王族の瞳
西北に進むにつれて空気は軽く、涼やかなものとなる。空は薄く高くなり、秋のそれに似通ってくる。
夏の暑さの厳しかった「尖塔の街」では、空を見上げると、もくもくと立体的な夏の雲が、濃青の天にぽっかりと浮かんでいた。その雲は何だか重量があるような感じがあって、落ちてこないのが不思議に思えたものだった。そんな夏の、のしかかってくるような空から少しずつ解放され、光一、いや皇軍全体の足取りも軽くなる。
西北へ続く街道は途中で二手に分かれていた。皇軍の隊列は躊躇うことなく右へ進む。光一は立ち止まって分岐点に立っている標識を眺めた。
「左:ワレギア/右:ルキア」
標識にはそう書かれてあった。
「おい、坊主」
二番隊長のディーガが光一に声を掛けて来た。自分の部下たちは先に進ませ、自分は光一とともに標識の前に立ち止まる。
「我々が進むのは右だ。ティード将軍がいらっしゃる限り我々はワレギアに行くことはできないからな」
光一はあの長い昔話を思い出した。ティード将軍は、あの国を追われた王女なのだ。
「今でもそうなんですか?」
「将軍には気の毒だが、ティード将軍が生きてワレギアに戻られることはあるまいよ。さ、おいてけぼりになる前にさっさと行くぞ」
歩き出しながら光一は尋ねた。
「あの、ルキアっていうのは国の名前ですか?」
「ああ、坊主はこの辺りのことがわかってなかったんだな。この街道の果てにあるのがルキアって名前の王国だ。我々が目指しているメイドウは、ルキアに至る道の途中にあるんだ。さあ、急ごう。次の街まで間に合わなくなっちまう」
ラクロウ河から離れた地域では、水の湧くところに街があった。井戸であったり、泉であったり、さらには湖であったり。その湧水の規模によって街の大小も変わる。光一たち皇軍はそれらの街々を泊まりながら西北へと進んでいく。
すると滞在先で必ずと言っていいほど起こる出来事があるのだ。現地の人々はミツルを見るたび、一様に驚愕の表情を浮かべて立ち止まる。そして彼らはミツルに尋ねてくる、
「貴女はどこかの王族でいらっしゃるのではないのですか?」
と。
驚いたミツルが、一体何故そう思うのかと尋ね返すと、彼らは答えた。
「だって、赤い瞳をしていらっしゃるではないですか」
初めてそんな体験をした夜、いつもはミツルに日誌をつけさせて自分はうたた寝をしている「じいや」が、事情を説明してくれた。
「ああ。ミツルはそんな瞳をしているからルキアの王族の血を引いていると驚かれるんじゃろうな」
「私の瞳? 私の瞳の何が特別なの?」
そもそも、と前置きしつつ「じいや」は話を続ける。
「ルキアは大きな湖を抱える大きな国じゃ。ルキア周辺のいくつかの国もそれなりに湖や泉、井戸を持っているが、どうしても枯れてしまうことがある。するとルキアに水をわけてくれるように頼まざるを得ん。ルキアとこの辺りの諸国の間には、主従関係のようなものがあって、諸国の王族はルキアの王族と姻戚関係を結んでいるもんなんじゃ。」
「それと私の瞳とどう関係があるの?」
ミツルの問いに「じいや」は頷く。
「この世では、ミツルのような赤い瞳というのは珍しいものなんじゃよ。まあ、ラクロウ河の悪戯か、たまにそんな子が生まれることもあるがね。じゃが、確実に赤い瞳の子が生まれる家系がある。それがルキア王国の王家じゃ」
「へえ。この辺りの国々がルキア王家と姻戚関係があるってことは、その国々の王家でも赤い瞳の子が生まれることになるわけなんだね?」
今度は光一が質問した。
「そうじゃな。ただこの場合、ルキアから配偶者を迎え入れる側が必ずしも赤い瞳とは限らん。したがって子も赤い瞳ではないこともある。けれども祖父母に赤い瞳の王族がいれば、次の世代が赤い瞳でなくても、その次の孫の世代で赤い瞳が出ることがある。ともあれここらあたりじゃ、赤い瞳はルキア王家の血を引いているという証ということになるんじゃ。だからミツルを見たこちらの人々は、ミツルがどこかの姫君だと思ってびっくりするんじゃろう」
光一が初めてミツルを見たとき、そのワインレッドの瞳に強い印象を受けた。ただ、その後、旅をしているうちにこちらの世界ではいろんな色の瞳の人間がいることがわかった。そしてミツルの赤い瞳も、「そんな色の瞳もあるのだろう」と気にとめなくなっていた。
けれども、「じいや」に指摘されてみると、いろんな色の瞳を見たが、赤だけはなかったような気がする。
「確かに、『尖塔の街』までの旅の途中はもちろん、あれだけ人が多かった『尖塔の街』でも、ミツルみたいな赤い瞳の人はいなかったなあ」
「言われてみればそうよね。私、自分と同じ色の瞳の持ち主を見たことがないわ」
ミツルと光一とが顔を見合わせてそう言っているのに、「じいや」が口をはさんだ。
「ワシは一人存じ上げておるよ」
「じいや」は少しばかり得意げに胸を反らせた。
「誰あろう、ゲルガンド将軍のご母堂じゃ。あのお方はもともとルキア王国の第一王女であられた。それが皇族に輿入れなされてゲルガンド将軍がお生まれになったんじゃ」
光一が言う。
「そんな話を聞くと、なんだか赤い瞳って本当に高貴な人の印って感じに聞こえるなあ。ま、ミツルを見てるとそんな印象も消えちゃうけど」
「あら、失礼ね。私だってひょっとしたらこの近辺のどこかの国の王族の末裔かもしれないじゃないの」
「ミツルは『お姫様』なんて柄じゃないよ、心身ともに逞しいっていうか、元気よすぎるというか」
もっとも光一はミツルのそういう活発なところが好きなのだけれども。
「元気なお姫様だっていたっていいじゃない」
ミツルが口を尖らせながら言う。そこへ再び「じいや」が割り込んだ。
「まあ、ミツルが『お姫様』らしいかどうかはともかく、これはちょっと考えた方がいい話かもしれんぞ」
「考えるって何を?」
ミツルの問いに「じいや」が答える。
「ミツルの父親はどんな人だったのじゃね?」
「知らないわ。母は私の父親については一切何も言わなかったもの。いくらせがんでも教えてくれなかったし、そのうち私も聞かなくなったわ」
「なんで聞かなくなったの?」
光一がそう聞くとミツルは
「だって、身ごもらせた女性を『浜辺の者』にしてしまうような男よ。きっとろくでもない人間に決まっているじゃない」
と答えてそっぽを向いた。
「まあ、大人には大人の事情があるもんじゃて。そういう風に父親を切って捨てるもんじゃない」
「じいや」がミツルを窘める。
「ひょっとしたらこの旅で、ミツルの父親がみつかるかもしれんぞ」
この「じいや」の予言めいた言葉は後に的中することになる。しかしその瞬間から、帝国の動向は俄かに風雲急を告げるようになるのだった。