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31話

 駅から歩いて五分。最近できた市立図書館に着いた。僕は階段を上って三階に上がる。


 一階と二階は図書館で三階から五階までが会議室や多目的ホール、民間企業のオフィスがある。その隙間にテーブルと椅子がおいてあり、テスト期間になると学生たちはそこで勉強をしている。


 誉の後ろ姿が見える。窓辺のカウンター席でもくもくと参考書を解いている。


 周りには誰もいない。


「誉」


 片耳にイヤホンを刺している誉を呼んだ。


「早いじゃない」


「そうかな?」


 僕は誉の横に座る。


「勉強しに来たんじゃないんだ。何かのついでに来たの?」参考書を解き続けている誉が僕に聞いた。


「敬ちゃんと遊んでた」


「そう。疲れた?」


「少しね」


「朝ご飯にケーキ食べてるからよ。一人で六切れは食べすぎ。病気になるわ」


「なんで知っているの?」


「昨日スーパーで見かけたのよ」


「見たなら声かけてよ」


「もうレジ打ちしてたから書けなかったのよ」


「何買ったの?」


「アルミホイル。お母さんに頼まれたの」


「偉いね」


「ありがと」


 少しうれしそうな誉の顔が、ガラスの反射越しに見えた。


「一ついい?」


「なに?」


「どうやって敬ちゃんを立ち直らせたの?」誉がシャープペンシルの動きを止めて僕を見る。


「なんでわかるの?」


「透真の元気がないから」


「敬ちゃんの努力だよ」僕はガラスの向こうの景色を見た。


「嘘。あの子は自分のことを頑張れない。誰も助けてくれなかった側の人間。自己救済の方法なんて知るわけがない。受け身な子」誉はまた参考書を解き始めた。


「厳しいね」


「透真は何をしたの?」


「…敬ちゃんと母親の仲直りの仲立ち」


「やりすぎよ」あきれたように誉が僕に言った。


「…わかってるよ」


「こうなるとは思っていたのよね。罪悪感があるの?敬ちゃんの選択に介入しすぎたことを反省しているの?」


「敬ちゃんと話すまではしていた。けど気にしなくていいって。敬ちゃんが僕を嗾けたって言われたよ」


「敬ちゃんらしいわね」


「誉は、僕が言うことを聞かないから忠告しなかった?」


「うん。透真は優しさを捨てきれるほど冷酷な人間じゃないから。最初からわかっていたのよ。自分の目標よりも他人のことを心配しちゃうの。あと中途半端に馬鹿だから利用されたことに気が付いちゃうの。かわいそうだわ」


「ひどいね。悲しいよ」


「こうやって言われるためにここに来たんでしょ?」


「それもある。疲れたんだ。何も考えられなくてね」


「今日、敬ちゃんになんて言われたの?『透真君は天才になれないよ』とか?」


「大体あってる。口調も似てるね。親友?」


「違うわ。なるつもりもない。あんなにずるい子私は嫌い。昔を見ているみたいで嫌」


「友達のほうがいいの?」


「いいえ。友達でもないわ。共通の友人を持ってるだけよ」


「敬ちゃんは友達だって思ってるよ」


「ありえない。向こうも同じよ。私のことなんて透真のおまけくらいしか思ってないわよ」


 こんなにも他人を批判している誉は初めて見た。いつも僕だけ揶揄している。ましてや敬ちゃんに対してこんな意見を持っているとは思っていなかった。


「ほかには何を言われたの?」


「僕は天才にはなれないけれどヒーローにはなれるらしい」


「ここに来るのも納得だわ」


「誉はそう思う?」僕は誉を見た。


「   透真は天才にも救世主にもなれないわ」誉は少し間をおいて話した。きっと考えていたわけじゃない。ずっと僕に対して思っていたことを言うのか迷っていただけだった。


「ひどいこと言うね」


「で、別れたの?」


「なんの話さ」


「クラスのみんなは透真と敬ができてるってみんな話しているわ」


「そんなことないよ」


「じゃあ今は何なの?」


「友達、だってさ」


「敬ちゃんから言われたの?」


「うん」


「ふーん。あの子はそういう選択を取るのね」誉がぼんやりとつぶやいた。


「何か気になるところがあるの?」


「どうしよう…。言っても、、いいか」独り言くらいの音量で誉がつぶやいた。


「いいよ。教えて」


「敬ちゃんはきっと透真を天才にしようとしている。もらった恩に報いたいのね。誰でも助けてしまう透真が、初めて見捨てる人間に、敬ちゃんが手を挙げたのよ。良かったじゃん。率先して生贄になってくれるなんて。素敵な友情だわ」


「…」


「それをあんまりだと思う時点で、あなたの願いは叶わないのよ」


「うん」


「ねぇ。こっち見て」誉が僕の顎をつかむ。


「なに?」


「透真が一人であの広い家に住むことになった日と同じ顔してる。本当に疲れたのね」


「少しだけだよ」


「虚勢はやめなさいよ。今にも泣きそうじゃない」


「違う。」僕は誉の手を優しくどかす。


「敬ちゃんは透真を過大評価しているの。あの子ははっぱをかけたつもりでしょうけど、透真が燃え尽きちゃったね。私もしてたわ。あなたへの過大評価」


「嘘だ。一度もないでしょ」


「あるわよ。小学生のころの透真は、本当に救いだった。窮地に駆けつけてくるんだもの」


「たまたまさ」


「昔から恥ずかしがり屋さんね。プライドが高くて困るわ。他人からの好意なんていくらあっても困らないんだから。臆面通り受け取りなさい」


「そんなことないよ」


「なんで敬ちゃんに野球をやってたことを言わなかったの?」


「」


「かけた時間の割にはうまくできなかったから、恥ずかしかったんでしょ?」


「」


「天才になるために何でもするといいながら恥も外聞もあるのね」


「」


「何者かになるために努力しているのは透真だけじゃないの。でも優しいのは透真だけだよ」


「誉もそうなの?」


「そうよ。…やめたら、その消極的な相槌。私、透真との沈黙は苦じゃないの」


「」


「みんな気持ちの悪い計算をして生きているの。天然を装う打算も計算の一部。たまたまなんてないの。透真のやさしさを引きずり出すために、みんな頭を使ってるの」


「誉はすごいね」


 僕の状況を僕以上に知っている。僕はこれを求めていた。けれど攻撃的過ぎる。心がなくなりそうになる。意識まで飛びそうだ。


「野球だってさ、もっと大人に聞けばよかったのに。あのコーチ、今も昔も優秀って評判よ。優しくしてもらったんじゃないの?」


「そうだね」


「なんで教わらなったの?」


「  」僕ははぐらかそうと思った。でも誉が聞きたいのはここの場所なんだろうと思う。


「  」誉は何も言わずに僕を見る。僕は重く閉ざした口を開いた。


「あの人は僕のことを、かわいそうな子だと思っていた。両親が試合にも練習にも一度も来ない子供だから、他の子と同じ扱いはしていなかった。露骨ではないけど、少し優遇されているのは自分も周りも分かっていた。きっと不遇な分を、野球で埋めてくれようとしたんだろうね。でも優遇は必ず不満を生む。だから僕は、文句が出ないように必死で周りと仲良くした。あの場所で学んだのはさ、野球じゃなくて政治だったよ。努力してスタメンになったところで、周りは実力を認めてくれなかったよ。うまくなる必要がなかったんだ。そんな僕は教わる必要はないだろう」


「」


「かわいそうな子供だったから、周りの大人は優しいんだよ。親が持ち回りで試合や、練習の準備をするんだけど、僕だけ免除してくれた。でも僕は率先してお手伝いをしたよ。じゃないと試合会場への送迎を頼みづらくてさ。お金で解決する方法もあったけど、角が立つんだよね。一回タクシーで試合会場に向かったら変な顔されたこともあった。周りのお母さんたちは僕を健気な子として見てくれた。ありがたかったよ。でも僕が頑張るほど僕の家族が悪くなるような気がしてさ。ちょっと苦しくなったんだ」


「」


「天才を証明するための道具として野球を選んだけどね、結構楽しかったんだ」


「」


「僕は、野球だけをしたかったなぁ」


「ごめん。いまのは言い過ぎた。あまりにも無神経だった」


 泣きそうな誉を見て、自分の失態に気が付いた。あまりにも遅い。


「こっちも悪かった。余計なことを言ったよ」誉に対して少し強く当たりすぎた。言われるために来たのに、言われすぎた当てつけで誉に謝らせるなんてひどい。


「あの時、透真そんなこと考えてるなんて知らなくて。私無神経なこと言ってた。『なんで頑張らなかったの?』って。本当にごめんなさい」参考書よりも下を見て誉は僕に謝った。


「気にしないでいよ。言わなかった僕も悪いんだ。でも、あの時は本当に限界だった」僕はまた遠くの景色をぼんやりと眺める。


「透真が泣いているところなんて初めて見たから衝撃的だったのよ。あの時に初めて透真が人だって気が付いたの」


「最初は何だったのさ?」僕は誉に聞いた。


「ヒーローよ。さっき言ったじゃない」


 誉は僕をまっすぐ見る。それが気恥ずかしい。


「勉強邪魔したね」


 僕は席を立とうとする。


「まだ前菜。これからよ」誉が僕の手を引っ張る。


「もうはちきれそうだよ」


「ねぇ。」


「なに?」僕はもう一度、椅子に座った。


「『透真君もお母さんみたいにすごい人だね』って私が言わなかったら天才を目指すことはなかった?」うるんだ目で誉が僕に聞いてきた。


「…」ぼくもじっと誉を見ていた。誉に伝える言葉を探していた。


「はっきりして」


 誉が声を強める。僕が答えたくないことを知っている。だから今この状況で聞いてきた。


「誉がいなければ母親とのつながりを意識することなんてなかった。誉が証明する機会をくれたんだ」


「」


 僕は天井の石膏ボードを見つめる。


「誉は智子さんと正文さんとよく似てる。頭の良さも、料理のセンスも、話し方も。敬ちゃん達も似てるんだよ。熱いお茶の冷まし方 。歩き方。互いを遠慮しすぎるところもね。じゃあ僕は?」


「優しさでしょ」誉が間髪入れずに僕と母親の共通項を上げる。


「どんな?」


「覚えてない?私の家に挨拶に来たじゃない。透真のお母さんだってわかったよ。頭撫でてもらったこと覚えているもん」


「僕は」


 一呼吸置く。僕は誉に視線を戻した。


「僕は一度もされたことはない」


「」


「僕らにはつながりがないんだ。血縁だって定かじゃない。あの人は母親ではないのかも。本当は試験管が母親かもね。思い出も写真も何一つない。口調も、価値観も、趣味すら知らないんだ。もちろん向こうも同じさ。僕の誕生日だって、あの人は知らないんだろうね」


「」


「そのためにこんな思いしているの?」


「そうだよ。」僕は誉を見る。


「」


 誉が目からあふれそうだった涙が流れた。


 僕は今怖い顔をしてしまった。すぐにそれをやめる。


「家族になってみたいんだ。あの大きい家に一人ぼっちは寂しいからね」僕は誉から視線を外すために、うつむいて言った。


「」


「なんで誉が泣くんだよ」


「泣いてない。透真の涙が移っただけ」


「ハンカチいる?」ポケットからハンカチを出した。


「うん」


 僕はハンカチを渡した。


「誉を泣かせる僕はヒーロー失格だね」


「透真がいたから泣いていない期間があるの。私は感謝している」鼻をすすりながら誉は僕に言う。


「ありがとう」誉の感謝に心が温かくなると思っていたのに、何も思わなかった。


「透真。いつまで追い続けるの?」


「少し疲れたよ」


「わかった。また一緒に勉強しましょうね」


「今日は帰るよ」


「透真。また明日ね」誉は小さく手を振った。


「うん。また」僕は誉の声を聴いてから席を立った。


 たぶん誉はまだ僕の背中を見て、小さく手を振っている気がする。でも僕は振り返ることをしなかった。


 ここまで話すつもりなんてなかった。誉が悲しくなるから言わないでいたんだ。彼女が勝手に踏み込んできただけ。


 誉は悪くないんだ。いつかは自分で見つけていた道を彼女が先に照らしただけ。


 行動は誉を気にしてハンカチを渡したけれど、『そんなことない』と言うことはなかった。つまり、そういうことなんだろう。


 ひどい奴だ。こんなのをヒーローだという奴がいたなんてね。自虐的な笑みがこぼれそうになる。


 僕は窓ガラスを見た。下のほう。所々に子供の手形が付いた窓ガラスに僕の顔が景色より濃く映る。


 いつか誉に話す前に、僕がなりたい自分になれていたら何の問題もなかったんだ。


 お互い待っていた。


 そしてお互い待ちくたびれた。


 誉だけが待っていてくれたんだ。


 ここが潮時なのだ。


 僕はここで諦めてしまうのだろうか。


 もう僕自身のことが他人ごとに聞こえてしまう。


 じゃあ。僕とは何だっけ?


 富樫透真はどこの誰なんだろう。


 なんで僕はこんなにも生きるのがへたくそなんだろう。

 ご愛読ありがとうございました。

 本作は、四年前に書き終えていたものを、あらためて読み返し、推敲して完成させたものです。とはいえ大きく手を入れたわけではなく、ほとんどは当時のまま残っています。ただ、最後のシーンだけは書き直しました。


 書き直す前の結末は、これからも天才への模索が続いていく、そんな余地を残すものでした。けれど今回は、それをやめて、透真に少しだけ厳しい現実を突きつける終わり方にしました。努力の量と結果が必ずしも比例するわけではないこと。思いの強さとかなえたい夢に、必ずしも相関があるわけではないこと。透真が天才になる未来は、きっとないのだと思います。


 それでも、それが透真にとっての救いになるような気がしました。生ぬるい中途半端な場所に留まるのではなく、自分の人生の指針を一度リセットするための、ひとつのきっかけのようなものになればいいと考えました。

 そしてそれは、透真が見ている世界がすべてではないということでもあるのだと思います。


 透真自身、そして私自身。きっと多くの人がそうであるように、学生時代は学校がすべてでした。その世界を狭いと感じたこともありませんでした。けれど社会に出て初めて、あの場所がどれだけ限られた世界だったのかを知りました。

 透真もきっと、いつか同じことに気が付くのだと思います。自分の人生には天才以外の道があるのだということ。それだけがすべてではないのだということ。それを受け入れるのは、とても苦しいことだと思います。それでも透真ならば、と願わずにはいられません。


 そしてそれは、透真だけの話ではなく、私自身のことでもあります。透真は私から生まれた存在であり、私の一部でもあります。

 透真が手放そうとしているものを、私はまだ手放せずにいます。

 いまだに、自分が特別な人間でありたいという気持ちを手放しきれないまま、時間だけが過ぎていきました。私はきっと、年甲斐のないティーンエージャーのままなのだと思います。


 本当は、これを投稿して筆を折るつもりでした。

 けれど、あらためて読み返してみて、少しだけ考えが変わりました。


 特別でありたいとか、何かにならなければならないとか、そういう価値観に自分は縛られすぎていたのだと思います。作家というものを、どこか特別な存在として見ていました。

 けれど、本来はそうではないのかもしれません。私は、ただ書きたいから書いているのだと思います。


 誰にも読まれなくてもいいと思えるくらいには、自分のために書いているのだと思います。それでもこうして外に出しているのは、どこかで誰かに届くことを、少しだけ願っているからかもしれません。


 こんな気持ちを抱えたまま、これからも社会の中でもまれながら、そのはけ口として物語を書いていこうと思います。

 もしかすると、私が本を書く理由は、社会のせいなのかもしれません。私に優しくない社会はあまり好きではありません。でも、この本を読んでくださった方々と引き合わせてくれた社会には、少しだけ感謝してもいいのかな、と思っています。


 長い話でしたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。

 こんな青臭い話を公開できるくらいには、大人になれたのかもしれません。


 また作品を通して出会えたら。

 そのときに、また逢いましょう。


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