臆病な自尊心と尊大な羞恥心
僕が教室に来た頃には授業は始まっていた。遅刻確定だ。どうせなら、と念入りに手を洗った。
今日はたまたままポケットにハンカチが入っていた。スラックスに緑色の汚れがついていた。一瞬、頭がフリーズした。何か変な液体かかったかと思ったが、網目状についた汚れでフェンスだと理解した。ここで脱ぐわけにもいかない。ハンカチで汚れを擦った。帰宅後に余計な仕事が増えた。
着替えてくる敬ちゃんはもっと遅れるだろう。各教室の大人の声に自然と耳を傾ける。知らない授業だった。僕よりもカリキュラムが進んでいるせいなのか、僕が不真面目なのか。焦りを覚えた僕は教室に向かった。
どうせ注目されることがわかっていたので、黒板に近いドアから入る。全員の視線を集めるが気にしないように遅れた理由をでっちあげて遅刻した理由を話す。
担任は特に気に留めることもなく僕を席につかせる。クラスメイトの前でしたい話ではなかったから、僕は嘘をついた。
幸運なことに担任の担当授業だったため怒られることなく授業に入れた。何事もなかったように右から左に板書を始めた。
「遅刻なんて珍しい」教科書を鞄から出す僕に誉が小声で話しかけてきた。
「そういう日もないとね」僕は席についてカバンから教科書とノートを出す。
「敬ちゃんは?」
「そろそろ来るよ」
「勉強でも教えてもらってたの?」黒板の板書と並行して何かの問題集を解いていた。
「ううん。二人で雑用してた」
「楽しかった?」
「まったく。世界で一番無駄だったよ」
「お疲れ様」
ガラガラと後ろの扉が開いて、敬ちゃんが入ってきた。
驚いた顔をする先生に一言。
「遅れました」
「朝学校にいなかったか?」
「少しボールを磨いていました」 敬ちゃんは淡々と理由を話した。遅刻した理由を聞かれる優等生と何も言われない劣等生。その違いに僕は傷つかなかった。
先生は少し止まった。戸惑っているようにも見えた。
「そう。昼に職員室な」
「わかりました」
静かな空気が流れるが担任はすぐに気持ちを入れ替えて授業に戻った。
過去の文学を現代人が読んだところで何になるんだろう。漠然とした疑念が急に頭を占める。ぞんざいにページをめくった。
つらつらと書かれるプライドの高い男の発狂するまでのフローチャート。 プライドの高さは獰猛な動物になっても変わらない。哀れな男の話。売れないポエマーほど惨めなものはないだろう。ただどこか親近感を覚える。なりたいものに成れない人生。確かに発狂する気持ちもわからなくはない。
ただ動物に変身するならそれはそれで面白くもある。どこかの動物園の檻の中。時間になれば御飯が出てきて、眠くなったら寝る。体が痛ければすぐにでも獣医がくるし、公衆の面前で裸になっても怒られない。そんな素敵な職場に就職できるのなら僕は喜んでそれになろう。
誉と目があった。横を向いたら誉が見ていた。誉は自分の問題集に文字を書いた。印刷されたゴシック体とは全然違う、やわらかい文字を書く。
書き終わったときに誉と目が合う。鉛筆の先をトントン。書いた文字を叩く。
『敬ちゃんが呼び出されるのって初めてじゃない?』
僕も自分のノートに書く。書いたノートを誉のほうに寄せた。シャーペンをカチカチと鳴らす。
『そうだね。何にもなければいいけど』
誉が読んでことを確認してから文字を消した。そういって誉は黒板の板書を始めた。
授業がつまらないせいか誉の意欲的に黒板を見て板書している姿に成長を感じる。少し前まで僕のほう座高が高かったのに今は同じくらい。誉とは幼稚園も小学校も同じだった。幼馴染と呼ばれる関係なのだろう。いつも僕の後ろに隠れていた時だってあった。おにぎりをあげるととっても喜んでいた。
そんな彼女はどこか遠くにいる。喜ぶべきことなのか、寂しがることなのかわからないけれど人の成長を感じる。相変わらず僕はいままでと同じだけど、誉の変わりように勇気づけられている。
「次、透真。読んでくれ」
「はい」
僕は文章を読んだ。
「そこまで」
僕は着席する。理解しようと教科書の文章を読んだのは進級して初めてだ。
僕は虎になることはないだろう。臆病な自尊心と尊大な羞恥心は僕にはない。そんな余計なものに捕らわれて何ができるというのだ。師事を受けることも、周囲となれ合うこともしなければ虎になれただろう。努力を惜しんで強そうな虎になるのは納得できないところもある。僕も何に変わるのだろうか。
「」
ひ弱な動物ばかりが頭の中で鳴いている。何でもない動物ばかりだった。女々しさすら感じる。
誉はきっとシャチだ。 勉学という分野で、この学校に敵はいない。数学オリンピックに出るとかいう話も聞いたことがある。難関検定の資格も次々に取得しているらしい。
誉は頭がいいから、自分の勝てる場所でしか戦わない。別に臆病者だと行っているわけじゃない。敵わないことが戦う前からわかる。遥かに賢いのだ。戦い方だって有利をとことん突き詰める。不利をとことん遊離するだろう。
ぼんやり誉のほうを見て考えていたら、さっきの倍の筆圧で『何⁉』と僕のノートに書かれてしまった。顔色は一つも変わっていなかった。
『何でもないよ』と4Hくらいの濃さで自分のノートに書いた。真面目に授業を受けよう。
ノートと黒板のシャトルラン中に敬ちゃんの背中が視界に入る。敬ちゃんはこれを読んで何を思うだろうか。天才は何を考えているのだろうか。
敬ちゃんは何になるのだろう。いろんな考えを起こす。
トラに近い何か。豹とかだろう。
頭に浮かんだ答えを遅れて理解した。確かに豹だ。
自尊心も羞恥心もそんな低俗なものに理解を示さずに孤高になる存在。
面倒な社会に飽きれば、敬ちゃんは今すぐにでも豹になれる。
誰にも触れずに、誰にも期待せずに、生きていける生き物に。
そう思っていたけれど最近の敬ちゃんは虎の次の動物にも見えてくる。
天才だから一人でいるのではない。取り残されたみたいにそこにいる。
そこにいたくはないはずなのに、周りがそこから離れることを許さない。
最近は、離れていく感覚を思い出さないために、能動的に孤独になっているようにも感じる。
これは誰もが心に猛獣を飼っているという話。プライドの高い主人公は誰にでも当てはまる。自尊心と羞恥心は思春期が一番肥大する。だからこそ教科書に記載されている。
心がさかむけているのかどうも攻撃的になっている。文部科学省から見れば爆発的なエネルギーを持つ学生を体よく制御するための教材だ。生徒の健やかな成長に寄与しているものだと納得することにしよう。
教科書をぱらぱらとめくる。この授業では行くことのないページを見る。
虎のお願いごとの順番に異議はない。ただ全力で夢に向かわなかったことが惨めな結果につながったんだ。
不器用な凡人に二足のわらじは不相応。
足が二本増えたとしても動物にはそんなもの必要ない。
半世紀前の人間と心が通じる。この本はいつから評価されたのだろうか。優秀すぎる才能がその時の大衆に刺さらなかっただけなんて悲しすぎる。称賛を受け取ってから死んでいてほしい。
授業が終わったら、漢文の和訳も含めて誉に聞こう。きっと驚いた顔をして僕に教えてくれるだろう。僕が理解できるかは別の話だが。
ご覧いただきありがとうございました。
この物語は完結済みのため、添削でき次第投稿します。
次回も皆様とお会いできるのを楽しみにしております!




