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天才の能力

六月 十九日  


『プレイっ!』


 遠くで発した大人の声が、じめじめとした湿気で滲む。審判があげた手を下げたころに聞こえてきた。薄い白い雲が空を覆っているが、太陽の力はそれを貫通して僕らに降り注ぐ。湿度が高いせいか、気温よりも高く感じる。


 中学野球部との練習試合。ここは市営の野球場。ちゃんと外野にはフェンスがあるし、外野にはちょっとだけ柔らかいクッションがポール間を繋いでいた。


 更衣室も、お金が返ってくるコインロッカーも、お金を入れればシャワーだって使える。


 外野席は芝生になっているが、内野席は少しの屋根に、ちゃんとした座席が付いていた。ドリンクホルダーだってあった。


 僕の頭の上にでかでかと伸びている夜間用のナイター照明に僕はちょっとしたプロ気分を味わっている。


 僕は外側の右を守っている。八回この場所に来ているので多分八回。あと三回で終わるのかな?


 僕らは野球部に頼まれてここに来た。まぁ、僕はただの数合わせ。助っ人だと格好よく言いたいが、ボールに触ったのは試合前の準備運動だけ。練習も何もしていない。僕のところにボールは来ないし、打席ではバットにもかすらない。振ったところで遠心力で飛んでいきそうな金属バットを引き留めるだけで精いっぱい。


 外野の芝生の上に立っているだけ。時季外れのセミの声を聴いていた。


 本当にただの人数合わせ。


 けれどももう一人は違う。


 グラウンドの一番高い場所で自信満々に投げている。


 グラブを空に掲げるワインドアップ。空に余白を残して、頭の後ろに回した両手と左足をゆっくり胸へと縮める。片足でいても決して体の軸がぶれない。


 ポンと一回ボールを握った手でグラブの内をたたくと、飛び跳ねるようにプレートを蹴飛ばす。折りたたんだ左手を地面に突き刺し、撓った右手からボールが射出。ボールに全エネルギーを乗せるため、投球後の右手は突き刺した左足を迎えるように地面を掠り、右足の裏が空に向く。


 その美しい投球動作は少ない観客の目を奪い、相手チームの父兄すら自分の子供以上に気になっている。


 相手チームの監督は試合が始まったときは元気だった。しかしなかなか得点できない部員を練習不足とか、気が弛んでいると叱咤し、尻に火をつけて激励をしていたが中盤以降、昼間の蛍のように、ベンチの奥のほうで試合を見ていた。これがほんとの虫の息だと、国語の教科書に掲載されても誰も異論はない姿。


 ピッチングだけじゃない。バッティングだって規格外。僕と違って構え方からオーラが出ているように見える。


 バットも、体も微動だにせず、相手ピッチャーの球を待つ。


 タイミングよく、右足を軽く上げ反動をつける。それでも上半身は全くブレがない。下半身でタイミングをとって、我慢させた上半身全体で、ボールに向かっていく。出てきたバットは遠回りせずに、ボールとコンタクトする。


 周りから見るととても軽く打っている印象があるが、ボールはフェンスの奥に飛んでいく。


 助っ人外国人のような大きくて強いスイングではない。やわらかさが伝わってくるスイングだった。


 このまま終われば完全試合とサイクルヒットを達成したとかでベンチがざわついていた。


 野球がわからない 僕だけど、本当に特別な才能があるのだろう。うらやましい限りだ。


 けたたましいサイレンに驚いていると近くにいた子が声をかけてくれた。


「試合終わったよ」


「うん」サイレンにびっくりしたことを隠すよう毅然として答えた。


「すごいね。一人で何でもできちゃった」にこやかな笑顔でそういった。


「だね。ここまでできるなんて知らなかった」


 彼の目にマウンドでちやほやされている背の高い青年に向けて言っている。


「あの子名前なんだっけ?」


「海野敬」


「あまの?」


「敬」


「敬ね。覚えた」


 その子は 息を少しだけ吐いてベンチに向かっていった。僕もベンチに走る。


 今日の主役が野球部員から離れてこっちに来た。


 さわやかな汗のかき方。蒸し暑い日だとは思えないほどの涼しさがはっきり見える。最後まで投げていたと思わせない軽やかな足取り。砂一つついていないきれいなユニフォーム姿でグローブをパカパカさせている。そういえば今日一日ずっとパカパカさせていた。何かのルーティーンだろう。そんな所作が様になっていた。


「お疲れ、敬ちゃん。かっこよかったよ」ハイタッチでも、と僕が手を挙げて声をかける。


「うん。お疲れ様。透真君」敬ちゃんはそばにいる僕に小さく手を振った。


「僕は何もしてないよ。それより完全試合とサイクルヒットおめでとう」僕は上げた手をひっこめる。


「ありがとう。早く着替えてご飯食べたい」


「そうだね。時給分は食べないとね」


「焼き肉がいいな」


「選べる権利は敬ちゃんにあるでしょ。なんせ今日のヒーローなんだから」


「かもね。でもみんなが守る安心感?があったからだよ」


「謙遜もそこまで行くとおごりに聞こえるね」


「そう?焼き肉が監督もちだからじゃない?」


「あはは。面白いじゃん」ふいに来た諧謔に驚いて敬ちゃんの顔をじっと見てしまった。


「どうかした?」


「顔についているよ」僕はポケットに入ってたハンカチを敬ちゃんに渡す。


「ふふふ」敬ちゃんが僕のハンカチを見て急に笑った。


 別にただのハンカチだ。浮かれた僕がユニフォームのポケットに忍ばせていた。持っているだけで少し野球が上手になる気がした。しただけだった。プラチナのように輝くことはなかった。


「ハンカチがおかしいの?」僕は上機嫌な敬ちゃんに聞いた。


「うん。おかしいよ」


「そうなんだ」愉快な気持ちは僕に共有されなかった。


「どこ?」顔をペタペタと触る敬ちゃん。


「右側だよ」


「どっちから見て?」


「僕から見てさ」


 敬ちゃんがもう一度僕のハンカチを使って顔を拭いた。


「とれた?」


「うん。きれいになった」


「ハンカチありがとうね。洗って返すよ」


「気にしないでいいよ」


「洗って返すよ。しわくちゃだからアイロンもするよ」敬ちゃんが僕のハンカチを広げて、しわの伸ばしながら言った。


「なんか悪いね。そんなので顔を拭かせて」


「いいよ。気にしないで」


「敬ちゃんは不思議だね」


「そんなことないよ」そう言いながらポケットにハンカチを入れる。


 いつも通りに見える敬ちゃん。非公式だけど完全試合もサイクルヒットもめったにできることじゃない。


 僕はもう一度敬ちゃんをよく見る。口角が少し上がっていた。


 相手ベンチから一人の野球部員が走ってきた。


「久しぶり天野。元気だった?」


「あ、うん久しぶり。えっと花村君だっけ」


「田村ね。まだ野球やっていたんだ」


「うん。」


 ギリギリ成り立つ会話が目の前で繰り広げられている。相手の目を見ないし、声もそっけない敬ちゃん。相手の努力で会話になっている。


 割り込んで緩衝材にでもなろうかとおもったけれど、敬ちゃんはそれを望んでいなかった。僕は地蔵のようにただそこにいた。


「やっぱりうまいね。いつの間に引っ越したの?」リズムに乗らない会話を彼は必死で盛り上げている。


「中学校上がる前にこっちに来たんだ」敬ちゃんは淡々と答えている。


「中学受験したんだ。頭いいんだね」


「普通だよ」


「天野、普通じゃないから」彼は笑いながら話した。


 おーい。早く着替えて焼き肉行くぞ。片付け終わったベンチから監督が声をかけられる。


「呼ばれているから」敬ちゃんが話を切る。


「うん。あ、アドレス交換しようよ」ユニフォームのポケットからスマホを出した田村。僕は訝る。敬ちゃんの露骨な態度を感じていないのか?


「携帯持ってないから」平然と嘘をついてさよならもせずに敬ちゃんはベンチへ戻る。


 スマホを持つ田村は固まっていた。そのあと怪訝な顔をして戻って行った。


「知り合い?」先に戻る敬ちゃんに追いついた僕は、恐れずに聞いた。


「昔のチームメイト」淡々と答える。僕は少し変なことを考えてしまう。


「詰まる話もあるんじゃないの?」


「つまらないよ」


 きゅっと結んだ唇がそれを物語る。


 敬ちゃんはどこか遠くを見ていた。今日やたら遠くを見ている。天才は何を見ているんだろうか。


 相手はまだこれからグランドで練習をするらしい。相手の監督が激怒していた。相手のピッチャーはただの人数合わせだ。と熱い言葉をかけているが選手にその思いは伝わっていない。人数合わせだから弱いとは限らない。助っ人として来ているんだから活躍して当然だ。敬ちゃんの知り合いがいるのだから、上手なことは最初から知っていただろ。話を聞いている誰もが顔にあきらめと現実が見て取れる。監督の言ったことを信用していないものや、圧倒的な才能にやる気を折られた物。耳を傾ける者はいない。説教をしている監督さえ現実を直視できない子供の用に、逆らわない部員にわめき散らかしている。あれを見ているとどちから大人なのかわからない。あんなことが日常的に起きている社会には行きたくない。


 それを聞いているのか聞いていないのか知らないのか、説教の原因は何の気なしに歩く。自分では周りに聞こえていないと思っている鼻歌を歌いあげながら、楽しげに気にベンチに戻っていった。


 あれが天才の振る舞い方なのかと若干引き、その独特な振る舞いに感心していた。


「鼻歌歌ってどうしたの?」


「何でもないよ」敬ちゃんは答えた。少し楽しそうだった。


「そう。なんて曲?」


「忘れちゃったよ」


 グラブをパカパカさせながら先に戻る敬ちゃん。


 ここでは吐き出せない気持ちをちょっとずつ、蛇口を開けるように鼻歌を歌う。


 誰かに聞かれたい気持ちもある。春と夏の間の風は僕の鼻歌を運ぼうとはせずに砂と一緒に散らしている。


 誰にも聞こえることはない。少し安心した。悲しくなった。

ご覧いただきありがとうございました。

この物語は完結済みのため、添削でき次第投稿します。

次回も皆様とお会いできるのを楽しみにしております!

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