旅路
「彷徨える皇軍」は、「石の国」の首都「尖塔の街」を出発し、北西目指して行軍を開始した。河から離れた地方では、井戸なり泉なり湖なり、湧水のあるところに人が集まって住んでいる。皇軍は、そういった街々に立ち寄りながら目的地に進んでいく。
ミツルは上機嫌だ。初めて貰う給料は、出発日の三日前に支払われた。ミツルや光一以外の皆の給料もそうだった。本当の給与支給日はもう少し後だったが、帝国随一の商都「尖塔の街」で好きなものが買えるように、というティード将軍の粋なはからいによるものである。
そしてミツルは念願の花柄の洋服と、何冊もの本とを買って来たのである。
「ねえ。かわいいでしょ? この洋服」
早速花柄のワンピースを着こんだミツルが光一に聞く。
「……うん」
姉妹もいない光一には、可愛い服かどうか聞かれても、花の絵の書かれた布で出来たとても女の子らしい服だ、としか認識できない。ミツル自体が可愛いか、と聞かれればそれは可愛いと思うのだが、ここで聞かれているのは服の感想なので、光一は何と答えていいのかわからない。
「花柄ならなんでもいいってわけじゃないの。これ以上大ぶりの花だとおばさんっぽいし、小さいと子供向けみたいでしょ。これくらいが丁度いいの。スカートの膨らみ具合も最高だわ。さすが帝国一の街だけあって、デザインがとっても洗練されてると思う!」
「……そう」
「コーイチの言ったとおりね」
「え?」
「『土の国』と『石の国』の国境付近で、服が買えなくて落ち込んでいたことがあったじゃない」
「ああ、そうだったね」
「そのとき、コーイチが言ってくれたのよ、『首都に行けばもっといいのがあるよ』って。その通りだったわ。ありがとう」
「ええ……ああ、うん。気に行った服が見付かって良かったね」
もっと気の利いたことを言って、ミツルの心を掴みたい光一だったが、口から出てくる言葉はどうにも冴えないものだった。
ミツルの口はお気に入りの服についても饒舌だったが、他の話題に関しても働き者だった。
「ねえ。コーイチのいたあっちの世界の皇帝ってどんな人だったの?」
夜、日誌を書く手を休めてミツルは尋ねる。
「ええっと、あっちにはこちらでいう皇帝はいないんだよ」
「諸王国があるだけ?」
「うーーん。まあ、そう。ただ、王様が治めている国もあるけど、多くの国では、皆に選ばれた人がその国の政治を動かしている」
「皆に選ばれた人?」
「うん、『自分がこの国のリーダーになりたい』って言った人の中から、その国の国民が『この人がいい』って、多数決で決めるんだ」
「へえ……。民が王様を選ぶの? なんだか不思議ね。でもとっても合理的で素晴らしい制度だわ。リザ皇女みたいな我儘な人が皇帝になることがないってことでしょ。良い世界じゃない?」
「でも、そう何もかもバラ色ってわけじゃないんだよ。偉くなると賄賂を貰うような人だっているし。政治だって、貧しい人を救えてなかったり、戦争がなくならなかったり」
「けれど、それって民がしっかりしてないせいじゃない?」
「民って、僕たちが?」
「私が驚くのは民が民の中から王を選ぶってところよ。責任は全部民にあるわけじゃない、そんな場合だと」
「ああ、そうか。確かに今僕が説明した政治のやりかたを『民主主義』と呼ぶよ。民が国の『あるじ』っていうことになるもんね」
「民主主義……良い制度だと思うけど、民も大変よね」
「大変?」
「政治が悪いのは、血筋で選ばれた王のせいじゃなくて、自分たちのせいだもの。政治を良くするには、民の一人一人が、自分が王ならどうするか見識を備えておかなきゃならないものね」
そうか! とミツルは声を上げた。
「どうしてコーイチの世界では強制的に勉強させられるのかわかったわ。民全員が王様なみに国のことを知らなきゃいけないんだもの。それで一杯いろんなことを勉強するのね?」
「え? あ、ああそうかも」
言われてみれば、教養や見識を備えて、民主主義の担い手になる――ミツルに指摘されるまで考えもしなかったけれど、教育制度にはそういう側面もあるかもしれないなと光一は思った。ただ現実の学校教育で教わっていること、例えば微積分や仮定法過去完了なんてものが、民主主義とどう結びつくのかわからないけれども。
「私が皇帝なり、どこかの王様なりになったら、皇帝位や王位を廃して民主主義とやらの国にしちゃうわ。みんなで選んだ人と、みんなで政をやればいいのよ。皇帝や王さまにしたって、こっちの方が楽だしね」
「皇帝や王様を楽にしようとして生まれた制度じゃないけど、確かに楽かもしれないね」
日誌をつけながら、ミツルと光一はいろんな話題をおしゃべりしあった。その間「じいや」は、早々に寝床で眠るようになり、おかげで体の調子が良いと喜んでいた。
平穏無事に進んでいく行軍の中で、二人を興奮させるちょっとした出来事が起きた。
いや最も興奮していたのは二人ではなくてこの女性だったかもしれない。ある日ティードリーアがミツルに注文をつけた。
「ミツル、今日は私の武具をピカピカに磨いておいてくれないか?」
「は、はい」
理由を言わなければ不自然かと思ったのか、ティードリーアは続けた。
「明日は、ゲルガンド将軍の隣を行軍するんだ。休憩の際には、お茶でもお飲みに我が陣をお訪ね下さるかもしれない」
「ゲルガンド将軍が、ですか?」
ミツルは最初きょとんとしたが、すぐに分かった。ゲルガンド将軍はティード将軍が長年恋してきた男性である。ティード将軍の顔もなんだか輝いているように見えるし、所作もうきうきしているように見える。
「ゲルガンド将軍がいらっしゃるので、それでおしゃれをしようとなさっておいでなんですね」
「おしゃれが武具を磨くこと、なんて色気の無い話だがな」
ティードリーアはうっすらと頬を染めながら、苦笑いを浮かべた。
「武具は精一杯綺麗に磨きあげておきます! それから、あのう、お花でも見つけておきましょうか。髪に挿してみてはいかがでしょう……」
ぶんぶんぶんっといった感じで、ティードリーアは首を振った。
「冗談ではないよ、ミツル。私はもう花を髪に飾るなんて年齢ではないし。第一休憩中とは云っても公務の中でのことだからね」
それから。とティードリーアは続けた。
「お茶の給仕もよろしく頼む。ミツルはしっかり者だから、安心して私も頼める」
「有り難うございます。粗相のないように務めます」
「やっぱり素敵な方よねえ、ゲルガンド将軍って」
それまで日誌の上をすらすら滑らせていたペンを止め、ミツルは宙を見上げて呟いた。記録が、今日のゲルガンド将軍の来訪についてに差し掛かったらしい。
「じいや」はいつもどおり寝台に横になって寝ており、机にはミツルと光一が向かい合わせに座っている。
今日のゲルガンド将軍の来訪時、ミツルはお茶の給仕をしたので、将軍を間近で見ている。
一方、光一も遠目からではあるが、その姿を見ていた。昼間、天幕から天幕へ各部隊の物資を確認して回っていたら、ちょうどゲルガンド将軍がティード将軍の天幕に向かっているところに出くわしたのだ。その時側にいた兵士が教えてくれた。
「見ろよ。あれがゲルガンド将軍だ。我らが総大将だぜ」
光一は、ゲルガンド将軍の斜め前方から、距離を置いてその姿を見ただけだったが、上背が高く威厳に満ちた表情で姿勢よく歩くゲルガンド将軍の姿に、人の上に立つだけの品格を感じた。そしてその頼もしい姿にふと、旅の間、特に最初の頃のミツルに感じた頼もしさを思い出した。
「とっても端正な顔立ち。眉目秀麗っていう言葉はあのような方のためにあるのよねえ」
うっとりとした口調でミツルは喋り続ける。
「同じ黒い瞳といってもコーイチのともまた違うのよねえ。コーイチの場合、瞳の周囲は茶色いじゃない?」
「ああ、虹彩のこと?」
「虹彩っていうの? とにかくゲルガンド将軍はそこの部分まで漆黒なのよ。なんだかとても神秘的な感じ」
「いやに細かいところまで見たんだね」
「うふふ。お茶をお出しした時にね、私の目を見詰めてしっかりお礼を言って下さったの。目下の者にもそんな気配りをなさるのね。素晴らしいわ」
やれやれという感じで光一が釘を刺した。
「君までゲルガンド将軍に恋なんかしないでくれよ。帝国全体の問題になるんだから」
「大丈夫よ。ちょっと残念なことに、将軍は思っていたよりおじさんだったんだもの」
「そりゃティード将軍の十七年前の初恋の人だからね」
「でも、引き締まった身体に、動作も声も若々しくていらして、その一方で渋みもあって。理想のおじさま、って感じかしら。今でもティード将軍のお心が他の男性に向かないのも分かる気がするわ」
「まあ、特別な存在感のある人だっていうのは遠くから見ただけの僕も認めるよ。こりゃ到底ティウが敵う相手じゃないよなあ」
「相手が悪いとしかいいようがないわね。気の毒なティウ」
「今日のティウはちょっと可哀そうだったよ」
最初こそあまりティウに良い印象を持たなかった光一だったが、ティウはいつでも明るく気さくな人間だし、恋に素直な彼にあやかりたい気がして、光一は最近ティウと話をすることが多かった。
しかしゲルガンドがやって来た今日。わかりやすいことに、ティウは朝から明らかに不機嫌だった。そのムスっとした顔つきを見て、光一は、今日は彼に近づかない方がいいと判断した。
ゲルガンドの来訪中、彼は天幕から離れた岩場に、ご丁寧にも背を向けて座っていた。全く不貞腐れているようだった。
突然、寝台から声がした。
「ティウのことかね」
「じいや」が寝台で半身を起していた。光一が謝った。
「済みません、起こしてしまいましたか」
「構わんよ、うとうとしてただけじゃから」
「じいや」はひらひらと手を振る。
「あいつは確かに哀れではあるんじゃよ」
「ティウですか?」
「そう。十歳で拾われてきて以来、ずっと姫様一筋でな。ほれ、あいつはなかなか美男子ではあるじゃろう? だから、いろんな女の子から誘いもあったんじゃが……。あいつが真剣に見詰め続けて来たのはずっと姫様だけじゃった」
「じいや」は、ふうっと軽いため息を漏らした。
「あいつが十代の頃はもっと激しくて思いつめた様子でな。強い調子で姫様に詰め寄っていたものじゃ。『剣を捨て、ゲルガンド将軍のことを忘れて自分の恋人になって欲しい』とな」
「そんなこと言われてもティード将軍はお困りだったでしょうね」
とミツルが言った。
「そう。姫様にとってティウは年の離れた弟のようなものだったからのう。大いに困惑されたものじゃ」
「そうでしょうね」
「そのうちティウも大人になってきてな。自分の求愛が姫様を困らせることに気付くようになった。お前たちの目には、ティウは生来瓢けた性質に見えるかもしれんが、もとはそうではなかったんじゃ。むしろ――。ティウが拾われるまでの過去をお前さんたちも聞いたじゃろう? その過去のせいか、ティウはどちらかと言うと暗い翳のある少年だったんじゃ。それが、姫様を慮るようになってから、抑えがたい姫様への気持ちをああやっておどけた言動で紛らわせるようになった。そして今に至っておる」
「『私の麗しの姫様』とか、わざとおおげさな表現を使ったりするのはそのせいなんですね」
と光一が言った。ティウの愛情表現は、単純に恋に素直なのではなく、ああやって大仰に人前で冗談めかして伝えることで、ティード将軍に負担を掛けまいとしているんだ。光一は初めて気がついた。
「なんだか、いじらしいですね……」
ミツルがぽつんと呟く。
「そうなんじゃ。じゃがな、姫様だってティウには気を使われているのじゃよ」
「じいや」は昔話をしてくれた。
美しく成長したティードリーアには多くの恋の誘いがあった。ティードリーアの方も、新たな恋を見つけてゲルガンドを忘れることができないだろうかと、その誘いに応じていた。恋文が届けば、少なくとも開封して中身を読んでいたのだった。
ところがある日。ティードリーアは彼女に届いた恋文を、封も切らずに燭台の蝋燭の炎に近付けた。封書はめらめらと燃え、灰になる。
側にいた「じいや」が驚いて声をあげた。
「姫様、それはどなたかからの恋文ではございませんか。何故燃やしておしまいになるのです?」
ティードリーアは燭台の炎を見詰めたまま言った。
「ティウが哀れだろう?」
ティードリーアの瞳がゆらめく。それが燭台の炎のゆらめきのせいなのか、彼女の心のゆらめきのせいなのかはわからない。
「ティウは今年で十四歳になる。ちょうど私がゲルガンド将軍に恋をし始めた頃だ。恋する相手に振り向いて貰えないのは辛い。ましてや想い人が別の人間と恋仲になるのを見るのはもっと辛いだろう」
「では、姫様。姫様はティウのために恋人をつくらないおつもりなのですか? そんな……。確かにティウは哀れではありますが、姫様には姫様の幸せを――」
「じいや」
「じいや」の声をティードリーアは優しく遮った。
「私も疲れたのだよ、じいや。ゲルガンド将軍を忘れるためにわざわざ恋人を作るのに」
「姫様……」
「あれほどのお方に代わる男性などいないのだと、そう思われてきてね……」
「…………」
気遣わしげな「じいや」の顔を見て、彼女は明るい声を出した。
「なに、少し休むだけだよ。ティウの方はまだまだ子供だ。これから大きくなるうちに、私の他に好きな女性が現れることだろう。大体、軍隊内で恋人を持つのは、建前とはいえ、禁止されているではないか」
「ですが姫様……」
「ティウが恋人を見つけたら、私も、剣を捨ててもついていきたいと思えるような男性がいないか、また探してみることにするよ」
そしてティードリーアはその日から恋の誘いをことごとく断ってきたのだった。
昔話を終えた「じいや」は、困った顔をミツルと光一に向けた。
「ところが、ティウの奴、今に至るまで姫様以外脇目も振らぬ。いや、あいつもあいつで、姫様を忘れようと恋人を持ったこともあったのじゃがな。いつでも姫様を特別に思っていることが明らかなもんだで、女の方が諦めて去っていってしまうんじゃよ」
ミツルが軽く眉を寄せて言った。
「ティード将軍は、ティウに自分の姿を重ねて思いやっておられるのでしょうけど……」
光一が、今朝のティウの不機嫌な顔を思い出しながら続ける。
「ある意味、ティウには残酷な思いやりかもしれないな」
「じいや」は大きなため息をついた。
「姫様とティウと。それぞれに良い相手が現れてくれんもんかと、わしは気をもんでばかり。夜もおちおち眠れんわ」
ミツルが立ち上がって茶を入れると、「じいや」に渡しながら言った。
「今夜は私たちのお喋りで起こしてしまったけど、いつもなら『じいや』さんは眠っている時間よ。さあ、お茶でも飲んで落ち着いたら、横になって」
「おお、有り難うよ」
「じいや」は礼を言って茶を受け取り、横になった。それからしばらくして、すうすうと規則正しい寝息が聞こえてきた。
ミツルは再び日誌を書き始めた。静かな部屋にペンが紙の上を走る音だけがしていた。
光一の方は、自分の仕事を終えてしまい、なんとなくミツルが日誌をつける様子を眺めていた。そして、ふと小声でミツルに囁いた。「じいや」を起こさないようそっと。
「あのさ」
「何?」
ミツルが日誌から目を上げる。
「ゲルガンド将軍もそうだったけど、『森の国』の人って『石の国』や『土の国』の人より彫は浅めなんだよね」
「そうよ」
「君ってさ、『森の国』の人の血も入っているんじゃないかな。君を初めて見たとき、彫が深いなあとおもったけど、『土の国』や『石の国』の人を見慣れてくると、君はどちらかというとちょっと浅めの方なんじゃないかな、と思って」
――それでも、とても可愛いことに変わりないよ。とこの一言を光一は続けたかったのだが、それは照れくさくて言えなかった。
ミツルの方は若干不機嫌そうに
「そう?」
と返しただけだった。ゲルガンドのように彫が浅めでも美男子はいるし、彫の深さは顔の美醜の一要素でしかないのだが、「浅い」と言われるのは微妙なものがある。
ミツルに機嫌を直して貰おうと、光一は慌てて言い足した。
「いや、他にも理由はあるんだよ。例えば、角度によっては君とゲルガンド将軍とは少しおもざしが似通っているな、って思ったり」
「それじゃ、一応私も美少女の部類に入ると褒められたと思っていいのかしら?」
うんうんうん、と光一は何度も首を縦に振る。「君は可愛いよ」と口に出して言えない分、精一杯力をこめて。
その夜。ミツルの顔立ちについてはそこで話は終わった。しかしながら、旅が西北に進むにつれて、ミツルの顔立ちは人々を騒がせていくようになる。