第七話 「焔の烙印」
夜明け前の風は冷たく、焼け落ちた村の残り香を運んでいた。
エイリックと“印の少女”リサは、昨夜の戦闘の跡地を離れ、森の中を歩いていた。
空には灰色の雲が薄くかかり、木々の間を抜ける風が焦げた匂いを散らしていく。
「……もうすぐ、陽が昇る」
エイリックが呟くと、リサはうなずいた。彼女の小さな手はまだ震えていたが、その瞳には確かな光が宿っていた。
森を抜けると、廃れた教会があった。
屋根の一部は崩れ、壁には焼け跡が残る。かつて祈りの声が満ちていたであろう空間は、今はただ静寂に包まれていた。
「ここで少し休もう」
エイリックは扉を押し開け、中へ入った。
割れたステンドグラスから差し込む光が、床に散らばる灰を淡く照らす。
リサは隅に座り、膝を抱えた。
その腕に刻まれた黒い印が、光を受けて微かに赤く脈打つ。
「……それが、“印”なのか」
エイリックが静かに問うと、リサはおそるおそる頷いた。
「お母さんが……これを見た人は皆、怖がるって言ってた。だから、隠してたの」
「痛むのか?」
「ううん、痛くはないの。でも、たまに熱くなるの……怒ったときとか、怖い夢を見たあととか」
エイリックはその言葉に眉をひそめた。
――感情に反応する力。
戦場で見た“焔印の部隊”のことを思い出す。
あの部隊も、怒りや恐怖が頂点に達したときに異常な力を発揮した。
敵国の軍勢を一夜で焼き尽くしたと言われた、忌まわしき兵団。
だが、彼は知っている。
それは「兵」と呼ぶにはあまりに人間離れした存在だったことを。
彼らの身体には、魔術師によって刻まれた印があった――リサのそれと、酷似した紋様が。
「……お前の母は、その印のことを何か言っていたか?」
リサは少し考え、首を横に振った。
「でもね、夢を見たの。火の中に立ってる人がいて……その人が『印は選ぶ』って言うの」
「選ぶ?」
「うん。“誰を守るか、誰を焼くか”を」
その言葉に、エイリックの胸がわずかに疼いた。
リサの印は、“破壊”の力を宿している。
そして、それを選ぶのは――彼女自身の心。
エイリックは静かに息を吐き、壁に背を預けた。
「……お前の中の炎を、誰かが利用しようとしている」
「あの男のこと?」
「そうだ。だが、奴だけじゃない。おそらく、もっと大きなものが動いている」
そのときだった。
扉の外で、木が軋む音がした。
エイリックは即座に立ち上がり、剣に手をかけた。
静寂を裂くように、教会の外で鳥が飛び立つ。
風ではない。足音だ。複数。
「……リサ、そこから動くな」
扉が爆ぜるように開き、数人の影が雪崩れ込んだ。
黒衣を纏い、顔を布で覆った男たち。
手には刃と鎖。動きに迷いはない。
「印持ちはどこだ」
「この教会にいると聞いたぞ」
リサが怯えて身をすくめる。
エイリックは剣を抜き、彼女を背後に庇う。
「……悪いが、ここは通せない」
一人が踏み込み、鎖を振るう。
金属の唸りが空気を切り裂く。
エイリックは刃を交差させ、鎖を受け流す。火花が散った。
二人目が背後から迫る。
振り返りざまに剣を振り抜くと、刃が相手の肩口を裂いた。
血が飛び、男は呻いて倒れ込む。
残る者たちが一斉に襲いかかる。
狭い教会の中、床を蹴る音と金属音が交錯する。
エイリックは体をひねり、刃を受け、相手の腹部に膝を叩き込む。
――だがその瞬間、背後でリサが悲鳴を上げた。
「リサ!」
振り返ると、最後の一人がリサを掴み、刃を突きつけていた。
「動くな!」
男の声が震えている。それは恐怖のせいだった。
リサの腕に刻まれた印が、紅く光を帯びていたからだ。
「離せ……」リサの声が震える。
「やめろ! その印を使うな!」
男の叫びが教会に響いた。
だが、もう遅かった。
リサの目に涙が浮かぶ。
次の瞬間、彼女の掌から赤い炎が吹き上がった。
悲鳴。光。熱。
男の体は炎に包まれ、灰のように崩れ落ちた。
残る者たちが恐怖で後退する。
エイリックはリサの前に立ち、炎の余波を受け止めた。
風が吹き込み、燃え残りの灰を運び去る。
沈黙。
リサの小さな肩が震えていた。
「……ごめんなさい……ごめんなさい……!」
涙が頬を伝い、床に落ちる。
エイリックは膝をつき、彼女の肩に手を置いた。
「謝るな。お前は生きようとしただけだ」
だが、その言葉を吐いた自分の声が、なぜか遠く聞こえた。
――かつて自分も同じことを言われた気がした。
その瞬間、頭の奥で閃光のような記憶が走る。
燃え盛る城壁。
仲間の叫び。
炎に焼かれた兵士たち。
そして、自分の腕に刻まれていた“かつての印”。
それは――リサの印と、同じ形だった。
「……まさか……俺も……?」
エイリックは自分の右腕の古傷に手を当てる。
皮膚の下で、微かに熱を帯びていた。
「エイリック……?」
リサが心配そうに覗き込む。
彼は苦笑した。
「いや……何でもない。少し昔のことを思い出しただけだ」
夜明けが訪れる。
崩れたステンドグラスの隙間から、朝の光が差し込む。
灰に染まった教会の床を照らし、リサの印を静かに照らした。
エイリックはその光を見つめながら、低く呟いた。
「お前の炎は……誰かに似ている。だが、同じにはさせない」
リサが顔を上げる。
「……同じに?」
「炎は、奪うこともできるが……守ることもできる」
エイリックは剣を背に戻し、教会の扉を押し開けた。
外の空気は澄み、風が彼の髪を撫でる。
遠く、燃えるような朝日が地平を染めていた。
「行こう」
リサは涙を拭い、小さく頷いた。
二人は光の中へと歩き出す。
背後で、崩れかけた教会が静かに軋む。
まるで――過去の亡霊が、再び息を吹き返すように。




