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その言葉を聞いた時、僕の心に浮かんだものをはっきりと言葉にすることは難しい。
例えるなら、どす黒いヘドロが真っ白な紙の上に滴り落ちて黒い染みが生まれ、それがじわじわとしみ込んで最終的に真っ黒に塗りつぶされてしまうような、そんな感覚だ。
ふざけるな。
その後すぐに心に浮かんだのはその一言だった。たったその一言が、延々と頭の中を駆け巡っていた。
ざわざわと囁き合う貴族たちの視線が僕と国王との間を行き来している中で、僕の変化に気付いた者は多くは無い。
彼らは僕の話したことにすっかり気を取られていたからだ。目の前に立つ父と母、それから伯父の三人だけが、僕の表情の変化をつぶさに見ることが出来たはずだ。
僕は自身の表情も態度も声色も感情も、全て取り繕うことが難しい状態に陥っていた。
「何故ですか」
僕は感情を抑えてそれだけをやっと言うことができた。しかし駄目だった。一言口から零れれば、もう止められなかった。
「僕はこれまで、そのために頑張って来た。そのためだけに!過去偉業を為した者たちが、自らの願いを言いそして叶えられてきた。僕はそれに則った。僕自身の願いを叶えるために。なのに、僕の願いはかなえられないと言う!何故ですか!」
僕は知らず吠えていた。これほどの感情を人前で露わにしたことは他になかったかもしれない。
僕は父に願いを尋ねられたとき、当初の予定通り自らの廃嫡を申し出た。そうはっきりと言葉にして伝えた。王太子を弟のテオドール、あるいはギュスターヴでも良い。誰か適切な人物に、僕よりも適した人物に移してくれるよう頼んだ。
僕の言葉に父の笑顔は消え失せた。会場は静まり返った。
感情を押し殺したような硬い声で父は理由を尋ねてきた。
だから僕は、好きな人がいるからだと答えた。その人と、この先の人生を共に歩みたいと。
すぐさま父はほっとした表情を見せた後に喜んだ。そう思う相手がいるのなら躊躇わず紹介してくれれば良かったのにと言った。それから、母が相手が誰なのかを問うた。王太子妃として迎え入れても良いと言った。
母もその顔に笑みを浮かべていた。
僕は心が痛んだけれど、ひるむ心を押さえつけて本当のところを話した。
「相手は男なのです」
途端に両親の顔が凍りついたのが分かった。けれど、一度口に出した言葉は無かったことにできない。ここで誤魔化すことはできないと思った。僕は、僕らの関係が歓迎されないことだというのは分かっていた。
それでも思うままに話した。僕の気持ちを。
「私は彼を愛しています。そのために、私はこれまで努力してきました。彼と人生を共に歩むために。どんな困難も彼と二人ならば乗り越えていける。そう思いました。私は彼とこれからの人生を歩きたいのです。父上と母上には大変申し訳ないと思っています。今まで育ててもらった恩もあります。それ故に一層このようなことを申し上げることが心苦しいのです。それでも私はこの気持ちは譲ることができない。引き返すことはできません。だから、こうしてこの場で私は願い出ました。英雄に足る働きをすれば、慣例から願いを聞き届けて頂けると思ったからです。親不孝な私を許して欲しいとは言えません。だから、僕は廃嫡されることを望みます。期待に応えられない私ですみません。私たちには子供は作れません。跡継ぎを作ることができません。私は、王太子に相応しくありません。どうか、私なんかよりももっと適した人物を王太子にしてほしいと思います。私はその人物が誰であれ、精一杯支えたいと思います。だから、彼を私の生涯の伴侶とすることをお許しください。それだけが、私の願いです」
皆の顔色が悪くなるのを見つめながら、僕は最後まで言い切った。心臓は全速力で走った後のように脈打っている。
この場に沈黙が落ちた。それは永遠に続くように感じられた。
僕の視線の先にいる母が恐れたような表情をした。
二人の後に控えている伯父が表情の抜け落ちた顔をした。
誰かが小さく咳をして、それがきっかけになったのか、目の前の壇上に立ち塞がる父のあっけにとられたような顔に怒りの表情が浮かぶのが見えた。
「それは許さない」
そう父が断固とした声で言ったのだ。父の声には何の躊躇いもなかった。
僕は、自分の期待が裏切られてただ茫然としていた。
僕の働きは、僕の願いに見合うものではないのか?僕の願いは何故聞き入れてもらえないのか?
混乱が焦燥を呼ぶ。
そしてその焦燥は、徐々にどす黒い感情へと変わって行った。心の中を真っ黒の闇が覆い尽くすのを感じながら、ふざけるなという思いがふつふつと湧いてくる。
何故なのかという問いが何度も口から飛び出した。
「何故僕だけがこのような扱いをされねばならないのか!僕の願いは何故聞き入れられない!僕の願いはそれほど許されないことなのか!」
僕は怒りに任せて怒鳴った。
周囲でひそひそと囁き合っている貴族たちが煩かった。煩わしかった。
裏切られた怒りと願いの叶わぬ苛立ちと未来を否定された絶望と根拠なく信じた自分の愚かさに対する呆れと、世界の全てへの呪いが僕の中で渦巻いていた。
「叶えるかどうかは私が決める。そして、これは決定事項だ。国王の名においてお前の願いを私は退ける。そして何人も、私の決定に異議を唱えることは許さない」
国王が硬質な声音でそう言った。それは残酷な宣言だった。今の僕にはあまりに残酷な。
「先ほどあなたは言った!国王の名において願いを叶えると!」
「そうだ。だから今また、私は宣言した。国王の名において、お前の願いは退けられた」
「馬鹿な!それでは、私の努力も多くの犠牲も全て!全て無駄だったと言うのか!私は自分の命をなげうってドラゴンを倒した!それでも、私の願いはその働きに見合わないというのか!」
国王は無言だった。
「アルベルト……。男性と、その、結婚したいなんて、本気なの?冗談でしょう?」
母がそう言った。無意味な問いかけだと思った。
「もう一度言います。冗談ではありません。私は心に決めた人と、結婚します。子供は残せません。ですので、王太子の座から下りたいと思います。弟を次の王太子に。私は今後の人生をもって、弟を支えていきます」
「ならん」
一際大きな声が広間に広がった。
「好き勝手をすることは、王族として国を混乱させるような真似をすることは、国王である私が許さない」
断固とした響きを持って、その言葉はざわついた会場に響いた。
僕は認めない。
そんなことは認めない。
では、今までの僕の苦労はなんだったというのか。
死にかけたキースの努力は何だったのか。
僕からすれば、父の言うことは権力の乱用に他ならなかった。過去幾多の人間が、その命を懸けた働きの対価として願いが叶えられてきた。
伯父だってそうだ。
それ故に伯父は愛する人物と結婚した。
なら、僕がそれをして駄目な道理があろうか。僕の願いだけ否定されなければならない理由がどこにある。
何故だ。
何故。
どうして。
認めない。
断じて認められるはずがない。
僕は。
僕は。
僕は。
受け入れられない!
堪えきれない暗い感情がいっきに膨れ上がって全身を満たすのが分かった。
後から後から感じたことのない気持ちが湧き上がって、それは出口を求めて僕の中で渦巻いている。
「納得できない」
そう、口から勝手に言葉が零れた。
僕は壇上の三人を見つめた。
三人が怯むのが分かった。
僕は一歩を踏み出す。
ざわざわとした会場の喧騒が遠ざかる。
もう一歩を踏み出す。
誰かの小さな悲鳴が上がるのを聞いた。
更に一歩を。
最初の小さな悲鳴が次々に誰かに伝播していく。
あちこちから息を呑むような音やかすかな恐れおののく声が起き、動揺が広間中に拡大していくのが分かった。
けれど僕はただ前だけを見ていた。
視線の先で、伯父がふっと動くのが見えた。僕はそれを確かに見たと思った。
なのに、伯父が動いたと思ったときには、既に彼の姿は僕の視界から消えていた。
そして次の瞬間には、もう既に彼は僕の目の前にいた。真正面にいた。
僕の目の前にいて、そして伯父が握った拳を僕の方へ突き出す。見えたのはそれだけだった。
あっと言う間も無く僕は顔に鋭い衝撃を受けた。全く見えていなかった。衝撃を受けたと思うと、気付けば床に倒れていた。高い天井が目に入った。その天井が回転している。
僕はただ天井を呆然と見つめていた。少し遅れて自分が床に大の字に倒れていることを知る。そうと分かった途端痛みが頬に走って、自分が殴られたのだと分かった。
回る世界の景色が落ち着いてやっとのことで視線を巡らせると、僕のすぐ近くに伯父が立っていた。怒りに肩を震わせている。その形相は今まで見たことのないほどにゆがんでいる。
「アルベルト!」
彼は僕に怒鳴りつけた。
「恥を知れ!感情を抑えろ。玉座の間だぞ!」
何を言っているのかは聞き取れたが僕には伯父の言葉の意味が分からず、再度視線を周囲に走らせた。戸惑ったような怯えたような表情の貴族たちが目に付いた。けれど、それ以外には何も異常が見つけられず、やっと自分へと視線を向けると、そこには、僕の周りには暗い闇が広がっていた。そのことに気付いた。僕の体の下、床の上に暗い闇がインクをぶちまけたように広がっていた。
魔法など使った記憶はないのに、闇の気配が、僕を中心にしてじわりじわりと広がっていた。僕の体から、ぼたりぼたりと闇色の雫が零れ落ちている。
「城内での魔法の使用はご法度だ!忘れたとは言わせない!それをよりにもよってここ玉座の間で!愚か者にもほどがあるぞ!極刑だってあり得る!」
そう怒鳴った伯父がさらに僕の方へ近づくと、倒れている僕に馬乗りになって僕を殴りつけた。一発二発ではなく、何発も。伯父は僕に怒鳴りつけながらただただ殴り続けた。
僕はそれに無抵抗だった。抵抗する意志などみじんも無かった。
僕の耳には、伯父が僕をなぐる音だけが聞こえて来ていた。もはや会場にいる貴族たちは静まり返っていた。
「やめよ」
どれほど時間が経っただろうか。感覚がほとんどなくなったころ、国王が伯父の行為を止めた。
彼がその言葉を受けて立ち上がると、また、国王夫妻のところまで歩き、その傍に控えた。
僕ややっとのことで体を起こす。ぬるりとした感触に顔を触ると血が大量についた。鼻血だ。それを手の甲で拭う。痛みに顔をしかめたとき、血の味がした。口の中が切れているようだ。見れば絨毯に赤黒い染みが多量についている。
「当面の間、第一王子アルベルトに謹慎を言い渡す。王族なれど、未遂であれど罪は罪。己の罪は己で償わなければならぬ。本来であれば牢獄に幽閉せねばならない。しかし、今、サルバドールによって罰を受けた。故に、牢獄への幽閉に代わって、無期限の蟄居を言い渡す。これは決定だ。意義のある者は前へ」
国王の静かな声に、誰も答えなかった。
「では、決まりだ。アルベルトよ。王領の一つ、ガンデラにて、自らの振る舞いを振り返りながら反省するがよい」
僕はそれをただぼんやりと聞いていた。
けれど、今なお怒りの感情は胸の奥でとぐろを巻いていた。
「此度の式典はこれにて終了とする」
そう、国王が言った。
僕はけれど諦めきれない。この機会を除いてはもう、キースとの未来はあり得なかった。
「何故ですか。どうして……。どうして私の願いは聞き入れられないのですか!」
僕は叫んだ。
血がいくつも滴り落ちて、絨毯に新たな染みを生んだ。
僕の言葉に、伯父が前へ進み出たが、それを国王が押しとどめた。
「お前は何か勘違いをしている」
父が一言そう言った。それは静かな声だった。教え諭すような声だった。
「お前は今まで何を学んできた?王族だからなんでもできるとでも本気で思っているのか?もしそうであるのならば、私の不徳の致すところだ。自分の立場を弁えることもできないほど、お前が愚か者に育ってしまったというのならば、私の期待外れだったということだ」
父の声が冷たく響いた。
「王とは何だ?王族とは何だ?何故今までお前は好き勝手に生きられた。何不自由なく、何困ることなく生きてこられた。空腹を知らず、死の恐怖を知らず、寒さを知らず、恐れを知らず、差別を知らず。愛を受け、支えを受け、教育を受け、尊敬を受け、羨望を受け、そうやって生きて来られたのは何故だ?考えたことがあるか?お前は今まで何苦労することなくやってこられたのは、偏に国民があればこそだ。お前が言ったことだ。国民無くして国は無いと言ったのはお前だ。その国民に支えられて、国民という盤石な土台があればこそ、我らは国王足りえるのだ。そして、そこには常に義務が存在する。彼らから税を搾り取ったのではない。税を受け取ったのだ。我らはそれに報いなければならない。それを、たった一つの功績を為しただけで帳消しにできると、お前は本気で思っていたのか?もしそうならば、これ以上ないほどの愚昧蒙昧としか言いようがない。私は悲しい。貴族を始め国民の多くがお前に期待していた。その期待や信頼をお前は今投げ捨てた。ゴミを捨てるように!孤児院の改革をし、貴族の反逆を見出し、あまつさえドラゴンの討伐という実績を積み上げた。それのみならず、未来に向けての税制改革案まで出した。全て国王足るにふさわしい実績だ。皆がお前に期待していた。それを、お前は簡単に放り出すと言う。好きな者のために、自らその地位を捨てると言う。全て国民の期待を裏切り、たった一人のために、しかも子を成せない男のために投げ捨てるという。それは許される行いか!我儘を言うのも大概にしろと私は言いたい。見ろ。お前の周りにいる者たちを!お前を支えようと集まった者たちだ。それをお前は切り捨てると言う。それは王族として真に正しい振る舞いか?お前が国民を守りたいと言ったのは口先だけだったのか!」
その言葉に僕ははっとする。
僕は思い出す。
自分に出来ることはなんだろうかと思ったことを。自分の為すべき道が見えたと思ったあの時のことを。
けれど。
けれど、僕はそれを心の奥底に沈めた。
僕はキースを選んだ。選びたかった。
彼を幸せにしたかった。
今、父の言葉に僕は覆い隠していた気持ちが再び顔を出すのを感じていた。
国を豊かにする。国民を守る。
その思いが再び首をもたげる。
僕は……。
「お前は弟に跡を継がせると言った。そうして弟を支えていくと。できんよ。あれにはできない。あれは国王の器ではない。もちろん善人だ。きっと国のために身を粉にして働くだろう。その身を国のために捧げるだろう。しかしそれは国王としてではない。例えば、そう。この私の兄のように」
そう言いながら、父は伯父を見つめた。僕も叔父を見上げた。
「お前は勘違いをしているんだ。アルベルト。兄のサルバドールは好きな女のためにクラーケンを討伐したのではない。好きな女のために王太子の地位を辞したのではない。全ては王国のためだった。後で本人から話を聞いてみるが良い。端から見れば、自らの我儘のために行動したように見えるだろう。だが実態は違う。真実は別のところにある。良いかアルベルト。我らは国の支えだ。国民が支えなのではない。我らが国民の支えなのだ。その役割を放棄することは、何人たりとも許される行いではない。それは国の破滅への道。お前はそれを望むのか。何百万何千万の国民を見捨てるのか?私は今一度問う。お前はそのような道を突き進むと本気で考えているのか?」
父がそう言って震える吐息を零した。
「お前は自分のことしか考えていないのだ」
父がそう悲しそうに言った。
その言葉に僕は頭を殴られたような衝撃を覚える。
僕は、自分のことしか考えていなかった……?
「テオドールは王になりたいと言ったか?ギュスターヴは?お前がやるべきことを、お前以外の者にその意志を無視して押し付ける。それは我儘ではないのか。お前はお前が名を挙げた者たちの気持ちを考えたことはあるか?」
「それは……」
「しかもだ。なぜそれほど大事なことを私たちに話さなかった。事前に話さなかった?」
「それは……」
「突然言われる私たちのことを考えてはくれなかったのか?」
父が、隣に座る母を見た。
母は泣いていた。
そのことが、僕の胸を締め付けた。
「私には分かる。お前は怖かったのだ。私たちに否定されることが。お前は自らの責任を、英雄になるという大きなことの裏に隠して、お前のすべきことや責任から逃れたのだ。その説明責任から逃れたかったのだ。本当にその者と同じ道を進みたいというのなら、なぜ堂々と私たちに報告しなかった。それがお前の弱さだ。打算なのだ。全てはお前の!衆人環視の中で望みを言えば、自分の願いは嫌でも私が受け入れるとでも考えたのだろう……」
震える声で父がそう言った。
口に広がる血の味が苦く感じられた。
「私は悲しい。私たちはお前に信頼されていなかった……。そのことがただただ悲しい」
そう最後に言った。
僕は鋭い痛みが胸に走るのを感じた。これほどの痛みを感じたことがあっただろうかと思えるほどの。
僕は……。
僕は何も言えなかった。
ただ、僕は父の言ったことが頭の中でぐるぐると回っていた。思考が上手くまとまらない。答えを求めて僕はその場に立ち尽くしていた。
殴られた頬の痛みがじんじんと僕を苛む。
けれど、それよりも胸の痛みのほうが遥かに痛かった。
やっとここまできました。長かった
あと少し?で終わります
ハッピーエンドになります




