第四話 「炎の行方」
朝の光は淡く、湿った空気を通して野原を照らしていた。
エイリックは一人、巡礼の道を歩いている。
胸の奥には、微かな希望が芽生えていたが、まだ頼りなく、指先で握りしめるのが精一杯だった。
遠く、煙がうっすらと立ち上るのが見えた。
風に乗って、焦げた匂いが鼻を刺す。
踏みしめる砂の感触が硬く、乾いた音を立てる。
道の両側に広がる野原は静かだが、炎の方向だけが異様に生々しい。
歩みを早める。
目の前には、小さな村の外れに建つ家屋が揺らめく炎に包まれていた。
木の壁が黒く焦げ、屋根からは火の粉が舞う。
悲鳴と泣き声が混ざり、風に乗ってこちらに届く。
家の前に、泣き叫ぶ子供と必死に水を汲む老夫婦。
その手は震え、息は荒く、顔には恐怖が刻まれている。
炎は、まだ家を飲み込みつつあった。
「誰か……助けてくれ!」
エイリックの心臓が跳ねた。
戦場で多くの命を救えなかった重みが、胸の奥で鈍い痛みとなってうずく。
しかし、今の彼には選択肢がある。
――立ち止まることも、見過ごすことも、もうできない。
ゆっくりと外套を脱ぎ、肩にかけた水袋を背負い直す。
その動作は、かつて戦場で身にまとった鎧のように、覚悟を示していた。
燃える家の側に駆け寄ると、火の熱が顔を刺す。
煙が喉を焦がし、視界をぼやけさせる。
だが、エイリックはためらわず、井戸に向かって走った。
桶を汲み、燃えかけの屋根に注ぐ。
子供は泣きながらも後ろで見守り、老夫婦も手伝おうと手を伸ばす。
何度も水を運び、火の勢いを抑えていく。
腕は疲れ、背中は汗でびっしょりだ。
それでも炎の中に立ち続ける――生きている者にしかできないことがあるからだ。
やがて火は小さくなり、煙は薄れていった。
老夫婦は息を吐き、子供は小さく笑う。
エイリックも、深く息をつく。胸の奥の重みが、少し軽くなった気がした。
「……やっと、何かを成せたのかもしれない」
小さくつぶやく。炎の匂いと煙が混ざった空気が、胸を通り抜ける。
怒りも哀しみも、まだ消えていない。だが、わずかに前に進む力を感じていた。
夜、町の外れで焚き火の前に座る。
闇が深く、星は冷たく輝く。
手元の剣はもう重荷ではなく、背中で静かに存在を主張しているだけだ。
過去の影は消えない。だが、闇の中で差す光もまた確かに存在する。
遠く、港町の波音が聞こえる。
炎の中で初めて他人のために動いた手の温もりが、胸に残っていた。
目を閉じると、子供の笑顔が浮かぶ。
それは、戦場で決して見られなかった光景だった。
エイリックはゆっくりと立ち上がり、巡礼の道を再び歩き出す。
足取りはまだ重いが、確かな意志が背中を押していた。胸の奥の小さな光が、少しずつ彼の全身を満たしていく。
焚き火の炎が夜風に揺れる中、エイリックは空を見上げた。
星々は遠く、冷たく瞬いている。だがその光の一つ一つが、彼の胸の小さな光を少しずつ照らしてくれるようだった。
心の中で、彼は自問する。
「これから、俺はどう生きていくのだろうか……」
答えはまだ見つからない。だが、恐怖に押しつぶされることもなく、進む意志が確かにあった。
遠くの森から、夜の風が小枝を揺らす音が聞こえる。
それはまるで、まだ見ぬ道が呼んでいるかのようだった。
火事の家での一瞬の温もりも、子供たちの笑顔も、決して消えることはない。
だが、これから先、何が待っているかは誰にもわからない。
エイリックは深く息をつき、焚き火の残り火を蹴散らす。
そして、ゆっくりと夜道へ足を踏み出した。
背中には小さな光を抱え、胸にはまだ重い過去を抱えたまま。
だが、その歩みは確かで、これまでとは違っていた。




