63
全身からとめどなく汗が吹き出し、口は空気を求めて大きく開き、胸は呼吸の度に大きく上下している。
僕は全身を地面に投げ出して横たわっていた。もう指一本も動かせない。肺も心臓も全身の筋肉も体力も限界を訴えている。
もう真夜中を回っただろうか。
僕の隣には同じように二人の男が横たわり、必死に息を吸うその呼吸音だけが静かな森に響いている。ここに今生き物の気配はほとんど無かった。その意味するところを思えば、こんなところで油を売っているわけにはいかないのだが、体だけでなく魔力も精神も限界に近かった。
ひたすら走り続けて走り続けて、その間に取った休憩はこれが二度目だった。
この強行軍に付いてこられたのは結局エリックと彼の部下一人だけだ。他の者たちは全員置いてきた。彼らは今、きっと遥か後方を追いかけてきているだろう。
でも今の僕にはそんなことなどどうでも良かった。ただ、キースが無事であることだけが気がかりであり、そのことをひたすらに祈っていた。
どこかで彼が襲われていないか、どこかで戦闘が行われていないか、僕はじっと耳を澄ませたけれど、近くにはそんな気配は感じられなかった。
それは僕に安堵の気持ちを起こさせなかった。
なぜならこの静けさが、もう既にキースが襲撃された後か、彼がまだ逃げ回っている、或いは全く道を外れてしまい途方もない場所をさ迷っているなど、考えればいくらでも想像できるが、良くない事態になっていることを意味する可能性もあるからだ。
もちろん、逆に彼が既に監視塔に到着していることも考えられる。けれどもしそうであるのなら、援軍がこちらへ向かってきているはずだ。
その気配が無いということが、彼がまだ森の砦まで到達していないということの証左だった。
「アルベルト」
「何だ」
「これ以上は本当に死ぬぞ。ここでしっかり休もう」
「そんな余裕は無い」
「だが、もしこんな状態でドラゴンを見つけたとしてどうする。体力も限界、魔力も限界、精神的にも限界だ。勝てるはずがない」
「そんなことは関係ない」
「お前、もっと冷静になれ」
「そんなに言うのなら、ドラゴンの弱点でも教えてくれ。君はあれと直接戦ったんだ。何か気付いたことがあるだろう」
「お前……」
「それ以外の話は聞くつもりはない。もう少し休んだら僕は行くよ」
呆れのためか、エリックが太い息を吐いた。
「特別な弱点は無い。大規模な魔法を、あれの苦手な光や炎の魔法を叩きつけるのが一番安全で確実だろう」
「そうか。ありがとう」
「お前、分かってるのか?お前は確かにあれを無力化したが、それは俺たちの協力があってこそだ。一人では確実にやられる」
「僕はただやるだけだよ。出来る出来ないは問題ではない」
「問題に決まっているだろう。それに一人ではどうあっても無理だ」
「それでもだよ」
またエリックがため息をついた。
「あとは、まぁ動物と同じだろうな。むき出しの目や口の中や鼻だ。それ以外の部位は固い鱗に覆われていて刃が通らない。実際に、俺が目や鼻を狙ったときは避けようとしたり庇う素振りが見られたが、胴体など鱗の厚い部分は全く意に介した様子を見せなかった」
「なるほど。ありがとう」
僕はそれだけを言って再度大きく息を吸った。少しずつ呼吸が正常に近づいてきている。
僕は起き上がって持ってきていた残りの水を全て飲み干した。木々の枝葉の間から星がちらちらと見えている。それはあまりにもか細い光だった。儚く頼りなく。
そうやってぼんやりしている時、不意に地面に微かな振動を感じた。
はっとして周囲を見渡すと、エリックも気づいた気配だ。誰も一言も発しない。
張り詰めた空気が辺りに満ちる。
また揺れた。今度はかすかな音が聞こえた。
「あっちだ!」
僕は立ち上がって駆け出す。かすかな音のした方へ。それは正確ではないが、おおよその検討をつけるには十分だ。
「おい、待て!」
エリックの声が後方から追いかけてくる。
僕は再び魔力を全身へと行きわたらせて、全力で足を動かした。木々は風のように後方へ流れていく。
それから幾度か音を確認しながら全速力で走っているというのに、全く近づいているような気がしない。それがもどかしく歯がゆかった。
キースが僕を待っていると思った。
「待て」
僕が再度方角を確認するために立ち止まっているときだった。エリックが声を掛けてきた。
「何か聞こえる」
その言葉に僕は耳を澄ます。聞こえた。たしかに、今ドラゴンの咆哮が微かに聞こえた。交戦している!
僕は足に魔力を込めて高く跳躍する。その直後、遠くに聞き間違いようもないほど大きな咆哮が轟いた。
木々の背を飛び越えて空中へと飛び上がると、それは更にはっきりと僕の耳に届いた。その方角へ体をひねると夜の闇の遥か向こうに何かが光るのが見えた。氷だ。月明りを反射して輝いている。キースが魔法を使ったんだ!
その直後、下から動揺する声が聞こえた。視線を向けると二人がよろける。エリックがバランスをくずすなどよっぽどだ。すると、今度は別の大きな音が不気味に響き渡って、すぐ後から下から突き上げられるようにして木々が上空へと吹き飛ばされた。それと同時に土砂が柱のように時間差で三本立ち上がった。大小の岩や石が撒き散らされる。
僕はキースが無事であることを知って安堵していたけれど、目の前の光景に言葉を失う。すぐに彼が襲われているという事実に居てもたってもいられなくなった。今すぐ彼の元へ飛んでいけないことがもどかしい。
視線の先では、さらなる土の柱が次々と立ち上がり、どうやらキースが逃げたらしい方向へ向かって猛烈な勢いで土埃の移動していくのが見えた。月のおかげで何が起きているのか具に知ることができる。
土埃が遠ざかっていく方角を星の位置から確認すると、どうやらキースは監視塔から遠ざかる方へ逃げているようだ。砦が巻き込まないようわざとそうしているのだと理解する。こんな非常事態の中でこの判断力。さすがとしかいいようがない。
けれど、この状況で他人に気を配るなんてと僕は内心で歯噛みした。対抗する手段などないだろうに。
下からの突き上げに巻き込まれた木々がなぎ倒され互いにぶつかり折れる音が高く低く響いてくる。
僕は地面に着地すると同時に魔法の見えた方向へ全速力で駆け出す。エリックにキースがいたことを伝えると、彼が真剣な顔になって僕の後について走った。
キースの元へ急ぎながら空へ向けて合図を打ち上げる。少し遅れて返事があった!合流する。
僕はただひたすらに走った。どうにか間に合うことだけを願った。
木々を避け、暗闇に何度も足をとられそうになったけれど、僕は走った。先ほどまでの疲労などもう意識の外だった。
キースの無事だけを思った。
さきほどよりもさらにはっきりとそして腹に響く大きな音と地響きとがして、距離が狭まってきていることを知る。
僕はためらいなくその方向へ向かった。
あと少し!
そう思った時、前方で闇の気配が大きく膨らむのを感じた。それは離れていてなおこんなにもはっきりと感じられるほどで、その魔力の強大さが窺える。王立軍でもこれほどの魔力を放出できる人物の数はほんの一握りだろう。
あ、と思った時ひと際大きく大地が揺れ、そのために立っていられないほどだった。僕は走ることができず自然と立ち止まってしまった。
前方から鼓膜も破れよとばかりの轟音と巻き上げあれた土埃とが雪崩のように襲ってきた。木々の鬱蒼と茂った森の中でこれほどの衝撃が起こるなど尋常ではありえない。
僕は慌てて状況を確認するために空へと再び跳躍する。エリックも僕の後について飛び上がった。
星空の中、巨大なドラゴンが月を背にして大量の土砂や木々とともに空中に浮かんでいた。もちろん飛んでいるのは黒竜だけで、それ以外はそいつの放った魔法ものために空へと打ち上げられたのだ。
そしてその中に、僕はキースがいるのを見た。見つけられたのは奇跡といってもいい。
彼が必死に空中で態勢を整えようとしている。
「キース!」
僕は声の限りに彼の名を叫んだ。けれど、その声が彼に届くはずもなかった。
キースが何やら魔法を唱えた。よく見れば、すぐ側にはキースや怪我人に同行させた二人の男もいた。キースが彼らを助けようとしているのだと思った。
あっという間のことで、僕の視界の中で土砂と木と彼らは再び地面へと落下していく。叩きつけられる様を竜は悠然と眺めている。
小山ほどもある土砂が上空へと持ち上げられている。あれほどの量の土と倒木の下敷きになっては助からないどころか、体は確実に形も残らない。
僕はただその光景を見ているしかなかった。助けに行きたいのに間に合わない。絶望が僕の心を黒く塗りつぶしていく。
駄目だ!それだけは駄目だ!僕は何のためにここまで来たんだ……。
焦る心で必死に自分にできることを目まぐるしく考えている先ではしかし、キースが冷静に、おそらく落下の衝撃を和らげるための魔法を使ったのだろう。三人がゆっくりと落ちていくのが見えた。
もうもうと立ち上がる土埃に包まれてすぐに三人の姿が見えなくなったが、最悪の事態だけは免れたようだ。
いや、まだだ。まだ安心できるような状況ではない。ドラゴンが、キースたちが生きているかどうかをたしかめるようにじっと上空から地面を見下ろしている。僕は地面に落ちると再び走り出す。まだ間に合う。助けられる。
電光石火のごとく、僕は自分の人生の中でこれほどまでに必死に走ったことは無いと言うほどに急いだ。
「おい、アルベルト。今向かうのは悪手だ。俺たちだけじゃ太刀打ちできない。近くに監視塔もある。いったんそっちへ向かって援軍を呼ぼう。その方が確実だ」
「それでは間に合わない!」
僕はエリックの声を背に走り続ける。
あのドラゴンのせいで地面がところどころ割れ盛り上がり、更に走りにくくなってしまっている。木々はその根を露出させ、地面から斜めに生えている。
そのすべてが僕の進みを邪魔するように思われた。枝葉が僕の頭や頬や肩を打つ。けれど、そんなことは全く気にならなかった。僕は全力でただひたすらに足を動かし続けることに意識を向けていた。
ドラゴンの咆哮が一段と近くに聞こえた。もうすぐだ。
誰かの声が微かに響いた。すぐそこだ。
「キース!」
たまらず声を張り上げる。喉が裂けると思われるほど僕は声を大にして叫んだ。
すると、目の前の木々の隙間から上空へ向けて氷の柱が立ち上がるのが見えた。それは天へと太く長く伸びていく。月明かりをあびてきらきらと……。
しかし上空に浮かぶ黒竜には届かない。ドラゴンが、魔法を察知してさらに上空へと飛び上がったからだ。
それを見上げながら急いで、やっと僕はあのドラゴンによって破壊された森の開けた場所へ辿り着く。まだ間に合う。キースは無事だ。
そう思いながら、どうやって彼をこの場から連れ出すか、そればかりが頭の中で目まぐるしく駆け巡る。必死に考えながらひた走り、とうとうキースのいる場所へと達する。深い森を抜けて木々の隙間を走り抜けた途端、月明かりがまぶしいと思った。それはキースの作った氷の柱のせいだった。
視線の先に、彼が他の二人と一緒にいる。一人は気を失っているのか、地面に横たわっている。
「キース!」
彼のところまではまだ距離がある。僕は彼に向かって大声を出した。僕の声は絶叫にも似ていたかもしれない。木々に反射して辺りに響き渡る。
彼がこっちを向くのが見えた。
その表情が僕には何故かはっきり見えた。キースがほんのわずかにその表情を緩ませたのが分かった。
彼が口を開く。その口が僕の名を呼ぼうと言うように開かれる。
まるで時の流れが遅くなったかのようだった。
ゆっくりと、表情や口の動きや周囲の土埃や木々の枝の震えや、そういったものが、あり得ないほどにゆっくりと変化していく。
その、わずかにほっとしたようにして僕を見ているキースの顔が、何かに呼ばれたように上を見上げる。側にいた男が大口を開けて何事かを叫んでいる。僕には聞こえない。ただ、風が梢を揺らして通り過ぎる音がしただけだった。
つられるように僕も上を見上げた。自分の動きもまた信じられないほど遅い。
森の上に広がる暗い夜空には星が瞬いていて、そのさらに上、月を背にしてダークドラゴンが空に停滞している。
そのドラゴンが、今、あの暗いブレスを吐き出すのが見えた。
僕は走り出す。あっという形にキースの口が開かれる。その目は驚愕に開かれている。
届くはずもないのに、手を前へ伸ばした。自分の手が彼の姿と重なる。
もう一度キースが僕を見た。
瞬間、絶叫が僕の耳に届いた。
頭の奥にまで響くほどの大きさで、それ以外の音の一切が聞こえなくなる。視界が黒く塗りつぶされる。
キースが何事かを呟いている。何を言っている?聞こえない。煩い。誰かが叫んでいる。煩い。
その上から、黒い奔流が三人を押しつぶすように降り注ぐのが目に入った。僕は目を閉じることもできず、ただそれを見ていた。見たくもないのに、視線は吸い寄せられたように動かせない。
瞬きも出来ず、視界の先で僕の運命が零れ落ちる。
息が出来ない。
煩い。
僕は走り出す。それを誰かが後ろから止める。力づくで動きを制限された。
エリックだった。
「馬鹿野郎!」
僕の両肩を後ろから羽交い絞めにするように捕まえて離さない。がっちりと掴まれながら、僕は体を捩ってそこを抜け出そうと遮二無二暴れるが、彼の力強い腕には効果がない。
あっという間に、地に落ちた黒い流れがこちらへと迫って来た。それは全てを飲みこんで、キースや他の隊員たちを飲みこんで、僕らの方へ流れて来た。もう誰の姿も見えない。
「死にたいのか!」
エリックの言葉が僕の耳に届いた。
僕は死にたかった。
けれどとめどなく絶叫が僕の耳元で続いている。
あぁ。そうか。
僕はここでやっと気づく。
これは、僕の声だ。
そうと気付いた瞬間、僕は呼吸を思い出す。喉も張り裂けんばかりの叫びの合間合間に、息苦しさから僕は死にかけの魚のように空気を求めて動かす。息を吸っているのに、一向に呼吸は楽にならない。
誰かが前方に魔法障壁を張った。それが黒い流れを遮るのが見えた。後から後から流れてくる黒いブレスは、その障壁によって左右へ別れて後方へと流れていく。
僕はただそれを無感動に見つめていることしかできなかった。
息はいまだ苦しい。吐き気と咳がこみ上げて、僕は体を丸める。ヒューヒューと息の漏れる音がしている。
僕の全身から力が抜けたのを確認して、エリックが腕に籠める力を弱めた。
僕はその場に膝をついて吐き気と咳に耐える。空っぽの胃の中から何かが上がってくるような錯覚を覚えた。その気持ち悪さに生理現象から涙がこぼれる。
僕はただ強く地面に爪を立てて、その生理現象と、悲しみと絶望とがない交ぜになった衝動に耐えていた。
キースが死んだ?まさか。そんなはずはない。
そう思った。必死に否定しようとして、それが虚しい努力だと分かっていた。
数日前の隊員たちが思い出される。あの流れに呑まれた者たちの末路を。冷たくなった体。恐怖に見開かれた目、大きく助けを求めて開けられた口。
恐怖が僕の足元から這い上ってくる。体に震えが走る。感じたことのない恐怖と無力感から、全身の震えが止まらない。
僕はただ自らの無力を感じていた。
本当に?
これが運命だと言うのか?本当に?
二度も彼の死を見なければならない、それが僕の運命なのか?
では、神はなんのために僕を過去に戻したのか?
キースは、こうして死ぬ定めだと言うのか?幸せも知らずに?
怒りが込み上げる。理不尽な運命に対する怒りだ。
僕は彼を幸せにしたかった。今度こそ、ずっと笑っていられるようにしてあげたかった。
これまでの辛い人生の分だけ、彼がこれからの人生を笑って過ごせるよう、手助けをしたかった。
なのに。
これが、こうなることが神の決めた定めだと言うのか?幸せに値しない人間などいるのか?キースは努力していた。幸せになる道を歩いていた。
誰よりも幸せになるべき人間だった。
どうして!
最後の別れの場面がふいに思い浮かんだ。
僕は何と言った?彼になんと言った?
耳元で自分の声が聞こえる。
そうだ。僕は彼に足手纏いだと言ったんだ……。
後悔が激しく胸を刺す。
あの時キースが浮かべた悔しそうな悲しそうな顔が思い出された。
無言で歩き去る彼の背中が思い出された。
また胸を鋭い痛みが走った。とっさに胸を抑える。もちろん血など出るはずもない。僕は自分の手の平をぼんやりと見つめた。
僕は、僕はなんということを言ってしまったんだ……。
そう思った。
最後に交わした言葉が、あんな、酷い……。
そのことに気付いた瞬間、僕の心は真っ黒に塗りつぶされたような気がした。後悔が後から後から湧いてきて、自分の愚昧さに後から後から怒りが湧いてきて、けれどそれをぶつける先は自分しかなくて、僕の心は千々に乱れた。胸が張り裂けるほどの感情の奔流が僕の中で渦巻いている。
言葉とすら呼べない曖昧な音が口から漏れ出た。それは何の意味ももたないただの嗚咽で、それは後から後からとめどなく溢れ出て行く。
「どうして!僕は!」
「おい、アルベルト……」
エリックの戸惑った声が聞こえたが、僕にはどうでも良かった。
僕には何も!
彼を救うようなことは何一つできない!
何故だ。
頑張っても、どれだけ頑張っても、僕はキースを幸せにはできないのか?
何故?どうして?
暗い感情が意識を埋め尽くす。もう上手く思考できない。全てがどうでも良かった。
死んでしまいたかった。
もう、星の光も月の光も見えない。ただただ、暗い海だけが僕の前にある。
そんな中でも女々しくも僕はキースのことを思い出していた。今までのことが目まぐるしく思い出された。
初めてキスをしたときのこと。
始めて彼をこの腕に抱いた日のこと。
彼が嗚咽をこらえて泣いた夜のこと。
友達になりたいと言ってくれた日のこと。
彼が僕に初めて笑いかけたときのこと。
僕の言葉に呆れたような素直な感情を見せてくれたこと。
どうして。
どうして僕は彼を救えない?
僕は彼を愛していた。
その目まぐるしく変わる顔をもっと見ていたかった。知らない表情をもっと見せて欲しかった。
してあげたいことがたくさんあった。
一緒にしたいことがたくさんあった。
約束したんだ。一緒に海を見に行こうって。
エリックが蹲る僕を揺さぶる。しっかりしろと叫んでいる。
けれど、僕にはもう立ち上がる気力も残されていなかった。この状況をもうどうしようとも思えなかった。
いまだ黒い流れは勢いを失ってはいない。黒い川は轟々と音を立てて流れている。
僕はもう一度空を見上げた。巨大なドラゴンが、夜の闇の中で、闇夜の支配者のようにその漆黒の体を煌めかせている。
この全ての元凶たる相手をただ見ていた。
星の光が空虚に瞬いている。
月の光の中で、なお、か細い光を放っている。
一つ二つと。
現れては消え、現れては消え。きらきらと。
きらきらと……。
あれは……。
僕の見上げる先で、いくつもの輝きが生まれ消えていく。
あれは……、星ではない?
「おい、アルベルト。あれは……」
それから先の言葉は掠れて消えた。
ドラゴンの闇色のブレスの下から、何かが。
白い何かが、黒い流れから突き出し、天を目指すように伸びていく。
しかし、それは黒い流れの中で折れ砕ける散っていく。
その砕けた欠片が光を反射して輝いていた。
あれは何だ?ほら、また今も。
正体の分からぬ白いそれは忍耐強く再び空へと伸びていく。何度も何度も、それは空中でもろくも砕け小さな欠片になって消えていくが、そうとかまわずに繰り返し伸びていく。天へと向かって。
氷だ。
僕は遅れてそうと気付いた。
氷の柱が、細く長く伸びていく……。
この光景が意味することとは?
そう気づいた瞬間、僕の完全に沈黙していた生きる意志が全身に再び湧き上がるのを感じた。一時失われていた希望や戦う気力といったものが再び僕の胸の奥に灯るのを感じた。
それは一筋の光明に思われた。
まだだ。
希望はまだ潰えていない!
まだだ。
まだやれることがある。
キースは生きている!
あの氷の柱は彼の折れない心の証だ。彼は今も戦っている!生きることを諦めていない!
僕は立ち上がる。
そのことが僕に勇気を与えてくれる。
まだ助かるかもしれない。その期待だけが、今の僕を奮い立たせている。
僕は顔を上げる。
そうだ。キースがこんなところで諦めるはずがない。
キースは真面目だから、彼が僕との約束を違うはずがない。
彼は今僕らに伝えようとしている。彼が生きているということを。その理由は?
彼は求めてる。僕に助けを求めている!
ならば、僕がここで諦めることは許されない。
彼が諦めていないのに、この僕が諦めて良いなんて、そんな道理があるものか!
僕はドラゴンを睨みつける。
急ぐんだ!
月が出ている。その円い月の中に、悠然とダークドラゴンが浮いている。
勝利を確信したように悠然と。
――調子に乗るなよ。
一つ息を吸って、僕はその月を目掛けて飛び上がる。
全身に力を込めて僕は跳躍する。一瞬で僕の体は夜の空へと舞いあがった。
そうと意識したわけでもないのに、僕は空へと飛び上がっていた。急がねばという気持ちが僕を動かした。
彼を助けられるという希望が僕を突き動かしている。
体が軽い。
自分でも信じられないほどの速度で僕はダークドラゴンへと肉薄した。
相手が僕の接近に気付いてこちらへ顔を向けた。
遅い。もうここは僕の間合いだ。
自分でも知らぬ間に腰に吊るした鞘から剣を抜き放っていた。
「光よ」
剣が言葉と同時に輝きだす。
全てがゆっくりに見えた。
僕はそっと剣を構える。切っ先を前に突き出す。自然に僕は腕を前に伸ばしただけだった。
そのまま、勢いのままに見開かれたその黒い瞳に、僕の剣が吸い込まれていった。
ぬるりとした感触。抵抗も無く僕の剣は根元まで深々と刺さる。僕はただそれを当たり前のことのように見ていた。
剣の柄から手を離す。僕の剣はそこに残された。光はしばらくの後失われ、普通の剣に戻った。
ドラゴンの鼻づらを踏みつけて僕は再び空へと跳躍する。高く高く。
一瞬遅れて、痛みのために竜が大口を開いた。耳をつんざく咆哮がその口から迸った。その音圧が僕を襲う。
竜は痛みにわめきながらも、僕を、そのまだ見える片目でねめつけている。
僕がその目をじっと見つめていると、体が落下を始める。わずかな浮遊感。
ドラゴンが馬鹿みたいに大口を開けて叫んでいる。無防備だ。
その急所を、生物としての急所を自ら晒してくれるなんて、なんとありがたいことだろうか。
ドラゴンはブレスを吐き出すのをもはや止めて、痛みに耐えるようにその図体を振り回している。
その口へ、僕は落下していく。
その際、落下しながら、その無様にも開いた大口へ意識を集中する。
魔力は残りわずかだ。
そんなのは分かっていたけれど、僕にはそれが出来ないことだとは思われなかった。
酷く簡単なことのように思われた。
魔力が足りないという事実を、僕は当たり前のことのように受け入れていた。受け入れていてなお、不可能だとは思えなかった。
あぁ、そうか。
そう呟いた。
なら、命を使えばいいじゃないか。
それは簡単なことのように思われた。
「惜しむべき命などありはしない。ただ一つ、この願いを聞き届けてください」
言葉は紡がれる。
「苛烈なる神、光の審判者よ」
視線の遥か下に、白い何かが見えた。
それは半球状の形を形成している。
その中に人の姿が見えた。
「我ら小さき人。神を畏れる者。おお、そのまばゆき光に我らは恐れをなすだろう。その白日のもとに、我らの罪はあますところなくつまびらかにされる。おお、神よ。今私は私の罪をここに隠すことなく開示する」
体から魔力が急激に失われていくのを感じても、僕の心は穏やかだった。
「審判者よ。輝ける方、世を照らす光よ。今、この暗闇をまばゆきその後光でもって打ち払え。全ての善なる者に、等しく救済と希望の光を。邪なる者に、裁きと破滅の光を」
胸に激痛が走る。
脂汗が頬を伝う。
それでもなお、僕の心は凪いでいた。
キース。
「希う。どうか今一度、この地上をその貴き威光でもって、あまねく照らし出さんことを!」
僕の手から小さな光の粒が一つ生み出され零れ落ちた。
それは、静かに落下していく。
そうして、吸い込まれるようにドラゴンの口へと入り込んだ。
僕は全ての魔力を使い果たして、しずかに落ちていく。でも、目だけは竜から外さなかった。
僕はドラゴンのすぐ脇を落ちていく。徐々にお互いが離れていく。竜は光を飲み込んで、それきり僕のことは忘れてしまったようだった。
そうして。
ドラゴンに急激な変化が起きた。
大きく痙攣するようにその巨体を震わせると、漆黒の体を突き破る様にして幾筋もの光がその身を貫いた。
ドラゴンは自身の身に起きた変化に気付くと、遮二無二体を揺らして暴れ始めた。夜空を縦横無尽に飛び回り始めた。翼を激しく羽ばたいている。
そして、変化は急激に進んだ。
飛び回る巨体から光が漏れる。それはあっという間にダークドラゴンの体を包み込んだ。
そうして、僕の目の前でそれは爆発した。眩い光の奔流が僕の視界を覆い尽くす。
とっさに目を閉じてなお眩しさを感じるほどだった。
光はしばらく残り続けた。
僕は自身の身が落下していくのを感じていた。もう指一本動かせそうにない。全身を抗いがたい疲労感と倦怠感とが満たしている。もうすぐ地面にぶつかると言うとき、颯爽とエリックが近寄ってきて、僕を抱きかかえるようにして受け止めてくれた。
そのおかげで僕はバラバラにならずに済んだ。
呼吸が苦しく僕はとっさに彼にお礼も言えなかった。
エリックがその場から僕を抱えて離れた。
キースのいる方を僕はもう一度見た。それが最後だった。




