中途半端な天才
雨が降っている。小雨は試合中に本降りに変わった。時々吹く風と大粒の雨を傘が必死に受け流している。
もうグランドには誰もいない。ネットがかかったままのゴールと、バタバタとなびくコーナーフラックだけが残っている。組み立て式のテントは足を折っておいてある。
試合が終わってみんなが帰った。けれど敬ちゃんは近くの公園の屋根付きのベンチに一人で座ったまま。頭にタオルをかけてずっとうつむいている。帰る様子は微塵もない。あれから誰とも話していない。みんな話しかけようとしてはいた、でもそれだけだった慰める声も労いもなかった。薄情な奴らだった。
傘を持った僕はずっと見ている。
試合は敬ちゃんのおかげで勝った。おかげ様さまだ。僕は歩いて敬ちゃんの近くまで歩く。終わりのなさそうな膠着状態をどうにしなければ。
「敬ちゃん帰ろうよ」
「」ザアザアと屋根に打ち付ける雨が敬ちゃんの言葉を遮っているのかもしれない。
「聞いてる?」
「」うつむいたまま何も答えない。
「僕だけ先に帰っちゃうよ」
「」吹き込んだ風で敬ちゃんの靴がにじんでいた。
僕は傘を閉じて敬ちゃんが座っているベンチの横に座る。
「一人にしてほしい」ただうつむいたまま小さい声でつぶやいた。
「なんで」僕は敬ちゃんに聞いた。
「一人になりたいから」
「一人になってどうするのさ」
「少し考える」
「何を?」
「これからどうするかなって」
「もうどうもできないでしょ」僕は思ったことを素直に話した。
「…だね」自虐的な笑いが敬ちゃんからこぼれる。
濡れた髪から垂れた雫が敬ちゃんの表面を滑り落ちる。
「僕はスポーツなんてしちゃいけなかったんだ」
「なんでさ」
「うまい人はうまい場所に行くべきなんだ。 でも僕は行っていない。でも僕はここでサッカーをしている。中途半端にできるせいで中途半端な結果になってしまった」
「なんで断らないのさ」
「誘ってもらえるのがうれしいんだ」
敬ちゃんが顔をあげた。地面にタオルが落ちる。
「敬ちゃん」僕は敬ちゃんを止める。
「透真君。僕かっこよかった?あんなに意気込んで、練習までしてさ。不名誉な勝利に貢献できた僕はどうだった」
張り付いた前髪の間から敬ちゃんの目が見える。少しだけ赤く充血した目があった。
「うん。かっこよかったよ」本音を敬ちゃんに話した。
「こんなのがかっこいいの?」
「有言実行したじゃないか。かっこよくないはずがない」
「寒いから、今日は帰るよ」敬ちゃんは落ちたタオルを拾って立ち上がった。
「気を付けてね」僕は敬ちゃんに手を振る。きっと気が付いていないだろう。それでも僕は手を振った。
「また学校で!」僕の言葉に敬ちゃんは振り返りもしない。エナメルバックを肩にかけ、傘を持ったまま開かずに出て行った。
今日のヒーローは誰も救えなかった。平凡にやっつけられた。悲しむべきなのか忌むべきなのか僕はどっちもやらなかった。
敬ちゃんは今日二ゴールを決めた。
一点目は交代直後のシュート。ゴールから三十メートルの距離をものともしない右足でネットを揺らした。ここまではよかった。問題はここからだ。
後半、残り五分。
キーパーとディフェンスのパスをカットされて失点。それから一転して相手チームのペース。初めて敬ちゃんがイライラしていた。それに引っ張られたのだろう。誰もが焦っていた。その焦りは天才のペースを乱す。
味方の一人が足がつって倒れこんだ。
もう、試合が終わる直前。アディショナルタイムに入っていただろう。誰もがこのままのスコアで、延長戦になると思っていた。
相手はフェアプレーの精神でサイドラインにボールを出してくれた。サッカーが詳しければ相手にボールを返すことが暗黙のルールになっている。スローインを受けた敬ちゃんは知らなかった。僕も誉に教えてもらわなければ知らないままだった。
敬ちゃんトラップからのターンは美しかった。少し浮いたボールを振りの早い右足で強烈なインパクトでボールを押し出す。サイドラインからのロングシュート。プロの選手でも現役時代に一度できるか、できないか、神がかったプレー。
その姿に僕は執念を感じた。必ず勝たせると。
誰もが予期しないタイミングのシュートは弧を描いてネットに刺さった。それをキーパーが止められるわけがなかった。ゴールネットに刺さり、落ちているボールを見ているだけだった。
審判でさえ、動揺していたのかもしれない。試合を終わらせなければ、どうにでもなった。間違えてしまった敬ちゃんが許されるために、一点向こうに上げればただのアクシデントで済んだのに、無情にも試合終了の笛が鳴る。
その笛の後、みんなが止まっていた。僕も、誉も、ピッチの選手も、観客も。
敬ちゃんだけが喜んでいた。小さな声が誰もが耳に届く環境下のせいで聞こえてしまった。
それまではゴールキーパーに渡すようなバックパスにも見えなくはない。情状酌量の余地はかろうじてあった。
「やった」確かにそう聞こえた。
小さく手を握り、こっちに笑顔を見せるあの無恥な姿は、相手から見れば無礼に思うことだろう。確信犯であることが誰から見てもわかってしまう。冷えた視線に気が付いたのは喜んだ後だった。無邪気な敬ちゃんの顔にいろんな感情が向いていた。
不謹慎がピッチを支配していた。
試合が終わって相手チームに挨拶をするときに敬ちゃんは何かを言われた。うちのキャプテンが言い返して、小競り合いがあった。
『俺たちは暗黙のルールに負けたんだ』父兄に挨拶するときに相手選手の声が聞こえた。
涙を我慢して絞り出した声は、怒声と罵倒を貫通して周りの人間の心に直接届いた。それからはもう、ひどい有様だった。傍若無人に振舞う敗者に、遠慮した勝者の顔はひどく暗い。誰も何も言えなかった。時間が過ぎるのを待っていた。もはや犯罪者のようにも見える。皆息をひそめていた。
あの後から、ずっと敬ちゃんの表情筋は死んだままだった。
天才の何もかもが煮詰まった場面に立ち会った。地面が割れるような衝撃を受けた。ようやく出会えた天才の激烈なエピソード。まるでボルシチがテーブルに出されたような衝撃。名前も存在も知ってはいるけれど現物を見たことがなかった。味を知る機会がなかった。その場面がようやく来た。
僕はもっと喜んでいると思っていた。素直に喜べなかった。
敬ちゃんの背中が遠くなるにつれ、屋根からなる雨音は小さくなった。僕は傘をさしてベンチを出た。
ご覧いただきありがとうございました。
この物語は完結済みのため、添削でき次第投稿します。
次回も皆様とお会いできるのを楽しみにしております!




