第零話 「灰の眠り」
灰が降っていた。
雪のように静かに、しかし冷たさではなく、焦げた匂いだけを残して。
世界が燃え尽きたあとの残りかすのように、空は曖昧な白に滲んでいた。
その中で、ひとりの男がゆっくりと目を開けた。
重い瞼の裏に焼きついているのは、黒煙と叫び、そして誰かの名前。
けれど、その名前を思い出そうとするたび、胸の奥が鈍く痛む。
――まるで、忘れることが生き残るための罰であるかのように。
「……まだ、生きているのか」
唇が乾いた音を立てた。
その声は、まるで別人のもののように掠れていた。
喉に絡む鉄の味は、血なのか、それとも長い沈黙の錆なのか。
男――エイリックは、ゆっくりと上体を起こした。
指先が土を掴む。灰混じりの地面は冷たく、硬く、まるで墓石のようだった。
その下に、自分が埋まっていてもおかしくはない――そんな感覚が一瞬、彼の胸をよぎる。
彼の手には、折れた剣が握られていた。
刃は鈍く、血と泥にまみれて光を失っている。
その柄には、ひび割れた刻印がある。
だが、それが誰の印なのか、もう思い出せなかった。
見渡す限り、何もない。
かつてここに町があったことを示すのは、崩れた石壁と、炭になった木々だけ。
生の気配は消え、音も風もなく、ただ灰だけが降り続けている。
エイリックは立ち上がった。
膝が震え、何度も崩れそうになりながらも、倒れなかった。
まるで、立つ理由を探すかのように。
胸の奥に微かに残るもの――それは希望というより、まだ終わっていないという感覚だった。
「……俺は、どうすればいい」
呟きは灰に吸われ、空へ溶けていく。
答えは返らない。誰もいない。
遠くで、風がわずかに鳴った。
灰の中に埋もれた兜が転がり、その金属音が、死の静寂に波紋を描いた。
その音を聞いた瞬間、胸の奥に沈んでいた何かが、かすかに軋んだ。
エイリックは折れた剣を見つめる。
戦うための刃はもう役に立たない。
だが、なぜかそれを手放せなかった。
この手を離せば、自分という存在までもが消えてしまうような気がした。
彼は剣を腰に差し、ふらりと歩き出した。
歩く理由も、行き先もない。
ただ、倒れたままでいることが、何かを裏切るように思えた。
――生きている。
それは奇跡ではなく、ただの事実。
けれど、その事実が、彼を縛っていた。
どのようにして生きていけばいいのか分からない。
けれど、死ぬことよりも、もう一度「生きること」を選びたかった。
それが罪であっても、意味のない足掻きであっても。
灰の向こうに、かすかな光が見えた。
それは陽の光か、あるいは幻か。
灰の世界に差し込むその淡い輝きを見て、エイリックはほんの僅かに目を細めた。
「……行こう」
誰にともなく呟き、足を前へ。
靴底が、灰に沈んで消える。
それでも、彼は止まらなかった。
灰の降る空の下、男は最初の一歩を踏み出した。
その歩みは、終わりではなく、始まりだった。




