77
約束から一月が過ぎてようやく迎えた四月末の良く晴れた日。気温も上がり辺りの雪はすっかり解けた。冷たかった風も心地よいものに変わり始めたころ、僕らは近くのグレシャル湖へと釣りに来た。
必要な道具を積みこんだ小舟を一艘水に浮かべ、慎重に二人で乗り込む。それから僕が櫂を握って岸から漕ぎ出した。
水は日の光を受けてきらきらと輝き、高原を吹き抜ける風が僕らの髪の毛を弄ぶ。
暖かな日差しを浴びて気持ちよさそうにしているキースを見て、僕は言いようもない幸せな気持ちが湧き上がってくるのを感じていた。
「なぁ、アルベルト。どのあたりで釣りをするんだ?」
彼が僕にそう尋ねて来た。その顔は新しいことを前にして楽しそうに輝いている。その表情に、言葉の端々に、その態度に、彼が本気で今日の釣りを待ち望んでいたのだと見て取れる。
昨夜も寝しなのお喋りで釣りのことや今日の天気のことや湖の魚のことなんかについてあれこれ喋り通しだったのを思い出していた。
いつになく言葉数多く僕に話しかける彼に、寝坊してしまうと釣りをする時間が無くなるよというと、彼は布団を被って眠る体勢に入ったのが昨夜。それでも彼は随分遅くまで寝付けなかったようだったけれど。
そんなことを思い出して、不意に僕は彼を抱きしめてキスしたい衝動にかられたけれど、不安定な水の上で下手に動くべきではないとそれを自制した。
「そろそろいいかな。この辺りなら水深もそれなりにあると思う」
僕は岸から適当な距離離れた辺りで舟を止めた。
「水深が関係あるんだ?」
「うん。彼らもなかなか賢いからね。浅いところに見える魚は釣れないんだよ」
「へぇ」
「じゃあ、はい。これが君の釣り竿だよ。僕のお古で申し訳ないんだけれど」
「そんなことない。ありがとう」
僕が一竿彼に差し出すと、彼は大事なものを受け取る様に丁寧にそれを受け取った。僕らの身長の倍ほどもある長い竿を、彼は慎重な様子で両手で受け取るとしげしげと眺めた。何の変哲もないただの古ぼけた釣り竿を、まるで貴重な物を扱うみたいに持っている。
「こんなに長いんだな」
「うん。そのせいで慣れないと扱いが難しいんだ。取り回しの際は十分に気を付けて。じゃないと針が服や皮膚に刺さってしまうからね」
「分かった」
「こんな風に、できるだけ常に竿と糸とを一緒に持つようにするんだ」
「なるほど」
そう言って彼は言われた通りにすると、大人しく僕の次の指示を待つ。
「餌はこれ。その辺で見つかるような虫をみんなに採ってきてもらったんだ」
僕はそう言いながら餌の虫が入った袋の口を開いて見せた。
「何種類もいるけど、もしかして虫の種類によって釣れたり釣れなかったりするのか?」
「そうだね。魚にも好みがあるから。でもまぁ、この湖にいる魚はそんなに好みにうるさくないはずだよ。とりあえずどの虫でも釣れる。魚の種類によってはかかりにくい餌があるだろうけど」
「なるほど。ちなみにどんな魚がいるんだ?」
「僕もさほど詳しくは無いんだ。マスやコイ、フナ、ヤマメ、ウグイとかかな?大きな魚はいないよ」
「そうなんだ。いくつかは俺でも知ってる魚だ」
「うん。特別な魚はいない。それにこの湖は王族の所有物でほとんど人に慣れていないから、釣り糸を垂らせば何かしらかかると思う。初心者の君にはぴったりだね。釣りをする人が多く集まるようなところだと、人を警戒してなかなか釣れないんだ」
「魚も学習するというわけか」
「そうだね。だからここは初心者にはうってつけの場所と言ってもいい」
「良かった。俺は初めてだから、賢い魚相手じゃ太刀打ちできないところだった」
「そんなことはないと思うけど」
そうして僕らは釣りを始めることになった。適当に餌袋から虫をつまみ出して針に通す。それを見たキースも真似して針に虫を通した。
「できるだけ遠くに飛ばした方が良いよ。人影が湖面に落ちると警戒するみたいだから」
「わかった」
そう言って僕は錘のついた糸を遠くへ投げ込む。ぽちゃりと音がして、水面下に針が沈んでいった。
僕の動きを観察するように見ていたキースが、同じように竿を振るって針を反対方向の遠くへ投げ込んだ。
「うん。いいね」
「良かった」
「後は魚がかかるのをじっと静かに待つだけだよ」
「分かった。ありがとう!」
弾む声で言うその顔は輝いている。小さい子が初めて与えられたおもちゃにわくわくしているように。僕は幼い日のテオドールを思い出していた。
「ただ、いつ魚が食いつくかはわからないから。すぐに食いついてくるかもしれないし、全然ダメな時だってある。気長に待つのが大切だよ」
「なるほど」
僕らはしばし魚が釣り針に掛かるのを待つことにした。
キースが真剣な顔で自分の釣り竿の先を見つめている。ぎゅっと手に力を込めているのが見て取れる。きっとわずかでも反応があったら即座に対応できるよう、構えているのだろう。
今からそんなに気を張っていては疲れてしまうだろうに、釣りをしたことのない彼にはそれが分からないのだ。きっとすぐに釣れると思っている。幼い頃の僕たち兄弟みたいに。
それは見ていてとても心和む光景だった。
「そんなに気を張っていては疲れてしまうよ。すぐにはかからないから、もう少しのんびり構えて良いんだよ」
「分かった」
そう言って頷いて見せながらも彼は釣り竿から視線を外さない。輝く水面を眩しそうに目を細めて真剣な顔で見つめている。
僕はじっと水面を睨む彼の様子を微笑ましく思いながら、同時にこれまでのことを思い返していた。
そして、叙爵されて貴族の仲間入りを果たした彼の今後ことを考えていた。
それは彼がうまくやっていけるかということだった。それが僕は心配だった。なぜなら、彼がすんなり貴族社会に受け入れられるとは到底思えなかったからだ。
きっと貴族社会は彼を排除しようとする。王家の後ろ盾があったとしてもだ。父がわざわざ彼に王領の一部を割譲したのは、彼の地位が形だけのものではないということを対外的に示すためだったのだと、今なら考えられる。王家が彼の地位を保証するということを意味した。祝福はしないといったけれど、父上はきちんとキースのことを考えてくれていた。心を砕いてくれていた。
しかしそれでもなお、彼は厳しい立場にあるのは変わらない。それくらい貴族というのは一筋縄にはいかない。僕らの前では親し気にしていても、裏では徹底的に排除しようとするなんてことはよくあることだ。
今後彼は色々と辛い目に遭うはずだ。もちろん僕が彼を守るつもりだけれど、いつだって庇えるわけではない。全力で彼を守りたいけれど、現実問題としてそれはとても難しい。
遅かれ早かれ、きっと彼は一人で対処しないといけない場面に出くわす。そうなったとき、彼が揺るがない強さをもてるようになるにはどうしたらいいだろうかと思った。
その第一歩として、僕はデミアンを頼ることにした。彼にキースの教育を頼もうと考えた。
礼儀作法と言葉遣い、それから貴族社会の基礎的な知識を身につける必要がある。そしてそういったことにデミアンは詳しい。きっと彼ならば、キースに今後付き合う上で彼が気を付けるべき家や貴族の派閥や役割など、知っておいた方が良いと思われる事柄を上手く教えてやってくれるだろうと期待した。
すると、僕の親友は嫌な顔一つせずに今後彼には必要だろうとこちらの意を汲んで、すぐにキースが自身の屋敷に滞在する手配をしてくれた。母のこともあって彼を側には置いておくことが出来なかったので、この迅速さは非常に助かった。
彼が実際に社交界に出るのは来年からだ。幸いなことに猶予はたっぷりある。去年の十一月から今年の三月頭までの間、デミアンの屋敷に客人として滞在することを話すと、キースは納得して彼の元へ出かけて行った。
その際、僕の従僕から彼の世話係としてクリストフともう一人、デイルを彼に付けることにした。キースには困ったことがあったら彼らを頼るように言い聞かせた。そうとは言わなかったけれど、人を使うことに慣れるための練習も兼ねてのことだった。
それからキースには定期的に手紙を書くよう頼み、クリストフにも細かくキースの様子を知らせるよう言いつけておいた。
キースからの手紙はまめな彼の性分なのだろう、日々のあったことや作法の教育などについての進捗が丁寧に綴られた手紙を定期的に書いて寄越してくれた。彼が自身の失敗談も隠すことなく報告してきてくれるので、彼の戸惑いや困惑などが手に取るようにわかった。それでも侯爵家では存外上手くやっているように感じられた。
クリストフからの手紙には、キースの書いて寄越した報告からは見えてこないより詳細な彼の日々の様子が記載されていた。
それを見れば彼の何でも自分でやりたがる性質が浮かび上がってくる。朝の身支度から、準備、身の回りの細々としたことのほとんど全てを彼は一人でやりたがった。人にさせるという発想さえなく、人に手伝われることに戸惑いを感じている様子が目に見えるようだった。
しかも、果ては侯爵家の使用人の手を煩わせまいとして、向こうの使用人たちを困惑させる様子なども綴られていた。
勿論こういったことは僕としても想定内のことで、別段驚きはしなかった。
だから前もって僕はちょっとした仕込みをしておいた。それは僕が贈った彼のための衣服だった。わざと一人では脱ぎ着がし辛い服を多めに見繕って彼に贈っていたのだ。それによって、彼は自分一人での着替えに限界を感じ、自然とクリストフらを頼る様になるだろうという目論見だった。
男爵など比較的生活の厳しい貴族などたくさんいるのだから、探せば一人で着用できる衣服も存在する。しかし、彼はそんなことなど知らない。きっと彼はそういう服が、つまり誰かに手伝ってもらって着る衣装というのが貴族としての当たり前だと思い込むだろうと僕は期待していた。
そしてその期待は見事叶った。
最初は服の脱ぎ着も一人でやろうとしたようだったけれど、一週間もすればさすがに貴族向けの繊細な服を一人で美しく身に付けるのが困難であると結論づけたようだった。何度も一人で着替えることに挑戦して、徐々に人に手伝ってもらうことを受け入れられるようになっていく様子がクリストフの報告書から伝わって来た。
一つ誰かに頼ることが出来れば、後は時間の問題だった。彼は日常の小さなことを、戸惑いながらも使用人にさせられるようになっていった。
そしてこちらへ来てからは、もうすっかりクリストフやロベルトに手伝ってもらって朝の準備をすることが普通のことなのだと受け入れられるようになったようだった。これは大きな一歩と言っても良いだろう。
気遣いのできる彼の性格は美徳ではあるけれど、最初の頃の彼の振る舞いは貴族のそれとしては落第だったと言っても良い。使用人相手に一歩譲る姿勢は、逆に使用人を付け上がらせる。使用人を大切にすることと、彼らに仕事をさせないこととは別だということを、キースは学んでいかねばならない。
まぁ今もまだ僕に迷惑はかけたくないから一人暮らしをしようなどと考えているようだから、彼が変わるまでにはまだまだ時間がかかりそうだが、自分から魚釣りがしてみたいと希望を言い出すくらいには彼の内面に変化が起きていた。それは良い兆候だった。
彼が僕に甘えられるようになっていくことを僕は願っていた。
そして結局侯爵邸での数か月の間で、彼はほとんど問題という問題を起こすようなことはなかった。デミアンによれば教育の進みも素晴らしいものだったそうだ。彼の聡明さは侯爵家の人間に受け入れられ、侯爵邸での短い生活で侯爵家とその使用人たちとの間で良好な関係を築くことが出来ていたと聞いて胸を撫でおろしたものだ。
なのに、よりにもよって僕が信頼してキースに付けた使用人のゲイルが、僕の期待を裏切ったことはいまだに忘れられない出来事だった。ただの使用人に過ぎないのに、自らの立場を理解せず、キースに対してあるまじき態度で接していたことがしばらくして発覚した。
しかし、自分が粗雑に扱われていたというのにキースはそんなことを一言も手紙に書いて寄越さなかった。キースを軽んじる態度が目に余るとクリストフが報告を寄越してくれなければ、僕は今もなお知らぬままだっただろうと思うと、怒りが込み上げてくる。
もちろんそれが発覚後に事実確認を行い、クリストフの報告が真実であるとはっきりさせてから、ゲイルは即座に解雇した。爵位を持たない貴族分家の男だったが、彼の一族は二度と王家と関わることはできなくなった。
この出来事は、彼の中にまだ貴族としての自覚が全く育っていないことの裏付けでもあった。これに関しても、彼の意識を少しずつでも良いから改善していく必要があると心に刻んだ。
僕にとっては腹立たしい出来事であったけれど、良かった面もある。今後こういったことが二度三度と起こるだろうことをキースが理解するための丁度良い出来事だと言えた。早いうちに僕の目の届くところで経験しておくことができたのは悪いことではなかった。
ただそれ故に僕は心配だった。きっとこの先これ以上の困難が持ち上がるだろう。そして、そういったことを何度も僕らは一緒に乗り越えて行かなければならない。
そのためには彼との間に確固とした信頼関係を築くことが急務だった。では、その方法はと言うと……。
つい釣りとは関係のない事についてぼんやりと物思いに耽っていると、突然手の中にある釣竿を通じて魚が食い付いた感触があり、それによって僕は現実へと連れ戻された。二度三度と小さい引きがあって、魚が餌に悪戯をしているのが分かる。僕は意識を切り替えてその瞬間を待った。
そして、一際大きな力が加わって、竿が水中へと引き込まれた。
僕はその瞬間勢いよく釣竿を引き上げる。
「かかった」
「え、本当か?」
キースが僕の手元から竿の先へと視線を走らせる。
「どう?」
「引きはそんなに強くないから、大きさはそこそこかも」
「頑張って」
「うん」
キースの視線を感じながら僕は釣竿に集中する。
自らの身に起きた異変を察知した魚が水中で暴れる。僕は糸が切れないよう慎重に竿を操って魚を僕らの舟の方へ誘導すると、一気に水面の上へと引き上げた。
「釣れた。ウグイだと思う」
「すごい」
引き上げた魚から釣り針を外す間に、キースに頼んで積んである桶に湖の水を汲んでもらう。差し出されたそれに釣れたウグイを放すと、鈍い銀の鱗が光を反射してきらりと輝いた。
魚の入った桶を僕らの間に置くと、キースが興味深そうにしげしげとそれを覗き込んでいた。
「掛かったと思ってもすぐに引き上げては駄目だよ。遊びや警戒から餌をつついているだけの場合も多いんだ。慎重に様子を見て、確かに食いついた感触があったら引き上げるのが大事なんだ」
「なるほど」
「まぁ、僕も受け売りなんだけどね。そんなに釣りが得意というわけじゃないから、状況によってはそうじゃない場合もあるかもしれない。だから話半分に聞いておいてもらえると助かる」
「でも俺と違ってお前は経験者だ。何事も経験者に学べというだろう?」
「そうだね。あとは……」
キースは真剣に僕の助言に耳を傾けていた。
それから昼食までさらに二時間ほど小舟に乗って二人で釣りをしたけれど、キースの竿はうんともすんとも言わなかった。一方の僕の方は、今までこんなに釣れたことが無いというほど魚が食いついてきて、午前だけで五匹も釣り上げてしまった。
僕は彼に対してなんだか申し訳ない気持ちになった。
「釣りってもっと簡単なものだと思ってた」
一旦陸に上がって用意された食事を一緒に摂っているとキースがそう零した。
「どうやら考えが甘かったみたいだ」
そう言って落ち込むキースに僕は慌てて言う。
「いや、たまたまだよ。本当に偶然なんだ。僕自身こんなに釣れたのは初めての経験で戸惑ってるくらいだ。二時間三時間魚が釣れないことも普通にあるんだ」
「そうなのか?」
「うん。昔やったときは半日全く釣れないなんてこともよくあって、それで結局そのことに飽きて釣りは徐々にやらなくなっていったんだ。恥ずかしい話だけれど」
「そんなに……。いや、俺はだいぶ認識が甘かったみたいだ」
「釣りの名人ならどうかわからないけれど、僕程度の実力じゃあそんなものだよ。だから自分でもびっくりしてるくらいだよ。もしかしたら、今日はとりわけ魚たちは空腹だったのかもしれない。冬眠から目覚めたばかりだから」
「あぁ、それはありそうだな」
そう言ってキースがくすくすと笑う。良かった。あまりにも僕ばかりが釣れるものだから、気持ちが落ち込んでいたらどうしようかと思ったけれど、大丈夫なようだ。
せっかく彼が自分から言い出した頼み事だ。彼が自分から希望を言うのはめったにあることじゃない。だからこそ今日が楽しい思い出になってほしかった。
「決して上手くもない僕があんなに釣れたんだ。君だって釣れるはずだよ。僕らの条件なんてほとんど同じだろう?」
僕自身どうしてキースの竿に全く魚が寄り付かないで、僕の方ばかり釣れるのか誰かに訊きたいくらいだった。
「確かにそうだな」
「うん。餌も同じだし、竿も同じだし、強いて違うと言えば糸を垂らす方向が反対というだけだ。午後はきっと君も釣れるよ」
「うん。頑張るよ」
彼は前向きにそう言ってキースが上手にナイフとフォークを操って料理を片付けていく。
僕は彼に知られぬようほっと息を吐きだした。
「うん。気楽にやろう。きっと午後は君の竿にもかかると思うんだ。僕自身特別なことは何もしていないし、そもそもそんな技術さえ持ち合わせてはいないのにあれだけ釣れたんだから」
僕は彼を励ますつもりで偶然であることを繰り返した。それから食事が終わると僕らは再び湖上の人となった。
午前とは場所を変えて釣り糸を垂らす。
穏やかな午後の陽気は素晴らしかった。風もほとんどない。
本来であれば和気あいあいと他愛もない話をしながらお互いの釣果について意見を交わしながらのんびり釣りを楽しみたかった。真実そうしたかったのだけれど、魚はことごとく僕の期待を裏切った。
どうしてか、湖の魚たちは僕の竿にばかり掛かるのだ。一二度キースの釣り竿が反応を示す場面はあったけれど、彼が魚を釣り上げることはなくて、ただ無駄に餌をかすめ取られただけだった。
僕の方は午前にもましてなぜか魚が集まってきて、同じだけの時間でさらに七匹も釣り上げてしまった。
その間、多くはないがありとあらゆる手を尽くした。釣り糸を垂らす位置をお互いに変更したり、舟を浮かべる場所を変えたり、僕が魚を釣り上げたときに針に付けていた餌で釣ろうと試したりもしたけれど無駄だった。
無慈悲にも時間ばかりが過ぎ、日が傾いて風が冷たさを帯び始めるころ、僕らは撤収した。
僕はあと少し、あと少しだけと彼が釣れるまで粘りたかったけれどそれは意味を為さず、結局その日キースの竿に一匹の魚が掛かることもなかった。
日が傾いた中、二人で帰り道を辿る。風はすっかり冷たくなっていた。
一見したところ来た時と今のキースに変わった様子はないし、彼は僕の釣果を見て自分のことのように喜んでくれてはいたけれど、その内心までは僕には知ることはできない。彼が本当にどう思っているのかは僕には分からない。
「今日は俺のわがままに付き合ってくれてありがとう、アルベルト」
「いや……」
全く釣れなくて、代わりに僕の方ばかりに魚がかかるのを見て楽しいはずがなかっただろうに彼は笑顔でそう言った。
「それにしても、釣りって難しいんだな」
ぽつりと彼がそう言った。
「君も釣れそうなときは何度かあったんだけれど、おしかったね」
「そうだな。何が駄目だったんだろうなぁ。餌の選択なのか、針を落とす場所なのか、食いついたと思ってから竿を持ち上げるまでの間なのか」
「……こればかりはやっぱり場数がものを言うから」
素人に毛が生えた程度の知識と実力しかない僕には分かろうはずもなくて、ただ慰めに言葉を吐くことしかできない。
「だな。初心者の俺が簡単に釣れると思っていたのが間違いだった。釣りって奥が深いんだな」
「……うん。そうみたいだね。それに釣りってどうしても運が絡むから釣れないときは釣れないね。僕も昔やったときは全然だったし」
「うん。それにしてもお前は今日いっぱい釣れたよな。すごいよなぁ」
そう言ってこちらを見上げてくる表情はなんの屈託もない。
「折角お前に付き合ってもらったのに、何の成果も得られなくてなんだか申し訳ない気持ちだ」
「そんなこと。僕の方こそ申し訳ないよ」
「なんでだよ」
そう言ってキースは笑ったけれど、僕の内心は穏やかではいられなかった。何とかしなければとそればかりを思っていた。折角の外出が、彼にとって楽しくない思い出として残るのはまずいと思った。
「そうだ、キース。明日!明日も釣りに来よう!そうしたら絶対釣れるから!ね?」
僕は隣を歩くキースに向かって前のめりに言う。気づけばそんな言葉が口をついて出ていた。明日やったとしても釣れる確証など全くなかったのに、言葉にしてみればしかし良い提案のように思われた。
「そうだ。それがいい!うん。明日もう一度挑戦してみよう、キース。ね?いいだろう?」
僕は彼の両腕を掴んで言い募る。
「どうしたんだ、アルベルト?そんなに焦って」
「今日はたまたま釣れなかっただけなんだ。きっと、明日なら魚たちも君の餌に食いついてくると思うんだ」
「え、あぁ、うん」
「だから!明日も釣りに来よう。そうしたら絶対釣れるから!」
「いや、俺は別に……」
このまま終わるのは嫌だった。キースには楽しい思い出をいっぱい持ってほしい。僕ばかり連れて自分が釣れないのは気分のいいものじゃないはずだ。
「ね?」
「うんまぁ、お前がそこまで言うなら……」
「うん、絶対だよ」
心なしか声が大きくなってしまった。彼が僕の勢いに小さく笑った。
そして、翌日も僕らは二人並んで釣りをした。
昨日はきっとなにかおかしかったんだ。今日こそはキースの釣り竿にも魚が来るはず。そんなことを考えながら、しかし嫌な予感は拭いきれなかった。
僕は目が覚めた瞬間から彼が魚を釣り上げることを祈っていた。
昨日と同じように船に乗って、同じように二人で糸を垂らした。僕は自分の竿なんてそっちのけで、ただキースの持つ釣り竿をじっと凝視していた。わずかな変化も見逃すまいと思った。
なのに、やはりと言うべきか、最初の当たりは僕のほうだった。内心の焦りを押し殺しながら僕は平静を装って魚を釣り上げる。魚を釣りに来ているはずなのに、魚以外の何かがかかっていればと願った。あるいは、引き上げる途中で逃げてくれたらと願った。
「さすが、アルベルト」
釣り上げた魚から釣り針を外して昨日と同じ様に水を張った桶に魚を落とす。そんな様子を見てキースはにこにこした顔でそう言うと、桶の中で泳いでいる魚を見ている。
「これは鮒か?」
「たぶん鯉かな」
「なるほど。魚の種類もだいぶ覚えてきた」
彼は嬉しそうに言う。
「君もそのうち釣れるよ」
「あぁ。楽しみだ」
そう言って彼は自分の竿に集中する。そんな彼を横目に、僕はこっそり自分の釣り針に餌をつけないまま湖に投げ入れた。
それからは僕にとって気まずい時間が流れた。
昨日さんざんお喋りをしてしまったせいで、今日話す話題が見つからなかった。静かな時間が過ぎていった。僕にとっては心穏やかでない時間だったけれど、キースの方は特に頓着した様子もなく、水面を覗き込んで悠々と泳ぐ魚の影を興味深そうに見ている。
それから彼は時折釣竿を引き上げては餌を取られていないか確認して、いそいそとすっかり慣れた手つきで自らの釣り針に別の餌をつけ直すとそれを湖面へと放った。
僕はどうか魚が彼の釣り針に集まってきますようにと、必死にその行方を見つめていた。
「いや、そんなにじっと見られているとなんか気まずいんだけど……」
キースが戸惑ったようにそう言う。心配するあまり自分の釣り竿をそっちのけで彼を凝視してしまっていた。
「いや、うん。ごめん」
「なんだ、そんなに心配してくれるのか?」
「その、なかなか君に当たりが来ないから気になって。ほら、釣れないとつまらないだろう?」
「まぁ、そうかもしれないけれど、俺は平気だ。辺境軍の任務でこうして何もしないまま時間を過ごすなんてよくあったからな。慣れたもんだ。暇な時間の潰し方は心得ている」
「なるほど」
「あ、でもだからと言ってこの時間が退屈ってわけじゃない。お前が側にいるからな」
キースが突然可愛いことを言い出して僕はびっくりして固まってしまった。ここが湖上じゃなかったらと思うと残念でならなかった。
「お前こそつまらないんじゃないかと俺は心配だ」
「僕も君がいるから楽しいよ」
「良かった。お前が言っていた通り釣りなんて運の要素も大きいんだろうし、気長に待つよ」
「うん。そうだね。でも今日君は釣るような気がするんだ」
「だといいなぁ」
「絶対釣れるよ。僕が保証する」
「絶対って、そんなわけ……。いや、ありがとう。頑張る」
「うん」
彼はそういうけれど、やはり僕は心配だった。
じりじりと時間ばかりが過ぎていった。餌をつけていない僕の釣り竿には当然何の反応もなかった。そして、餌をつけているはずのキースの釣り竿もまたぴくりともしなかった。
気持ちの良い風が僕の頬を撫でて通り過ぎた。
春の湖は穏やかで、日の光をさざ波が反射してまぶしく輝いている。鳥は僕らの上空で小さく鳴きながら飛びかい、白い雲がゆっくりと流れていく。
景色だけを見れば今日も昨日に負けず劣らずの素晴らしい一日だった。釣果に目を瞑りさえすれば、キースと過ごすこの上もない素晴らしい時間だった。でも現実は全くそんなことはなくて、僕は焦りの感情を募らせる。
そんな僕を知ってか知らずか、キースは自分なりに色々と魚を釣るために試行錯誤しているようで、釣り針を近くに落としたり遠くに落としたりしている。他にもわざと竿を上下に揺らしてみたり、餌の種類を細かく変えたりしながら魚の反応を試している様子は実に彼らしかった。
もう僕には彼に掛ける言葉は一つもなくて、ただ彼のしたいようにさせる外なかった。色々と試す彼を見守る外なかった。
時間は刻一刻と過ぎていき、彼の様々な努力も虚しく彼の竿に魚が掛かる気配は無かった。無慈悲にも太陽は規則正しく天空を移動していき、とうとう中天を通り過ぎてしまっていた。
「昨日の今日だからなのかな。釣れないな」
「どうだろう。もしかしたらそれもあるかもしれないね」
「お前の釣り竿にも反応がないなんて」
僕はどきりとしたけれど、なんとか平静を装った。
「昨日のことがあって魚も学習したのかもな」
彼がそう言った。
「どうかな……。そんなに賢いとは思えないけれど」
僕はキースの懸念を笑い飛ばすことができなかった。
キースが水を張った桶の中にいる一匹を見る。僕も桶の中の魚を見た。
「他より鈍い個体だったのかもしれないよ」
「なるほど。そうか。よし。俺もあんまり賢くないやつを狙うぞ」
岸の方では昼食の準備が整い、僕らが切り上げて戻ってくるのを待っているのが見て取れた。もう少し粘るべきか一旦気分を変えるために陸に上がるべきかと僕は一人悩んでいた。
キースが一匹も釣れていないのに昼食のために岸へ戻ろうと切り出すのは勇気が要った。しかも昨日は釣り針をいたずらする魚がいたのに今日はそれすらもなくて、昨日よりも悲惨な状況だと言えた。
そんな時だった。
「あ」
不意にキースが声を漏らした。思わずと言った雰囲気だった。
僕はその声にキースの方を見遣ると、彼が僅かに驚いた顔をしていることに気付く。何があったのだろうとその視線の先を追いかけると、彼の釣り竿の先が僅かに揺れているのが見えた。
はっきりと魚が彼の竿を引いていた。
「キ、キース」
「なぁ、アルベルト。なんか竿が」
キースが戸惑った風に俺を見た。
「引いてるよ!竿を持ち上げて!」
「え、あ、うん」
僕の指示に彼が慌てて腕を動かして竿を立てるようにする。
「重い」
「掛かってるんだ!引いて引いて!」
「うん」
昨日僕がしていたように、彼が慎重に竿を持ち上げて魚を引き寄せる。
「慎重にね。糸が切れるかもしれないから」
「わかった」
キースの顔に緊張した表情が浮かんでいる。僕の方は彼以上に緊張していた。
キースが器用に竿を動かして魚を少しずつ舟の方へと引き寄せる。何度も竿を持ち上げたり下げたりしていると、魚が釣り上げられまいとして抵抗した。それをなんとかいなして魚を引き付けることに成功した。彼が片腕を伸ばして釣り糸を掴んで引っ張り上げると、とうとう釣り針を飲みこんだ魚影が水面に見えた。
「釣れた!」
キースが歓声を上げた。彼の釣り糸の先には確かに魚がぶら下がっていた。結構大きい。
「やった!キース!すごい!」
僕は思わず大きな声を上げた。
岸の方からも歓声が届いてきて、彼が恥ずかしそうにはにかんだ。
嬉しそうに彼が糸を掴んでその釣れた魚を僕に見せてくれる。僕が昨日今日と釣り上げたものよりも大きくて、形の良いマスだった。
「やったね!」
僕は思わず腰を上げて彼に腕を伸ばす。
それが良くなかった。
キースも嬉しそうに腰を上げて僕のほうに手を伸ばして僕の腕を掴んだ。
その瞬間船が大きく揺れて、そこでやっとここが湖に浮かぶ小舟の上だったと思い出した。
しかし全ては後の祭りで、勢いよく立ち上がったせいで舟が大きく傾いでしまっていた。ある程度の傾きならば問題なく対処できたと思う。けれど、大の男二人が別々に時間差で小舟の上で立ち上がったせいで、舟の傾きはどう頑張っても修正できないものになってしまっていた。
やってしまったと思いながらお互いの顔を見る。僕の顔に浮かんでいる表情と同じであろう渋い表情をキースが浮かべている。
岸辺のあたりから悲鳴のような声が届いてきて、僕らの乗る船はぐらぐらと揺れ、あっという間にひっくり返ってしまった。
咄嗟にキースの腕を掴んで抱き寄せるとそのまま僕らは水に落下した。
そのあとはもう、岸の方では大騒ぎだった。僕らが死んでしまうかもしれないと心配する人々で大変なことになってしまっていた。
ただ幸運なことに僕らはどちらも軍で水泳の練習をしていたので、そのまま問題なく岸まで泳ぎ切ることが出来た。
しかし春の湖の水は身を切るほどに冷たくて、岸に上がると全身を震えが襲ってきた。風がほとんどないのが幸いだった。
そんな僕らを見て使用人たちが、寒さに震える僕ら以上に真っ青な顔をしていて、本当に申し訳ないと思った。
それからもう全ての予定が中止となり、僕らは濡れた服を着替えるとそのまま屋敷へと帰ることになった。
屋敷に到着するなり風呂に入るよう言われ、お湯で体を温めた。そのおかげだろう。僕らはどちらも体調を崩すことなくて、夕食を摂って早めに寝室へ入った。
キースをベッドに引き込みながら僕は彼に声をかけた。
「今日はさんざんだったね」
すっぽりと布団に収まった彼の顔色をもう一度確認しながらそう話しかけた。小さな明かりに映し出される彼の顔色はいつも通りのように見えた。
「とんでもない。楽しかったよ」
「そう?」
「季節外れの水遊びが出来たし、魚も釣れたし」
「逃げられちゃったけどね」
「仕方ない。それよりもお前に借りた竿がどっかいっちゃったな。ごめん」
「いいよ。古い物だったし」
「今日は楽しかった。あんなに大きな魚が釣れるなんて。ありがとう、アルベルト」
そう言いながら彼が布団の下で僕の手を握る。
「君が楽しかったのなら僕も嬉しいよ」
その手を握り返すとキースが微笑んだ。
僕は彼の体を自分のほうに引き寄せて抱きしめる。彼の匂いがした。
「寒くはないかい?」
「平気だ」
「なら良かった」
キースの肩に布団を引き上げる。
「風邪を引くといけない」
「俺はしょっちゅう風邪をひくわけじゃないぞ」
「分かってるよ。ただ万が一があったらいけないだろう?」
「まぁ、そうだな」
キースが納得してくれたようで、特に抵抗することもなく僕の腕に抱かれている。
「お前も風邪をひかないよう気をつけてくれよ」
「うん。気をつけるよ」
キースの体温が伝わってくる。彼の息遣いも。少し緊張しているようだ。もしかしたら僕が手を出すと警戒しているのかもしれない。
そんなことを考えていると、キースの腕が動いた。窮屈だったかなと思い体を少し離そうとした矢先、キースの腕が伸びてきて僕の背に回された。
おずおずというふうにゆっくりと。そのいじらしさに僕はなんだか泣きたいような笑いたいようなむず痒い気持ちになった。
いつもよりも、キースの吐息がずっと近い位置に感じられた。




