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凡人のひとり反省会

 音をさせないように素早くこの場から離れたい。まるで空き巣みたいだ。徐々にやってしまった感が大きくなる。


 他人の母親にあんな大口をたたきつけてしまった。善意でケーキを差し出して、厚かましくも二つも食べさせて、帰ってきたものが暴言だなんて僕ならとてつもなくショックを受ける。


 あんなに不安定な人に言うべきことではなかった。言いたいことではあったがそんな権利どこにもなかった。身勝手な正義感が僕を大きくした。自分が強くなった錯覚がしてしまったのだ。


 ショックで階段の一番下に腰を下ろす。


「はぁー」


 ちかちか光る蛍光灯の下で猛省している。いろいろ言ってしまった言葉が僕の頭の中でバウンドしている。踊り狂っている。


 敬ちゃんの現状がわかったことは確か。良かったことだと強引な自己暗示をしても他人の母親に母親ではないと言ってしまった。これはどう考えても失礼だ。もう何もしたくなくなってくる。今日の朝感じたあの憂鬱な気分に従っておけばよかった。静かな家で雨の音でも聞いて情所をはぐくめばよかった。


 僕は自分のしでかしたことを受け止めるために、恥ずかしいけれどなぜ怒ったのかを思い出す。


 敬ちゃんの部屋にはお父さんの仏壇がある。その近くに、玄関にあった家族写真と同じ年くらいの遺影が飾られていた。


 初めて見たときは驚いたけれど、そのときは何も言わなかった。ただ、妙だなとは思った。今になって振り返ると、その違和感の正体が少しずつ形になってきている。


 あの家には部屋が少なくとも三つはあるはずだ。


 敬ちゃんの荷物が置いてあった和室、リビングダイニング。


 それともう二つ。僕がケーキを食べている視界に引き戸があった。


 生活の様子から考えると、あれが母親の部屋なのだと思う。


 一般的に考えれば、仏壇は家族が出入りする場所に置くものだろう。


 リビングの隅とか、家の中心とか。せめて母親の部屋とか。手を合わせようと思ったときに、誰でも自然に向き合える場所に。


 リビングにおけるスペースだってちゃんとあるのに。


 物であふれかえっているわけではない。


 それなのに、あの仏壇は敬ちゃんの部屋にある。


 なぜそこなのか、と考え始めると止まらなくなる。


 敬ちゃんは父親と折り合いが悪かった。以前、その話を聞いたことがある。父親から嫌われていたと思う、と本人は淡々と言っていた。


 亡くなる前、リモコンを投げられたことを今さっき聞いた。


 母親は大したことではないように話していたけれど、他人事として聞けば、それは十分に暴力だった。児童相談所だって動くだろうに。


 敬ちゃんが葬式にも墓参りにも行っていないことを、周囲の大人から聞いた。事情はあるのだろうけれど、それだけ関係が冷えていたのは確かだ。


 そういう相手の仏壇が、なぜ敬ちゃんの生活空間の中にあるのか。


 母親なりの理由があるのかもしれない。


 自分の目の届く場所に置けなかったのか、逆に、敬ちゃんのそばに置いておきたかったのか。どちらにしても、結果として毎日その存在を目にするのは敬ちゃんだ。


 寝ても覚めても自分のことを嫌いだと思う父親と顔を合わせる。敬ちゃんがどれだけ成長しようとも写真の父親は自分のことを否定したときの姿のまま。


 朝起きて少しすれば母親が自分の部屋に入って、お線香と仏壇にお米を備えに来るのだろう。もしかしてそんな母親と会いたくないがために新聞配達をしているのではないのだろうか。そんな邪推が止まらなくなる。


 敬ちゃんはそのことについて、何も言っていないのだ。


 母親との会話は少ないらしい。敬ちゃんは諦めている。もう疲れたのだろう。


 自分の母親が悲劇のヒロインを気取っていたらこっちが病んでしまう。移らないように距離を取ることしかできないだろう。


 母親は何で敬ちゃんの部屋に旦那の仏壇を置いたのか。


 本当に、なるべく、できるだけ、可能な限り、母親の優しさだと見積もれば母親なりの区切りのつけ方だった、なんて考えたこともある。葬式も墓参りも言ってない子供に、少しでも父親がいない実感を覚えてほしかったのかもしれない。


 悪く言ってもいいのなら、あの仏壇は、敬ちゃんに父親の死を背負わせるためのものだ。


 葬式にも来なかったこと、墓参りをしなかったこと、その全部を忘れさせないために、毎日目に入る場所へ押しつけた。そうとしか思えない。


 ただの罰だ。当てつけだ。


 形のない罪悪感を、形のある箱にして押しつけただけだ。


 母親はきっと、自分の悲しみで手一杯だったのだろう。だから一番近くにいた人間の痛


 みには目を向けなかった。向けられなかったのかもしれない。


 けれどそれは理由にはなっても、免罪符にはならない。


 あれは善意なんかじゃない。自分が向き合えなかった現実を、息子の部屋に置いて見ないふりをしただけだ。敬ちゃんがそれをどう受け止めていたのかは分からない。もう何も感じてなかったんだと思う。


 僕には、あれが正しいことにはどうしても見えなかった。


 さっきの僕の言動を振り返ってみても、やっぱりそう思う。後悔なんてなかった。


 敬ちゃんを心配する友人としてみれば、だけれど。


 自分が正しいと思っても、ため息の一つや二つ、自然と出てきてしまう。


「ため息つくと幸せ逃げちゃうよ」後ろから聞いたことのある声がした。


「え?敬ちゃん⁉」飛び起きるように立ち上がった。


 階段の上から右手を挙げた敬ちゃんが蛾の飛び交う蛍光灯の下から僕を見下ろした。


 ルーズなワイン色のワイシャツにぴちっとした黒のチノパン。トートバックをぶら下げている。初めて見た敬ちゃんの私服を堪能する間もなく、敬ちゃんはニヒルに笑って僕を見た。びっくりしたでしょと顔が物語る。


「こんに…。もう違うね。こんばんは透真君」いつも通りに敬ちゃんは僕に話しかける。


「うん、こんばんは」僕は敬ちゃんを見上げる。しりすぼみに言葉が弱くなってしまった。


「給料くれるの?」


「うん。」僕は言われるがまま、大事に持っていた封筒を渡す。


「もらうね」


「うん」僕は立ち上がって、ポケットから封筒を渡した。


「まだ暇?」敬ちゃんは中身の枚数を確認せずに、封筒を雑にポケットに入れた。


「うん」


「少し歩かない?」


「うん。いいよ」


 敬ちゃんを見て僕は少し安心した。少なくとも涙の痕はなかった。

ご覧いただきありがとうございました。

この物語は完結済みのため、添削でき次第投稿します。

次回も皆様とお会いできるのを楽しみにしております!

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