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(完結)男二人、ヤマアラシのジレンマ故に  作者: たろう


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「愛してる」


アルベルトがそう言った。そう言った時の彼の声が耳元で聞こえた。


初めてそう言われたとき、俺は全くその言葉の意味を信じていなかった。というよりも、信じる信じない以前に意味が分からなくて戸惑ったといったほうが正確だろうか。


どうしてこんなことになったのだろうと思った。


時を遡ってやり直しを始めてから、俺はできるだけアルベルトには関わらないよう彼を避けていた。貴族連中から目をつけられるわけにはいかなかったし、そのために学園ではほどほどに手を抜いていた。大会を棄権したこともあった。


なのに、彼は俺を放っておいてはくれなくて、そのことを俺は訝しく思ったものだった。


しんしんと雪が降る。


カーテンが閉じられていてその向こうは見えないのに、窓の外では雪が降っていると知っていた。


窓の外の景色を見通したくて、でもそれはできなくて、俺は反対側に頭を向けると、アルベルトが居た。


椅子に座って、心配そうな表情で俺を見つめている。その視線。


どうしてここに彼がいるんだろう。


俺はベッド脇にある椅子に腰かけているアルベルトの顔を見上げる。


彼は俺の瞳を覗き込む。何かを見つけようとするように。俺の瞳に何を見ているのだろう。


その意図が分からず、俺はただじっとその青い瞳を見つめ返した。透き通った空色の瞳は、夜の闇に今は紺色に沈んでいる。それでもそれはやはり美しかった。


時計の針の音が小さく耳に届いている。規則正しいその音の、永遠ともいえる繰り返しの中で、アルベルトが口を開いた。


その言葉は……。


「なぁ、キース。今度の休み、新しく出来た喫茶店に行かないか?」

「あぁ、ごめん、マルコ」

「そうか。また仕事か?」

「うん。済まない。折角誘ってくれたのに」

「いいって。そうか。お前も大変だな」

「まぁ……」

「仕方ないよな。リヴィは一緒にどうだ?」

「えぇー。さすがに学園の外は無理よ。世間の目ってものがあるんだから」

「それもそうか」

「学内にある喫茶店ならいいわよ」

「まぁそうなるか。仕方ないな」

「シルフィはこの後の予定はどう?私と二人でいかない?」

「うーん。そうだなぁ」

「俺も行きたい」

「お、ポール。行こうぜ」


平民が数人やってきて楽し気に話をしている。


「また今度……」


その集団に声を掛けようとして、しかし言葉は途中で途切れる。


「うん?キース、何か言ったか?」

「いや、……何も。俺は図書館に行ってくるよ」

「おう。熱心だよな。頑張れ」

「じゃあね、キース」


俺に手を振る同級生たちに手を振り返しながら俺は歩き出した。


教室を出て、廊下で楽し気にしている生徒たちを避けてまっすぐ階段の側までくる。


「ほんとだって」


不意にそう言う甲高い声が上から聞こえてきて、その声のした方を見上げた。視線の先に、階段の踊り場で少女たちがお喋りに興じている姿があった。学園の制服を身に付けた、名前は憶えていないが貴族の令嬢たちだ。


「えー、うそー」


その楽しげな声の響きが耳に心地良い。


高いところにある窓から差し込んだ光が彼女たちの上に降り注いでいる。周りを見渡すと、時代を感じさせるあの学園の階段だった。俺はその階段の下の方で、丁度最初の一段目に足を掛けているところだった。


その彼女たちが、俺が見上げていることに気付くと顔を顰めてその場から立ち去っていった。


そこへ階段を一段飛ばしに少年らが駆け降りてくるのが見えた。


「待てよ」

「おせーんだよ、お前は」


仲良く言い合いをしながら二人は駆けて来る。


「おい、邪魔だ。どけよ貧乏人」


通り過ぎ様にそう言われて、俺は一歩端の方へ避ける。


二人の走り去る後ろ姿を見送っていると、俺の左右に伸びる廊下から不意に小さい声が聞こえた。そちらを見遣ると、今度もまた二人の少女が会話をしている。肩を寄せ合って、内緒話をするように。


「今度お呼ばれしているんだけど、着ていく予定のドレスが今日届くの。楽しみ」

「えー、いいなぁ」

「お母さまに頼んで流行のデザインにしたのよ。ほらあの袖の無くて肩が見えちゃうやつ」

「ホント?やだー、学生なのに少し早くない?ちょっと狙いすぎかも」

「でもあれを着てると男性の視線を釘付けにするって。私もそろそろ婚約者が欲しいし」

「まぁ、そうよね。でも変な男も寄ってきそう」

「それは大丈夫。私の侍女は見る目が厳しいから。早くいい男を捕まえなきゃ。貧乏人と結婚するのだけはまっぴらごめんよ」

「だよね」


彼女たちのひそひそと話をしている向こうから、かつかつと足音高く背の高い女生徒がやってきて、通り過ぎた。彼女はその後ろに人を幾人か引き連れて、無言で俺の側を通り過ぎた。一瞥もくれずに。


それをぼんやり見つめていると、今度は別の方向から男子生徒の周りを気にしない大きな声が響いてきた。そこには三人の男子が居て、気だるげに窓の外を覗き込みながら話をしている。


「やっと試験から解放されたぜ」

「いやぁ、今回も辛かった」

「なぁ、お前手応えはどうだった?」

「俺か?ま、下から数えた方が早いだろうな」

「おま、やばくね?前回も相当下位の成績だったろ」

「いいんだって。どうせ俺本家長男だし。実家帰ったらのんびり過ごすんだ。あくせく勉強する必要があるのなんて、どうせそこらの平民どもや下級貴族連中だ。俺には関係ないから」

「嫡男はいいよなぁ」

「俺ってホント運が良いぜ。勉強なんて出来なくても、仕事は分家連中に任せるだけだからな」

「くそー。うらやましすぎる」

「お前だって、次男なんだから卒業後はそれなりの役職につけるだろ。そしたら適当に頑張って適当に遊べるって」

「そうだな。たしかに親父も俺に任せたい仕事があるって言ってたし」

「だろ?」

「あー貴族で良かった。平民じゃないってだけで勝ち組だもんな」

「あれ、お前、手にインクついてんぞ」

「え、どこ?あ、ほんとだ」


そう言って背の低い方の男がポケットからハンカチを取り出すと指先をぬぐった。そして、その使ったハンカチを無造作に近くにあったゴミ箱に投げ捨てた。


そこへ一人の男子生徒が通りかかる。


「なぁ、お前ら、今度釣りに行かね?新しい釣竿が手に入ったんだよ」

「お前好きだなぁ」

「新しい釣り竿って、この前も何本か買って無かったか?」

「あれは捨てたよ。全然釣れねーんだもん」

「まじか」

「まじ。でさぁ、今度の安息日、何の予定も無くて暇なんだよ。一緒に行こうぜぇ、アーシュロ湖」

「湖かぁ、どっちかって言うと俺は海に行きたいな」

「いいなぁ、海」


一人が遠くを見るような顔をした。


「海釣りのほうが大物が掛かるって言うし、いっそ海にしねぇ?」

「なら海釣り用の竿も買わないとな」

「だなぁ」


三人の他愛もない会話をぼんやり聞いていると、背後の階段から誰かが上ってくるのが分かった。その会話が聞こえてくる。


「今度アルドガルドに旅行に行くんだ」

「いいな。俺んとこはショーアーデンに海水浴に行く予定」

「まじ?俺も行くんだよ。いつ?」

「八月の半ばかな。予定が合えば一緒に行こうぜ」

「もちろん。やっぱり学生は最高だよな。なんの責任も仕事もないから好きにできる。平民なんて、もう僕らの年齢で働いてるんだろ?かわいそうになぁ」

「違う違う。馬鹿だなぁ。俺らの仕事を平民にわざと回してやってるんだ。じゃないと金が稼げなくて死んじまうだろ?俺らが怠惰に過ごすのは平民が生きていけるようにするためなんだよ。慈善ってやつさ」

「確かにな」


少年と少女の二人が声を潜めて話し合っている。


「ねぇ、今度のアガート伯の夜会どうする?」

「もちろん行くけど」

「良かった。だったら、向こうで落ち合わない?一人だとつまんなくて」

「いいよ。知り合いが何人か行くみたいだから、紹介するよ」

「嬉しい」

「いいってことさ。この間の御礼もかねてね」

「やった。恩は売っておくに限るわ」

「くっ」

「でもあそこの家の使用人って微妙でしょ?全然教育が行き届いてないのよね。ちょっと心配」

「あー……。そういえば以前行ったとき、口の利き方を知らないメイドが僕に生意気なこと言ってきて、頭に来た事を今思い出した」

「でしょ?私もよ。平民ってどうしてああも常識がないのかしら」


俺はそこから少し離れたところまで歩く。すると、知っている声が聞こえてきてそちらを見た。同じクラスのご令嬢方だった。窓枠に寄りかかりながら話をしている。


「この学園の制服ってほんとダサいよね」

「分かる〜。なんか古臭いのよね」

「そうそう。いっそのこと流行のデザインに一新してほしいわ。うちの親の頃からずっと変わってないんですって」

「そうなんだ。でも、そういえば確かにうちの親もそんなこと言ってた気がする」


二人は自分たちを見てから、周囲を見渡す。


「建物もボロいし。土地は余ってるんだから、全部建て替えたらいいのに。それでついでに制服も全然別のものに変えちゃってさ」

「ね。デザインの案ならいっぱい出てくるから、その時にはあたしの案を採用してほしいわ」


俺は無意識に自分の周囲を見渡した。時代を感じさせる内装に、よく手入れされた床が光を反射している。彼女らはボロイと言ったけれど、俺にはそうは見えなかった。


長く伸びる廊下も壁も天井も教室の扉も、細かな傷はあるけれど、大きな痛みはない。窓枠にはまる透明度の高い大きなガラスは一枚たりともひび割れておらず、午後の柔らかな日差しを屋内に届けている。


「あんたドレスとか靴とか好きだもんね」

「デザイナーの知り合いがいるもの。それなりに詳しくなっちゃうし、興味も出てくるよね。だからさ、余計にこの古臭いデザインが気になっちゃうのよ」

「なるほどね。はぁ、伝統って言えば聞こえはいいけどさ。ほんとあたしたち若者のこと全然考えてないよね」

「ね」


そう言って上着の裾を小さくつまむ。


「食堂の料理もイマイチでしょ。なんかこう全体的に貧乏くさい感じ」

「どけよ、平民」


俺が周囲の会話に耳を傾けていると、突然背後から怒声が響いた。俺は驚いて後ろを振り返る。


そこには、第一王子一行がいた。どうやら向こうからこちらへ歩いてきたところに、丁度俺が廊下を塞ぐ形で立っていたようだ。申し訳ないと思って自分の居場所を確認すると、廊下の端の方に立っていることに気付く。


そのことを無言で訴えると、貴族の男が顔を歪めて見つめ返してきた。


「殿下のお通りだぞ。平民風情が気安くその視界に入っていいとでも思っているのか。とっとと失せろ」


そう言って俺の腕を乱暴につかむ。そして力づくで追い払おうとしたとき、声が届いた。穏やかな声だった。


「コール、やめたまえ」


俺とそのコールと呼ばれた男が揃って王子の方を見た。


視線の先に、困ったような顔をした男が立っていた。その佇まいの優美さとえも言われぬ雰囲気は、この伝統ある学園の中にあって、全く調和しているように見えた。


窓から入り込んだ光が彼の金の髪の毛と青い瞳に反射して輝いているようだ。


「手を放してやるんだ、コール」


二度名前を呼ばれて、コールはしぶしぶ俺の腕から手を乱暴に放した。


「すまないね」

「いえ、……こちらこそお邪魔をしてしまい申し訳ありませんでした」


そう言って頭を下げると、視線の先では彼が穏やかな笑みを浮かべてじっと俺を見ていた。


「同じ学園の生徒じゃないか。ここでは身分の違いは大した意味をなさない。そういう理念で作られた学園だからね」

「……はい」


俺の言外の含みに気付いたのだろう、少し困ったような顔をした。


「何に気を取られていたんだい?」


そう言って王子が俺に近づく。


俺は一歩下がろうとして、そこが廊下の端だったことを思い出す。すぐ後ろは壁だった。


「じっと何かを見ていただろう?」

「はい。その」

「うん?」

「廊下を見ていました」

「廊下を?」


そう言って彼が俺の視線の先を追いかける。そこには長い古びた廊下が伸びていて、あちこちで生徒たちが楽し気に会話している。いや、王子の登場で彼らは会話をやめ、じっとこっちを窺うように見ている。


彼が小首を傾げた。


「何かあるのかい?」

「いえ、何もありません」

「何もないのに、見ていたのかい?」

「はい」

「どういうことだろうか?」

「おい、平民!適当なことをぬかすな!」

「殿下の質問にはちゃんと答えろ、無礼者め!」


王子の付き人がそう怒鳴った。


「やめるんだ」


彼の一言にぴたりと言葉が止む。


「教えて。君には何が見えているんだい?」


俺は逡巡する。くだらない答えだったからだ。


けれど、無言の圧力とでもいうべき彼の視線に、俺は口を開かざるを得なかった。まるで子犬のような顔だった。


「廊下そのものを見ていたのではないのです」

「うん」

「その……」

「うん」

「背後にある、時代を見ていたのです。長い時間の経過を、その隔たりを見ていました」

「と言うと?」

「とても立派だなと、そう思ったんです。過去何千何万という生徒たちがこの学園で学び巣立っていったのでしょう。その不思議に、時代の悠久の流れを感じていました。丁寧に手入れがなされていることも、きっとこの学園を愛している誰かがいるのだろうと、そんなことを考えていました。この建物はこの先百年二百年と、私が死んだ後もここにあり続けるのだろうと」

「なるほど。面白いことを考えるんだね」

「いえ、たまたまそう思っただけです。だから、そんな歴史あるこの学園に通うことができて嬉しいと思っていたんです」

「そうかい。そう言ってもらえると、この学園を作ることを決めたご先祖様もうかばれるだろう」


そう言って、にこりと彼が笑った。


「この学園は、さっきもいったように、全ての身分の者に開かれている。平民の君にも、扉は開かれている。何かやりたいことがあってこの学園にきたんだろう?」

「はい」

「そうか。であれば、頑張るんだ。実技も座学も全て。そうすれば君にも道は開かれる」

「はい」


それは彼にしてみればただの社交辞令に過ぎなかっただろうけれど、俺の心にはまっすぐに響いた。


それだけ言うと、王子は歩き去った。優雅に堂々とした足取りで。爽やかな笑顔だけ残して。


俺は図書館へ向かうために踵を返す。


思い出した。そうだ。あの時俺はアルベルトのことを……。


「夜の暗闇が去るまで。朝日が明日を連れてくるまで」


彼がベッドの上に横になっている俺に向かってそう囁いた。


泣き止まぬ子どもにするように、彼が優しくそう語り掛けてきた。


俺の手を握る。


いつか、誰かにそうしてほしいと願ったままに、俺の手をアルベルトが握っている。その体温の温かさ。


「もう、怖くない。大丈夫。明日はやってくる」


本当だろうか。俺にも明日はやってくる?


アルベルトが俺の目元を拭った。涙がいつのまにか零れていた。その濡れた指先。


「君が欲しいものはなんだい?君が今してほしいことは?教えて。そのために、僕は今ここにいるんだよ」


あぁ、アルベルトは優しい。いつも俺を励ましてくれる。勇気を与えてくれる。


窓の向こうに降る雪は止んだ。


見えないけれど、そうだと分かった。


アルベルトの顔を見あげる。綺麗な碧眼に俺は映っているだろうか。


俺が今欲しいもの、それは――


目を見開くと、そこには痛みにもがき苦しむ巨人の姿があった。


気を失っていたのは一秒か二秒か、せいぜいその程度だったようだ。


自分が落下していることはすぐに分かった。


頬に当たる空気の流れが速い。


頭だけ動かして下を見ると、もう地面はすぐそこだった。


アルベルト……。


俺はすぐに行動を開始する。全身が痛む。脇腹の骨が折れていた。それに意識も朦朧とする。それでもやらねばならない。


即座に自分の下に幾枚もの氷床を作って勢いを殺そうと試みる。自分の作った氷に当たるごとに、全身が、そして特に折れた肋骨が痛みを訴えたけれど、死ぬよりはずっとましだった。


そうして何枚もの氷をぶち破ってなんとか落下の勢いを止めると、俺は魔力を集めて地面から氷柱を顕現させる。それを利用して上へあがろうと思った。もう、巨人の体を上って上に行けるほどの体力はなかったから。


魔力を注ぎ込んで、地面から真っ直ぐに上へ上へと成長する氷柱に足を掛けると、俺は再び巨人の顔を目指す。


痛みに、巨人が魔法を支離滅裂に放っている。それが、自らを傷つける結果になっているのに、それでもそいつは魔法を止めない。


上空から降り注ぐ魔法を障壁で防ぎながら、俺は静かに登っていく。覚悟は決まっていた。


俺はこいつを絶対に倒す。


今この時を逃したら、もう俺に次は無い。次なんてものは無い。俺には。


そうして、巨人の視線までなんとか到達するころには、巨人も冷静さを取り戻していた。その巨大な頭が真正面にある。


怪我をした片目を右手でかばいながら、憤怒の表情でそいつが俺を見た。やっと表情らしい表情がその顔に現れた。


「凍れる世界をお前は見たことがあるか」


呪文を唱える。


魔力が失われていく。全身からゆっくりと。


「暗闇を?無音を?絶望を?孤独を?お前は知っているのか?」


ぐんと周囲の気温が下がった。


神の力がここに顕現する。これはその前兆。


巨人がここで初めて俺を認めた。さきほどまでの周囲を飛び回る羽虫に対する視線とは明確に違う。興味深そうに俺を見つめている。この時、俺と巨人との視線が絡まった。


知性あるものの表情を俺に見せている。俺はそこに巨人の意志を見た気がした。


そして同時に、そのまっすぐな目線と、透き通る瞳に、こちらの内側を覗き込むような奇妙な感覚があった。全てを暴かれるような、不思議な感覚があった。


巨人が口を開く。何かを言わんとするかのように。


しかし、俺はそれに構わず呪文を詠唱する。言葉を声高く張り上げる。


「その目でしかと見よ。その耳でしかと聞け。木々は葉を落として眠りに落ちる。動物は肩を寄せ合って死に落ちる。冷たい眠りは死の夢を誘い、慟哭は儚く凍り付く」


巨人がじっと俺を見ている。しかしもうその視線に晒されても平気だった。


「永遠なるもの、それは死。それは眠り。久遠の果てよりやってくる。麗しき氷の女王のたおやかなる腕に抱かれて眠れ。耳を澄ませば聞こえてくるは子守歌。震えて眠れ。哀れなるものよ。彼女は慈悲深き方」


俺があいつの目の中に残した氷の剣を起点にして、氷塊が成長する。


それが見る間に眼球を覆い尽くし顔に氷が広がっていくのが感じられる。巨人が自らの顔に起きた変化に気づいて、驚き慌てて覆っていた右手を離す。


やはり、思った通りその手に隠れていた部分が氷漬けになっている。それが露わになった。


俺は魔力を注ぎ込む。巨人が苦悶の叫びをあげる。それは俺の鼓膜を震わせ、大地を鳴動させて広がっていく。


気温はゆっくりと下がり続けて、寒いくらいだ。寒いくらいだったのに、じっとりと汗をかいている。


「喜べ!時は来た!お前の生の終わりに見るのは、夢幻の微笑み。彼女の誘う凍える世界は限りなく美しい。その世界の墓標に今お前の名が刻まれた!」


俺の魔法が完成する。


わずかに余力は残していた。魔力切れを起こしては生きてアルベルトのところまで帰れないから。余力はあった。でも、残念ながら思うように体が動かない。すぐにでもここから離れたほうがいいのはわかっていたのに、足が動かない。


視線の先では頭の半分以上を氷に包まれてもがく巨人の姿がある。どう見ても致命傷だった。あれが普通の生き物の範疇にあるのなら。


そうして、俺の見ている間に、氷漬けになったその頭部が崩壊を始めた。


俺の魔法の効果は自分でも目を見張るほどのものだった。あれの体の中に、触媒としての氷を埋め込むことができた段階で、しかも頭部という生物としてもっとも重要な部分に打ち込むことができた段階で、俺の狙いは達成されていた。


氷漬けの顔にひびが一本入り、二本になり、三本に増えた。そうして徐々にひび割れは増えていくと、とうとうそれらは繋がって深い溝となり、頭の一部が大きく欠けた。巨人が咆哮を上げて暴れている。


小さな破片だけでなく大きな塊までもが音を立てて崩れ落ち、その頭蓋が露わになる。氷は内部にまで侵食していた。


苦しみもだえる巨人が、全身で暴れている。やみくもに腕を振り回し、足を地団太を踏むかのように動かし、そのために地面が大きく揺れている。


そして、そのがむしゃらに動かされた腕が、氷柱にしがみつく俺の体を払った。


勝利は目前だった。なのに悲しいかな、俺にはもう、この事態に対処する余力は残されていなくて、薙ぎ払われた衝撃のままに、俺は空中に放り出される。


全身から骨の砕ける音が聞こえた。激痛が俺の意識を刈り取ろうとしている。


ただ俺は成す術なく落ちていく。


呼吸が止まり、世界の動きはゆっくりになる。頭では身を守らなければと思うのに、もはや指一本ですら動かすことが億劫で、地面への墜落を避けるとか抗うとかいったことをできる気力も残されてはいなかった。


地面が徐々に近づいてくる。もう間も無く俺の体はばらばらになる。


あぁ、アルベルト。


そう思った。


崩れる氷と一緒に落ちながら、心は穏やかだった。


ただ一つ、アルベルトのことが気がかりだった。


最後にせめて一目だけでもその顔を見たかった。


しかし、多くを望むのは分不相応だろう。俺にはこれで精一杯だった。生きることを諦めたつもりはなかったけれど、結果的にそうなってしまった。


そうしなければ、倒せるような相手じゃなかった。


アルベルトを助けて、人々を助けて、巨人を倒して、それにさらに自分の命もだなんて、そんな虫のいい話があるはずもない。


悲しくは無かった。


手を見る。


まだ、そこにはアルベルトの手の感触があった。


それだけで十分だった。


思い出を持っていけるだけ幸せだろう。


たくさんもらった。だから、寂しくは無かった。


アルベルトと言いたかったけれど、口から零れたのは鮮血だった。鮮やかに赤く世界を彩る。


俺はそっと目を閉じた。


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