本当の名前
「蛮族はここを戦域と定めているのでしょうな」
ティウが、卓上に広げられた地図上の一点を指先で示した。
ティードリーアの天幕の中で、ティードリーアとティウは――ティウにとっては実に喜ばしいことに――二人きりだった。ただ、先般ティードリーアが言ったように、二人きりだからといってティウは何ら不埒な真似もせず、真面目に必要な話をしている。
昨夜、ティウは自ら蛮族の軍勢の偵察に出かけた。そして今朝になってティードリーアに報告に来ているのだった。
「その理由はこうです。基本的に平野部の中で、ここだけが不完全ながら谷間となっているからです」
ティウの説明に、ティードリーアは問いを挟む。
「不完全ながら、というのは?」
「谷を挟む山に高さが無いからです。片方は確かに高い山だが、急峻な峰というわけではありません。それでも超えるのには一日程度掛るでしょうし、鬱蒼とした森に覆われていますから、戦域になりにくいのは確かです」
それから、と言いながらティウは地図の上で指を滑らせる。
「こちらは山というより丘ですな。山と呼ぶには高さが足りない。しかしこちらも灌木が茂っており、細い一本道があるだけでここでも大規模な戦闘はできない」
ティードリーアが頷く。
「なるほど。山と丘、戦闘に向かない地域と地域の狭い谷間に相手は陣を敷いているのだな。蛮族は、わが皇軍より数で劣る故、限られた空間で三角陣を以って皇軍を撃退しようというつもりか」
ティウは更に説明を続けた。
「昨夜見た折には、敵は円陣を敷いておりました。おそらくメイドウ駐留の帝国軍が、我々がいつまでたってもやってこないのを不審に思って街道をこちら側へやって来た場合を考え、後方に向けても対処できるようにしているのでしょう」
「そうだろうな。そしてメイドウと我々との連絡手段を完全に断ち切った今、我々とメイドウの帝国軍とが連携して挟み撃ちにする可能性はまずない。どちらかが攻めてくれば、そちらに向かって三角陣を取って攻撃を開始するわけだ。三角陣の説明は不要だな? ティウ准将」
「最前線に精鋭を置いて頂点とし、後方を底辺とする三角形を描く陣でしょう? そしてその底辺の中央に大将がいる。……ティード将軍、私が三角陣の方向を正反対に誤解していたのは、まだ私が十二歳の頃でしたよ。そんな昔のことを持ち出して、将軍もお人がお悪い」
ティードリーアは笑いながら謝った。
「そうだな。あの少年がこれほどの驍将に育つとは思わなかった」
ここでティードリーアはため息をついた。
「全く――。他将軍の反対さえなければ、お前は将として一軍を立派に率いていけようものを……」
「ティード将軍。私も、将軍になりたい。そして貴女様を将軍から退役させたい。剣を持たぬ一人の女性として、私の妻になって……」
ティウは笑顔をつくり、冗談めかした口調をとっているけれども、目は真剣だった。その目を避けながらティードリーアも冗談として返す。
「悪いがティウ、私もまだまだ将軍としての力量があると自負しているよ。ティウ、お前とは部下としてではなく、友軍として敵と闘いたいものだと私は思っている」
ティウが大げさに肩を竦めて見せる。
「やれやれ。私の想い人はいつもつれない」
ちょうどその時天幕の外から声が掛った。
「あの、お茶をお持ちしました」
ミツルの声だった。
「ああ、ちょうど良かった。入ってきておくれ」
ティードリーアの声に、ミツルが肩で天幕の扉を開け、茶器を二つ乗せた盆を両手で持ちながら、卓のそばまでやってきた。そして卓上の地図をよけながら、二人分の茶器を卓に置く。
「有り難う、ミツル」
「いいえ、では……」
と退出しかけたミツルをティードリーアは呼びとめた。ティウとの間に漂った微妙な空気の痕跡を、ミツルと雑談でもして完全に払拭しておきたかった。
「昨夜ふと思ったんだが、『ミツル』という名前にはどんな意味があるのだろう?」
ティードリーアは昨夜、「ミツル」という名前に心が救われたことを思い出していた。
「名前の意味、ですか?」
「例えば私の『ティードリーア』という名には、『精霊のささやき』という意味があるんだ」
「母が言うには、名前自体にあまり意味はないんです。ただ男の子は父親に、女の子は母親に似せた名前をつける習慣はありますけど」
「ほう……」
ティードリーアはマイア・トゥーべレンの言葉を思い出していた。彼女は自分の家の風習のように言っていたが、このような命名法は広く行われているものなのか。
「だから私の本当の名前は母に似ています。『ミツル』という名前には何か意味があるのかもしれませんけど」
「本当の名前?」
ティードリーアは、一瞬、自分の前を真っ黒な影が横切ったような気がした。
「あ……」
ミツルは両手で口を覆った。
「あのう……」
ミツルは躊躇いがちな声を出したが、思い直した様子で言った。
「本当は人に言ってはいけないことなんですけれども、ティード将軍でしたらお話しても大丈夫だと思います。『ミツル』っていう名前は、実はコーイチにつけてもらったんです。母には私が旅に出るときに、『絶対自分の本当の名前を使ってはいけない』と約束させられましたから。それで、異世界から来たコーイチなら珍しい名前をつけて貰えるかなって思って。あ、そうだ。『ミツル』という名前は、向こうの世界では男の子にも女の子にも使われる名前だそうです」
ティードリーアの顔色は蝋人形のように蒼白で、今までのミツルの言葉も耳に入っていないようだった。
「本当の名は?」
「え?」
「ミツルの本当の名前は何と言う?」
ティードリーアの緊迫した様子に、ミツルも何かただならぬものを感じた。ひょっとしたら、この人に名前を打ち明けても大丈夫だと自分が考えたのは大きな間違いだったのかもしれない。しかし偽名を使っていたことは明らかになってしまった以上、今更本当の名前を隠すわけにはいかないだろう。
逡巡の末、ミツルは答えた。
「あの……、私の本当の名前は、『ナイア』っていいます」
「ナイア……」
ティードリーアの表情は硬く強張っていた。今まで誰も見たことのない、何かに恐れおののくような顔だった。
「母親の名は?」
「え……? あのう……『マイア』といいますけれども……」
ティードリーアは生唾をごくりと飲み込んだ。全ての動きをとめてしまったような彼女の、のど元だけの動きが、ミツルの目に強く印象付けられる。
「フルネーム……、母親のフルネームは何という?」
ミツルは恐ろしくなった。自分は言ってはいけないことを言おうとしているのかもしれない。けれども引き返す言葉も見つからない。しばらく躊躇った後で、ミツルは恐る恐る口を開いた。
「……マイア・トゥーべレン。母の名はマイア・トゥーべレンといいます」
その瞬間。ティードリーアの聴覚から全ての音が消えた。空を飛ぶ鳥の囀りも。軍馬たちのいななきも。外で昼食の準備をしている生活係たちのざわめきも。そして、「あのう、母の名前がどうかしたのでしょうか?」と問うミツルの声も。
「ティード将軍」
その声とともに、誰かがティードリーアの右肩を後ろから掴んだ。ティードリーアは目を見開き、飛びずさるようにして後ろを振り向いた。そこにいたのはティウだった。
ティウは落ち着いた表情で、落ち着いた声で、ティードリーアの目をしっかり見つめながら、ゆっくり言葉を区切って話しかけた。
「ミツルが、母親の名が、どうかしたのかと、聞いています」
「あ? ああ……」
ティードリーアは、表面上は冷静さを取り戻した。
「いや、特に意味はないんだ、深い意味は」
ティードリーアは言葉を継いだ。
「そう、深い意味はないんだ。『マイア』と『ナイア』か、よく似ているね。よく似ている……」
ミツルは問おうとした。「ひょっとして、ティード将軍は母をご存じなのではないですか?」と。
しかし、その前にティードリーアが声を発した。
「お茶をありがとう。下がっていいよ、ミツル」
「あの……、でも……」
何か言いたげなミツルに対し、ティードリーアは有無を言わさぬ強い調子で言った。
「下がっていいよ。ミツル」
ミツルは一礼すると、盆を持って天幕の出口に向かった。ティウがそっとミツルに追いつき背後から囁きかけた。
「茶器はもう取りに来なくていいよ。私が片づけておくから」
ミツルは振り向いた。
「ええ……」
ティウの肩越しにティードリーアの姿が見えた。椅子に腰掛け、呆然と虚空を見上げているティードリーアの姿を。
「さあ、お行き」
ティウが軽くミツルの背を押し、ミツルは天幕の外に出された。ティウがまた声を掛けた。
「ああ、それから昼食はいらないよ。私とティード将軍は昼食抜きで今後の作戦を立てるから。皆にもそう言っておいてくれ」
ティウはミツルにそう言い終えると、天幕の扉を閉じてしまった。その扉を見ながらミツルはしばらくの間立ち尽くしていた。
――自分は何か取り返しのつかないことをしたのではないかしら。
と思いながら。