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(完結)男二人、ヤマアラシのジレンマ故に  作者: たろう


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「やぁ、キース。どうかな……?」


準備に時間をかけ、なんとか待ち合わせ時間に間に合うよう従僕らが用意してくれた恰好に着替えて馬車に乗り、急いで学園とやってきた僕がそう声をかけると、彼は目を丸くして僕を見つめ返してきた。


「……素晴らしいです。完全な平民と言っては無理があるかもしれませんが、商家や法律家といったような良いところの嫡男と言えるくらいには、王子という身分を上手く隠すことができていると思います。少なくとも高位貴族には見えません。たぶん」

「そうかい?」


僕は彼の言葉に嬉しくなる。


「はい。その、あなたにこんな格好をさせて良いものかと、逆に怖くなってしまいますね……。ばれたら罰せられたりしないでしょうか?」


キースが僕の護衛である近衛たちを見ながら言うと、彼らは無言で視線を背けた。


僕は今、新品ではあるがかなり地味な色とデザインの綿の上下に外套、そしてマフラーを首に巻き、金髪を隠すために帽子をかぶっている。そのどれにも刺繍などの装飾はなく、どこからどうみても貴族には見えない出で立ちだった。


「本当はもっと平民っぽい恰好がしたかったんだ。なんなら古着とかでもいいと言ったんだけれど、どうしても周りのみんなが許してくれなくてね」

「それは、確かにそうでしょうね……。さすがに殿下に、どこの誰が着たのかもわからないようなお召し物を着用させるわけにはいかなかったでしょうから」

「これでも妥協したんだ」

「いえ、まぁ、はい。良い落としどころだと思います。後は言葉遣いと立ち居振る舞いにさえ気を付けて頂ければ」

「大丈夫。十分に気を付けるよ」


僕は頷いてそう答えると、何故だかわからないがキースが僕に苦笑した。


それから、出発前に、護衛に付く近衛騎士たちの自己紹介がキースと彼らとの間でなされた。


「さぁ、行こうか」

「はい。殿下、本日はどうぞよろしくお願いいたします」

「キース」

「はい?」

「殿下は駄目だよ」

「あ、そうでした。失念しておりました。すみません。ええと、アルベルト様」

「キース、様付けでも駄目だよ。様をつけて会話なんてしたら、僕らの会話を耳にした周りの人々が何と思うだろうか。僕の変装も用をなさないだろう?」

「その通りかもしれませんが、それでは、なんとお呼びしたら」

「呼び捨てで構わないよ」

「そんな」

「さぁ、練習だ。呼んでみて?」


キースが狼狽したような表情をして辺りを窺っている。主に僕の護衛の方を。


「さぁさぁ。早くしないと出かけられない」


僕の言葉に、キースが意を決したような顔をして口を開いた。


「それでは、その、失礼いたしまして……。行きましょうか、アルベルト」


良し!思った通りだ。


図らずもキースに自分の名を呼ばせることに成功し、僕は今非常に興奮していた。しかし、そんなことはおくびにも出さず、いたって普通のことであると印象付けるために、落ち着き払って僕は言葉を紡ぐ。


「うーん。良いけれど、まだ駄目だよ。その敬語も直さないと」

「えぇ……」

「ほら、キース」

「えっと、では、その、行こうか、アルベルト」


彼が意を決したようにそう言った。まさかこんな形で僕の願いが叶うとは思わなかった。


「もちろんさ。今日は楽しもう」


そう言って僕はキースの背を軽く叩くと、二人並んで歩いて学園を出た。


「祭では何か見たいものなどはあるかい?」

「いえ、特別見たいものがあるわけではなくて、もともとは行って寄付だけはしようという程度の考えで。それ以外はその場の雰囲気で色々見て回ろうと考えていたんだ。殿下は、あ、すみません、えっと、その、あ、アルベルトは、何か考えがあったりするのか?」

「いいね、その話し方」

「いえ……」

「申し訳ないけど、僕も特にこれといって考えがあるわけではないんだ。むしろ知らないほうが楽しめるだろう?」

「はい」

「とりあえず、大通りに行けばなんとかなるとクリストフが言っていたんだ。だから、まずは大通りを目指そうか」

「はい。それならこっちの道です、だ」


今日は青空が広がり風も強くない。絶好の外出日和だった。幸先の良い始まりに僕の心は弾んだ。


学園を出てまっすぐ大通りを目指して進む。二人で話をしながら歩いていると、人の流れがあるのが目に見えてわかる。恐らく彼らもまた、僕らと同様に大通りを目指しているのだ。


王都で行われる聖パディーニの降誕祭は、大聖堂でのミサも有名だが、一番は中心部で行われている各種催事と出店だろう。


大聖堂を中心とした各通りには露店や屋台が軒を連ね、芸を披露する大道芸人をあちこちで見ることができる。王都以外の各地の珍しい食べ物や土産物などが売られており、また大道芸人が各所で人々を沸かせている。


これらはほぼ全て、王都の商業組合や職人組合などの各種組合が取り仕切っており、かなりの利益を上げているほか、治安維持にも貢献している。


降誕祭ということもあり、組合と貴族の慈善団体とが共同して募金などの慈善活動を行っており、かなりの大規模な祭だった。


また、各種劇場の俳優たちもこの日のために特別な催し物を行っていて、そういったものを見物するためにも、王都近隣の町や村から人々が集まってくる。この真冬の時期としてはとにかく活気のある一日なのだ。


残念ながら、僕自身は参加したことはなく、通りがかりに馬車の中から見たことはあるだけだったが、本当にすごい人だかりなのだ。


一度は歩いてみたいと思っていたので、こうして実際に街中を歩いて回る機会を、キースと一緒に見て回る機会を持つことができ、僕はいつになく浮かれていた。


横並びに石畳の通りを歩き、僕らは人々の熱気の中心部へと進んでいく。歩みを進めるごとに人の数は増え、喧騒が耳に煩い。


僕らは呼び込みをする人に幾度となく止められてしまい、そのたびごとにキースが上手くそういった人をあしらってくれた。


「なんだか、さっきからずっと呼び止められている気がするけれど、これが普通なのかな」

「恐らくですけど、でん、あなたがその理由だと思いま、思う」

「僕?」

「はい。その、目立つから」

「目立っちゃうかな」

「周りを見てください。アルベルトみたいに小奇麗な恰好をしている人はそう多くはない。お金を持っていそうな人に第一に声を掛けるものなのではないかと」

「なるほど」

「私も詳しいことまではわからないのですが。それで、でん、アルベルトは今日はお金を持ってきていますか?」

「うん。財布を持たされたよ。こういう場では、お釣りの問題があって、金額の小さい硬貨をたくさん持っていた方がいいんだろう?クリストフが前もって十分な枚数の硬貨を用意してくれたんだ。見るかい?」

「いえ、大事にしまっておいてください。あと、スリには気を付けて」

「スリ……。話には聞いているけれど、実際にそんな不届きな者がいるのかな?この神聖な日に?」

「もちろんいます。彼らに倫理観を期待してはいけない」

「そうか」

「あと、できるだけ勝手に動かないようお願いします。離れたら合流することが難しくなるので」

「分かったよ」

「もしはぐれたりしたら、大聖堂の広場にある噴水前に集まりましょう。あとはそこでじっとして動かないでいれば、出会えます」

「噴水前だね。覚えておくよ」

「はい」

「僕も気を付けるから、キースも言葉遣い、気を付けてね。もう少し砕けた話し方のほうが良い」

「あ、はい。善処しま、頑張る」

「そうそう」


こうして賑やかな街中を歩く経験は僕にはほとんど初めてといってもよく、キースもこの祭を初めて見物するということで、僕らはことあるごとに立ち止まって、目の前の様子を観察しないではいられなかった。


道中で見かける大道芸人と呼ばれる者たちの芸の多くはたいしたものではなかったけれど、ほんのわずかに本物の芸を見せてくれる者たちは確かにいて、その演技は実に素晴らしかった。


種の分からない手品や、オペラ歌手にも劣らない声量と技術を持つ歌い手、動物を使った芸などと、さらに人を引き付ける彼らの話術。


誰もが彼らの呼び込みの巧みさに一度は足を止め、そして一度足を止めたら最後、彼らの芸を一通り見てしまうことになり、最後には投げ銭してしまわずにはいられないのだ。


目を奪われた子供が立ち止まり親を呼び止め、その親も立ち止まるといった場面も散見された。


先へ先へと進んでいくと、人の密度は増し、肩も触れ合いそうなほどの密集具合だった。どこかで子供が泣いている声や、家族や知人を呼ぶ大声も聞こえてくる。


十二月の王都は寒いのに、人いきれの中、風の通り抜ける隙間もない状態のためにさほど寒さは感じられない。天候のおかげもある。


天気は良く、キースが隣にいる。それだけで僕はとても楽しい気持ちでいっぱいだったが、つい周囲への注意を怠ってしまっていた。


前から歩いてきた若い男が、前方不注意だった僕とぶつかり、倒れ込んだ。周囲の人々の視線が僕と倒れた男に集まる。


「あ、申し訳ない」


僕は思わず声をかけた。僕のせいでなかなか派手に路上に倒れ込んでしまった男を見ると、痩せている。おそらく彼と僕との体格差のために、相手が弾かれてしまったようだった。


「大丈夫かい?」


僕が、尻もちをついてしまった男に腰を折って手を伸ばすと、彼は驚いたような表情を取り繕って自分で立ち上がり、気をつけろと吐き捨てるように言って立ち去った。


「彼には申し訳ないことをしてしまった」


男がすぐに人混みに紛れて見えなくなる。僕はその男の背中を目で追っていたが、不意にキースが僕の腕を引いて言った。


「財布は無事ですか?」

「財布?」

「もしかしたら、スリだったかもしれないと思って……。私はすられたことはないんですが、なんとなくそんな気がして」


キースが心配そうに僕を見上げている。


「あの一瞬で?まさか」


僕はそう言って外套の内ポケットに手をやると、確かに入れていた財布がなくなっていた。


「あぁ」


つい感嘆の声が漏れる。


「すごい……。本当になくなってる。なんという卓越した技術なんだ」

「いや、そこは感心するところじゃないって。追いかけないと!」


キースが焦ったように言ったけれど、僕は落ち着いていた。


「でもキース。今更追いかけてももう彼はどこかに行ってしまった後だよ。あの短時間での犯行。相当な場数を踏んでいるだろうから、逃げ隠れるのも上手いんじゃないかな」

「そんな悠長な」


そう言ってキースが僕の手を引く。本当に心配してくれているようだった。


「キース、落ち着いて」

「ですが」

「盗られてしまったものは仕方ないよ。そんなことよりも、ごめんね。僕の不注意で嫌な気持ちにさせてしまったね」

「え、いえ……」

「僕は気にしていないから大丈夫。お金がないと何も買えないけど、僕は君と一緒に見て回るだけで十分楽しいから、気にならないよ。それよりも、キースのお金が盗られなくて良かった」


笑って僕がそう言うと、キースが複雑そうな顔をした。


「いくらすられたのかは知りませんが、この反応。殿上人というのはこういうものなのですか」

「さぁ、どうかな」

「本当に、追いかけなくていいんですか?」

「君との貴重な時間を犯人探しに費やすつもりはないよ」

「……わかりました」

「さぁ、行こう」

「はい。でも、ほんとにほんとに追いかけなくていいんですね?」

「うん。ありがとう。支払いは全て僕が持つつもりだったのだけれど、それができなくなってしまったのだけが残念だ」

「そんなこと気にする必要はありません」

「ごめんね。それよりキース。口調が元に戻ってるよ」

「う……。はい」

「うん」

「それじゃあ、行こうか、アルベルト」

「うんうん」


立ち止まってしまった歩みを再び進める。まだ、僕らの祭は始まったばかりだ。こんなところで時間を潰す必要はない。


「あの。もし入用な物があったら言って欲しい。私が払うので」

「君に支払いをさせるなんて、僕の沽券にかかわるから駄目だよ」

「いいえ、もともと今日は私が支払うつもりだったので大丈夫なんだ。その、私も男なので、貰いっぱなしは嫌だから……」

「そんなの気にしなくていいのに。ありがとう」

「いえ。それでも、貰った分を返すには全然足りないんだけど」

「その気持ちだけで僕は嬉しいよ」

「……なので、気になるものを見かけたら遠慮なく言ってください」


それからしばらく歩いて大通りに入ると、すぐに露店や屋台犇めくエリアに到達した。ここからは運営に申請した者しか商売をすることができない。


様々な呼び込みの声とおいしそうな食べ物の匂いとが漂ってくる。


あまりに多くの屋台が並んでいて、その光景は圧巻だった。次から次へと視界に料理が入ってくる。僕は知らないものの波に圧倒されてついきょろきょろしてしまう。


「何か気になるものがあった?」

「いや、どれもこれも目新しいものばかりで……。どこを見たらいいのかわからないくらいだよ」

「そんなに?」

「ほら、料理をしているところとか、市井の人たちの暮らしの様子ややりとり、会話を見聞きするというのがこう新鮮で」

「あぁ、そういうこと……」


キースが何とも言えない表情をした。それはどういう感情なのだろう。


「試しにどれか買って食べよう」

「でも」

「大丈夫。私が払うので。こういう時でもないと私が支払いをするなんてことできそうにないので、任せて欲しい」

「ありがとう」


礼を言うと、キースが僕の手を取って歩き出した。


手を引かれながらどんどん進む。キースが屋台の料理について歩きながら簡単な説明をしてくれた。


「あれが蒸しパン」

「うん」

「これは焼きそば。豚肉かな、それと野菜。ソースで味付けされてる」

「へぇ」

「で、あれが肉まん。中身はひき肉と数種類の野菜だと思う」

「ほう」

「これは揚げパンだ。中身はチーズとかハムとかが一般的」

「あっちは?」


僕が少し先の屋台を指さすと、キースもそちらを向いた。


「あぁ串焼きだ」

「見たい」

「了解」


人を避けて僕らは目当ての屋台にたどり着いた。香ばしく肉の焼ける匂いが鼻をくすぐる。


「食べてみる?」

「いいのかい?」

「ええ、最初に手を出すには一番手ごろな料理だと思うので。串に刺さっているから食べやすいし、材料もただの豚肉で、珍しい食材は使ってないから口に合わないってことはまずないだろうから」

「そうか」

「じゃあ、これで。すみません。ニ本ください」

「あいよ」


店主からキースが手渡しで受け取った。


「おいしそうだ」

「下町の味付けがあなたに合うと良いんだけど」


二本の串のうち片方を僕に差し出す。


「あぁ、待って」

「うん?」

「良いんだろうか。今気づいたけど、毒見とかが必要なんじゃ……」

「これだけたくさんある屋台のどれを僕が食べるかもわからないのに、毒なんて入れられるはずがないよ」

「それもそうか。じゃあ、はい」


僕はキースから串を受け取った。おいしそうな匂いがする。


「こういう場では歩きながら食べるんだろう?」

「うん」

「実は一度もやったことがないんだ」

「串が危険なので、人にぶつからないように気を付けて」

「うん」

「さぁ、アルベルト。移動しないと他の人の邪魔になる」

「うん、分かった」

「それを食べ終わったら、他のも色々食べてみようか。私も見たことのない料理がちらほらあって気になってるし」

「いいね。楽しみだ」

「ただし、もし口に合わないものがあったら、無理せず言って欲しい。私が代わりに食べるので」

「いや、さすがにそんなことはさせられないよ」

「食べかけを道端に捨てるわけにもいかないから、私が食べるよ」


そう言ったキースの唇が僕の目に留まる。薄く開いた唇の奥……。


そんな意図はないのはわかっているのだが、彼の言葉になんだか少し、その、背筋をもぞもぞさせるような響きがあって、僕は困った。


結局その串焼きは美味しかった。その後も気になったものを思いつくままに食べ歩き、種々の催しものを見て回り、最後に噴水広場で募金をしてから、来た道を帰った。キースが少し疲れたそぶりを見せたからだ。


冬至を過ぎてすぐということもあり、午後三時の鐘の音が鳴るのが聞こえたばかりだったが、もう東の空は薄紫色に染まり始めている。


僕らはのんびりと歩いて、学園への道を帰った。見て回った催し物のうちどれが面白かったのか、あるいは一番印象に残った芸はなんだったかなど、話題は尽きなかった。


周囲を歩く人々の活気はまだまだ冷めやらぬようだったが、確かに家路を辿る人々の緩やかな流れがあり、僕らはそれに混じって歩いた。


「なんだかこのまま帰るのも、もったいない気がする」

「初めて行ったけど、あっという間だった」

「うん。楽しいことは時間を忘れさせてくれるね」

「うん、いい思い出になった。今日はありがとう。アルベルト」


キースがそう言った。


その言葉に僕はふと彼の方を向いた。


彼はまっすぐ前を向いていて、無邪気な笑みを浮かべている。僕が彼の方を見ていることに、キースは気づいていない。


そのまま、人を避けて僕らは歩いた。夕暮れが追いかけてくる。


「……どこかに寄らないかい?せっかく君と街へ出たのだから、もう少し話していたい気分なんだ」

「アルベルトの立場もあるし護衛もついて来ているしで、思いつきで外出の予定を変えていいものなのか?」

「問題ないよ。まだ日暮れ前だしね。どうだろうか」


僕は歩きながら言い訳のようにそう言ってみた。もう道の先に学園の校舎が小さく見えている。彼は何も言わなかった。


楽しい時間はあっという間で、僕はまだまだ物足りなかった。


「いいだろう?このまま解散は早すぎる。ね?」


僕は重ねて言う。キースが僕の言葉に少し考える仕草をしてから、言った。


「喫茶店とか、そういうところで?」

「どこでもいいんだ」

「……それじゃあ、私の部屋へ来る、とか?」

「え、いいのかい?」

「冬季休暇で生徒もほとんどいない学園の寮なら護衛の負担も少ないのかなと」


思いがけない言葉が彼の口から飛び出し、僕は彼の提案に一も二もなく食いついた。またとない機会だと思われた。


「あぁ、いや、ごめん、冗談。さすがにそれは駄目だ」

「何故」

「私の部屋は学園の寮の狭い一室で、碌々おもてなしもできないし、アルベルトを呼べるようなところじゃないし、きっと来たらびっくりする」


彼が誤魔化すように手を振っている。


「そんなこと言わずに、是非とも招待してほしい」

「えぇ?ほんとに?でも、本当にその、貴人を呼ぶような作りじゃないから……」

「お願いだ」


真剣であろう僕の表情に、彼が悩む素振りをする。


「ほんとに、アルベルトが思うような場所じゃないよ」

「文句は言わない」

「狭いし寒いし暗いし古いし」

「そんなの気にしない」

「……ぼろすぎてびっくりしないでくださいよ」

「そんな失礼なことはしない」

「じゃぁ、まぁ、それほど言うのであれば……」


とうとう彼が折れてくれた。


まさかの事態に僕の胸は高鳴った。本当に今日は最高の一日だ……。


彼の部屋へ行く。それは僕の切実な願いだった。


まさか今日、その望みが叶うとは露ほども想像していなかった。


あの日の、驚くキースを前にして感じた後悔と、悲しみと、再び彼を目にすることができたと言う喜びとが鮮明に、そして一気に思い出されて、僕は図らずも泣きそうだった。


彼はあの時の僕の言葉を覚えていたのだろうか?たとえ冗談からの発言だったとしても、部屋へ呼ぶなんていう軽口が出たということは、僕のことを受け入れてくれたと思っていいのだろうか?それとも、またこれも、僕の都合の良い考えだろうか。


色んな事が一時に僕の頭の中でせわしなく駆け回って、上手く言葉が出てこない。それでも、この好機を逃す言い訳にはならなかった。


「決まりだ。行こう」

「でも、本当に何もない部屋で」

「そんなこと、全く構わないよ」

「うーん。そんなに期待されると困るんだけど」


彼がそう言って小さく笑った。


「そこまで言うのなら……。でも急がないと、アルベルトが帰る時間が遅くなってしまう」

「子供じゃないのだから、そんなこと気にする必要はないよ」


僕の言葉にそれもそうか、とキースが言った。


「ほんとに古いのでびっくりしないでくださいよ」


念押しのように彼がそう言って歩き出す。それに合わせて僕も歩く。


ずっと歩きっぱなしで疲れたなぁと、隣で彼が無邪気にそう言うのを聞きながら、僕は自然と速くなる歩みを意識して抑えた。


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