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それでも僕は天才に会いに行く

 六月 二十六日 



 今日も雨が降っている。昨日よりもビニール傘に当たる雨の音が大きい。


 毎日雨が降る季節にドラム式洗濯機のありがたみを強く思う。


 僕は雨だからって外に出る敷居が高くなる性格ではない。休日は大体外出している。


 ただ今日は服を着るのも、傘を開くのにも気疲れしてしまった。


 僕の用事は今日でなくてもいいのだ。明日でも何の問題もないはず。むしろ今日のほうがよくないのかもしれない。考えれば考えるほど億劫になってしまう用事。考えるのが嫌になって、疲れを吹っ飛ばして、一昨日来た中華料理屋に向かう。


 もちろん敬ちゃんと会うためだ。きっといないけど敬ちゃんについて聞く。


 どこまで踏み込んでいいのか。昨日の誉の言葉が僕に刺さる。どこまで聞いていいのか。まだ僕はわかっていない。


 スマホの案内を付けづに、僕は前に来た店に着いた。


 すりガラスの奥からライトの明かりが見える。


 暖簾のかかっていない中華料理屋の扉を滑らせた。


「こんにちは」僕は大きな声で店に入る。


 建付けの悪い扉を力で押して中華料理屋に躊躇なく入る。


 もう昼営業は終わったのだろう。扉を開けても音はしなかった。


 座敷にある座布団は一か所に固められ、椅子が全部テーブルに挙げられている。卓上調味料もテーブルにはない。壁につけられたテレビは消えていた。水道から出る水の音と、うっすら聞こえるラジオの音しか聞こえなかった。


「お客さん。もうお店は…あぁ、いらっしゃい。もう終わったよ」机といすを拭いていた店長が顔をあげて言った。


「敬ちゃんに用があってきたんですけど。いますか?」


「今日はお休みするって電話来たよ」


「そうですか」


 予想はしていた出来事。別に今日じゃなくてもいいのだ。明日にしよう。


「もしかして喧嘩でもした?」


「喧嘩したほうがもっと気楽です。仲直りすればいいだけですから」


「あはは。そっか、そっか」仕込みをしながら笑い飛ばされた。


「じゃあ、お邪魔しました」


「まって。実は間違えてラーメン作っちゃってね。良かったら食べてよ」


「え。いいんですか」


「いいよ。座って待ってて」


 店長はそういって頭のタオルを巻きなおした。僕は前回と同じ席に座る。


「敬は学校ではどんな感じ?」厨房から声をかけてきた。


「バイトの時と変わらないです」店主はゆで麺機に中華麺を落とす。


「笑ってる?」


「笑ってますよ」丼をゆでるお湯で温めている。


「友達と?」


「敬ちゃんはほとんど一人です」


「そうだろうね。敬はそういう子だから」冷蔵庫に閉まっていたタッパーを調理台の上にセットした。


「そうですか」


「君も不思議に思うだろう?」店長の言っている不思議とはどういうものなのか、焦点が合わないままどこにでも当てはまる模範解答を言った。


「そうですかね」


「君はよく信用されているんだね」


「そうですかね?」


「あんなに笑う敬を久しぶりに見たよ」温まった丼にかえしとラーメンスープを注いだ。


「笑ってました?」


「え?うーん。そうだね。確かに笑ってなかったのかもしれない」


「敬ちゃん笑わないんですか?」


「違う。良く笑うんだ。でも楽しそうじゃないだけだよ」タイマーが鳴った。中華麺を手際よく湯切りした。


「もしかしてお父さんが死んじゃったからですか」


「兄貴、じゃなくて敬のお父さんが病気で死んじゃったのは聞いてるんだ」スープの入った器に麺を入れ、トッピングを乗せた。


「知ってます」


「あの子は葬式も墓参りも一回も来てないんだ」


 店長はただ淡々と話している。僕はそれが寂しいことだと思ったが、案外そうでもないのか。家族が死んだ経験がないからどう受け取っていいのかわからなかった。


「はいお待ち」


「い、いただきます」重い話の中テーブルに出されたラーメン。箸を割るべきか迷ってしまうけれど僕はラーメンを食べ始める。


 掘り下げていい話ではない気がする。ただ聞かなくては敬ちゃんに会えない気もする。簡単に逃げられ、撒かれるだろう。


「食べるときにする話じゃなかったね。ゆっくり食べてて」


「ありがとうございます。いただきます」


 僕はラーメンをすする。手持無沙汰な店主と目が合ってしまう。


「敬ちゃんは奥さんの代わりにここで働いているんですよね」


「そうだよ」


「新聞配達までしているのは何か聞いていますか」


「聞きたい?」


「どうですかね…でも聞いたほうが敬ちゃんのことがわかる気はします」


「理由はね―


 僕は聞き取った言葉に共感した。その気持ちを僕は理解できる。


 父親に僕も同じことを聞いた。ただ父親はさみしそうにやんわりと否定していた。店主はそれを悲しい話のように話している。今考えれば僕は父親にひどいことを言っていた。ただ敬ちゃんは何も聞いてもいないし、言われてもないのだろう。


 誉の言葉が刺さる。ただ聞くだけだ。それだけだ。自分のために知的好奇心を満たすために聞くだけだ。


 意図せずに重い話に戻してしまった。さすがに麺を口に入れながら聞ける話ではなかった。


「助けてあげないんですか?」僕は余計なことを口に出した。


「僕が何かしても変わらなかったから。もうこっちから動くことはない」


「」


「薄情だと思った?」


「いや、そんなことは。…すみません。少しだけ思ってしまいました」


「ははは、正直だね。敬には本当に助けられている。敬がいないと店だって開けられなかったからね。だからできるだけ僕も敬の助けになることがしたいよ」


「」


「だけどね。僕がやったことは敬にとっていいことじゃなかったからさ。僕の自己満足は敬にとって苦痛だったんだと思う。敬は僕を許していない。信用されていない。僕に深くかかわろうとしないんだ。さみしいけどしょうがないよ」


 カウンター越しで店長の顔は見えない。その後悔はよく伝わった。


「敬ちゃんにどうやったら会えますか?」


「明日学校だから会えるじゃない」


「今会いたいんです」


「わかった」


 バックヤードに行った店長は紙一枚と茶封筒を僕に渡した。


「敬の給料と住所。これで会えるよ」


「なんで給料を?」


「今すぐ会うための口実。あったほうがいいだろ」


「でも僕が渡していいんですか?数枚猫糞するかもしれないですよ」


「敬が信用するなら僕も信用するよ」


「お節介にだってなりえますよ」


「そうだね。でもこのままでいいとは思えないんだよ。敬があんなに楽しそうで、年相応に笑うことなんて何年も見たことがなかったんだ。僕はうれしかった。君にしか託せないよ」


「敬ちゃんの家族に頼むとか」僕はもう一歩、大きく踏み込んだ。


 店主の顔が曇る。誰にでもできることではない。親族でも家族にもできない。そんなことを僕にできるのだろうか。


「しがらみの多い大人にはできない仕事だよ。こうやって敬がしたいことをサポートすることしかもう僕にはできないんだ」


「わかりました。ありがとうございます」


「頼むよ。敬のこと」


「はい」


 僕はラーメンを急いで飲み込む。





「おいしかったです。ごちそうさまでした」


 自信満々に返事をして店から出た。


 扉をぴちゃんと閉める。





 雨は霧雨に変わる。代わりに強い風が吹いていた。新品の虚弱なビニール傘は手に持つことにした。


 中華料理屋の扉を閉めてから急に不安になった。ただこの茶封筒だけは何としても届けなくてはならない。今日しなければならない理由があってよかった。僕は封筒をポケットに入れた。


 僕は書かれた住所スマホで調べる。そこまで遠くはないらしい。三十分くらいだろうか。僕は歩き始める。会いたい気持ちが僕の片思いであることは確実だろう。なんて言って話したらいいのか。


 昨日の僕が言えなかったこと を敬ちゃんに伝えれば、どうにかなるんだと言い聞かせて敬ちゃんの家へと向かう。


 道中に寂れた神社が建っていた。漆喰がはがれ鳥居は土台との接点を減らしている。過ぎた年月と関心の風化が見て取れる。いつもは絶対に入らない神社に入ろうと思ってしまった。社務所はない。誰もいない。そして何もいない。十月以外もぬけの殻だろう。


 鳥居のど真ん中を闊歩し、お賽銭を入れずに鈴を鳴らす。ささくれた叶緒から粉が落ちる。


 地域のお払い箱に、中学生の貴重なお小遣いなんて入れる価値もないだろう。そんな僕は手も合わせない。首も垂れない。垂らすのは不平等な神様への不満だけだ。


 それだけで帰ろうかと、神社に背を向けたが、何を思ったか僕は遠くから賽銭箱に百円を投げた。


 賽銭箱にするっと入ってほかの金に当たった音。僕は投げたフォームそのままに立ち尽くす。


 僕は迷った。これは何かいいことが起きる前兆なのか?敬ちゃんの勝利を決定づけたシュートにも見えた。


 いいことなんて起きない。


 神社を出て敬ちゃん家へと進む足取りは軽くもないし重くない。今は行きたい気持ちが上回るけれど、十歩歩けば気持ちが萎える。そうやってコロコロと心変わりする僕を敬ちゃんは受け入れてくれるのかだけは、僕の嫌いな奴に拝むしかなかった。

ご覧いただきありがとうございました。

この物語は完結済みのため、添削でき次第投稿します。

次回も皆様とお会いできるのを楽しみにしております!

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