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水の砂漠の魚たち   作者: 鷲生 智美
人の旅路
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巫女たち

 鬱蒼と茂る森の中の一本道が、馬の蹄の規則正しい足音を伝えてくる。


 初夏から盛夏へと移る日の早朝。森の中では全ての生命の息吹が、瑞々しい香気となって、樹々の間に満ち溢れている。虫の羽音や鳥の囀りなど、物音はするものの、全体として森の中には落ち着いた雰囲気が漂っていた。


 しかし、その調和のとれた空気を打ち破るように、大きな馬が乗り手に煽られて走ってくる。すると森もざわめかざるをえない。馬は土を蹴り、枝を揺らし、森を局地的に騒がせながら、ひたすら森の中を疾走する。


 ――まだまだだな。


 馬の乗り手が呟いた。緑色の宝石のような瞳に、群青色の髪を持ち、そして腰には剣を帯びた女性の武人――ティードリーア姫と呼ばれるより、今ではティード将軍と呼ばれることが圧倒的に増えた女性が馬を駆っていた。


 先日新しく自分の乗騎としたこの馬は、体つきから見ればもっと速く走れるはず。彼女は、自分の馬を飼い慣らすため、部下たちとの訓練が始まる前の早朝を選んで、森の中を走らせているのだった。


 彼女は馬に鞭を入れて、「もっと速く」と馬に促す。そして注意深く馬の反応を待った。そうして馬の調子に気をとられていた彼女は、しかし、ふと前を見て慌てて馬の速度を落とした。行く手には異変が生じていた。


 前方に黒い靄がかかっている。晴れ上がった空の下、清冽な空気の中にあって、黒い靄ははなはだ異質な存在感を放っている。ティードリーアは、手綱を引いて馬をとめさせた。


 その靄はだんだんと濃くなり人の形をとろうとしている。長年、河の信仰に親しんできた彼女はこの現象について何も知らないわけではなかった。ただそれでも驚きをもって見つめるよりない。


 黒衣の人影はだんだんとその姿を鮮明にしていき、白髪の老婆となった。この老婆は、ティードリーアの馬の二馬身ほど前で、体を杖に預けながらティードリーアを見つめていた。


 ティードリーアは急いで馬から降りた。そして姿勢よく前に歩み出て、黒衣の老婆の前で立ち止まり、右手を左胸にあてる礼をとりながら跪いた。


「お会いできて光栄に存じます、辻の巫女」


 ティードリーアは内心の驚きと不審を外に出すことなく、しごく冷静に礼節をもって辻の巫女に挨拶した。


「ティードリーア姫、異教の巫女よ」


 ティードリーアは顔を上げ、二人の巫女は見つめあった。確かに二人とも巫女ではあった。ただし、辻の巫女は彼女自体が神秘の領域に属する存在なのに対して、ティードリーアの方は代々巫女を務める家の血をひいているとはいえ、ただの人間である。しかし、それでも、人の世界を超えた何かのために、何らかの役割を果たさねばならないという点では、二人の間に共通するものがあった。


「異教の巫女でありながら、この私に丁寧な挨拶いたみいる。ティードリーア姫、どうか腰を上げられよ」


 ティードリーアは立ち上がった。女性としては長身の彼女を、腰の曲がった老婆は首を上げて見つめている。そのまなざしにはどこか痛ましげなものがあった。


「ティードリーア姫、私は人の歩む運命の道が見える。今日は貴女の運命について申し上げに参った」

「有り難う存じます」


 ティードリーアの返事に僅かに緊張の色が滲む。


「貴女は新たな人物と出会う。その人物の運命の道と貴女の運命の道が交差するとき、大きな変化が双方の運命に、そして帝国全体に起こる」

「帝国全体?」

「そう。ただそれは今のところ貴女が思い煩われることはない。貴女はこれから運命の辻に出でて、大きな不幸と大きな幸福とに見舞われる。もっともこれを避けたければ、しばらく人との出会いを遠ざけるなどして避けることもできる」


 一瞬だけティードリーアは沈黙したが、それは考えを整理するのに必要だったからで、それが済むと迷うことなくきっぱりと答えた。


「大きな幸福の方はどうでも構いません。大きな不幸の方は、私のかつて犯した罪に対する罰として受け入れようと思います、辻の巫女」


 美貌に似合わぬ苦い表情がティードリーアの顔を覆う。


「私の未来がお見えになるなら、私の過去もご存じでいらっしゃることでしょう、辻の巫女。私は自分の嫉妬から、想いあう恋人同士を引き裂き、血の繋がった家族を離れ離れにしてしまいました。これから何か大きな不幸があるのなら、それは過去の罪に対する罰として甘んじて受け取らなければなりません」


 辻の巫女の瞳は年老いて白く濁ったものだったが、そこには年若い巫女を慮る気持ちがあふれていた。


「ティードリーア姫、貴女の不幸は、帝国全体の民の幸福の礎となりうる」


 ティードリーアの表情から、翳りがわずかながら滑り下りた。


「私はそんな大層な存在ではありませんが……。もし民の幸福に寄与できるのでしたら、王族に生まれ、皇軍の将軍となったこの身にはむしろ光栄なこと。この先、どのような運命が待ちうけていても、受け入れて生きていく所存です」

「よろしくお願い申し上げる。異教の巫女よ、帝国の民のために……」


 辻の巫女は、片手を杖において体を支えながらも、曲がっていた腰を更に深く曲げ、頭を垂れた。


「辻の巫女、そのような……」


 どうか頭を上げて欲しい、とティードリーアが言うのに構わず、辻の巫女はその格好のまま姿を薄めていき、森の澄んだ空気の中へと溶け込んでいった。


 しばらくの間ティードリーアは巫女の言葉を何度か反芻した。森は、そこに住む生き物の気配のみをわずかに伝えるだけで、静まり返っている。


 これから自分は誰かに出会い、大きな幸福と不幸とを体験する。そして自分の不幸が、帝国の民の幸福の礎になりうる。幸福と不幸とが訪れるとは予言として受け取るとしても、自分個人の不幸が帝国の民の幸福につながるというのは、ひどく謎めいた話だった。


 ティードリーアは大きく息を吐いて再び馬に跨った。さっきも辻の巫女に言ったとおり、来たものを受け入れて生きるだけのことだった。特に自分の罪に対する報いには。



 ティードリーアは「尖塔の街」の街外れに広がる、皇軍の駐留地に帰って来た。部下たちが馬上の彼女に次々に挨拶の声を掛けてくる。それににこやかに応えてやりながら、自分の天幕の前まで来た。


 天幕の前に、「じいや」と、見知らぬ少年と少女とが並んで立っていた。


 ――ああ、そういえば「じいや」が補佐役を雇うと昨夜言っていたな。


 ティードは前夜そう聞かされていたが、それは「じいや」の問題で、自分に新しい出会いがあるという意識は希薄だった。


 けれども、先ほどの辻の巫女の予言の後、こうして自分の見たことのない顔をした人間を現実に目にすると、こう思わざるを得ない。ああ、この二人が自分の運命を変えるのか、と。


 そしてこの出会いが尋常ならざることは、二人の内の一人を見ればわかることだった。なにしろ二人の内の一人は「海から来た者」――異界よりこの世界を訪れた不思議な存在なのだから。

 




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