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水の砂漠の魚たち   作者: 鷲生 智美
第二章 皇都の愛憎
33/82

赤い戦場

 ティードリーアはアチェと共に、ジガリの「逃げろ!」という命令に俊敏に反応していた。ドドゥは何が起こっているのかわからず、ぼうっと突っ立っていたが、アチェが「あっちに走るんだよ!」と明確に指示をだしたので、それに従って走り出した。ドドゥは、何をすればいいのか単純に指示してもらえれば、走るのも速く、力も強かったのだ。


 ティードリーアとアチェ、そしてドドゥは訓練兵の中で比較的早く、ガイディの軍勢の傍まで達した。ガイディ軍には何故か積極的に彼女を守ってくれる様子がなかった。ただ、彼女たちは自分たちを殺戮しようと、刀や矢が向かってくる目に遭うのは初めてで、そんなことに構っていられなかった。


 ティードリーアは、鎧を着けたまま全速力で駆け抜けてきたので、もう膝が崩れ落ちそうだった。尻をついたら、次に立ち上がるのが辛くなると分かっていたが、へたりこんで両膝の間に顔を埋め、ハアハアと肩で息をしている。アチェの方は、ティードリーアよりも訓練期間が長かったお陰か、立ったままだったが、呼吸は荒く、強張った表情をしていた。ドドゥだけが、きょとんとした顔で、自分たちが逃げて来た方向をぼうっと眺めている。


 赤い土煙の中で、蛮族たちが暴虐の限りを尽くしているのが見える。逃げ遅れた訓練兵や、輜重隊や医療隊の警備にあたっていた兵士が蛮族たちに襲い掛かられ、何とか応戦している。しかし皆歩兵であって、騎馬に乗った蛮族たちの方がずっと優位だった。一人また一人、土煙の赤よりもずっと鮮やかな血飛沫をあげて倒れていく。


ドドゥが、輜重隊が放り出したままの荷物を指差し、突然声をあげた。


「お皿! お皿を取りにいかなきゃ!」


 唐突な声にティードリーアは顔を上げた。アチェは「厄介なことが始まった」という顔で、ドドゥに言った。


「皿なんかどうでもいい。さあ、ガイディ将軍の軍のところに行こう」


 そしてドドゥの腕をとって歩き出そうとした。ところが、ドドゥはアチェの手を振り切ろうとする。ティードリーアも慌てて立ち上がった。その拍子に眩暈がしたが、今はそれを気に掛けている余裕はなかった。


 ドドゥは泣きべそをかきながら、今や蛮族が蹂躙している戦場の中に、置きざりにされている輜重をめざして走り出そうとする。アチェがドドゥの胴に腕を回して引きとめ、ティードリーアはドドゥの前に立ち塞がって、ドドゥの両肩を掴んで行かせまいとする。


 ドドゥは懇願するような口調で言った。


「だって、お皿盗られちゃうよ。お皿がないとごはんが食べられないよ」


 アチェが怒鳴る。


「そんなものは後からどうにでもなるっ! 戻るんじゃない!」

「でも……。みんな、私がご飯を寝台まで持っていったら喜んでくれたよ。アチェだって、ティードだって」


 ここでドドゥとティードリーアの目が合った。ドドゥはにこっと微笑んだ。何の邪気もない幼児のような微笑だった。


「疲れている人に食事を運んであげたら、みんな喜んでくれる。友達ができる」

「…………」

「でも、お皿がないと食事が運べない。誰も友達になってくれない……」


 ティードリーアはハッと胸を突かれた気がした。互いが互いを蔑むような、そんな殺伐とした雰囲気を、“純粋な”ドドゥは気がつかないで済んでいたと思っていた。しかし、ひょっとしたら他の誰よりもこのドドゥこそが、その雰囲気を、誰よりも悲しく、そして寂しく感じていたのではないだろうか。


「ドドゥ、そんなことはない。皿なんか無くったって、私たちは――」


 友達だ、そうティードリーアが続けようとしたとき、ドドゥは二人の女の手を振り払った。ティードリーアはよろめいただけで済んだが、より強くドドゥを押さえていたアチェは地面に尻餅をついてしまった。


 ドドゥは全速力で、戦闘が繰り広げられている中へ戻っていく。


 ティードリーアは慌ててドドゥの後を追った。


「ティード! やめておきな! アンタまで行くことはない!」


 後ろでアチェが大声で叫んだが、ティードは躊躇い無くそのまま走り続けた。


 しかし、ドドゥに追いつく前に、大きな馬が現れ、ティードリーアの行く手を遮る。顔を上げてみると、斑のない帝国軍馬に乗っていたのはジガリだった。


 ジガリはホッとした様子だった。


「良かった。無事だったんだな」


 ティードリーアの逸る気持ちからすれば、全くちぐはぐな言葉だった。


「無事? 無事だと仰るのですかっ、ジガリ隊長」


 ティードリーアは苛立ちと怒気を隠そうとせず、大声で怒鳴った。


「隊長! あれが見えないのですか! あそこにドドゥが!」


 ティードリーアは、ドドゥのいる方向を、怒りに任せて腕ごと振り回すように指差した。ドドゥは二騎の蛮族に見つかってしまい、前後を塞がれてしまっているところだった。ドドゥは二騎の間で立ち往生している。ティードリーアのいるところからは表情まで見えないが、きっと困惑した顔をしているだろう。


 ジガリはティードリーアの指差す方向を見、苦渋に満ちた表情を浮かべた。しかしながら、彼の口から出た言葉はあまりにも冷酷なものだった。


「仕方ない。ティード、彼女は『矢避け』だ」

「仕方がない? 矢避け?」


 ジガリの言葉にティードリーアは、これ以上ないほど目を見開く。


「そうだ。今、彼女に蛮族二騎が襲い掛かっている。それだけでも、私たちを襲う蛮族が二騎減ることになる」

「つまりは、捨て駒、ということですか?」


 ティードリーアの声が震える。ジガリは無言で頷いた。


 これは善悪の問題ではないのだ、とジガリは思う。世の中には、様々な理由で人生に行き詰った人間がが居る。例えば身体を売るしかないほど貧しい女、放蕩の限りを尽くして、金銭的にも社会的にももうどこにもならなくなった男、などなど。


 そういった者たちでも帝国軍は雇う。たとえそれが知恵も回らぬ者でも、心身ぼろぼろで使い物にならない者でも、前線に立たせておけば、敵の進軍の邪魔くらいにはなるだろう。


 彼らにとっても軍に入ることは悪いことばかりではない。人生に煮詰まった者は、困窮の果てにいずれ道端で野垂れ死ににでもなるのがおちだ。しかし軍に入れば最低限の衣食住は確保できる。適性があれば、その後軍人として大成するものもいる。たとえ、初の戦闘で死んでしまっても、遺族にいくばくかの見舞金が出る。死者となった彼らもこれで面目が立ち、少しは誇らしい気持ちで、海に還ることができるだろう。


 そう、これは一見むごいようにみえて、一種の貧民政策なのだ。


 ――しかし、この年若く生真面目な王女に通じる理屈ではあるまい。


 事実、ティードリーアの緑宝石の瞳には、はっきりと軽蔑の色が浮かんでいる。


 ティードリーアは今までジガリを尊敬していた。彼は実に公平な教官で、どんなに厳しい訓練を課されてもこの人を恨もうなどとは思わなかった。訓練兵は皆同様で、食料を減らしたホイガを罵っても、この教官を罵る者はいなかった。それだけの人物なのだ、だから訓練部隊の長が務まるのだと、彼女は感心していたのだった。


 ジガリも、ティードリーアから尊敬という形で好意を向けられているのは知っていた。それが嬉しかっただけに、今彼を見据えている彼女の鋭い眼差しが、心に痛い。しかも彼自身が予想した以上に、その痛みは強い。


 そんなジガリをよそに、ティードリーアはくるりと踵を返して駆け出した。一言も発することなく。こんな冷血な上官のために口をきくことすら惜しい、とでも思ったのかもしれない。彼女の心中をそう忖度しながら、ジガリは深く息を吐いて思う。


 ――全く死者のでない戦なんてない。味方を捨ててでも逃げるべきときには逃げる。それは兵卒の義務でもあるんだ。


 いずれは彼女も理解するべきなのだが……。ジガリはもう一度溜息をつくと彼女の向かった方向に、自分も馬の首を向けた。


 蛮族がドドゥに襲い掛かる。いや、襲っているというよりも、狩りを楽しんでいる、と表現した方が正しいかもしれない。何の抵抗もしないドドゥを、一方的に馬上から刀の切っ先で小突き回している。


 ドドゥの背の荷袋には、帝国軍から支給された剣が入っているはずなのに、彼女はそれを使おうとは思いつきもしないようだった。いっそ荷袋を捨てて身軽になり、騎馬兵たちの隙をついて全力で逃げ出す手だってある。だがドドゥはそれもしようとしない。


 普通の兵士なら、立ち向かうなり、逃げ出すなりするところだが、ドドゥはただただ彼らの間をウロウロと逃げ惑っているだけだ。


 ドドゥが“純粋”であることはもう蛮族たちにも知れてしまったようで、その上で彼らは彼女をなぶり殺そうと決め込んでいるようだった。彼らは残忍な表情で楽しげに刀を舞い踊らせ、二頭の斑の馬も細かいステップを踏む。彼らの動きに合わせて、赤い砂塵が立ち上る。


 哀れだ、とジガリも思う。赤い土煙に巻かれているためドドゥの表情までは分からないが、柔和な彼女はさぞ怖ろしい思いをしていることだろう。


 しかし今はティードのことが気に掛かる。彼女が割って入っても、歩兵一人、しかも訓練兵が二騎の敵兵に向かっていったところで勝ち目があるとは思えない。


 ――となると自分も行ってあの二騎を倒してやらねばならないが……。


 ところが、肝心のティードは、ドドゥがいる方向とは違う方へと疾走している。一体どういうつもりだ? 彼女を追うべきか、トドゥの方へ向かうべきか、ジガリは迷った。


 ティードリーアは走りながら背中の荷袋を外すと、中から何か棒のようなものを取り出した。そして荷袋の方は無造作にどさっと投げ捨てる。更には棒状のものを覆っていた皮袋も取り去り、同様に地面に捨て去る。


 ――剣? しかしあれは……。


 ティードリーアは右手に剣を手にしているが、それは帝国式のものと随分違う。長さはあるが、刀身があまりにも細い。あれで蛮刀の一撃を受けることが出来るだろうか。


 剣を握りしめ、赤土を蹴って、ティードリーアは走り続ける。その先には、乗り手をジガリに討たれ、所在無さげにうろついている斑の馬がいた。その馬の背後に周ると、彼女は走るのをやめ、今度はそうっと足を忍ばせて馬に近づいた。そして馬に警戒する隙を与えず、さっと跨った。颯爽たる身のこなしではあったが、いきなり乗られた馬の方は驚き、嘶いて彼女を振り落とそうとする。


 元々戦用に調教された馬なのだから、彼女を主と認めさえすれば言いなりにはなるかもしれないが……。ジガリは思った。ただそれには馬の興奮がおさまるまで、しっかりと手綱を握り、鞍の上にどっしりと居座らなくてはならない。


 ――ティードには無理だ。

 

 大の男でも初めての馬を乗りこなすのは難しい。ましてや彼女はまだ少女だ。それに、だいたい彼女にはまだ騎馬術を教えていないのだ。


 振り落とされて大怪我をしなければいいのだが……。ジガリはティードリーアに向かって馬を走らせながらそう願っていた。


 ――何が「矢避け」だ!


 馬に跳び乗ったティードリーアは、心の底から憤っていた。暴れる馬の手綱を握る腕に、馬の胴体を締め上げる脚に、倒してはならない自分の体躯に、怒りのおもむくままに思いっきり力を込める。


 ――従う者の命を守れないで、人の上に立つ資格などあるものか。


 父王はいつも言っていた。羊たちを守るのが民の務め、そしてその民を守るのが王族の務めだ、と。


 ワレギアでは、羊たちが狼の群れに襲われれば、男も女も馬上から剣を振るって狼たちを撃退する。そしてワレギアの王族に、王宮内で安閑と過ごすような怠け者などいない。大きな狼の群れがやってくれば、王族自ら剣を手にとって、民を援けにいくのだ。


 ――私だって例外じゃなかった。


 王女であろうと王族の義務は果たさなければならない。彼女もまた、ワレギアの第一王女として、馬を操り、ワレギアの剣で狼たちと闘ってきた。


 ワレギアの馬は大きく、脚が太くて力も強い。そんな馬を乗りこなしてきたティードリーアにとって、この蛮族の斑の馬などは子馬も同然だった。


 ましてや、ワレギアに居た頃よりも、今の彼女の体にはしっかりと筋肉がついている。そして彼女の心は怒りに燃え上がっていて、普段の何倍もの力が全身に漲っている。


 斑の蛮族の馬は最初こそ砂塵を巻き上げながら暴れ回ったが、技術、体力、そして凄まじいほどの気迫とが揃った彼女を新しい主と認めざるを得なかった。そして今度はその主の命じるままに走り始める。その人馬の目指す先に、二騎の蛮族と女の歩兵とがいた。



 ドドゥはもう、小突き回されるのに心身ともに疲れたのか、地面にへたりこんでしまっていた。二騎の蛮族が、馬上でにやにやと笑いながら互いに次から次へと彼女を斬り付けている。とはいえ致命傷は与えない。


 一条、また一条とドドゥの肌に、浅いが長い切り傷が増えていく。その度にドドゥは悲鳴を上げるのだが、それでも未だに彼女は、何が起こっているのかわからないままポカンとした顔をしている。ただ、その顔や体から真っ赤な血の汗が滴り落ちているばかりだ。

 

 ティードリーアの目にドドゥの凄惨な姿が映るやいなや、彼女の憤怒は頂点に達した。彼女は炎のような怒気と共に、蛮族たちに突進していく。


 ドドゥの悲鳴、二騎合わせて八本の脚が土をざくざくと荒地を蹴散らす音、もうもうと立ち込める赤い砂塵。そして、ドドゥの身体から立ち上る濃厚な血の匂い。自分たちの遊戯に酔いしれているのか、蛮族たちは、背後からティードリーアが攻めかかろうとしているのに気が付かない。


 そのままティードリーアは敵の背後に斬りかかろうとするつもりだった。しかしその時。ドドゥがぱあっと、花が咲いたような明るい笑顔で叫んだ。


「ティード! ティード! 助けにきてくれたの!」


 そしてドドゥの視線を追って、蛮族たちもティードリーアの方に目を向ける。ティードリーアは「しまった」と思ったが、ドドゥが何かヘマをしたとは思わなかった。ドドゥの性質を頭に入れておかなかった自分が悪いのだ。


 二人の蛮族は初めこそ、どんな屈強な相手が現れたのかと警戒する表情だった。ところが、相手がまだ少女であると分かるとあからさまに表情を変える。緊張感のない、まるで遊んでいる玩具を取り上げられた子供のような不満げな顔。そこにティードリーアに対する侮りがはっきりと伺え、それを察した彼女の頬は怒りでかっと赤く染まった。


 その怒りのまま、彼女は蛮族の一人に馬を寄せ、相手の胴を力いっぱい剣で払った。しかし、相手も身をよじって逃れた上、彼女が思っていたより皮甲が頑丈で、殆ど傷らしい傷を与えることができなかった。


 ――剣の選択を誤ったのだろうか。


 心の中でひやりと冷たいものが流れる。帝国式の剣は重い分威力があるが、自分は未だ上手く扱えない。ワレギアの剣は細身で扱いやすいが、斬る力でやや劣る。


 東征にあたって、ジガリ隊長は訓練兵たちに出来るだけ詳しく東方の蛮族についていろいろと教えてくれた。その中に彼らの皮甲はさほど厚くなく、剣で容易に突き破ることができる、という情報があったはず。いや、しかしそれは帝国式の剣に関してのみ当てはまるだけなのかもしれない。では、ワレギアの剣を選んだのは間違いだったのか。


 敵はティードリーアの集中が切れた瞬間を見逃さず、下卑た笑みを浮かべて大刀を振り上げ、彼女目掛けて斬りつけてきた。ヒュンと、空を切り裂く鋭い音が耳元を掠める。何も考える余裕なく、彼女はただ本能だけで避けた。ほんの僅かな差で、彼女の動きに付いて来られなかった群青の髪が、ぱさっと蛮族の刃に散らされ、砂塵の中に舞い散った。


 相手はにやにやしながら、何度も片手で握った大刀を、上下左右からティードリーア目掛けて振り回し、攻めてくる。それをティードリーアは馬を器用に扱って人馬一体となって避け続けた。


 その様は、傍目には見事な馬術を披露しているかに見えた。事情を知らないものが見れば、優雅な馬の舞踏に拍手喝采を贈ったかもしれない。しかしティードリーアは全身に冷や汗をかいていた。一体これはいつまで続くのか。このままでは馬も自分も疲労してしまう。それに……。


 ドドゥを救うためにはもう一騎を倒さなくてはいけない。この蛮族だけで手も足もでない状態を強いられているのに、もう一騎倒すことなどできるだろうか……。


 ティードリーアの気が散じたのを相手は見逃しなどしない。凶暴な笑みととともに刀を大きく振りかぶって、上半身全てを使ってふりおろしてくる。


 ――ガッ。


 ティードリーアは慌てて横に身を捻って避けたものの、完全には間に合わなかった。わき腹に相手の一撃を受け、一瞬息が止まった。はあはあと浅い息を取り戻すが、その度に強かに打ちのめされた場所が痛む。


 集中を欠いてはならないのだとわかっていても、ティードリーアの胸に恐怖と共に湧き起こる疑問を押さえることができない。自分はドドゥを逃がすことができるだろうか。そして、自身もこの戦闘を生き抜くことが出来るだろうか。


 ――それとも、ここで……。


 自分は死んでしまうのだろうか。彼女は、今まで自分が味わうことのなかった冷たい感触が、背筋を這い登ってくるのを感じた。


 逃げたい。彼女は無意識にそう願った。しかしその時、彼女がふと目を上げた先に、敵の刃の切っ先がキラリと光るのが見えた。その刀は、緊張の緩んだティードリーア目掛けてまさに目前に迫ってくる。彼女は、咄嗟に自分の剣でそれを受けた。


 相手の力のこもった一撃を受けた重みで、彼女の手から二の腕まで痺れが走る。その痺れに耐えつつ、それでも彼女も剣を握る手に必死で力を込める。鍔迫り合いの格好でしばらく両者とも大きく動けない。

ティードリーアは、上半身の力全てを動員して、相手を押し戻そうとする。必死の形相の顔には汗が浮かび、力を込めた腕の筋肉がぴくぴくと痙攣する。一方で相手は、目にギラギラと残忍な光を浮かべ、口元は締まり無くニタニタと笑っている。剣といい、それを操る身体といい、蛮族の方が圧倒的有利なのだ。


 ――ああ……もう、もう自分にはこれ以上のことは無理だ……。


 ティードリーアの脳裏にふと父ガルムフの顔が思い浮かんだ。父上……。その懐かしいその面影を彼女はもっとはっきり見たかった。けれども現実の肉体を酷使していては、脳裏に浮かぶ懐かしい父の影に集中できない。彼女はもう、なにもかも投げ出してその父の胸に飛び込んでいきたかった。「父上、……私にはもう無理……」と彼女は呟き、そして刃を握り締めている力を抜こうとした。


 しかし、その瞬間、別の男の叫び声が聞こえた。


「ティード、攻撃を受け止めようとするな。流せ、相手の刀を流すんだっ!」

「ジガリ隊長!」


 ティードリーアは我に返った。蛮刀と合わせているワレギアの剣の柄に再び力を込める。そのまま視線だけで声のした方向を見ると、ジガリがもう一騎の蛮族と戦っているところだった。


「そうだ、そのまま流せ!」


 味方が側にいてくれる喜びに、彼女は一気に覇気を取り戻した。顔を上げ、自分と剣を合わせている蛮族を力いっぱい睨みつける。


 尤も、相手は「ほう」という表情を浮かべたものの、状況はそう変わらない。このまませり合っていても勝ち目はない。ジガリの言う「流す」とはどういう動作を言うのだろう。訓練中そんな言葉を聞いたことはないはずだが……。


 いや、それでも自分は聞き覚えがある。確か皇軍に入隊する以前、ワレギアで……。そう、父上のもとへ遊びに来たゲルガンド将軍が教えてくれたのだ。


「ティードリーア姫、ワレギアの剣は確かに君が振り回すのに適っている。ただ、刀身が細いから力づくの勝負では負けるかもしれない。相手の剣と威力に差があるときは、上手く身を引きながら、自分の剣を相手の剣を受け止めたまま下に向けるんだ。意図を察知されないよう瞬時に行うんだよ。そうすれば相手は君の相手は君の剣に沿って、刃が流されるような格好になる。そこを仕留めるんだ」


 彼女はゲルガンドが言うことならば一言一句全て記憶していた。


 彼女は再びキッと蛮族の目を睨みすえると、相手の刀で押されている自分の刀を、渾身の力で回転させ、下へ向けた。と同時に片手を剣の柄から外し馬の手綱を握って一歩引く。


 彼女の一連の動作は瞬き程の速さだったため、蛮族は刀を自分に引き戻す時間を与えられず、刃はティードリーアのワレギアの剣に沿って滑り落ちてしまう。つられて蛮族は馬上から大きく身を乗り出すような格好となった。


――今だ!


 皮甲も何もつけていない、剥き出しとなっている蛮族のうなじの部分が、焼きつくような日の光に晒されていた。彼女は何も考えていなかった。相手の地へ滑り落ちていく刀を置き去りにして、彼女は自分のワレギアの剣を胸の辺りまで引き寄せ、そして両手で逆手にしっかりと握りなおした。そして剣の柄を握り締めた両の拳を高々と振り上げ、そして相手の首めがけて思い切り突き刺した。


 彼女は何も考えていなかった。先ほどまで自分が「死」の淵に陥りかけた、その反動であるかのように、自動的に行われた動作だった。


――プチ。


 彼女は何も考えていなかった。皮膚が剣先に突かれ、精一杯伸びたあとに穴が開けられてしまう感触。皮膚が抗うのを止めたあと、すっと剣先が首周りの少ない肉の中を貫き、硬い骨を砕き、そして再び肉と皮とを突き破る感触。


 彼女は何も考えていなかった。後ろから首を刺しぬかれた蛮族は、ティードリーアの手に剣を遺したまま、どさりと大きな音を立てて地に滑り落ちた。ごぼっという音とともに、血が噴水のように吹き出ていた。噴水と違うのは、そこに清涼感など全くなく、生臭い鉄のような匂いを撒き散らすからだった。


 ティードリーアは馬上で呆然としていた。彼女は何も考えていなかった。彼女の人生最初の殺人はこのようなものだった。


 ティードリーアが蛮族の屍を呆然と見下ろしている間に、ジガリの方も相手を斃し終えたようだった。彼は、彼女の斑馬に自分の馬を寄せて話し掛けた。


「よくやった。ティード、初めての戦でこれだけ出来れば素晴らしい」


 味方の、しかも隊長の声でティードリーアはようやく、緊張を解くことができた。――しかし、安堵するにはまだ早かった。


 二人の近くでヒュンという鋭い音がして、何かが土に刺さった。矢だ! 二人がそう思ったと同時に、再び一矢。これも二人の足元の地面に突き刺さる。自分たちを的にして射掛けられているのは明白だった。


「伏せろ! 馬の背に伏せてここから逃げるんだ!」


 ジガリが自身も馬の首に頭を埋めながら、ティードリーアに命じた。


「でも……ドドゥが……ドドゥがあそこに……」


 ドドゥは顔を地に伏せて倒れていた。そしてピクリとも動かない。


「ティード、もう無駄だ……」


 ジガリの声が聞こえないかのように、ティードリーアは馬を下りようとした。


 しかし、その時。ティードは、みたび、空を切り裂く微かだが冷酷な音を聞いた。その方に顔を向けると、一本の矢が左手から自分に真っ直ぐ向かっていた。一瞬の間に、その鏃が空を捻じって回転する様が見えるほど近付いてくる。


 ――避けなければ。

 ――いや、もう無理だ。


 彼女は咄嗟に左腕で顔を庇った。カチンという音を立てて矢が跳ね返る。帝国軍の鎧は、薄くとも鉄で出来ており普通の矢などでは射とおせないのだ。


「良い判断だ、ティード。鎧を上手く使っている。顔、特に目は何よりも優先して守らなければならない。よくやった。さあ逃げるぞ」

「でも……。ドドゥが……。隊長お一人で逃げて下さい。」


 ジガリは小さく首を振った。そしてティードリーアを真っ直ぐ見つめる。その間も次々と矢が射掛けられているのに彼は先に行こうとしない。


「ティード。君は私も殺す気か?」

「……どういう意味ですか? 隊長」

「私だって、好んで部下を見捨てているわけではない」


 ジガリの苦渋に満ちた顔に、ティードリーアもはっとする。


「助けられる者は助けたい。これ以上誰も見捨てたくない。ティード、君ならここから逃げることが出来る。さあ、逃げるんだ」

「でも……」

「君が逃げなければ私も逃げない。逃げることの出来る部下を放ったらかしにして逃げるなど、隊長の名に相応しくない。わかるな? ティード」

「……はい」

「ここに二人でいては、敵の格好の的になるだけだ。ティード。我々は逃げるべきだ」


 隊長としての誠実さが感じられる言葉だった。それは王女として人の上に立つことを意識して育ってきたティードリーアにも理解できる心情だった。


「わかりました」

「では、ゲルガンド将軍のもとへ。全速力で、だ!」


 ジガリはそう命じると、早速馬の首を返して駆けさせ始めた。ティードも急いでそれに倣う。ガイディ軍の方が近いのに、何故ゲルガンド軍に向かうのか。彼女は訝しく思ったが、とても尋ねる余裕はなかった。


 その場から逃げようとする二人に、背後から豪雨のように矢が降り注ぐ。やはり――とジガリは思った。この矢の多さから考えると、先ほどまでガイディ軍を威嚇していた弓兵全てが自分達に向かっているのだろう。そして、いくら逃げても矢の勢いが変わらないということは、弓兵達もこちらを追いかけているのだ。


 相変わらずガイディ軍が動く気配はない。やはりこの奇妙な敵襲はティードを亡き者とする陰謀なのだ。今や敵の攻撃は、ティード一人に向けられている。


 二人ともここを逃げ切ることができるだろうか。敵の射手の放つ矢に斃れるのが早いか、ゲルガンド軍に駆け込むのが早いか。そう考えながら、ジガリは、自分の背を冷たい汗が伝っているのを感じた。


 ビュウン。ビュウン。ビュウン。続けざまに放たれた矢の唸る音が次々に聞こえてくる。それらの音に混じって、カツン。カツン。カツンと、帝国式の甲冑が矢を弾き返す音も耳の側に感じる。ジガリの馬は全力で疾走しており、ティードリーアが自分の馬の手綱を少しでも緩めようものなら、あっという間に取り残されてしまいそうだ。彼女は手綱を握る手にますます力を込め、必死でジガリの背を追いかける。


 ――あっ!


 ティードリーアは右の頬の下に衝撃を感じた。無数に射掛けられる矢の一本が、とうとう彼女の甲冑に覆われていない部分を掠めたらしい。彼女はできるだけ気に留めないようにして、ただただ前へと馬を走らせる。しかし、痛みは熱を伴い、どうしても彼女の集中力を削いでしまう。


 じりじりとジガリとの間が開いていく。引き離されてはならない。そう思えば思うほど、痛みを増す傷口の方に神経がいってしまう。それが更に焦りを生むこととなってしまい、彼女の心はもう恐慌寸前だった。


 矢の飛ぶ音ばかりか、弦が矢を放つ音が聞こえる。蛮族たちの、香辛料のような体臭を感じる。獰猛な荒々しい息が、首筋に吹きかけられているような気がする――これらは、彼女が恐怖にかられるあまり、大げさに感じ取った面も無いわけではない。しかし、確かに彼女と彼女を追う敵との間は、少しずつ詰まりつつあり、その距離は小さくなる一方だった。


 ――もう駄目かもしれない。

 ――ティードには無理だったか。


 ティードリーアとジガリ、二人とも諦めかけた頃、奇跡が起こった。ティードリーアの進む方向から、強く大きな風が吹いたのだ。その烈風は一瞬で二人の側を駆け抜けると、ティードを載せた斑の馬の足元から砂塵を吹き上げ、後方の蛮族に、猛烈な勢いで大量の砂礫を投げつけた。


 蛮族たちの馬が異変に戦く。驚きのあまり後ろ足で立ち上がっていななき、兵士は振り落とされないよう捕まっているのが精一杯。その兵士達も目や口、それに皮甲の内にまで細かな砂が入り、それに気をとられてしまっている。これではもう、ティードリーアやジガリを追撃する余裕などなくなったといっていい。


「今だ!」


 ジガリの命を待たずとも、ティードリーアは手綱を振り馬を全力で走らせ、ひたすら前へと駆けた。そうして程なくして、味方の姿を捉えることができた。


「ティード! ジガリ隊長!」


 味方の軍勢の中から、ゲルガンド自身が数名の近侍の騎兵と共に、馬を走らせて飛び出してきた。


 威風堂々とした体躯から朗々と発されるその声には、見るものを跪かせるような力があった。


「……!」


 蛮族の長らしいものが、やはり大きな声をあげた。蛮族たちはその怒号を聞いて、いっせいに背を向けてゲルガンド軍の前から遁走し始めた。


「ジガリ」


 ゲルガンドはジガリに声を掛けながら、視線だけでティードリーアの無事を――右頬下の傷を見たときには一瞬顔を顰めたが――確認すると、ジガリに向かって尋ねた。


「事態を報告せよ、ジガリ。何が起こったのだ? 我が皇軍に死傷者は出たのか?」


 汗と砂にまみれ、髪を振り乱したままの姿でジガリは馬を降りた。ティードリーアもそれに倣う。そしてジガリは左胸に右の拳を当てるという帝国式の敬礼を行うと、簡単に説明始めた。


「訓練兵の部隊が敵襲を受けました。私の把握しているところでは、訓練兵に死者が一名出た可能性があります」

「訓練兵の部隊を襲撃? すぐ前の輜重ではなく、か? それにガイディ将軍は何をしていたのだ?」

「今回の襲撃には不可解なところが多く、経緯をご説明したくとも、私の推測でしかないことまで含みかねません。お時間を頂いて、事実と推測とを見定めてから改めてご報告に上がりたく存じます。それに、私はまだ部下全員の消息を確かめておりません」

「わかった。では夜に話を聞こう。夕食時に私の天幕に来るように」


 そこでゲルガンドは、少しの間ジガリの視線の奥底を見た。そして、ジガリの「推測」には、このような衆目の前では口にできない不穏なものを含んでいることを、ゲルガンドは理解し、ゲルガンドが理解していることをジガリも了解したのだった。


 その後、ゲルガンドはすっとティードリーアに視線を向けた。


「ティードは無事だったか。傷は負ってしまったようだが……」


 その表情は無事を安堵する一方で、受けた傷を嘆いているようだった。ティードリーアは慌てて左の手の甲で傷口を拭う。この程度の傷で、自分が軍人になろうとすることに心配させたくなかった。


「こんな傷、大したことありません」

「ティードはとても勇敢でしたよ、ゲルガンド将軍」


 ジガリも言い添えた。


「馬の扱いといい、剣の技といい、それに咄嗟の判断といい大したものです。何より彼女は運が強い。もう駄目か、と思ったところで砂嵐がたつんですから」


「砂嵐?」


 ゲルガンドが怪訝な顔をジガリに向けた。


「最後、逃げ切れないのではないかとヒヤリとした時です。ティードの右頬を矢がかすって、その傷から血が滴るのと同時に、凄い突風が吹いたんです。我々には大したことはなかったんですが、ティードの馬の蹴る砂塵を――いやそれだけじゃないな、とにかく物凄い砂を巻き上げましてね。それを敵さんたちに叩きつけるような砂嵐が起こったんです」


 ジガリの話をゲルガンドは単なる偶然だと聞いていたが、次の言葉には軽く驚くこととなった。


「ワレギアでは、土や草の精霊がいることになってるんだそうですね。あの時の突風は空気の精がティードを守っているように感じましたよ」


 あ、と声をあげてティードリーアは両手で口を覆った。見開いた目には驚きと喜びが浮かんでいた。そしてそのまま、何かを言おうとも聞こうとも思わず、ただ無意識にゲルガンドの顔を見た。


 ゲルガンドは神妙な顔で彼女に大きく頷いた。


「それはガルムフ……きっと君の父上だ。遺言どおり、彼は空気の精霊となって君を加護しているんだ」


 ジガリはそっと辺りを伺い、そしてゲルガンドに発言を控えるよう目で訴えた。「河の信仰」の守護者たる皇族ゲルガンドが、邪教の「精霊」なるものを認める発言をすれば、危険人物と看做される。特にホイガなどの耳に届いたらややこしいことになるだろう。


 ゲルガンドもティードリーアも十分聡明で、これ以上何も言わなかった。けれども、ティードリーアの胸は喜びで一杯だった。


 自分から何も言わなくても、ゲルガンドが父ガルムフの最期の言葉をここで思い出してくれていたこと。それを真面目に彼女に告げてくれたこと。帝国内ではこのことは秘密にしなければならないが、この時ゲルガンドはその秘密を進んで自分と共有してくれたこと。


 今は亡き父が自分の側で守ってくれるのも嬉しい。そして十五の恋する娘は何より、自分の想い人がそのようであったことが大きな喜びだった。

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