第六話 「影の断片」
朝の光は柔らかく、湿った空気を通して荒野に降り注いでいた。
エイリックは一人、巡礼の道を歩く。足取りは重いが、胸の奥には微かな光が宿っていた。
背中の剣が揺れ、肩にかけた外套が風に翻る。遠くの山々が朝靄に霞み、道端の小さな石や草の葉先に朝露が光る。
荒野の空気は冷たく、乾いた風が砂埃を巻き上げる。その一つ一つが、過去の戦場で感じた空気と重なる。
血の匂い、煙の匂い、仲間の叫び……消えたはずの記憶が、波のように押し寄せる。
「……俺は、何者なのだろう」
胸の奥で問いかける声に、風が答えを濁す。
歩みを進めるごとに、孤独の重みが増していく。だが、足の裏で砂を踏みしめる感覚は、生きていることを知らせてくれた。
遠くに小さな村の輪郭が見えた。煙が微かに立ち上る。
エイリックの胸に、わずかな不安と期待が同時に芽生える。
木製の扉がきしむ音と共に、一軒の宿屋に足を踏み入れる。
薪の香りと、薄暗い室内の空気が入り混じる。談笑の声が響いていない。違和感のある空気を感じながらもエイリックは静かにカウンターに腰を下ろした。
客や主人の姿も見当たらない。
「....~~」
ふと、奥からかすかな泣き声が聞こえる。
迷わず声の方へ歩を進めると、薄暗い部屋の片隅に少女が一人座り、肩を震わせていた。
傷ついた手を抱え、怯える瞳でこちらを見上げる。
「大丈夫……もう安全だ」
無意識に漏れた声が、かつて戦場で命を救う時の口調と重なる。
少女の小さな手を取り、震えを鎮めながら、エイリックは自分の胸の奥で少しずつ温かさを感じた。
外には微かに影が動く。警戒の感覚が体を駆け抜ける。
剣に手をかけ、彼は静かに外へ出る。
影の正体は小柄な男だった。慣れた手つきで短剣についた赤黒い血液を拭う瞬間、目が合う。
フードに隠された顔、しかし視線だけでエイリックを見定める。
「……エイリック?」
声は震えていたが、確かに戦場で聞き慣れたものだった。
それはかつての戦友の声であった。
エイリックはフードを深く被ったまま、静かに頷く。
胸の奥で、抑え込んでいた戦場の記憶が断片的に浮かぶ。
男は一歩前に出る。
「俺たち、ずっと君を探していた……生きていてくれてよかった」
その言葉は、胸の奥に深く響いた。
「そこに女の子がいるだろう?...こっちに寄越してくれないか?」
少女がキュッとエイリックの服を掴む。
それは恐怖によって言葉を発すことができない彼女が、咄嗟に取った行動だった。
「....悪いなカイゼル、それはできない」
エイリックが少女を庇うような仕草を見せた瞬間、短剣が閃き、砂埃の中を斬り裂いた。
金属音が荒野に響く。
エイリックは反射的に剣を抜き、防御の構えを取る。
胸の奥に、怒りと裏切りの感情が渦巻く。
剣と短剣が激しく打ち合う。
砂が舞い、太陽の光が刃を反射する。
カイゼルは戦場で培った技術を逆手に取り、動きは巧みだ。
砂埃が舞い上がり、太陽の光が二人の刃を反射する。
エイリックは足を滑らせながらも、短剣を振る敵を避ける。
風の中、砂粒が顔に当たり痛みを感じるが、集中は切れない。
「……どうして」
短くつぶやいた声は、荒野の風にかき消される。
戦友は微笑む。だがその笑みは、もう友情の温かさを帯びていなかった。
彼の目は冷たく、計算された光でエイリックを見据える。
刃が交わる度に、エイリックの胸の奥に過去が押し寄せる。
戦場で共に戦った日々。夜を越えて戦い、共に血を流した仲間たち。
その記憶は今、裏切りの現実とぶつかり、胸を締めつける。
だが、目の前の少女の小さな手が自分を握りしめる。
攻撃が鋭くなる。短剣が鋭くエイリックの剣を狙う。
避けながら、エイリックは地形を利用する。
岩の影、砂の窪み、突き出た小石――すべてを駆使して攻防を続ける。
「カイゼル……」
怒りと悲しみが混ざる。だが冷静さも失わない。
一撃一撃に、自分の生きる意味と守るべき者への責任を込める。
短剣が一瞬の隙をついて斬りかかる。
エイリックは腕を伸ばし、刃を弾く。
跳躍し、砂に足を取られながらも体勢を立て直す。
カイゼルもまた、戦術を変えてくる。
砂を蹴り上げ、視界を遮り、エイリックの動きを封じようとする。
その隙に刃を突き出し、心理的に揺さぶる。
胸の奥で、再び戦場の記憶が呼び覚まされる。
倒れた仲間、救えなかった命、火に包まれた村……
だが今は、守るべき者が目の前にいる。
怒りと決意が交錯し、身体は自然に反応する。
エイリックは一呼吸置き、短剣を持つかつての戦友の刃を受け流す。
次の瞬間、岩陰を利用して反撃。
剣が男の肩に当たり、血の匂いが風に混ざる。
男は後退し、膝をつく。
荒野に沈黙が戻る。
砂埃が舞い、太陽の光が二人を照らす。
戦友の瞳には、昔あったはずの友情の影がわずかに残るが、冷たさも消えない。
エイリックは少女の元に歩み寄る。
小さな手を握り、安堵の表情を浮かべる。
エイリックは少女の肩に手を置き、周囲を見渡す。
宿屋の外は、風の音しかない。
荒野に残るのは、血の跡と、倒れたかつての戦友。
カイゼルの肩口から流れる血は、砂を赤く染めていた。
それでも彼の口元には、どこか勝ち誇ったような笑みが浮かんでいる。
「……やっぱりお前は"化け物"だな、その顔の傷...よく似合ってるよ...ほらさっさと“焼き殺せよ”」
「焼く?...」
血の味を吐きながら、カイゼルがかすれた声で笑う。
「流石のお前でも...顔見知りを焼くのは躊躇するか?」
エイリックは答えず、ただ睨む。
カイゼルは苦痛に顔を歪めながらも、言葉を続けた。
「俺が何のためにこのガキを追ってたと思う?
その娘は、“印持ち”だ」
その言葉に、エイリックの表情が僅かに揺らぐ。
「印持ち……?」
カイゼルは頷く。
「お前が知らないはずはない。あの戦の後、王都で実験が行われていた。
人間の魂を“器”に変える術だ。
この子は……その“器”を宿している。
神官どもが追っている理由も、敵国が狙ってる理由も、同じだよ」
少女の瞳が怯えと混乱に揺れる。
エイリックは、彼女の頭に手を置いた。
その手の震えは、自分でも止められなかった。
「お前、まさか……」
カイゼルは息を整え、血に濡れた短剣を手探りで掴む。
「俺はもう“国”なんて信じちゃいねぇ。
だが、この力は……売れば、生き延びる術になる」
エイリックの目が鋭く光る。
「それがお前の言う“生きる”ってことか」
カイゼルは笑った。
「お前はまだ理想を捨てられねぇのか。
戦場で何を見た? 何を失った?
俺たちはもう、誰のためにも戦っちゃいねぇんだよ」
その言葉に、エイリックの胸の奥で何かが軋んだ。
かつて、同じ夜を越えた仲間。
だが今、その信念は真逆の場所に立っている。
エイリックは静かに剣を構える。
「……その通りだな。
誰のためでも無い
俺は、俺自身のために戦う」
短い沈黙。
風が二人の間を通り抜ける。
次の瞬間、カイゼルが吠えるように飛びかかった。
その動きは、もはや戦術でも技でもなく、渇望だった。
二度目の刃が交わる。
一撃ごとに砂が舞い上がり、風が叫ぶ。
やがて、鋼の音が一度だけ響いた。
静寂。
エイリックの剣先が、カイゼルの胸を貫いていた。
その瞳に、かつての仲間の面影が一瞬だけ戻る。
「……お前は…だ…」
カイゼルの口元に微かな笑みが浮かび、次の瞬間、力が抜けた。
風が吹き抜け、砂が血を覆う。
エイリックは剣を静かに引き抜き、空を仰いだ。
――空は青く、どこまでも遠かった。
少女が泣きながら駆け寄る。
「こわかった……でも、助けてくれて……ありがとう……」
エイリックは何も言わず、少女の頭を撫でた。
その小さな温もりが、胸の奥の冷たい空洞に触れる。
「……俺は、どう生きるべきなんだろうな」
呟いた言葉は風に消えたが、少女の瞳だけはそれを覚えていた。
彼は立ち上がる。
背中の剣が光を反射し、風が外套を揺らす。
「行こう。ここに長くはいられない」




