アリアーヌは知っている、婚約者が他の令嬢を口説いていたことを。あんまりにも人をバカにした所業に有責を叩きつける
風が肌を撫でる。煌めく空の下、静かに息を吐いた。
「婚約は破棄させてもらうわ!」
王都の一角にある豪華絢爛な庭園でアリアーヌは、高らかに宣言した。目の前には信じられないといった表情で固まっている、婚約者のセシルがいる。
周囲には心配そうにこちらを窺う貴族たちが数名。ああ、面倒くさい。
「ア、アリアーヌ……?いったい何を……」
セシルの声は震えている。無理もない。だって、昨晩まではあんなに甘い言葉を囁いていたんですから。
「君以外の女性を愛することなどありえない」
とか、そんなクサい台詞を真顔で言うものだから盛大に吹き出しそうになったのを覚えている。
「何をって、言った通りよ。あなたとの婚約は破棄するの」
アリアーヌは扇子をパチンと開いて優雅に微笑んでみせる。もちろんこれは演技だ。
内心では早くこの場から立ち去りたい気持ちで、いっぱいなのだから。
「そ、そんな……理由を教えてくれ!何か落ち度があったというのか!?」
必死なセシルに、アリアーヌはわざとらしく溜息をつく。
「あらあら、ご自分の行いを本当に理解していらっしゃらないの?庭園の隅っこで侯爵令嬢と熱烈に抱き合っていたのはどこのどなたかしら?」
顔はみるみるうちに青ざめていく。周囲の貴族たちの間にもざわめきが広がった。
「そ、それは……誤解だ!彼女が、その……足をもつらせて、たまたま僕に……」
「あらやだ、そんな言い訳をするの?まさか私が、この目で見ていないとでも思ったの?」
アリアーヌはさらに追い打ちをかける。昨晩、偶然目撃してしまったあの光景は今思い出しても反吐が出そうだ。
よくもまあ、あんな堂々と浮気なんてできる。
「信じてくれ、アリアーヌ!僕は本気で君を愛しているんだ!」
セシルは叫ぶがアリアーヌの心には微塵も響かない。白々しくて笑ってしまいそうだ。
「愛?ふふ、ずいぶんと軽い愛ね。まさか、あちらの侯爵令嬢にも同じような言葉を囁いているんじゃないでしょうね?」
アリアーヌの冷たい言葉に、セシルは言葉を失う。図星、というわけ。
「ふぅ……もう、あなたにはうんざり。婚約破棄。二度と私の前に現れないで」
言い放つとアリアーヌはくるりと背を向ける。その場を後にした。残されたセシルと騒然とする貴族たちを置いて。
(ふう、やっと終わったわ)
心の中で小さく安堵の息をつくアリアーヌ。婚約破棄は確かに面倒だったけれど、これでやっと偽りの笑顔に付き合う必要がなくなるのだ。
(さて、私の好きなように生きる)
胸の中で新しい生活への期待が膨らんでいく。
騒がしい庭園を後にしたアリアーヌは、侍女のミアと共に王宮の一室へと戻っていた。
「お嬢様、本当によろしかったのですか?セシル殿下は、王国の次期国王となられるお方……」
ミアの心配そうな声にアリアーヌは小さく笑う。
「大丈夫よ、ミア。あんな浮気性の男に私の大切な時間を費やすのはもうご免だわ。それに……なんだか、これでやっと自由になれた気がするの」
窓の外に広がる青空を見上げながら呟く。長年、婚約者に気を遣い、息苦しい社交界に身を置いてきた彼女にとって婚約破棄は鎖から解き放たれたような解放感をもたらしていた。
数日後。王宮に隣国、ルシタニア王国の使節団が到着。目的は両国の友好を深めるための親善訪問。
その中に第二王子のドイルアが含まれていた。
晩餐会の日。華やかなドレスを身に纏い、会場に足を踏み入れたアリアーヌはひときわ目を引く、美しい青年と視線がぶつかった。それがドイルア。
(まあ、なんて美しい人……)
金色の髪に、吸い込まれそうな深い青色の瞳。物腰も優雅で周囲の貴族たちとは明らかに異なる雰囲気を、醸し出している。
ドイルアもまた、アリアーヌの美しさに目を奪われていた。婚約破棄の噂はすでに彼の耳にも届いていたが、目の前の女性は噂とはかけ離れた、凛とした輝きを放っている。
晩餐会の途中、ドイルアはアリアーヌの元へ近づき流暢な言葉で話しかけた。
「アリアーヌ様、初めてお目にかかります。ルシタニア王国の第二王子、ドイルアと申します」
「ドイルア殿下、光栄ですわ。アリアーヌ・ガルガ・ヒイゼンタールと申します」
二人は挨拶を交わすとすぐに言葉を交わし始めた。驚くほど会話が弾んだ。
ドイルアはアリアーヌの聡明さや、物事に対する率直な意見に惹かれた。
一方、アリアーヌはドイルアの優しさや、自国の文化や芸術に対する深い知識に感銘を受ける。
「アリアーヌ様はお庭園の手入れをなさるのですね。先ほど、素晴らしい薔薇の鉢植えを拝見しました」
「ええ、ささやかな趣味ですわ。殿下の国にも美しい花は咲きますか?」
「ええ、ルシタニアには夜になると淡い光を放つ珍しい花が咲きます。もしよろしければ、いつかお見せしたいのですが」
ドイルアの言葉にアリアーヌの胸が高鳴った。それは、これまで感じたことのない穏やかで温かい感情。
晩餐会が終わる頃には、二人の間には特別な感情が芽生え始めていた。
別れ際、ドイルアはアリアーヌに優しく微笑む。
「アリアーヌ様、近いうちにまたお会いできることを願っております」
「ええ、私もです、ドイルア殿下」
その夜、アリアーヌは自室に戻ってもドイルアの優しい眼差しが忘れられなかった。
婚約破棄という出来事がなければ、決して出会うことのなかったであろう異国の王子。運命とは本当に不思議なものだわ。
一方、セシルは婚約破棄後。侯爵令嬢との関係も上手くいかず、アリアーヌを失った後悔に苛まれていた。彼女の存在の大きさを今になってようやく痛感していたのだ。
数日後。ドイルアは再びアリアーヌを訪れた。王宮の庭園で二人は穏やかな時間を過ごした。
花のこと、本のこと、それぞれの国の文化のこと……話は尽きることがない。
そんなある日、ドイルアは真剣な眼差しでアリアーヌに向き直り、こう告げた。
「アリアーヌ様、初めてお会いした時からあなたの魅力に心を奪われていました。もしよろしければ、私の国、ルシタニアへ来ていただけませんか?あなたと共に新しい未来を築きたいのです」
アリアーヌは息を呑んだ。異国の王子からの求婚。それは想像もしていなかった展開。
「わたくしのような、婚約破棄された身の上の女でよろしければ……喜んでお受けいたしますわ」
アリアーヌの瞳には迷いはなかった。元婚約者からの復縁要請にも辟易していたのだ。
指先にキスをされて、こそばゆさにクスクスと笑った。
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