンド将軍には、明日にでも報告しよう。だから、ティウは下がってよい」
「できますか?」
ティードリーアの言葉が終ると同時にティウが言った。
「……何故そのようなことを聞く?」
ティウはおもむろに口を開いた。
「……貴女は知っていた。しかしゲルガンド将軍は知らない」
ティードリーアは、ハッと顔をそむけた。その両肩をティウが掴む。ティードリーアは、彼の視線から逃れようと、更に身をよじって顔をそむける。
「これまでゲルガンド将軍が自分の娘を探そうとしたことなど一度もない。娘がいると知っていれば探さないはずがない。ならばゲルガンド将軍は娘がいることすら知らないのだ。それなのに貴女は知っている」
これで考えられる事実はただ一つ。ティウは痛ましげな顔で続けた。
「逃亡前のマイアが妊娠している事実は、ゲルガンド将軍より先に貴女に伝わった。そして貴女はゲルガンド将軍に知らせず、その事実を握りつぶしてしまった。そうでしょう? だから今日、ミツルがゲルガンド将軍の娘と分かっても、貴女はそれを彼女に告げることもなく、これほどまでに動揺したのだ」
長い長い沈黙が続いた。
ティウに肩を掴まれたまま、ティードリーアは顔をそむけていた。そして、掴まれていた肩をがっくり落とした。そして力なく呟く。
「済まないな」
「……?」
「お前が崇拝といってよいほど恋焦がれていた女は、こんな女だ。嫉妬のために、罪もない血の繋がった家族を引き裂く、あさましい女だ」
「十七年前の話です。まだ貴女は少女だった。嫉妬にかられて少々馬鹿なことをしても仕方ない。私は貴女にこんな罪を犯させたゲルガンド将軍の方が憎い」
ティードリーアはティウに顔を向けた。
「少々馬鹿なこと? 私のせいで、父親は自分に家族がいることすら知ることなく、母親は自分の人生を棒に振り、子は賤民の子と蔑まれて育った。十七年、十七年もの長きにわたってだぞ。少々馬鹿げたこと、なんて言葉で片付けられるものではない」
ティードリーアは肩に置かれていたティウの両手を外した。そして悲しげな顔でティウの目を見る。
「ティウ。お前ほどの洞察力の持ち主なら、さらに恐ろしい事実に気付いていることだろう」
「…………」
「私は昼前にミツルが来て、彼女こそゲルガンド将軍の娘御だとわかって、そして日が暮れるまでずっと別のことを考えていた」
「わかっています……。貴女はこう考えていたのでしょう。ここで再び沈黙すれば、真実をまた闇の中へ戻すことができる、と」
彼女は自嘲の笑みを浮かべた。
「やはり気付いていたか。そうだ。きたならしい、へどが出そうなほど醜い女だ、私は」
「私はそうは思いません、ティード将軍」
ティードリーアは目を見開いた。ティウが彼女に近づく。そして人と人との間に自然と設けられる距離を超え、ティードリーアの視界には彼の胸しか入らなくなる。あ、と思った瞬間、彼女はティウに抱きしめられていた。
「な、何をする、ティウ准将。下がれ」
「貴女が真実をゲルガンド将軍に知らせれば、貴女は一切を失ってしまう」
「分かっている、分かっているから、下がれ。自分が何をしていると思っているんだ」
ティウはティードリーアを抱きしめたまま、彼女の首筋に囁きかける。
「ゲルガンド将軍は、貴女を女として愛しはしなかったが、親友の娘であり義理の娘である貴女を愛情こめて大切に扱ってきた。真実を彼に明かせば、貴女はまずそれを失う」
「分かっている」
「それどころか、彼は貴女を憎むことだろう。自分の家族を不当に奪った卑怯者として」
「それも分かっている」
「そして貴女は人望を失う。清廉潔白で情に厚い名将軍。あれほど厳しい訓練を乗り越え、命を度々危機にさらしながら築きあげて来た貴女の名声が、一瞬にして地に堕ちる」。
「分かっている」
「貴女に親しみを覚えていた者、尊敬の念を抱いていた者、信頼を寄せていた者たちが、立ち去って行く。貴女を軽蔑の視線で一瞥した後、振り返りもせずに背を向けて」
「分かっている」
ティウはティードリーアのうなじに寄せていた顔を離した。彼女の身体を腕で抱きしめたまま、正面から彼女に向き合う。ティウは彼女の瞳を見詰めたが、彼女は視線を逸らした。
「もう一つ、貴女は分かってらっしゃることがある」
「…………」
「貴女は全てを失うのが恐ろしい。その恐怖のためにゲルガンド将軍に真実を告げる勇気を持ち得ていない……。それも貴女は自覚なさっている」
ティードリーアは視線を逸らしたまま、弱弱しい声で言った。
「分かっている。明日ゲルガンド将軍に報告すると私はさっき言った。だが、それはただの言い逃れだ……」
ははっと、ティードリーアは乾いた笑い声をたてた。
「そうだ。私はあさましい女だ。明日になっても明後日になっても、もっとずっとたっても私は決心できないかもしれない」
一拍置いてティードリーアは言った。それは子供をあやす口調に似ていた。
「済まない、ティウ。私はお前の恋に値する女ではないんだ。分かったろう? さあ、もうこの腕を解いて、私を独りにしておくれ」
「貴女を独りに出来ません」
答えたのは大人の男の声だった。
「今夜の貴女を独りになんかできない」
大人の男の、熱情を帯びた声に、ティードリーアも表情を変えてティウに顔を向けた。
「ティウ。上官として命じる。私の身体を離して自分の天幕へ戻れ」
「致しかねる」
そう言い放つとティウはティードリーアを抱きしめる両手に力を込めた。
「何をする。離せ、ティウ准将」
ティウはティードリーアの耳元に囁く。
「お独りになりたいか? 貴女は」
「…………」
「独りになりたい」。そう言わなければならないのはティードリーアには分かっていた。そう口にすれば、ティウは無体なことは絶対しない。言わなくては、言わなくてはと自分の意思はそう命じる。
でも――。
彼女は怖かった。ティウの去った後の孤独が。その孤独の濃密な深さが。
ゲルガンドの娘が現れた。自分の罪が露見する。そして自分は、今自分が手にしている何もかもを失ってしまう。そして、それが怖くて、自分は再び卑怯な女になり下がる誘惑に勝てないでいる。そんな自分と対峙する時間が、底知れない孤独と共に訪れる……。
――独りになんてなりたくない。今夜だけでいい、何も考えたくない。
「ティウ……」
「さあ、ここから貴女は何も考えなくてもいい」
ティウの囁きに熱がこもる。
「貴女は、今、とても動揺している。そこを、かねてからその身を狙っていた卑劣な男に付け入られる……」
「ティウ?」
「貴女は被害者だ。隙を付け込まれて身を汚される被害者だ」
「ティウ!」
それは違う。ティウは、今私がもう一度下がれと命じさえすれば、この場を下がるはずだ。私が命じさえすれば必ず……。早く命じなければ。でなければティウが卑劣漢となってしまう、その前に。
ティウの手はティードリーアの身につけている服を解き始めた。
「貴女は被害者なのだ。何も考えなくていい……」
ティウは囁き続け、時折ティードリーアは消え入りそうな声で反駁する。
「ティウ、それは違う……」
けれど、ティードリーアはそれ以上のことはとうとう何も言うことが出来なかった。
「孤独」は、美しき女将軍の天幕から、ティウの手によって秘めやかに追い出され、二人は次の朝を迎えた。