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水の砂漠の魚たち   作者: 鷲生 智美
人の旅路

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53/82

北西に進路を取って

「そろそろだいぶ暑くなってきたなあ」


 そう兵士の一人に声を掛けられて、光一は空を見上げた。この「尖塔の街」に到着するまでに半袖のシャツを着るようになったから、季節が変わったという認識はあった。ただ、こちらの世界は空気が乾燥しているせいか、日本の夏のような感じがしない。


 けれども見上げた空は、深みと明るさを湛えたくっきりと濃い青をしており、そこに浮かぶ雲は純白に輝いている。まぎれもない夏の空だった。


「あんまり暑いとは思えないですよ、僕には」


 光一は兵士にそう答えた。兵士はにやっと笑った。


「出身地によって、暑さ寒さの感じ方はバラバラだからな。今から暑さでバテてる奴もいれば、平気な顔をしてる奴もいる。さあて、ここからどこに向けて行軍することになるんだろうな。なるべく涼しいだと助かるがな。なあ、お前将軍の近侍だろう? よろしく言っておいてくれよ。じゃあな」


 そう言って兵士は天幕の中に入ってしまった。光一は確かにティード将軍の近侍だし、叶うことなら涼しいところに行きたかったが、将軍自身にそれを言うほど図々しくなかった。そこで夜になって「じいや」に聞いてみることにした。


「あの……皇軍の行き先ってどう決まるんですか?」

「我々の旅の目的は、皇帝に届け出たとおり、あくまで帝国領の治安維持と各王家との親睦を深めることだからのう。蛮族の襲来や盗賊の横行に手を焼いた国から要請があればそこへ向かうし、客としてお招きしたいと招待があればその国に向かうもんじゃよ」

「今後の予定はわからないんですか?」

「正確にはな。ただ、同じところに長いこと居座るとまずいんでな。どこかへ行かねばならん」

「どうしてです?」

「そこの国と結託して皇帝に叛旗を翻す準備をしていると疑われるんじゃ。かといって勝手によその国に行こうとすると、その国と特別な交わりがあるかのように受け取られてしまう」

「じゃあ、どうすればいいんですか?」

「行き先が無い時には作るんじゃよ」


 馬鹿馬鹿しいやり方じゃがな、と「じいや」は苦笑しつつため息をつく。


「どこかの国に手紙を書いて、我々を招待してくれるよう頼むんじゃよ。招待国が、帝国府に許可を貰って、ゲルガンド将軍に招待状を出す、という手順が重要なんじゃ」

「面倒ですね」

「今、北西のメイドウという国にその手続きをやってもらっている。西の方だから涼しくていいぞ。ゲルガンド将軍は兵士思いだからな。夏はできるだけ西方の国に向かうんじゃ」

「西だと涼しいんですか?」

「そうじゃよ。西が涼しく、東が暑い。コーイチの世界ではそうじゃなかったのかい?」

「僕のいた世界は、北が涼しくて南が暑い。いや、僕の世界でもその逆の地域もあるからそうとも言い切れないかな……」


 最後はひとり言のように呟く光一に構わず、「じいや」は別の話題に移った。


「さて、この前、お前さんに備品のリストを作ってもらったじゃろう。ほぼ完璧にできておったぞ。見事なもんだ」

「あ、そうでしたか。有り難うございます」


 ここ十日間の間で、光一は必要な書き言葉は覚えてしまっていた。そもそもミツル――その頃の名前はナイアと言ったが――と初めて会って以来、話し言葉には何の不自由もなかった。


 「文字を覚えてもらう」というので光一は緊張して勉強に臨んだが、こちらの文字は英語のアルファベットと同じく表意文字で、たった二十文字しかなかった。これらの文字を組み合わせて単語ができるのだが、光一の仕事では使う単語は限られる。そして当面、光一の仕事は単語さえ読み書きできれば済み、「現在進行形」だの「仮定法過去完了」だのややこしい文法を覚える必要などなかった。というわけで、光一は十日間ほどで自分の仕事に必要な文字は覚えてしまったのだった。


 これには「じいや」だけでなくミツルも大いに感心してくれた。


「すごいじゃない! コーイチがこんなに優秀だったなんて思わなかったわ!」


 一方、そのミツルの方はこの十日間の間に、一つの挫折を経験していた。


 ミツルはティード将軍の姿に、ある意味少女らしい憧れを抱いたのだった。男装の麗人であり、近侍として仕え始めてみれば気持ちのいい人柄をしている年上の女性。


「ティード将軍って、なんて素敵なのかしら!」


 と光一相手にしょっちゅうそんなことを言い、とうとう


「私も軍人になってみようかしら。そしてティード将軍みたいになるの!」


 とまで言い出した。


「ちょっと待ちなよ」


 光一はミツルの興奮を冷まそうとした。


「君って、女らしい服が好きだったじゃないか。今度のお給料が出たらレースと花柄の服を買うんだろ」

「あら、それとこれとは関係ないわ。将軍の私服がレースと花柄だって構わないじゃない」

「それって、なんだかしまりが良くないなあ……。それに、剣を――作りものじゃない本物の剣を振り回すなんて危ないよ」

「危なくないよう、訓練するんじゃない」


 光一が戸惑っている間に、ミツルは「じいや」たちにもその話をして回ったらしい。そしてそれを耳にした中に、あのアチェがいた。


「軍人になりたいんだって? それじゃあミツルお譲ちゃん、訓練部隊に入りな。もう必要な手続きは済んであるから」


 訓練を終えた夜。ミツルはげっそりした顔で、足を引きずるようにして自分の天幕まで戻ってくると、服も着替えずベッドに倒れこみ、次の朝、光一たちがいくら起こそうとしても起きることができなかった。勿論訓練兵失格である。


 夕方になってやっと夕餉の席に出て来たミツルに、アチェがやれやれといった調子で声を掛けた。


「よくわかったろう? ティードに憧れたくらいで軍人になろうったってなれるもんじゃないんだよ」

「……はい」

「ここにいる軍人はね、あんたの出来なかった訓練をやり遂げた者ばっかりなんだよ。いいかい? ここから先はコーイチにも聞いて貰いたいけどね」

「はい」


 いきなりアチェから話題が振られて光一は緊張する。


「あんたたちは、近侍ということでいろいろと楽をすることができる。例えば行軍中、兵士は歩くのに、あんたたちは馬車に乗ることができる、と言った具合だ。それにティードの側近くにいるから、なんとなく自分たちまで偉そうな気になるかもしれない。けどそんな勘違いは絶対にやめておくれ。兵士たちは、いざ事が起きると体を張って闘うんだ。あんたたちはただの近侍。その立場をよくわきまえておくんだよ」

「はい」


 二人は神妙な顔で頷いたのだった。



 その夜。ミツルがティード将軍のベッドを整えていると将軍から声がかかった。


「そんなに落ち込むことはないよ、ミツル」

「……え? あ、はい」

「アチェは口調が辛辣だから傷ついてしまったかもしれないが……。過去に、私の近侍で思いあがって兵士たちを見下すようになってしまった者がいてね。それ以来アチェも厳しくなったんだよ。私を見ていると軍人になるのは簡単だと思うのかもしれないが……」

「そんなことありませんっ」


 ミツルは大きく首を振った。


「私はただ……、将軍があまりに凛々しくて素敵でいらっしゃるから……。兵士になるための訓練があんなに過酷だなんて思っていませんでした。軽率だったって反省しています」

「軍人になんてなるものではないよ。軍人なんて人を殺めるのが仕事なのだから」


 ティードリーアは自分が討取って来た者たちについて考える。戦闘員しか手に掛けたことはないが、彼らにも、彼らの死を悲しむ家族がいるに違いない。


 それでもこんな仕事をしているのは、自分がゲルガンドに恋をしているからで、それがいささか狂気じみているせいだ。かつて自国の民が二つに分かれて争うのを憂いていた少女は、恋の狂気と共に、敵と戦い、相手を殺めることを自分の職業にしてしまったのだ。


「ミツル、もしミツルが軍人になったらコーイチが悲しむぞ」

「将軍、どうしてそこでコーイチの名前が出てくるんですか」


 ミツルがムっとした顔で問うてくる。


 おやおや。ティードリーアは苦笑を噛み殺しながら思った。光一がアチェなどにけなされた時には庇ってやったが、だからといって光一との間をからかうとムキになる。少女の心は未だ好意と恋の中間――いやどちらかといえばコーイチには残念なことだが、まだ単なる好意に近いのかもしれないな。


 光一の件は深入りせず、ティードリーアは話題を別の方に向けた。


「それにミツルは、文字で私に仕えてくれるのではなかったか?」

「あ、はい、そうです」

「『じいや』もいい年なのに、いつまでも働かせて悪いと思っている。どうかコーイチと二人で『じいや』を助けてやっておくれ」

「はい。将軍。およばずながら全力を尽くします」


 少女は年長の女性に憧れをこめてそう答えた。


 このようないきさつを経て、夕餉の後始末が済んだあと、「じいや」とミツルとコーイチは、じいやの天幕で仕事をすることが習慣となった。


 光一は各部隊を回ってその日使った消耗品の数を把握し、補給が必要な品々をリストアップする。

ミツルは文章が書けるので、今まで「じいや」がつけていた日誌をつける。そして「じいや」は二人にアドバイスしつつ、ついうとうとと居眠りをすることが多かった。


 そしてある日。ミツルの書く日誌には、こう記されることになった。


「本日ゲルガンド将軍より、各将軍へ出発命令あり。北西の国メイドウより使者ありて、ゲルガンド将軍をメイドウ国へ招待する旨連絡があったが故による。我々皇軍は、明日より北西に向けて行軍する」。


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