第二話 「祈り」
灰色の空が続いていた。
夜明けの光は鈍く、世界の輪郭をぼやかしている。風は冷たく、冬の匂いを含んでいた。
エイリックは一人、古い街道を歩いていた。背には黒い外套、腰には小さな革袋。ハロルドと別れてから数日が経ち、彼の心には奇妙な静けさがあった。
人と別れることに、痛みを覚えるのはいつぶりだろう。
戦場では誰もが死に、そして忘れられていった。死も別れも、砂のように手のひらから零れ落ちていくものだった。
それが、今になって胸の奥を締めつけている。
その感覚が、どうしようもなく“生きている”ことを思い出させた。
――俺は、まだ人間なのか。
街道の先に、廃村があった。
瓦礫と化した家々、倒れた聖堂。風に吹かれて祈りの旗がちぎれ、地に落ちている。
その村の入口で、ひとりの少女が祈っていた。
膝をつき、手を合わせ、唇を動かしている。誰に向けてかも分からぬ祈りだった。
エイリックは近づき、声をかけようとした――だが、言葉が出なかった。
少女の隣には、小さな墓があった。新しい。
墓標の上に、白い花が一輪だけ置かれている。寒風に揺れながらも、折れずに咲いていた。
「……それは、誰の墓だ」
エイリックの声は、掠れていた。
少女は顔を上げた。瞳は濁り、涙の跡が乾いて白く残っている。
「お父さん。……兵士だったの」
「……そうか」
沈黙が落ちる。
風が墓標を撫で、枯葉が音を立てた。
少女は小さな手を胸の前で握り、呟いた。
「神様はね、全部見てるって。……だから、祈ればきっと届くんだって」
「神様は、何もしてくれなかったろう」
エイリックの言葉は鋭く、少女の小さな肩を震わせた。
怒りが、喉の奥から溢れてくる。
自分でも抑えられない感情だった。
「何度祈っても、何も変わらなかった。仲間も、家も、全部灰になった!」
声が震え、拳が震える。
エイリックの目の前で、過去の光景がよみがえる。
炎に包まれた街、倒れる兵士、燃える旗。
自分が救えなかった命が、今も血の匂いとなって記憶に刻まれている。
少女は、ただ見つめていた。
怯えではなく――哀しみをたたえた目で。
そして、小さく首を振った。
「……でも、それでも祈らなきゃ。祈らないと、お父さんが本当にいなくなっちゃうから」
その言葉に、エイリックは何も返せなかった。
拳を握ったまま、ただ風の中に立ち尽くす。
胸の奥の怒りは、やがて静かな痛みに変わっていく。
祈りとは、無力で、それでも美しい。
誰も救えなくても、誰かを思う心だけは残る。
少女は再び祈りの姿勢に戻った。
エイリックはその横に膝をつき、黙って空を見上げる。
灰色の空が、少しだけ明るくなっていた。
「……そうだな。祈ってみるか」
小さな声で、彼は呟いた。
何を祈るでもなく、ただ手を合わせた。
その仕草が、彼の中の“人間”をほんの少しだけ取り戻していく。
風が止み、遠くで鳥の鳴き声がした。
少女は微笑み、花を一輪差し出した。
エイリックはそれを受け取り、墓の前に置いた。




