僕たちの結婚は、どうやら国家機密らしい
僕が好きな女の子と結婚する約束をしたら、次の日から王宮の兵士が二人も増えた。最初は、僕を守るためだと思っていた。僕はこの国の王子で、十歳になったばかりだ。外へ出るときにはいつも兵士がついてくるから、二人くらい増えてもおかしくない。でも、増えた兵士は僕ではなく、庭の小さな物置を守っていた。
「どうしてあそこに立っているの?」
朝の勉強が終わったあと、僕が尋ねると、兵士の一人は困った顔をした。
「申し上げられません、レオン殿下」
「物置なのに?」
「国家機密でございます」
国家機密。僕は昨日、歴史の先生にその言葉を教わったばかりだった。敵の国に知られてはいけない大事なこと、という意味らしい。僕は少し考えてから、もう一度兵士に聞いた。
「もしかして、あそこに竜がいるの?」
「いえ、そういうわけでは」
「じゃあ、どうして?」
「申し上げられません」
兵士はさっきよりも困った顔をした。仕方がないので庭を回って温室へ向かうと、僕が会いたかった女の子が、ちょうど花の鉢を並べていた。
「ミーナ!」
僕が呼ぶと、ミーナは顔を上げて、すぐに人さし指を唇に当てた。
「レオン、声が大きい。花は逃げないけど、鳥は逃げるんだから」
「ごめん。ねえ、物置のところに兵士がいるんだ。竜がいるのかもしれない」
「いないよ。昨日、私がほうきを取りに入ったもの」
ミーナは僕と同じ十歳で、王宮の庭師トーマの娘だ。お父さんを手伝って庭の仕事を覚えている。花の名前を何でも知っていて、僕が雑草だと思って抜こうとした草にも、ちゃんと名前があると教えてくれた。それから、ミーナは僕を王子と呼ばない。
初めて会ったとき、僕が「レオンでいいよ」と言ったからだ。それを守ってくれているのは、今のところミーナだけだった。
「じゃあ、あの物置には何があるんだろう」
「ほうきと土と、去年壊れたじょうろ。あと、レオンの木の札」
「僕の札?」
ミーナが笑った。
「昨日、一緒に作ったでしょ」
そこで僕は、ようやく思い出した。昨日の午後、僕はミーナに結婚を申し込んだのだった。
きっかけは、僕が花を踏んだことだった。王宮の庭には、春になると小さな白い花が咲く。ミーナはそれを毎年楽しみにしていて、一つ咲くたびに数を数える。昨日も、花壇の前で「十九、二十、二十一」と数えていた。そこへ僕が走ってきたものだから、足元の花を一つ踏んでしまった。
「あっ」
ミーナの声を聞いて足をどけたときには、細い茎が曲がっていた。
「ご、ごめん。わざとじゃないんだ」
「分かってる。でも、走らないでって言ったのに」
ミーナは怒ると、僕をにらむより先に花のほうを見る。そして、茎をそっと支えながら、どうすれば元気になるか考え始める。僕も手伝おうとしたけれど、あまり役に立たなかった。結局、ミーナが細い棒を立て、僕がひもを結んだ。
「これで大丈夫かな」
「すぐには分からないよ。でも、まだ枯れてないから、きっと大丈夫」
ミーナはそう言ってから、土のついた指で額をぬぐった。おでこが茶色くなったので、僕は思わず笑った。
「何がおかしいの?」
「おでこに土がついてる」
「レオンだって鼻についてるよ」
僕たちはお互いの顔を見て、しばらく笑った。そのあと、ミーナがぽつりと言った。
「私、大人になっても庭の仕事がしたいな」
「僕は王様になるんだって」
「知ってるよ。いつも先生が言ってるもん」
「王様になったら、庭にもっと花を植えてもらおうかな」
「それはいいけど、ちゃんと世話をする人のことも考えてね。花が増えたら、お父さんの仕事も増えるんだから」
「そうか。じゃあ、ミーナが一緒に考えてよ」
「私が?」
「うん。大人になっても、ずっと一緒にいられたらいいな」
そこまで言って、僕は急に恥ずかしくなった。ミーナは少し首をかしげてから、僕の顔をじっと見た。
「それって、結婚するってこと?」
「……そう、かもしれない」
声が小さくなったのは、後ろの窓が開いていて、誰かに聞かれると困ると思ったからだ。でも、ミーナは平気な顔で言った。
「じゃあ、大人になったとき、まだ二人とも好きだったらね」
「僕はずっと好きだと思う」
「十年後のことは分からないよ。私、去年はニンジンが嫌いだったのに、今は好きだもん」
「ミーナとニンジンは違うよ」
「そうだけど、どっちも大事なことだよ」
僕は少し考えて、うなずいた。ミーナは僕より、こういう話が上手だ。それから二人で、薄い木の札に約束を書いた。ミーナが文字を整えて、僕が最後に名前を書く。札には、こう書いた。
『おおきくなって、ふたりともまだすきだったら、けっこんする。レオンとミーナ』
ミーナは札を花壇に立てかけようとしたけれど、雨にぬれたら文字が消えるかもしれないと言った。だから、庭の物置にしまうことにしたのだ。僕はそのとき、誰かが温室の窓からこちらを見ていたことに気づかなかった。
次の日の昼、宰相のヴァルターが僕のところに来た。ヴァルターは、話をする前に必ず机の上の紙をそろえる。紙が一枚でも斜めになっていると気になるらしい。今日も僕の勉強机の端に置かれた算数の紙を、きちんと重ねてから口を開いた。
「レオン殿下。昨日、庭で交わされたお約束について、お話がございます」
「ミーナとの約束?」
「はい。大変、申し上げにくいのですが」
ヴァルターは一度せきをした。
「その件を、当面は国家機密として扱うことになりました」
「……結婚が?」
「正確には、将来の婚姻に関する殿下のご発言と、それを記した札の存在でございます」
難しい言葉が多かったので、僕は分かったところだけ聞き返した。
「つまり、僕がミーナを好きなのは秘密なの?」
「そういうことでございます」
「でも、僕はミーナにもう言ったよ」
「当事者へのお伝えは問題ございません」
「当事者って、誰?」
「殿下とミーナさんです」
僕は少し安心した。好きだということまでミーナに言えなくなったら、たいへんなことだ。
「それならいいや」
「よくはございません」
ヴァルターは机の上に三枚の紙を置いた。一枚目には、僕とミーナが庭で話したこと。二枚目には、僕が王位を継ぐ予定であること。三枚目には、王家の結婚は国の大切な仕事であることが書いてあった。
「殿下のお相手が決まったと広まれば、貴族の家々が動きます。庭師のトーマと娘さんにも、よからぬ人間が近づくかもしれません。何も起きないうちに、静かにしておく必要があるのです」
「よからぬ人間って?」
「……余計なことをする大人です」
それは分かりやすかった。
「じゃあ、ミーナを困らせる人がいたら、僕が追い払うよ」
「お気持ちは立派ですが、殿下が動くと余計に目立ちます」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「普段どおりにお過ごしください。くれぐれも、誰にもお話しになりませんよう」
ヴァルターは話を終えると、立ち上がって紙の角をもう一度そろえた。
「それと、花壇の札は国の大切な記録として保管いたします」
「えっ。あれは僕たちの札なのに」
「殿下のためでございます」
僕が何か言う前に、ヴァルターは頭を下げて部屋を出ていった。その日の夕方、兵士が物置から札を持っていった。僕たちがひもで結んだ札は、立派な赤い箱に入れられたらしい。ミーナはその話を聞いて、心配そうに言った。
「赤い箱って、雨にぬれないのかな」
「たぶん大丈夫。国の大切な箱なんだって」
「じゃあ、返してもらえる?」
「聞いてみるよ」
「お願いね。あれ、私たちが作ったものだから」
ミーナはそれだけ言うと、花の数を数えに戻った。僕も大事なものだと思っていたけれど、ミーナは僕とは少し違う理由で、大事にしているようだった。
三日後、庭に行くと、ミーナの姿がなかった。代わりに、庭師のトーマが花壇の前で土をならしていた。いつもは僕を見ると笑う人なのに、その日は顔が固かった。
「ミーナは?」
僕が聞くと、トーマはしばらく答えなかった。
「……娘は、今日は家におります」
「風邪をひいたの?」
「いいえ。少し、外へ出づらいことがありまして」
トーマはそう言ってから、手袋を外した。土のついた指先が小さく震えていた。
「殿下。ひとつだけ、お聞きしてもよろしいでしょうか。ミーナに何か、悪いことをさせたのでしょうか」
「してないよ。僕が花を踏んだのは悪かったけど、ミーナは直してくれたんだ」
「そう、ですか」
トーマはほっとしたようにうなずいた。でも、まだ何かを隠している顔だった。僕は気になって、午後の勉強が終わると、兵士のモーリスに頼んだ。
「ミーナの家まで連れていってほしい」
モーリスは若い兵士で、笑うと口元がすぐ緩む。僕がこっそりお菓子を食べているのを見つけても、怒る前に自分も一つ欲しそうな顔をする人だ。
「殿下、それは難しいかと」
「どうして?」
「お約束の件は国家機密でして」
「僕たちが会ったら、国が困るの?」
「私にも詳しいことは分かりません。ただ、外出は控えるよう命じられています」
モーリスは僕の顔を見て、小さな声で続けた。
「ですが、ミーナさんのお父上は、何か困っているようでした」
「やっぱり」
「殿下。勝手に出かけるのはおやめください。その代わり、私から宰相閣下にお伝えします」
モーリスはふざけているときもあるけれど、約束は守る人だった。だから僕は、お願いすることにした。次の日、ヴァルターがまたやって来た。今度は紙が六枚もあった。
「トーマが困ってるって聞いたよ。どうして?」
僕が先に尋ねると、ヴァルターは机の上に紙を並べ、いつものように角をそろえた。
「殿下のお耳には入れたくなかったのですが、庭師の親子のもとに、ある貴族から使いが参りました」
「何の用?」
「王子との約束を忘れ、娘を遠くへ移すなら金貨を渡す、と」
僕はびっくりした。
「ミーナを買うつもりなの?」
「相手は、そんな言い方はしておりません」
「でも、ミーナをどこかへ連れていくためにお金を渡すんでしょ?」
ヴァルターは答えなかった。
「誰がそんなことを言ったの?」
「まだ確かめているところです。ただ、トーマはきっぱり断りました。娘さんにも危険が及ばないよう、しばらく別の土地で暮らしてもらう案を考えております」
「別の土地って、どこ?」
「王都から馬車で三日ほどの、北の町です」
三日。僕は馬車で三日もかかる場所へ行ったことがなかった。
「それじゃ、一緒に花の数を数えられないよ」
「安全のためです、殿下」
「ミーナは行きたいって言ったの?」
「まだ、本人には」
「だったら、どうしてもう決めたみたいに言うの?」
ヴァルターは困った顔をした。僕が兵士に聞いたときと、同じ顔だ。
「殿下には、いずれご理解いただけます」
大人がこう言うときは、たいてい、もう説明してくれない。僕はその晩、夕食のパンを半分残した。
次にミーナに会えたのは、四日後だった。王宮の裏門の近くで、父親と一緒に荷物を運んでいた。二人は庭仕事用の道具を箱に詰めていた。モーリスが「今なら少しだけ」と言って、僕をそこへ連れていってくれた。
「ミーナ!」
僕が呼ぶと、ミーナは振り返った。久しぶりに見る顔だったけれど、元気そうで安心した。
「レオン。走らないでって言ったでしょ」
「ごめん。ねえ、引っ越すの?」
ミーナは道具箱を地面に置いてから、僕を見た。
「まだ決まってない。でも、王都にはいないほうがいいって、お父さんが言われたんだって」
「どこにも行かないでほしい」
「私だって、この庭が好きだよ。でもね、昨日、知らないおじさんが家に来たの」
ミーナの声が少し小さくなった。
「レオンと話すのをやめたら、お父さんが楽に暮らせるって。立派なお屋敷でも働けるし、もう泥だらけにならなくていいって言われた」
「そんなの、変だよ」
「うん。だって、お父さんは庭の仕事が好きなんだもん。私も、泥だらけになるのは嫌じゃないし」
ミーナはそう言って、指についた土を見せた。
「それにね、あのおじさん、私たちの約束のことを知ってたの。秘密なんじゃなかったの?」
「そうなんだよ。僕にも分からない」
僕は情けなくなった。国家機密になったせいでミーナに会えないのに、知らないおじさんは知っている。
「ねえ、レオン」
ミーナは僕の顔をのぞき込んだ。
「この前の約束、やっぱり取り消したほうがいい?」
僕はすぐに首を振ろうとした。でも、ミーナは続けた。
「お父さんを困らせたくないし、レオンも困ってるでしょ。約束をしたのは二人なのに、知らない人までいっぱい怒ってるんだもん」
「僕は困ってるけど、ミーナのせいじゃないよ」
「じゃあ、どうする?」
僕は答えられなかった。王子なのに、好きな子を引き止めることもできない。勉強では、王様は国の人を守らなければならないと教わるのに、その練習みたいなことさえできなかった。ミーナは、そんな僕を見て少し笑った。
「すぐに決めなくてもいいよ。あの札にも、大人になったときに決めるって書いたでしょ」
「……そうだった」
「だから今は、私のお父さんが困らない方法を考えよう。レオンも、ちゃんとごはん食べてね」
「どうして、食べてないって分かったの?」
「顔。お腹がすいてるとき、いつもそういう顔するから」
ミーナは僕の手に、小さな白い花を一輪のせた。
「踏まなかったほう。今日、二十三個咲いてたんだよ」
僕は花をつぶさないように持って、うなずいた。ミーナは大人になったときのことより、今困っている人のことを考えていた。僕も、今できることを考えようと思った。
その夜、僕は父上に会いに行った。父上は王様だから、昼間はなかなか会えない。夕食が終わったころ、仕事部屋に行くと、父上は大きな机の前で書類を読んでいた。
「レオン。今日はずいぶん遅いな」
父上は書類から顔を上げて、僕の隣の椅子を指した。
「何かあったのか?」
「結婚のことで、聞きたいことがあるんだ」
父上は飲みかけのお茶でむせた。
「け、結婚?」
「僕がミーナとした約束、知ってる?」
「……ああ。ヴァルターから報告は受けている。お前が庭師の娘に、将来結婚すると言ったそうだな」
「違うよ」
父上が目を丸くした。
「違うのか?」
「大人になっても二人とも好きだったら、結婚しようって言ったんだ。そこが大事なんだよ」
父上はしばらく僕を見ていた。
「なるほど。ずいぶん大切なところが抜けていたな」
「ミーナがそう言ったんだ。十年後に何が好きかは、分からないからって」
父上は少し笑った。
「たしかに、十年もあればいろいろ変わる」
「でも、今はミーナが好きだよ。それなのに、知らない貴族がミーナを遠くへやろうとしてる。秘密にしたはずなのに、どうして知ってるの?」
僕がそう聞くと、父上の笑顔が消えた。
「その話は、どこで聞いた?」
「ミーナと、ヴァルターから。あの人は安全のためだって言ってたけど、ミーナは行きたくないんだよ」
父上は、机の上に置かれた紙を一枚手に取った。そこには『王太子殿下の婚姻に関する報告』と書いてあった。僕には全部読めなかったけれど、確かに『将来結婚するとの約束』という言葉が見えた。
「この報告を書いたのはヴァルターだ。だが、外へ漏れているなら、ほかにも調べねばならん」
「国家機密って、秘密を守るためのものだよね?」
「そうだ」
「じゃあ、ミーナは守られてないよ」
父上は答える前に、長く息をついた。
「……お前の言うとおりだ」
「僕、王様になったら、ちゃんと守れるようになりたい。だけど今は、どうすればいいか分からないんだ」
父上は書類を伏せて、僕のほうへ体を向けた。
「分からないなら、まず本人の話を聞くことだ。父上も、まだミーナの話を聞いていなかった」
「じゃあ、聞いてくれる?」
「ああ。お前も一緒に来なさい」
僕は安心して立ち上がった。でも、父上はすぐに僕を呼び止めた。
「レオン。もう一つ。お前はその子と本当に結婚したいのか?」
「今は、したいよ」
「今は、か」
「うん。大人になった僕にも、もう一回聞いてほしい。ミーナにも」
父上は声を出して笑った。
「そうか。それはいい約束だ」
次の日、王様の仕事部屋に、大人たちがたくさん集まった。ヴァルター、モーリス、庭師のトーマ、それから知らない貴族の男の人。黒い上着に金色の飾りがたくさんついていて、歩くたびに小さな音がした。その人は、南の土地を治めるグレイス侯爵だと紹介された。
「陛下。この件は王家の将来に関わります。お子様たちを同席させるのはいかがなものかと」
グレイス侯爵は僕とミーナを見て、少し眉を寄せた。ミーナはトーマの隣に立ち、僕は父上の隣の椅子に座っていた。彼女は緊張すると、親指で服のすそをこする。今も同じことをしている。
「当の子供たちがいないところで話を進めて、ここまでこじれたのだ」
父上は静かに答えた。
「まずは話を聞こう」
グレイス侯爵は口を結んだ。最初に話したのは、トーマだった。
「数日前、侯爵家の使いが家へ参りました。娘が殿下との約束を取り消し、王都を離れれば金貨五十枚を渡す、と」
「私は、そのような命令を出しておりません」
グレイス侯爵がすぐに言った。
「心配した家の者が、勝手に動いたのでしょう。もし事実なら、私から厳しく注意いたします」
トーマは小さな封筒を取り出した。
「使いの方は、こちらを置いていきました。娘を遠くへ移すことに同意した場合、金貨を支払うと書かれています」
ヴァルターが封筒を受け取り、父上に渡した。父上は中の紙を読んでから、グレイス侯爵を見た。
「侯爵家の印が押してある」
「印を持つ者は、家に何人もおります」
「なるほど。ならば誰が使ったか、調べればよいな。金貨を用意した記録も残っているだろう」
父上がそう言うと、侯爵は少しだけ黙った。僕は知らなかったけれど、金貨を五十枚も動かすと、誰かが何かを書き残すらしい。お金は使ったらなくなるのに、紙は残るのが不思議だった。次に、ヴァルターが報告した。
「今回の件を知っていた者は、最初はごく少数でした。ただ、警備や連絡のため、関係する部署へ書類を配りました。その数は、三十六枚です」
「三十六枚も?」
僕が思わず声を上げると、ヴァルターはうなずいた。
「念のためでございます」
「僕たちの約束は、一枚の札に収まったのに」
モーリスが少し下を向いた。笑いをこらえているときの顔だ。ヴァルターはせきをして続けた。
「そのうち一枚が、侯爵家の者の手に渡ったことが分かりました。王宮で書類を運んでいた者が、金を受け取って写しを見せたようです。本人から話を聞き、現在調査しております」
「まことに遺憾ですな」
侯爵はすぐに言った。父上は侯爵を見たまま尋ねた。
「そなたは、どうして十歳の娘を遠くへやる必要があると思った?」
「王家の婚姻は国のことです。殿下には、もっとふさわしいお相手がいるでしょう。たとえば私の娘のように、家柄も教育も整った娘が」
そのとき、ミーナが僕の袖をそっと引っ張った。
「ねえ、レオン」
「どうしたの?」
「その娘さんは、レオンのこと好きなの?」
とても小さな声だったのに、部屋が静かだったせいで、みんなに聞こえた。侯爵が顔をしかめた。
「子供に、まだそのようなことを決める力はありません。父親が良い縁談を用意するのです」
「でも、私もレオンのこと、好きかどうか自分で決めたいよ」
ミーナはそう言ってから、急に心配そうな顔になった。
「あの、私、失礼なこと言った?」
僕は首を振った。
「言ってないよ。僕も同じだもん」
父上は少し考えてから、侯爵に言った。
「そなたの娘も、まだ十歳だったな」
「はい。娘は殿下にお仕えするため、幼いころから礼儀を学んでおります」
「その娘は、王子との結婚を望んでいるのか?」
「もちろん、父親として最良の道を」
「娘が望んでいるかを聞いた」
父上は声を荒らげなかった。でも、侯爵はそれ以上、言葉が出なくなった。僕はそのとき初めて、侯爵にも僕たちと同じくらいの娘がいるのだと知った。きっとその子にも、好きな遊びや食べ物がある。僕と結婚したいかどうかは、本人に聞かないと分からない。
「父上」
僕は手を挙げた。
「僕も一つ、話していい?」
「もちろんだ」
「僕とミーナは、今すぐ結婚するって決めたわけじゃないんだ。大人になっても、お互いに好きだったら、そのとき決めようって約束したんだよ」
僕は父上の机の上に置かれた報告書を指さした。
「そこには、大事なところが書いてない。ミーナはちゃんと、十年後は分からないって言ったんだ」
ヴァルターが自分の書いた紙を見た。僕は続けた。
「約束を勝手に大きくして、知らない大人がミーナを遠くへやろうとするなら、あの札を返してほしい。僕たち、そんなことのために書いたんじゃないから」
言い終わったら、急に喉が渇いた。ミーナが袖を引っ張って、今度は小さく笑った。
「ちゃんと言えたね」
僕はうなずいた。僕が上手に話せたかどうかは分からないけれど、言いたいことは全部言えた。しばらくして、父上がヴァルターに尋ねた。
「そなたは、この二人を守るために秘密にしたのだな」
「はい、陛下。庭師の親子が利用されることを恐れました」
「だが、本人に説明しないまま遠ざける案を作り、その間に書類が外へ漏れた。結果として、守るべき相手をいちばん不安にさせた」
ヴァルターは深く頭を下げた。
「申し訳ございません」
父上は、次にトーマとミーナを見た。
「王宮の仕事を続けたいか?」
トーマは驚いた顔をしたあと、うなずいた。
「はい。できることなら、これまでどおり庭の手入れをさせていただきたいと思っております」
「私は、お父さんと一緒に花を育てたいです」
ミーナも背筋を伸ばして答えた。
「そうか。ならば、無理に移ってもらうことはない。安全を守るのは、こちらの仕事だ。モーリス、親子が安心して暮らせるよう、必要なことを考えてくれ」
「はっ。承知いたしました」
モーリスはいつもより大きな声で返事をした。父上は侯爵に向き直った。
「侯爵家の使いと金の件は、きちんと調べる。それが済むまで、王宮への出入りを控えてもらおう。王子の結婚を理由に人へ金を渡し、居場所を変えさせようとする行いは認めない」
侯爵は何か言いかけたけれど、父上が目をそらさなかったので、黙って頭を下げた。この日、侯爵は兵士に案内されて部屋を出ていった。大人の話は、それで全部終わったわけではなかった。
僕があとで聞いたところでは、侯爵家の使いが実際に金を用意していたことが確かめられ、王宮への出入りは長いあいだ認められなくなったそうだ。書類を外へ見せた人も仕事を失った。侯爵の娘に悪いことはなかったけれど、父親のしたことで困っているだろうと思うと、少し気の毒だった。
それからヴァルターは、秘密の書類を減らし、王宮で働く人が困ったときに相談できる場所を作ったらしい。僕にはまだ、そういう難しい仕事はよく分からない。でも、父上がトーマに「安心して庭の仕事を続けてくれ」と言ったとき、ミーナの顔が明るくなったのは見えた。僕には、そのほうが大事だった。
その週の終わり、物置の前から兵士がいなくなった。ヴァルターは赤い箱を抱えて庭へ来た。僕とミーナが花壇の前にいるのを見ると、少しばつの悪そうな顔をした。
「レオン殿下、ミーナさん。こちらをお返しします」
箱の中には、僕たちの木の札が入っていた。ミーナは大事そうに札を取り上げ、文字を確かめた。
「ちゃんと残ってる。よかった」
「保管には十分、気を配りましたので」
ヴァルターはそう言って、いつものように箱のふたをきっちり閉めた。
「それと、お二人には謝らなくてはなりません。私は、お二人の言葉を最後まで聞かず、大人にとって都合のよい形で記録してしまいました」
僕はヴァルターを見上げた。
「もう、国家機密じゃないの?」
「はい。少なくとも、庭にある札を秘密の書類にする必要はございません」
「よかった。じゃあ、今度は兵士さんも休めるね」
ヴァルターは少し驚いた顔をしたあと、初めて僕の前で笑った。
「ええ。皆、ほっとするでしょう」
ミーナが札を持ったまま、ヴァルターに尋ねた。
「これ、また花壇の近くに置いてもいいですか?」
「もちろんです。ただし、雨にぬれないよう、お気をつけください」
「はい。私たちで考えます」
ヴァルターが帰ったあと、僕たちは物置から小さな板と透明な油紙を持ってきた。ミーナが札を包み、僕がひもを結ぶ。今度は、前よりも上手に結べた。花壇の端に札を立てると、ミーナはしゃがんで白い花を数え始めた。
「二十五、二十六、二十七……あれ、レオン。ここ、一つ増えてる」
「僕、今度は踏んでないよ」
「知ってる。新しく咲いたんだよ」
ミーナは笑って僕を見た。僕は少し迷ってから、聞いてみた。
「ねえ、ミーナ。大人になるまで、あと何年あるんだっけ」
「十年くらいじゃない?」
「長いね」
「そうだね。でも、そのあいだにいっぱい花が咲くよ」
僕は花壇の白い花を見た。去年の花はもうないけれど、今年も咲いている。来年もきっと咲くんだろう。僕たちの約束がどうなるかは、まだ分からない。でも、明日は一緒に数えられる。
「じゃあ、明日も来るよ」
「うん。おやつを持ってきてね。半分こしよう」
「分かった。何がいい?」
「ニンジンのケーキ」
「前は嫌いだったのに?」
「だから言ったでしょ。好きなものは変わるんだよ」
ミーナは得意そうに笑った。僕はちょっと心配になったけれど、今はまだ僕のことが好きかと聞くのはやめた。何度も聞いたら、きっと怒られる。その代わり、花壇の札を指さした。
「これ、十年たっても取っておこうね」
「うん。でもね、レオン」
「何?」
ミーナは札の下に生えていた草を一本抜いてから、僕の顔を見た。
「十年後にまだ好きだったら、そのときは、ちゃんともう一回言ってね」
「もちろん。今度は国家機密にしないよ」
「それがいいね。だって、私にはちゃんと聞こえるように言ってほしいもの」
僕は大きくうなずいた。それなら、今から練習しておこう。
「ミーナ、僕は君が好きだよ」
「知ってるよ。ほら、今は花に水をあげる時間。好きなら、そっちを手伝って」
「うん!」
僕はじょうろを取りに走りかけて、慌てて歩くことにした。ミーナの好きな花を、もう踏まないために。




