第一話 「灰の酒場」
乾いた風が、地を這うように吹き抜けていく。
かつて戦場だったこの町には、未だ焦げた鉄と血の匂いが残っていた。
砕けた煉瓦の隙間に、兵士の名が刻まれた小さな石碑。風が通るたび、砂が舞い、過去を覆い隠していく。
木製の扉を押し開けると、きしむ音と共に、温い空気が流れ込んできた。
店内には人々の笑い声が満ちている。戦後の喧噪というやつだろう。生き残った者たちが、死者の分まで喋り、飲み、忘れようとしている。
「酒を一杯。それと、水を頼む」
「はいよ……?」
店主の目が、俺の顔を見て止まった。
包帯の下、焼けた皮膚は醜く歪み、もう“人の顔”とは呼べないものになっている。
だが、驚かれることにももう慣れた。
この顔を見て笑う者も、視線を逸らす者も、皆同じだ。俺を人間だと思っていない。
グラスに注がれた酒は濁っていた。
飲み干すと、喉が焼けるように痛い。だが、久しく感じなかった“生きている”という感覚があった。
あの日、戦場で息絶えたはずの俺が、まだこの世界にいる。その事実が、時折胸の奥を鈍く叩く。
――俺は、なぜ生きている?
理由は見つからない。けれど、死ぬことにも疲れ果てた。
だったら、もう少しだけ生きてみるか。
そんな曖昧な気持ちで、俺は旅を続けていた。
静かに立ち上がりかけた時、背後の扉が勢いよく開いた。
「おっさん、酒を二杯!」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が微かに震えた。
忘れもしない声。――ハロルド。
俺と同じ部隊で、何度も地獄をくぐった戦友。
「その格好……あんたも兵士か?」
振り返ると、金属の鎧を身につけた男が立っていた。
腕は逞しく、顔には深い疲労の影。それでも、その瞳にはまだ光があった。
俺の隣に腰を下ろし、無造作に酒を口へ運ぶ。
「おっと、勝手に座っちまったな」
「……好きにしろ」
ハロルドは笑いながら、空になったグラスを軽く振った。
まるで、昔のままだ。戦場の最前線で、死を恐れず冗談を言っていたあの頃のまま。
「 〜じゃあ、お前はもう戦場には出てねぇのか」
「……」
「まぁ、その傷じゃ仕方ねぇな」
ハロルドは気にも留めずに酒を注ぎ足した。
俺が何者か、気づく気配はない。
目の前にいるのが、死んだと思っている戦友だとは思いもしないのだろう。
俺は黙って、彼の横顔を見つめた。
あの頃よりも年を取ったが、目の奥は変わっていなかった。強く、まっすぐで、どこか愚かしいほどに正しい。
「俺はまだ戦場にいる。終わらねぇ限り、国は俺たちを手放さねぇよ」
「……」
「仲間たちも、みんな死んじまった。....がいたら、どうしてたかな……ってたまに思う」
胸の奥が軋むように痛んだ。
思い出してはいけない記憶が、皮膚の下で蠢く。
あの日、炎の中で失われた叫び、血の匂い、仲間の名。すべてが俺の背中に焼きついている。
「お前は……どうしてまだ戦っている?」
問うと、ハロルドは一度だけ息を吐き、静かに言った。
「誰かが生き残らなきゃ、あいつらが戦った意味がなくなるからだ」
その言葉が、心臓の奥で鈍く響いた。
生き残ることに、意味を与える者。死を越えてもなお“誰かのために”生きようとする者。
俺には、そんな強さはもう残っていない。
「……俺は、何のために生き残ったんだろうな」
思わず口からこぼれたその言葉に、自分でも驚いた。
ハロルドは黙って杯を回し、わずかに笑った。
「生きる意味なんて、あとから見つかるもんさ。
誰かのためにでも、自分のためにでもいい。……お前がまだ息してるなら、それで十分だろ」
それが、彼の生き方なのだ。
戦場でも、今も、彼はただ真っ直ぐに“生きる”ことを選んでいる。
俺とは違う。俺は、ただ流されているだけだ。
店を出ようと立ち上がると、背中から声が飛んだ。
「なぁ、また会おうぜ!」
陽気で、力強い声だった。
この荒れ果てた地でも、まだ希望を捨てていない人間がいる。
それが嬉しいようで、痛いようで、言葉が出なかった。
代わりに、フードを深く被りながら小さく答えた。
「……縁があれば、な」
外の風は冷たく、砂混じりだった。
だが、不思議と足取りは重くなかった。
誰かに必要とされなくても、生きてみてもいいのかもしれない。
そう思えるだけで、少しだけ息がしやすくなる。
――それが、俺の巡礼の始まりだった。
灰の町を背に、再び歩き出す。
太陽は無情なほど眩しく、影はどこまでも長く伸びていた。
「……俺は、まだ生きている」
その呟きが、風に溶けた。
そして、酒場の中で。
ハロルドは、空になった杯を見つめながら、静かに微笑んだ。
「……元気でな、エイリック」
ここまで読んでいただきありがとうございます。
読んでよかったと思っていただけるような作品を作れるように頑張りたいと思います。




