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天才の異常性

 六月 二十二日  

 


「はぁ、はぁ」


 予鈴のチャイムが聞こえる。それなのにまだ学校の敷地内にいない。というか学校すら目視できていない。


 濡れた傘を掴んで走る。僕が家を出る時間に急に降ってきた。自転車に乗らなかったせいで走るはめになっている。合羽を着る元気を出せばよかった。すでに靴は濡れている。替えの靴下は持ってきた。ただスラックスの裾まで濡れるとは思っていなかった。もう水たまりなんて関係ない。無敵だ。


 学校への最短距離を頑張って走っている。バイトで早起きをしたせいで朝の時間が長くなった。少しずつ山から顔を出す太陽の変わり様とともに仕事をしたこと。誰もいない町を自転車で爆走したこと。とても気持ちがよかった。ここまではいい。ただ天気を読んでなかった。雨が降るなんて失念していた。


 あんなに晴れていたじゃないか。騙しやがって。


 そしてあんなに降っていた雨も真っ黒な雲もどこかに散っていった。家を出てすぐにだ。窓ガラスを割るような横殴りの雨を見たら自転車で行くのもためらってしまう。窓にシャッターまでおろしたのに。


 早朝の新聞配達をしたというのにさらに走っている。朝部活をしている生徒と同じくらい運動している。余計に食べた朝ごはんのカロリーは消費しただろう。


 朝から自転車に乗って百二十件。おんなじ新聞を配達するだけなら簡単だが、お宅によって新聞の種類が違うので大変だ。読売と朝日と産経と毎日の四社も取って全部見るのか、と配達最中はずっと考えていた。


 大量の新聞を取る理由は何だろうと、紙を折り曲げて宇宙まで行くのか、拭く窓がたくさんあるのか。湿気取りのためにストックしているのだろうか。


 今はそんなことを考えている場合じゃない。走らないと。


 体の奥から血の味が流れてくる。飲み込んでもまた戻ってくる。


 ようやくグラウンドが見えてきた。このままいけばギリギリ遅刻を免れそうだ。


 ホームルームが始まるのにグランドの脇に誰かいる。鉄骨で作った骨格にトタンを乗せた簡素ななんちゃって室内練習場に一人だけいる。小さく丸まった背中はどうやらボールを磨いている。


 フェンス越しに見るその背中に見覚えがあった。


「敬ちゃん?」


 僕はフェンスの金網に顔をめり込ませて知っている背中に声をかけた。


「ん?あ、おはよう透真君。」丸い背中がのっそりと僕を向く。


「もう、、授業、始まっちゃうよ」


「うん。もう少しで終わるから」敬ちゃんはまた作業に戻った。


「あとでもいいでしょ。着替えていたら間に合わないよ」僕は敬ちゃんをせかす。


「うん。でもやっといてって言われたから」敬ちゃんは顔色一つ変えずにボールを磨く。


「そうゆう当番なの?」僕は戸惑う。なぜこんなにも融通が利かないのか。授業に出るほうが何倍も大事だろう。


「一番遅く入った人がやる決まりなんだって」


「え?」


 僕は近くのフェンスをよじ登って敬ちゃんに詰め寄る。


「それなんかおかしくない?」僕は敬ちゃんのすぐそばまで来た。


「そう?」まだボールを磨いている。僕の方を見向きもしない。


「だって助っ人として入ったんだよ」


「うん」助っ人だと自覚していてもなお、敬ちゃんはボールを磨いている。


「マネージャー募集したんじゃないんでしょ」


「うん。」雑用係ではないと認識しているのに、遅刻を承知でボールを磨いている。


「なんで納得できるのさ」


「怒っているの?」ようやく敬ちゃんがボールを磨くのをやめた。不思議な顔で僕を見る。


「うん」


「あ、そう…?」間髪入れずに帰ってきた僕の返答に戸惑っている敬ちゃんは、ボールを磨きを再開した。


「あと、このかごのボールだけ?」僕はバケツに掛かっていた雑巾を勝手にとる。


「なんで?」


「ボール磨くんだよ」僕はカバンを置いてしゃがんだ。


「ありがとう」敬ちゃんは僕にお礼を言った。


「何が」僕はぶっきらぼうに言い放つ。


「一緒にやってくれて」


「ちゃんと怒っているからね」


 僕らは仲良く並んで汚いボールを磨いている。僕らは世界で一番無駄なことをしている。義務教育を放棄してこんなどうでもいい雑用をしている。メジャーリーガーが使うボールなんかじゃない。ただの弱小公立中学の野球部のために磨いている。あほくさ。僕だけなら絶対にやらない。


「ごめんね」敬ちゃんは僕に謝った。


「何に謝ってるの?」敬ちゃんの謝罪は僕の神経を逆なでする。


「透真君だよ」


「なんで敬ちゃんが謝るのさ」


「僕に怒っているんじゃないの」


「違う。助っ人にボール磨きをさせてるから怒っているんだよ」


「気にしないよ」


「僕が気に入らない」


「透真君はおもしろいね」


「何にも面白くないよ」


「何もかも面白いよ。ボール磨きが楽しくなった」


「で、朝の練習はどうだったの?」


「草むしったり、片付けたり」


「レクレーションだったの?」


「あとボール拾いと掃除」


「は⁉」僕は勢いよく立ち上がった。


「落ち着いて」敬ちゃんはボールを磨き続けている。


「部員全員がそれやってたの?」


「ううん」


「」


「一人でやってたね」


「ねぇ。嫌じゃないの?」


「最初はこんなもんでしょ 」


 ここまで怒っても平然としている敬ちゃんを見てこれが運動部の仕来りなのかもしれないと思って、どうにか納得しようとする。


 中学に上がるとこうなる仕組みなのか?リトルリーグではこんなことありえなかった。


「運動部はこんな感じなのかな」僕が知らないだけだったのかもしれない。


「こんなもんでしょ」


「ごめん」僕はしゃがんでボールを磨き始めた。


「どうして透真君が謝るのさ」


「唆したのは僕だから責任があるかもしれない」


「気にしないで」


「でも僕の聞いていた話と違うことは確かだよ。野球を一緒にしてくれるように僕から頼んで欲しいって言われたのに。うまくなりたいから手伝ってほしいって。マネージャーだなんて聞いてない」


「騙されたから怒っているの?」無邪気に僕に聞いてきた。


「そうかも…しれない」 僕は梯子を外される。


「このことを監督は知らないよ。朝来てないから。昨日はちゃんと練習したから」敬ちゃんは監督を擁護した。


「」


 怒りの矛先を明後日へと持っていかれた。どんどん気持ちがそれていく。ただ逸れるだけなのだ。この熱量はさっきよりも大きく膨れている。


「放課後も同じことさせてたら流石に言いに行くよ」


「いらないよ」


「僕が僕を許せないんだ」


「うん。ありがとう」


「感謝されるいわれはないよ」


「こここそ『どいたま』でしょ」


「そうだね」


 いつも通りに笑う敬ちゃんを見て少し安心した。新入部員がボールを磨くのは周知の事実なのだろうか。


 もしかして、敬ちゃんが不当な扱いをされていると思ってるのは僕だけなのかもしれない。


 なんだか恥ずかしくなる。でも当たり前の常識を知らないのは僕が悪いんじゃなくて、教えてくれなかった周囲がいけない。『野球部員の通過儀礼はボール磨き』は村の伝統くらいの認知度なんだから、僕に非はない。


 不発の怒りをボールと雑巾に向ける。敬ちゃんはこれを当たり前のように黙々とやっている。それをおかしいと言い張る僕を、時々不思議そうに笑う。


 本当に不思議そうに笑うんだ。おかしいのは君だと直接言われているように思えてしまう。


 けれど。運動部のしきたりだとか、上下関係だとかそんなものがあるとしても、だ。授業を返上してやらせるのは本当におかしなことだよ。


 ホームルームが終わるチャイムが聞こえる。それをどんなふうにとらえているのか聞きたい気持ちを僕はボールと雑巾に込める。


 僕はなぜ怒っているのか。敬ちゃんを供物にしても問題ない。そう思っていたのに、敬ちゃんの不当な扱いに怒りが湧いてしまう。


 それは天才を邪険に扱っているからだ。


 僕はこれを凡人らしいと思う。野球部らしい陰湿さ。これが誰もおかしいと言えない連帯感。授業そっちのけでボール磨きさせていると学校にばれたら、とんでもなく怒られるはずなのに、それを平然とやる頭の弱さが前面に出ている。


 坊主姿は連帯の証。仲間意識を受け付けると同時に、それ以外を締め出す目印。


 一般人は罰の一種としてそれを認識しているが、彼らは喜んでやっている。その社会性のなさが頭を悪くしているのだ。


 敬ちゃんは頼まれても水の入ったバケツを蹴飛ばして「君たちのほうがボール磨くの上手いでしょ?」みたいなことを平然と言ってほしかった。


 拭いてもきれいになるわけではない茶色いボール。そんなものを懸命に磨く。そのくせ汚れるのは一瞬。汚されて使い捨てられる雑巾と水がかわいそうだ。

 

 本当にもったいないと思う。

ご覧いただきありがとうございました。

この物語は完結済みのため、添削でき次第投稿します。

次回も皆様とお会いできるのを楽しみにしております!

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