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天才からの挨拶はなかった。

 六月 二十三日 


 今日は朝から雨が降っている。風はないけれど強い雨だった。水たまりが忙しく形を換えていた。薄暗い教室をアイボリーの蛍光灯が照らしている。


 僕は敬ちゃんよりも先に学校に着いていた。


 いつも乗っている電車にはいなかった。一本後の電車をいつものホームで、敬ちゃんが見ている自動販売機の前で待っていても、敬ちゃんは乗っていなかった。


 死んだ色をした傘を持つ人たちが階段に向かって電車から出ていく姿を見ているだけだった。


 敬ちゃんが、時間ギリギリに教室に入ってくる。僕のことが見えているのに挨拶は来なかった。 まだ昨日のことを引きずっているのだろうか。


「おはよう敬ちゃん」教室の椅子に座った敬ちゃんに声をかける。


「」カバンを机に置いて座った。


「敬ちゃん?」僕の声で敬ちゃんは振り向いた。


「あ、うん。おはよう透真君」敬ちゃんは椅子の向きを変える。


「寝不足?」


「うん。透真君は?」


「全然。健康そのものだよ」


「ごめんね」敬ちゃんが急に謝ってきた。


「なんのこと?」


「昨日だよ」


「誤ったことなんて何にもなかったでしょ」僕は自信をもって答える。


「うん。そうだね」


「野球はどうなったの?」


「うん。少し見送らせてくれって」


「そうなんだ」


 一時間目のチャイムが鳴る。前の扉から先生が入ってきた。僕らの会話はそれで終わった。




 ようやく今日一日のカリキュラムが終わった。タイミングが悪くて朝から敬ちゃんと話していない。眠いと言っていた敬ちゃんは真面目に授業を受けている。眠くない僕のほうが上の空だった。僕は敬ちゃんに声をかける。


「どう?敬ちゃん。起きた?」椅子をノックして話しかける。


「授業は聞いてたよ」振り向いて敬ちゃんは答えてくれた。


「僕はだめだったね」


「そう。僕のせい?」敬ちゃんが意味の解らないことを言ってくる。


「ううん。昨日面白いテレビがあってね。それを見てたら眠くてさ」


「そうなんだ」


 いまいち盛り上がらない会話。まだ昨日のことを引きずっているのだろうか。


「ちょっといい?」座った僕らの頭の上から誉が話しかけてきた。帰り支度をした誉が踵を返して戻ってきたらしい。


「うんいいよ」僕は答える。


「透真は関係ない」誉が強く僕を見下す。


「敬ちゃんだけってこと?」


「そう。サッカー部から伝言。『今週末よかったら出てくれませんか?選手登録はしてあります』だって」誉が敬ちゃんに伝えた。


「うん。ありがとう誉ちゃん」敬ちゃんが帰る支度をしている。


「サッカー部からも誘われてたの?」僕は驚きながら敬ちゃんに聞いた。


「うん。声をかけてくれてたんだ」


「敬ちゃん、人気者だものね」誉が僕に便乗して敬ちゃんと話す。


「そんなことないよ」敬ちゃんは見慣れた謙遜を言葉にした。


「行くの?」


「うん。行く」いつもとは違うはっきりした顔で敬ちゃんは答えた。


「じゃあ応援に行くよ。誉も行くでしょ」


「うん。行くわ」


「ありがとう。透真君、誉ちゃん」


「練習にでるの?」誉が敬ちゃんに聞いた。


「うん。用事があるから最後までできないけど、途中まではね」


「あと二日じゃん」


「補欠で行くだけだよ」


「サッカーやってたの?」僕は敬ちゃんに聞いた。


「うん。少しね」


「がんばってね」僕は敬ちゃんを送り出した。


「うん。じゃあ僕サッカー部に言ってくるよ」


 ガラガラ、バシュ。


「透真。どう思う?」カバンを机に置いて僕の横の席に座って改めて話しかけてきた。


「何が?」僕はとぼけた。まずは誉の話から聞くべきだろう。


「なんで直接言わないんだろうなって」誉が不満そうに言った。


「敬ちゃんが見えなかったからだと思うよ」


「あのサッカー部きっと敬ちゃんが見えてた。でも私に声をかけた」


「じゃあ近かったから?」


「同じくらいだった。伝言するくらいなら直接話したほうが楽でしょ」


「敬ちゃん。近寄りがたいって言われてるからかなぁ」


「失礼よね。頼む側なのに」


「確かに」


「やっぱり、グランドでのあれは印象悪かった。そう思わない?」


「見てたの?」


「途中までね。あんなこと言われても平然としてれば話しかけたくないよね。まじかで見ていたサッカー部なら尚更よ」


「うん。それは思う」


「あら、びっくり。肯定してくれるんだ」僕を馬鹿にするように言ってきた。


「あれを見ればおかしな人に見えちゃうよ」


「おかしな人だから一緒にいるんでしょ」


「うん。そうだった」


「ねぇ、それはどっちのそうだった?」


「過去形だよ」


「ふふ、面白いこと言うじゃない。よくわかったわ」


「?」


「土曜日雨降りそうだから、傘忘れるんじゃないわよ」誉がカバンをもって席を立つ。


「うん。ありがとう」


「ねぇ」


「何?」


「何でもない。じゃあね。勉強しなさいよ」


「誉もね」


 誉はそう言って教室から出て行った。僕は散らかした机を片付けて僕は図書館に向かう。別に誉に言われたからじゃない。借りていたあの詩集を返しに行く。あれから僕は本を開いていない。引き出しに入れておくのも恥ずかしいから、毎回家に持って帰っている。


 図書館の扉に休館日の紙が張られていた。


 なんだかうまくいかない。なんとなくの閉塞感がある。息が少しだけ苦しい。胸の奥を何かで押さえつけられているみたいだ。


 何かがとても不安に感じるんだけど、その何かが僕にはわからない。探しても、探しても見つからない。


 思考の浪費はやめよう。孤独を埋めるためだけに使わないとただ疲れるだけだ。


 もう帰ろう。買い物に行かないと。カバンに入っているマイバッグをポケットに入れる。


 苦い感情をおいしい食べ物で流し込もう。かみ砕いて、消化して、排泄されれば、少しはマシになるだろうから。

ご覧いただきありがとうございました。

この物語は完結済みのため、添削でき次第投稿します。

次回も皆様とお会いできるのを楽しみにしております!

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