72
「どうしてここにアルベルトが」
俺は慌てて起き上がろうとして、しかし鋭い痛みのために声は最後まで言葉にならず、体を丸めて蹲る。体のあちこちの強い痛みのために身動きがとれなかった。呼吸さえも止まってしまう。
肺が広がると肋骨に痛みが走るせいで、それを抑えるために浅い呼吸を繰り返さねばならず、それも辛かった。
そんな俺を見て何かアルベルトが言っている。彼の言葉は音として耳に届いてはいるが言葉としては頭に入ってこなかった。
ひたすらに痛みをやり過ごすべく大人しくしていると、やさしく彼が俺の背を撫でる。
その手の温もりに、痛みが徐々に引いていく。それにつれてやっと周囲にも意識を向けられるようになって、そうして初めてアルベルトの心配そうな顔が目に入った。
不安そうに彼が見下ろしている
「どうして、お前がここに……これは夢なのか?俺の見ている?」
視線を合わせながら思いついたことがそのまま口からこぼれ出た。彼は無言だった。
泣きたくなる。最後の時に、こんな幻覚が見られるなんて。
「夢ではないよ」
優しい声が俺の鼓膜をかすかに震わせるとともに彼が俺の頬をそっと撫でた。それは確かな感触。
それでもまだ信じられなかった。
「本当に?」
「本当だよ」
咄嗟にその存在を確かめるために右手を動かそうとして、しかし激痛が走り俺は目を閉じる。
「あまり動いてはいけない」
再び閉じた瞼を開いても、彼はまだそこにいて、やっとこれが現実だと納得する。
それと同時にこみあげてくるのは、嬉しさよりも慙愧の念だった。
俺のせいで、アルベルトはこんなところに来てしまったのか?
咄嗟にそう思った。
痛みが少しずつ遠のいて冷静に思考できるようになってくると、今度は彼が危険を冒してこんなところに来たと言う事実に怒りが湧いてくる。
一国の王子がこんなところまでのこのこ来て良いはずがなかった。
「馬鹿野郎!なんでここに来た!」
思わず俺はアルベルトを怒鳴りつけていた。
俺に怒られるなどとは思っていなかったのだろう、彼が戸惑った表情を見せた。
「キ、キース……。僕は」
彼が目を白黒させている。
「お前が死んだらどうするんだ!王子のお前が死んだら!この国はどうなっていたと思うんだ!何故ここへ来た!理由如何によっては、俺はお前を許さない!」
息が上がる。折れた肋骨に響いて痛みが広がったが、それでも俺は叫ばずにはいられなかった。
「何人もの人間がお前を守るために動いている!それを!それを!」
「キース……」
彼の表情が曇る。その様子に俺の胸は痛んだ。痛んだことがきっかけになって、俺は少しだけ冷静になった。
彼は黙って、きまり悪そうに視線を逸らせている。
そんな様子を俺は黙って見つめていた。折れてなどやるものかと思った。
その時、俺は初めて彼の服がぼろぼろになってしまっていることに気付いた。土埃で汚れてもなお高級な生地であることがわかる彼の服の肩口が大きく敗れて、その肌が露出している。そしてその露出した肌は、無惨にも焼け爛れていた。傷口からしみ出した体液でそれはぬらぬらと湿っている。
「アルベルト。お前……、その怪我は」
俺はその様子に絶句する。
アルベルトが無理を押してここへ駆けつけて来たことにやっと思い至る。
無言のアルベルトをじっと見つめていると、端正なその顔は土埃に汚れているし、金の髪も精彩を欠いている。その顔色が良くないことにも遅れて気付いた。しかも、彼は肩で息をしていて全身には汗が滲んでいる。それらは魔力切れの兆候だった。
俺はここで初めて彼の全身に視線を走らせた。服は肩口だけではなくて、いたるところが破れていた。俺の横たわる体のすぐ側で腰を落としている。
僅かにその大きな上体が傾いでいた。
「アルベルト?」
視線を巡らせ他に怪我は無いかと観察していると、彼の左腕に違和感があることに気付いた。不自然に放り出されたようなその左腕から目が離せない。
そういえば、さきほどからずっと体の動きもどこかぎこちなかった。
いつから?
そうと気付いた瞬間、全身から血の気が引いた。
「アルベルト、お前……、左腕はどうした?」
俺の言葉に彼の眉尻が下がり、困ったような表情になった。
そっと、先ほどから動いていない左腕に俺は手を伸ばした。力の入らない手でそれをそっと握る。手首から肘、そして肩へと移動させていく。
肩に向けて俺の手が移動すると、彼が痛みを堪えるようにその表情を顰めたのが分かった。
「怪我をしているのか?折れている?」
「君と比べたら大したことは無いよ」
「……そんなわけあるか!魔力切れも起こして、それにあちこち火傷みたいになっている」
「大丈夫だよ。本当だ。それよりも僕は君が心配だ。気づいているかい?君も顔色が悪い。真っ青だ」
「俺のことはどうだっていい」
「どうでもいいなんて、そんなことないだろう。僕の見立てでは君は内臓に損傷を受けている。わき腹や腕や足にも、骨折かそれに近しい骨の異常があるはずだ。それに比べたら、僕の怪我なんて軽いものだよ」
「何でこんなところまで……」
そこで言葉は途切れた。聞かなくても分かる。全ては俺のためだった。
アルベルトは、無理を押して俺を助けるためにここまで駆けつけてくれたんだ。そのために、自分が傷つくことになったのに、彼は俺を責めるようなことは何一つ言わなくて……。
そう思い至ったとき、俺は先ほどとは別の意味で泣きたくなった。申し訳なさが押し寄せてくる。
「ごめん。酷いことを言った」
「ううん、気にしてないよ」
「ごめん。俺の為に、危険を顧みずに来てくれたんだよな」
「君の為なら、これくらいのことは、何の障害にもならないよ」
そう言って、彼が態勢を変えて地面に肘を突くと、ぎこちなく右手を差し出してきた。温かな手が俺の頬をなぞる。
「でも、どうしてだい?どうしてこんな無茶をしたんだ、キース?一人で立ち向かおうとするなんて無謀すぎる。頭のいい君らしくないよ。上手くいったから良かった。けれど、そうでなかったら……。僕は君を失うところだった」
アルベルトが俺の目を覗き込んでいる。その奥に、答を探そうとでもいうように。
彼の目つきも声も信じられないほどに優しかった。周囲では、巨人の攻撃が続いていて、不穏な音が立て続けに聞こえてきているというのに、土埃の舞い上がって周囲を見渡せない今、ここには俺たち二人しかいないような錯覚を覚えた。
景色や空を見通すこともできないために、周囲から隔絶された場所にいるような気がした。
アルベルトの優しい視線が俺を励ますように見ている。
だから、言葉はなんのわだかまりもなく素直に口をついて零れ落ちた。
「お前に釣り合う人間になるには、こうするしかなかった」
はっとしたように、彼の目が見開かれる。
体中のあちらこちらが痛い。身動きが取れそうになかった。少しでも態勢を変えようと体を動かすと、それだけで脳天まで突き抜けるような痛みが走る。けれど、言葉は淀みなく流れ出た。
「お前があのダークドラゴンを討伐してくれた。そして、国王に願い出てくれた。俺たちのことを。だから、今度は俺の番だと思った。お前にだけ苦労をさせたくはなかった。あの巨人を倒して、お前との関係を許してもらいたかった。一緒にいたかった」
「……うん」
アルベルトの震える手が俺の頬を撫でている。
「お前に相応しい人間になりたかった」
「うん」
泣きそうな顔をしている。俺はそれが悲しくて、痛む左手を差し出す。彼が俺の手の平に頬を乗せる。
「そのためなら、何でもしようと思った」
「君は成し遂げたよ。僕には見えた。頭部は破壊されていた。あれは致命傷だろう。そう長くはない時間で死に至る」
「良かった」
「本当に君は、何度でも僕の想像の上を行く」
「すごい?」
「あぁ、脱帽だよ。僕はいつだって君に驚かされてばかりだ」
「良かった」
痛みを堪えて笑みを作ると、アルベルトも笑った。こんな時なのに、二人で笑った。
「でも、次は、何かする前に僕に話して欲しい。びっくりして、心臓が止まってしまう」
「うん」
「本当だよ?僕は一人で君が走り出したとき死んでしまうかと思った。一人で君が巨人と戦っている最中も、気が気ではなかったんだ」
「うん。ごめん」
俺は素直に謝った。
「君を失ってしまうかと思った」
「ごめん」
「僕を一人にしないでくれ」
「うん」
「君が死ぬ姿はもう、見たくは無いんだ」
アルベルトが、確かな実感のこもった声音でそう言った。
「君が死んでしまったら、僕は何のためにここまでやってきたのか分からなくなってしまう」
「……ごめん」
「でも、もういいんだ、キース。さぁ、帰ろう。あれはもうじき死んでしまうだろう。あぁなってしまっては、もはや助かる見込みは無い。今も災厄をまきちらしてはいるが、最後の悪あがきのようなものだと思う。そしてそれもきっともうじき止む。そうしたら、一緒に帰ろう。ね?僕が君を負ぶっていくよ」
雰囲気を変えるようにアルベルトがそう言う。
「いや、お前だってその様子じゃ満足に動けないだろ」
俺の視線に晒されて、きまり悪そうな表情を見せる。
「無茶をしたなぁ、アルベルト。完全に魔力切れを起こしているじゃないか。俺にはわかる。それにその左腕、折れてるんだろ?」
「恥ずかしい限りだよ」
「というかどうやってここまで来たんだ?俺があの本陣に辿り着いたときにすでにお前は体調が良くなかったはずだったが」
「デミアンに魔力を分けてもらってね。でも、ここに来るまでにそれも使い果たしてしまった」
「全く、そんな無理をして……。お前だって人のことをとやかく言えないじゃないか」
「無理ではないよ。君を助けるのに、無理なことなんてないんだ」
「それはさすがに屁理屈が過ぎる」
彼が笑った。しんみりとした空気を誤魔化すように。
その彼の手に俺は手を伸ばす。アルベルトの手を握る。
「来てくれてありがとう。アルベルト。言うのが遅くなってしまった」
「どういたしまして」
「本当に、嬉しかったんだ。落下中にお前が見えたとき。夢だと思ったんだ」
彼が俺の手を強く握り返してきた。
「君の窮地に駆けつけるのは僕の役目だからね」
「……うん」
「でも良かった。君を助けることができた。それだけで僕は……」
俺が見上げる。アルベルトが見下ろす。
さぁ、様子を見て安全な場所へ移ろうと言おうとしたその時、ふと、さきほどからずっと途切れることなく降り注いでいた巨人の叫びが聞こえてこないことに気付いた。そうと気付くのはアルベルトのほうが早かった。
「待ってくれ、キース」
彼が静止の声を上げた。その音の響きは鋭い。
「声が……」
お互いに黙り込む。今までとは打って変わって、周囲にはもはや何の音もしていなかった。風さえも止んでいた。無音が、耳に痛いほどだった。
俺たちはどちらともなく視線を上へ向ける。巨人の居る方へ。
そして俺たちは二人揃ってそれを見た。
見上げた先で巨人はその動きを止めていた。ぴたりと静止して、もはや生きているのかも怪しかった。時が止まったように動かなかった。俺たちは思わず息を潜める。
「死んだのか?」
そう囁くように言ったとき、巨人の全身に異変が起きた。その体がぼんやりと発光し始め、徐々にその強さが増していくのが見て取れた。
「何が……」
俺が問いかけようとした瞬間、頭上から耳をつんざくほどの叫びが降ってきて、とっさに目を閉じた。それと同時に恐ろしいほどの力の高まりを感じた。
「何が起こっている?」
アルベルトが俺を庇うように伏せる。
俺はアルベルトの体に覆いかぶされながらも真っ直ぐに上を見ていた。視線の先では、猛烈な風が渦巻いて、立ち込めていた土埃をあっという間に吹き飛ばしてしまった。
目に飛び込んできた空はいつもよりも明るかった。真夏の空よりも。
すぐにその理由が分かった。
それは巨人の頭上に浮かぶ多数の光のせいだった。
多数の光弾が空に浮かんでいて、それは夜空の星を集めたようでもあった。見る間にその数は少しずつ増えていく。
「これは……」
その原因となっている巨人は自らの頭を両手で抱えて立ち竦んだままじっとしていて動かない。ただ、その巨大な口から叫びとも歌とも笑い声ともつかない奇妙な声を発し続けていた。
そして、その声と一緒に巨体からは、微かな光の粒が空へとゆっくりと立ち上っていく。
白くぼんやりと輝く光の粒子が、広い空を背景にして、上へ上へと上っていき、一定の高度に達すると水平方向に広がっていった。
その光景は神々しくあったけれど、俺はそれを見た瞬間、ぞくりとした寒気が背筋を通り抜るのを感じていた。それはいつか見た光景。
ダークドラゴンだ。
咄嗟にそう思い至っていた。あのダークドラゴンもまた、自らの体から黒い靄のようなものを立ち上らせていた。それに似ていると思った。
まさか。これは、攻撃の準備なのか?
即座に俺はそれに思い至る。
死にかけているのに?
「アルベルト……。上を」
俺の言葉の響きに、何か感じるものがあったのあろう。俺に覆いかぶさるようにしていたアルベルトが大勢を変え、ゆっくりと体を反転させると天を見上げた。
彼がその動きを止めてじっと上空を見上げている。
「これは、参ったな……」
思わずという風に、彼の口から呆然とした声が零れた。こんな声を彼が出すのを初めて聞いた。
俺も、目の前の眺めに意識を奪われていた。
俺たちが見上げる先では、光はどんどんとその範囲を広げていく。やがて空一面を覆ってしまうほどになった。それはついには街の方にまで到達している。
満足に動くことのできない俺たちは、長い時間ただそれを見ていることしかできなかった。
その光景は、年末に教会で催される聖餐式を俺に思い起こさせた。いくつもの蝋燭が灯され、煌びやかな内装に反射してきらきらと輝くあの光景を思い浮かべた。
炎の揺らめきは金箔で装飾された内装に移り込んで何倍にもその輝きを増幅させる。そして、灯る火のゆらめきに合わせて、礼拝堂の中は瞬き、それがこの世の物とは思えない幻想的な光景を作り出す。それを思い起こさせた。
そんなことを連想していると、アルベルトがあっと声をあげた。俺も彼の側で息を呑む。
不意に天が割れたのだ。天が破れた。
俺の目にはそう見えた。
緊張の上に保たれていた均衡が、何の前兆もなく突然崩れ去った。
まるで椀にあふれる直前いっぱいにまで注がれた水が、その上に落とされたたった一滴のために堪えきれなくなって縁からあふれ出てしまうように、無数の星の最初の一つが、視線の先で流れた。
空から一筋光が落ちて来た。
それは瞬きする間に地に落ちて、地震と巨大な音とを生んだ。破壊をもたらした。衝撃で風が周囲に吹き荒れて、もうもうと土埃が高く舞い上がる。砕けた石つぶてが俺たちの上に降り注いだ。
咄嗟に目を閉じると、アルベルトが俺を強く抱きしめる感覚があった。
しかし、それは単なる始まりに過ぎなかった。
目を開くと、空にはまだ無数の光が浮いていて、それが雪崩を打ったように落ちてくる。後から後から、地上へまっすぐに落下してくる。
その美しくも残酷な光景が俺の目に映っていた。それは絶え間なく大地の揺れと恐ろしい破壊による轟音とを引き起こしていると言うのに、荘厳ですらあった。世界の終わりとはこういうものなのかもしれないと思われた。
神々の怒り。
そう言いたくなる光景に、俺の思考は停止してしまって、逃げるだとか身を守るだとかそんなことは一切意識に上らなかった。
だから、一筋の光が俺たちの上に落ちてくるのをただじっと見ていた。
あっと思ったときには、それは俺たちを貫くように思われた。
しかし、実際にはそうはならなくて。アルベルトがそれを防ぐために魔法障壁を張った。
それと同時に彼の体が跳ねた。くぐもった声がして、大きな体が俺の上に落ちてくる。巨人の魔法の威力に、彼の障壁が破られた。その反動が彼に返ってきていた。
さらにまた時間を空けて一つ光が落ちて来た。俺は慌てて自分たちの上に障壁を広げる。
その重い一撃を辛うじてやり過ごす。
視線の先では、巨人は今だ止まったままだった。そしてその向こうでは同様にあちらこちらに光が流れ落ち、街へも降り注いでいるのが見えた。俺はその様から目を離せない。
また一つ、俺たちの上に光が落ちて来た。
その威力の大きさに俺は肝を冷やす。
このまま障壁を展開していても、動けなければいつか終わりが来る。焦燥感が俺の胸を焼く。
「アルベルト、長くは持ちそうにない。動けるうちにお前だけでも逃げてくれ」
それは俺の願いだったが、彼が首を左右に振った。
直後にまた一つ落ちて来た。
汗がにじむ。
彼は俺の言葉には答えず俺の汗を手の平で優しく拭った。吐息が俺の頬に当たる。
彼はこんな状況にあってひどく落ち着いて見えた。
「アルベルト……?」
俺の呼びかけに笑顔を向けてくる。それは俺の内に違和感を生んだ。
「どうしたんだ?逃げないと。間に合わなくなる」
「もう、どうあっても間に合わないよ」
言っていることは絶望的な言葉なのに、彼はいたって落ち着いていた。
俺は不安になって彼の服を掴んだ。王子である彼を死なせるわけにはいかなかった。
どうやって彼を説得したらいいのかと悩んでいたその時、光に包まれた世界に突然影が生まれた。
それは遠くからものすごい速さで飛来し、巨人の周囲を旋回するように動き回っている。
目を凝らして見るとそれはダークドラゴンだった。
何故ここにいるのかと疑問に思ったのはアルベルトも一緒で、二人で空を見上げていた。見上げている間に、ドラゴンは巨人へ向けて攻撃を繰り出した。黒い霧がその周囲を覆うが、しかしすぐに光によって闇は雲散霧消してしまった。
それでも黒い竜は繰り返し攻撃を続けている。長年の仇敵ででもあるかのように。
言葉もなくその様子を見ていると、アルベルトがそうかと呟いた。その言葉の意味を図りかねて彼に視線を合わせると、アルベルトは俺を見て頷いた。
「今しかない」
「何のことだ?それにあれは……」
「森にダークドラゴンがいた理由は、きっとこのためだったんだ」
「……何を言っている?」
「僕はこんな事態になってしまった、そのけじめをつけないといけないようだ」
「なぁ、アルベルト。意味がわからない。俺にもわかる様にちゃんと説明してくれ」
「時間がない。僕は巨人をここで倒さないといけない」
「だから!何を言っている!」
「僕があいつをここで倒すんだ」
「馬鹿なことを言うな!無理だ!それよりもお前は逃げるんだ。俺と違ってお前はまだ動ける。可能性は無くはないはずだろ」
「諦めているわけじゃないんだ。ただ、これは僕の責任だというだけなんだ」
「責任?そんなものあるわけない。責任がどうとか今は関係ない。お前は俺のせいでここにきてしまっただけだ。それをいうならば俺にこそ責任がある」
俺は叫んだ。アルベルトに俺の思いが届くように。なのに、彼は一向に首を縦には振らなくて。
「そうじゃないんだ。いや、今は時間が惜しい。聞いてくれ、キース。僕がどうしてここへ来たのか分かるだろう?君を助けるためだよ。そのために僕はここに来た」
「俺のことはいいんだ。もう覚悟はできている。だから……。あのドラゴンのおかげで今あいつの攻撃の手が緩んでいる。今なら逃げられるかもしれない」
「僕はずっと考えていた。どうしたら君を救えるか。どうしたら君を……、困難な状況から救い出せるのか」
途中で一瞬言葉が途切れた。
「今がその時だ。今しかない。無論こんな事態を想定していたわけではないけれど、結果としては同じだろう」
「何を言って」
「キース。魔法は祈りなんだ」
アルベルトが当たり前のことを言う。
「君だけでも生かして見せるよ。僕が君にしてあげられる最後だ」
彼が俺から目を離して上を見上げた。眩しさにその目を細める。しかし、その細められた視線は、しっかりと巨人を捉えていた。
その様子に俺は全てを悟っていた。全てを理解していた。アルベルトが何をしようとしているのかを。
彼が自らの胸に右手を当てて頭を垂れる。祈る様に。しかしその左手はあらぬ方に投げ出されている。
「駄目だ、アルベルト……」
彼が何をしようとしているかはすぐにわかった。
「すまない、キース。でも、これは僕の仕事だ。僕がやらなければ。どうか君は、今度こそ幸せな未来を……」
そう言って彼が口を閉ざすと、しばらくして今度はその口から呪文が零れ落ちた。
こんなに近くにいるというのに、それは俺の耳にはまるで遠くのざわめきの様に聞こえた。
「神よ。どうか、小さき私の願いを聞き届けてください」
その瞬間、このやり直しの中で彼が俺のためにしてくれたことを思い出した。
官吏登用試験のことも、先生のことも、孤児院のことも、ライリーたちのことも、ダークドラゴンのことも、全て丸く収まったのは彼のおかげだったということを思い出していた。
「過酷な運命に苦しむ者にどうかその憐れみと慈悲とを……」
彼の顔を見る。目は閉じられ、今はその瞳を見ることは叶わない。薄い瞼に閉ざされて、彼の内心を窺い知ることはできない。ただ、穏やかな表情が彼の顔に浮かんでいた。
小さく唇が動いている。何事かを呟いている。
「アルベルト……」
声が震える。俺は一時に多くのことが頭をよぎって何も考えられなかった。
まだ彼に何も返せていない。そう思った。
無理を押して彼がここへ来たという事実が俺に囁く。きっと幾人もの人間に引き留められただろうに、それでもその声を振り切ってアルベルトがここへ来たと言う事実を俺は強く意識した。
それは、彼が死ぬことを織り込み済みでここまでやってきたということ。
何のために?
俺のために?
そんな。
空の光は眩しさをいやまし、上空では未だドラゴンが必死に巨人へと攻撃をしている。しかし、それは少しも効果があるようには見えなかった。
そのドラゴンを一筋の光が貫いた。ぐらりと空中でその巨体が傾いだと思うとそれは地に落ちた。アルベルトの向こうに落ちた。必死に翼をはためかせ落下の速度を落とそうとしていたが、地響きとともに俺たちのいるすぐ近くに墜落してきた。
巻き上げられた細かな土が俺たちに降り注ぐ。しかしアルベルトは一顧だにしなかった。ただ静かにそこにあった。
俺はドラゴンをじっと見ていた。死んだのかとも思ったが、そいつが小さく鳴いたことでまだ息があるのだと知れた。当たり所が悪ければ墜落したときにそのまま死んでいただろう。
弱った様子の竜に、無慈悲にも光が落ちてくる。それを竜は障壁を張って防いだ。竜の上で閃光が生じた。
奇しくも俺たちはその魔法障壁の範囲に入っていた。
上空では断続的に魔法と魔法とがぶつかる音が響いている。
俺はしかし、ただじっと竜を見ていた。いつ自分たちも巻き添えを食って死ぬかわからない状況の中、ほとんど動かない竜を見ていた。
その姿は俺に死を連想させた。
アルベルトが死ぬ?
突如浮かんできたその考えに俺は凍り付く。恐怖が俺を一瞬で支配する。
その一つの連想が、俺の頭の中で目まぐるしく回っていた。
その考えは俺にとって全く初めてのことだった。自分の死は何度も覚悟したけれど、アルベルトが死ぬなどとは、一瞬たりとも疑ったことはなかった。
そして同時に、彼の身勝手さに腹が立った。俺はそんなこと全く望んでいない。アルベルトにはこの先もずっと生きていて欲しい。何故俺なんかのために死のうなどと考えるのかと、そう思っていた。
俺はそんなこと望んでいないのに……。
そう考えて、しかし唐突に理解する。
鏡写しになっているという事実に今更ながら思い至る。
俺だって、つい先ほどまで自分が死ぬことを受け入れていた。もちろん死ぬためではなく、巨人を倒すためにここへ来た。それは俺の意志だった。ただ同時に、そのために死んだとしても仕方ないとも思っていた。
自分のためだった。そして彼のためだった。アルベルトのために、危険を顧みずここへ来た。
でもそれは、アルベルトが望んだことだっただろうか。
ここへ向かうときに聞いた、彼の俺を引き留めるように叫ぶ声が思い出される。
俺は俺のしたいことをしてきた。望むままにやってきた。なら、アルベルトが自分のしたいようにするのは、なんらおかしなことではないのではないかと思った。
それならば、アルベルトが自らの命を懸けて行動することを俺に止めることは許されるのだろうか。
心臓がぎゅっと縮こまるような感覚を覚えた。
俺が今感じているこの気持ちは、きっとアルベルトが感じていたものと同じだと、初めてそこに思い至った。
俺は……。
今まで考えもしなかったことが俺の思考を支配する。
残される者の気持ちというものを、俺は人生で初めて考えていた。そんなこと考えたことも無かった。
そして同時に、一人残された世界のことを想像した。
アルベルトのいない未来のことを考えた。
息が止まる。耳の奥で血の巡る音がさざ波の様に鳴っている。心臓が大きく跳ねる。
それは、ぞっとするほど寂しい世界だった。
世界から全ての色や輝きや温かさといったものが失われてしまうような感覚があった。
その空虚な世界で、この先何十年も一人で生きねばならないという事実が襲い掛かってきて、心が竦んだ。
俺が死んだとき、アルベルトもこの寂しさを味わっただろうか。俺が巨人の元へ走り出したとき、この感覚を味わったのだろうか。
そう考えれば、俺は彼になんと酷いことをしてしまったのだろうと今になって思った。それは許される行いではないように思えた。
涙が零れた。
謝りたかった。
自分勝手な俺の振る舞いを謝りたかった。謝って許しを請いたかった。許して欲しかった。
そしてそれさえもがもしかしたら、身勝手な振る舞いかもしれなかった。
涙は後から後から零れ落ちた。止めようと思うのに、一向に止まらなかった。両手で必死に拭っても拭っても無駄で、喉奥から声にならない嗚咽が漏れる。
止めようと思えば思うほど、涙も嗚咽も酷くなっていった。俺は叫びだしたかった。
アルベルトに俺はなんて不誠実だったのだろうか……。
俺は震える体に力を込めてゆっくりと上体を起こす。あちこちが今更のように痛んだけれど、今はそんなことはどうでもよかった。逆に緩慢な動作でしか動けないことが歯がゆかった。
やっとの思いで地面の上に起き上がると、そっと彼の頬に手を伸ばす。確かめるように。彼がそこにまだいるのだという確信が欲しかった。
アルベルトの頬に指先が触れる。彼の肌はひんやりと冷たい。
祈りの言葉を唱えていた彼が、そっと目を見開く。
視線が再び合った。
俺はそれだけでもう胸がいっぱいになってしまって、馬鹿みたいに泣いた。
声が喉から勝手に出て来た。引き絞られたような声が漏れ出てきて、それは徐々に大きくなっていく。最後には絶叫するように、声を大にして泣いた。
それしかできなかった。
アルベルトに伝えたいことはたくさんあったのに、頭の中がぐちゃぐちゃになって満足に考えられなくて、俺は、それでも何かを言いたくて、ただ彼の名を叫んだ。
まるで子供が親の注意を引くみたいに。自分でも本当に愚かだと思ったけれど、ほかにどうしようもなかった。
どうしていいのかわからなかった。
嗚咽のために言いたいことは上手く言葉にならず、途切れ途切れに喉から零れ落ちるだけだった。
俺は必死だった。
アルベルトを引き留めるためなら、自分のこの愚かな振る舞いすら厭わなかった。
「ごめん、ごめん。アルベルト。俺は、俺を……」
そこから先は全く意味をなした言葉にはならなくて。
ただ名前を呼び続けた。
どれだけ泣いただろうか。自分でもわからなかった。泣くと言うのがこんなにも自分ではどうにもできないことなのだと理解した。
視線の先で、アルベルトが目を白黒させて俺を見ている。
その口は緩やかに開かれ、呪文は中断している。
俺は彼に向かってもう一度手を伸ばす。この手を掴んで欲しかった。
突然のことに呆然としたような顔をしてアルベルトがこっちを見ている。何の前触れもなく泣き出した俺に戸惑った様子を見せている。
涙は後から後から零れ落ちた。
声にならない声が喉奥に絡まって上手く言葉に出せない。
「アル……ベルトぉ……」
それでも何かを言わねばと思って、でも頭の中は色々な思いでいっぱいで、俺はただ馬鹿みたいにアルベルトの名前を繰り返し呼ぶことしかできない。
手は震えて、言葉は吐き出せず、視界は滲んで、呼吸は苦しくて。
「死なないでくれ。お願いだ……」
それしか言えなかった。
俺は恥ずかしさと情けなさに耐え切れず、顔を両手で覆う。涙は拭っても拭っても零れ落ちる。
「俺は本当に愚かだったんだ、アルベルト……」
そう言い続けることしかできなかった。
そんな俺に、穏やかな声が降ってくる。それは天啓のようだった。
「キース。泣かないで」
不意にそんな声が聞こえた。それはとても優しい響きを持っていて、でも俺はどうすることもできなくて。
そんな俺をそっと抱きしめる腕の感触があった。大きな胸の中にすっぽりと包まれる感覚があった。
「キース」
その優しい声の響きに俺は顔を上げると、思ったよりもずっと近くに彼の顔があった。俺を見つめている。その優しい眼差しに、また涙が零れた。
「アルベルト……」
「うん」
「俺を、一人ぼっちにしないでくれよぉ」
そう言葉にしたとき、あぁそうかと思った。
俺はずっと誰かに言いたかったんだと思った。
――一人にしないで。
そうと悟ったとき、まるで小さいガキみたいにわんわん泣いた。大声をあげて泣いた。
冷静にならないといけないと思うのに出来なくて、そうしようとすればするほど後から後から声が出て、狂ったように俺は泣くしかなかった。
アルベルトがいなくなるという喪失感で胸がいっぱいだった。彼が死んでしまうかもしれないと思うと、恐怖が全身を満たした。
「ごめん、アルベルト。俺も一緒に死ぬから、置いていかないで。お願いだ」
「キース……」
そう言って俺の涙を指先で拭う。その手を俺は掴んで離さない。どこかに行ってしまうような不安があった。
「俺が馬鹿だったんだ。気づかなかった。お前を一人にしてごめん。あの時もさっきも」
嗚咽が俺の言いたいことの邪魔をする。涙は止めどなく溢れてくる。
「お前を置いて死んでしまった俺を許してくれ……。お前を置いてこんなところに来てしまった俺を許してくれ」
「キース、何を言って……?」
少し困惑したような彼が俺に言う。
しかしもう俺の頭はぐちゃぐちゃで、ただアルベルトがいなくなってしまうといことでいっぱいで、悲しくて怖くて、どうすることもできなかった。
自分でも情けないと分かっていた。アルベルトに呆れられたくは無かった。迷惑をかけたくはなかった。だから涙を堪えようとした。けれどできなくて、再び俺はわぁわぁ泣いてしまっていた。
「キース……。泣かないで」
アルベルトが俺の背をあやす様に叩く。
「俺を置いていかないで」
「うん、ごめん。キース。僕が悪かった。ごめん、キース」
優しい手の動きに俺の心は少しずつ落ち着いていく。
「僕はここにいる。だから、泣き止んでくれ」
「でも、でもお前は死ぬつもりで」
「分かった。僕はまだ生きている。ね?だから落ち着くんだ。僕はここにいる」
「死んじゃわない?」
「自分から死んだりしない」
そう言って、彼が俺の涙を拭った。そして、俺が落ち着くのをじっと待っていてくれた。
「落ち着いた?」
「まだ」
俺がそう言うと、アルベルトは黙って俺の背を撫でてくれた。零れる涙を指先で拭ってくれる。本当は気持ちはさっきまでと比べればずっとマシになっていたけれど、アルベルトの背を擦ってくれる手が心地よくて俺は噓をついた。
少しずつ心が満たされていく。徐々に不安が解けて消えていく。
「ありがとう。もう大丈夫。たぶん落ち着いた」
そう言うと、アルベルトがにっこり笑った。
こんな状況なのに、アルベルトは周囲のことなど些事だとでも言うように普通を装っていた。
「良かった。キース」
そう言って彼が位置を変えて俺の真正面に座り込んだ。視線が合わさる。
「それでね、キース。聞きたいんだ」
「……何を?」
長い指が俺の涙の跡をぬぐった。
「さっき君が話していたことだよ。よく聞き取れなくて、何を言いたいのかよくわからなかったんだ。最初からきちんと聞かせてくれないか?」
「さっき?」
「そう。僕を置いて君が死んでしまったとかなんとかという話のことだよ」
「ごめん。あれは、その……気が動転していて」
「うん。分かるよ。それでもいいんだ。でも聞かせて欲しい。大事なことなんだ」
「大事なこと?」
「そうだ。僕は君のこれから言うことを信じる。だから、話して。さっき何を話していたんだい?」
その目は真剣そのもので、俺はその視線に励まされる。
「お前には信じ難いことだと思うけれど」
「いいよ。聞かせて。僕は君の言うことを信じる」
「荒唐無稽に聞こえると思うけれど、俺は、一度死んだんだ。死んで、人生をやり直している」
ここで一度言葉を切った。アルベルトの反応を窺うために。彼はじっと耳を澄ませている。その表情には俺の発言を揶揄するようなものは見られない。
だから俺は語った。今までのことをかいつまんで。どうしてこうなったのかはわからないけれど、分からないなりにやってきたということを。
「折角人生をやり直したっていうのに、お前が死んだら……。居なくなると思ったら怖くなったんだ。これから先をどうやって生きて行けばいいのか、俺にはわからない。お前がいない人生を想像できない。どうしようもなくなってしまう。そんなことになってしまうなら、人生なんてやり直さなければ良かったんだ……。神はどうして俺にやり直しをさせたのか」
話していると、再び感情が高ぶって、俺はまた泣いてしまった。情けないと思った。それでも嗚咽の合間合間に俺は言った。アルベルトが真摯に耳を傾けてくれているから。
また涙が止めようもないほどにあふれ出てきて、途中何度も話は中断したし、もう自分でも自分の言っていることがよくわからなかってしまった。それでも話をした。ただ、彼に自分の気持ちを伝えなければと、彼に死んでほしくないという気持ちを伝えようと思えばこそ、必死だった。
「こんなことになるのなら、俺は、人生をやり直したくは無かった。お前が死ぬのを見たくはないのに……」
それは偽らざる俺の本心で。
「キース、なんということだ……」
けれど、俺の言葉にアルベルトは全く予想外の反応だった。
「あぁ、キース。まさかそんなことが」
震える言葉があった。
「何、が……?」
「僕もなんだ」
そう言うなり、アルベルトが俺の肩を掴んだ。そして、しっかりと俺の目を見る。
「僕も同じ時間を繰り返しているんだ。これは二度目の人生なんだ」
俺はその発言をただぼんやりと聞いていた。
「え、何?どういうことだ?」
頭が上手く働かない。
「僕も覚えている。僕もそうなんだ。君と同じだ。君が死んでしまった後で、気づいたら学園に通っている自分に戻ってしまっていたんだ」
「は?え?お前も死んだのか?」
「いや、僕は死んでいない。君のことを考えていた。君がいなくなった後だ。僕は部屋で一人、君のことを思い出していたんだ。そうしたら、いつのまにか十六歳だったころの自分に戻っていた」
「何故?」
「それは僕にもわからない。僕は君を救うために神が時間を巻き戻してくれたのだと思っていた」
「待て待て。そんなことがあるのか?」
「現に君の身にも起きたことじゃないか」
「しかしだな」
今度は別の意味で俺の頭が混乱する。本当に本当に、目の前にいるのは前のあのアルベルトなのか?
「勘違いとかではなくて?」
そんな頭の悪い台詞が口から飛び出してしまうくらいには俺は動揺していた。
「それじゃあ確認してみようか、キース」
「……どうやって」
「このやり直し以前と以後とで違う出来事がいくつもあった。その中に、一つでも僕らが二人とも覚えている事実があったら、それが証明になるだろう?」
「確かに、そうかもしれない」
「君はやり直す前のことで何を覚えている?どんな些細なことでもいい。僕ら二人が知っていることだ。何でもいい。言ってみてくれ」
俺はここで初めて真剣なアルベルトの表情に気圧された。
「なんでも?」
「そうだ。どんな些細なことでも構わないんだ」
俺は記憶を巡らす。何でもいいとは言うけれど、アルベルトの記憶に残らないような些細なことでは駄目だろう。
「……一緒に、劇を見に行った」
「どんな?」
「有名な女性劇作家の作品だった。デミアンもいた。三人で、見に行った。主人公が過去に戻ってやり直す話で、俺は行きたくなかったけど、お前たちがしつこくて、俺は折れるしかなかった」
俺の返答に、アルベルトが笑みを浮かべる。
「そうだ。君は、あの時本当に嫌そうで。僕は君を誘い出すのに随分骨を折ったものだった」
懐かしそうな顔をしながら彼がそう言った。くすくすと彼が笑っている。
「アルベルト?本当に?お前にも過去の記憶が……?」
「あるよ」
「そんな……」
「まさかこんなことになるなんて。あぁ、キース。僕は……」
そう言ったかと思うと、アルベルトの目から涙が一滴零れ落ちた。それからまた一つ。
そうして、アルベルトが右手を伸ばして来た。すぐに彼の震える腕の中に抱きしめられた。俺の体は太い腕の中に閉じ込められた。
耳元には微かな息遣いがあった。
俺は驚いて身動きが出来なかった。
なぜなら、アルベルトが泣いていたから。彼が泣くのを初めて見た。
堪えきれぬ衝動からくる嗚咽が俺の耳元で繰り返された。
恐る恐る自分の両腕を彼の背に回す。
「アルベルト……?」
「良かった。良かった、キース」
彼がそう涙交じりの声で囁いた。
今度は俺が彼をあやす番だった。
温かな涙が俺の首筋を濡らす。
俺は彼がしてくれたのと同じ様に、その広い背を撫でた。繰り返し繰り返し。
なんと言ったらいいかわからなかった。
「僕は君を助けたかった。そのために、僕はこれまでずっとやってきた」
その言葉に、俺は今まで彼が俺にしてくれたことが、彼の意志でなされた計画だったのだと知るに至った。
「今度こそ君を幸せにしたかった。辛いことや苦しいことから、君を解放したかった」
「そうだったんだな……」
「うん。君は僕のことなんて覚えていないと思ってた」
「ごめん」
「それでも構わなかった。君が、今の君が幸せにあればそれでいいと思った」
「うん」
「これは僕の贖罪だった」
「何故?」
「君の苦しみに気付けなかったから。あの時君がどれだけ苦労しているか知らなかった。ごめん」
「……そんなの知らなくて当たり前じゃないか。それでもお前は俺にとても良くしてくれた」
「僕は自分がいかに恵まれているかきちんと理解していなかった。ごめん」
「そんなことない」
「ごめん」
「俺もごめん」
「ごめん」
「うん」
「会いたかった」
「うん。俺もだ」
強く抱きすくめられた。俺の胸の奥に、こみ上げてくる温かいものがあった。
「アルベルト」
「うん」
あぁ、今、俺の心残りは無くなった。そう感じた。胸の奥につかえていたものが無くなってしまったのを感じた。
四つ目の未練は今、解消された。胸の奥にあったものはもうない。
俺たちはただ静かにそこにあった。無言で、ただそこにいた。
俺はアルベルトがしてくれたように、彼の泣くに任せた。アルベルトは声も無く泣いていた。俺はただひたすら、彼の背を撫でていた。
アルベルトの嗚咽が収まったそのとき、すぐ近くで咆哮があがった。俺たちはその声にはっとして空を見上げると、ダークドラゴンが障壁が破った光に撃たれたところだった。
再度防護壁を作り出すがしばらくして崩れ去る。
幾つかの星が竜の体を貫いて、その痛みのために咆哮が響き渡り、苦しげな声が上がった。それでもダークドラゴンの目は巨人に向けられていた。
俺はアルベルトの顔を見る。その土にまみれた頬にそっと手を伸ばす。優しくなでると、温かな彼の肌の感触があった。
「ドラゴンが……」
「あれ一頭では巨人を抑え込めないんだ。なんとかしないといけない」
そう言った彼の顔にはもう涙は無かった。
「あれは、ダークドラゴンは、あの巨人のための備えだったのだと僕は考えている」
「ドラゴンが?」
「そう。遥か昔から、神話の時代からこんな時のために。けれど、僕がダークドラゴンを二体も倒してしまったから、力の均衡が崩れてあの巨人は目を覚ましてしまったんだと、そう考えている」
「そんな……」
「だからこれは僕のせいなんだ」
「お前のせいじゃない。そんなの、あの時は誰にもわからなかったじゃないか」
「だからと言って、何もしないではいられない。そうだろう?」
「それは……」
「僕は自分の責任を果たしたい。こんなことになってしまった後始末をつけなければいけない。じゃないと、たくさんの人が犠牲になってしまう」
「でも」
「分かってる。僕にできることは多くない。でもやれることをやってみないと。君が言った。教えてくれた。やるからやないかは僕に任されている。なら、やるしかないんだ」
彼の言葉には、もうその意志を覆せない決意の響きが込められていた。
「どうしても?」
「どうしてもだよ」
竜がこっちを見た。視線がぶつかる。
「……そうか。分かった」
俺は自分の気持ちをはっきりと言葉にする。
「じゃあ、俺も手伝うよ」
「キース」
「どうせ、このままじゃ俺たち二人とも死ぬんだ。そうだろ?なら、最後まで一緒だ」
「キース……」
彼の逡巡する表情を見ながら、俺はできるだけおどけて言う。俺に選択肢は無かった。なら、もう最後まで一緒にいる以外ないじゃないか。
「さぁ、アルベルト。俺は覚悟を決めたぞ。お前はどうするんだ?なんなら、俺から先に行ってもいいんだぜ」
できるだけこの強がりを悟られないように、努めて明るく言うと、アルベルトがそんな俺をじっと見ていた。俺の目を見ている。そうして、彼が言った。
「僕も準備はできているよ」
固く結ばれた口が開かれ、そこから覚悟の籠った声が吐き出された。
「でも、俺たちに残された魔力は多くない。何ができるか……」
「魔法は祈りだよ、キース。そうだろう?奇跡は起きる。そう信じるんだ。物語にもある。信じて行動した者には、最後は幸せな結末がやってくる」
俺に向かってアルベルトも自らの手を差し出してきた。俺は青い瞳を見つめながらそれに自分の指を絡める。お互いの両の掌を合わせる。
それから、彼が少しうつむきがちに頭を垂れるので、俺も真似をして同じ格好をとる。アルベルトが俺の額に自らの額をくっつけてきた。
少しも怖くは無かった。
ゆっくりと息を吸って吐く。心臓は規則正しく鼓動している。
「アルベルト」
「キース。いくよ」
「うん」
「……いと高き御方々」
アルベルトが朗々と声をあげる。
誰に祈れば良いのか分からなかったから、俺は心の中で誰でもいいからこの願いを聞き届けて欲しいと思いながら、彼に続けて言葉を紡いだ。
きっと、酔狂な神か心優しい神が聞き届けてくれるだろうと、思っていた。
「我ら小さき者。神を畏れる者」
「今、その御前に跪く我らに、どうかその尊き御手を以て道を示し給え」
俺の呪文に合わせてさらにアルベルトが言葉を繋ぐ。彼の低い落ち着いた声が俺に勇気をくれる。
しばらくあって、ぐんと魔力が失われる感覚があった。
神が応えたのだと分かった。
「どれほど絶望の暗闇に閉ざされようとも、我らの内に消えぬ灯の火種を」
しかし周囲に変化が起きた様子はない。
それでも魔力が体から失われていく。
視界を影がよぎった。ふと上を見ると、竜の翼が俺たちの上にあった。光から庇うようにその翼が大きく広げられている。
「遥けき道を前に竦み萎れる両足に、最初の一歩を刻むための息吹を」
ただ目を閉じて、アルベルトの声に耳を傾けていた。彼の落ち着いた声と額に感じる温もりと、両手に伝わる手の力強さだけを感じていた。
「嵐にも恐れず」
「夜にも惑わず」
「寒さにも立ち止まらず」
「怨嗟の声にも耳を貸さず」
「時の流れにも迷わず」
「永遠を前にして立ち止まらず」
「終わりを前にして歩み続ける」
彼の声に俺の声が重なる。滔々と言葉は紡がれる。
静かに静かに俺たちの魔法は形を成していく。
ただ、アルベルトが側にいるという心強さだけを俺は感じていた。
怖いことなど何もなかった。
そうして……。
いやぁ、難産でしたね




