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セオドア→テオドールに変更(どちらもつづりはTheodore)
兄弟で名前の発音ルールが違うということに今更気づきまして
単調な日々の繰り返しの中で、気付けばあっという間に学期末試験と剣術大会が終わり、今はもう夏休み期間だった。
六月時点で既に気温が平年よりも高かったが、七月に入っても高温の日々が続いた。そのため、今年は例年よりも少し早い時期に、避暑へと来ていた。
僕らは毎年八月になると、王国の北部にある王家の直轄領にある別邸で家族水入らずで二週間ほどを過ごすのが恒例だった。
王家所有の避暑地であるここは、高原ということもあって王都よりも涼しく過ごしやすい。
どこまでも草原が広がる長閑な風景は毎年来ているにも関わらず、全く飽きさせない。
今、その風光明媚な景色の向こうで、夏の暑さをものともせず、弟のテオドールが大人を相手にこの真夏の空の下楽し気に走り回っている。
それを見ている僕の横を時折涼しい風が吹き抜けていく。日差しは強烈で、その真っ白な光が、屋敷の壁を、芝生の上の道を白く輝かせている。青々と茂る木々の葉は、その青葉で夏の光を遮り、その下に涼し気な木陰を作り出していた。
僕はその日陰の中で、木の幹にもたれ掛かりながら地面に腰かけている。柔らかな芝生と、わずかにひんやりとした地面の温度が心地良い。
子どもらしい甲高い笑い声が、遠くにいる僕の耳にもはっきりと届く。そちらへ目を向けると、声の持ち主がこちらへ大きく手を振るのが見えて、僕はそれに小さく手を振り返した。その笑顔の眩しさに僕は目を細める。
穏やかな時間だ。
また芝生を揺らしながら風が通り過ぎて行く。その行く先を視線だけで追いかけると、景色はそのまま青空へと繋がっていった。真っ青な空には背の高い雲が立ち上がっている。大きな雲。
「兄さん」
僕を呼ぶ声がして、そちらに頭を巡らせると、すぐそばにテオドールが立っていた。全く気付いていなかった。幼い顔が窺うように僕を見つめている。
知らぬ間に僕は随分長い間ぼんやりとしてしまっていたらしい。テオドールの首筋を、汗の一滴が光を反射して流れ落ちた。
白のまっさらなシャツに半ズボンといういかにもな恰好をした弟は、既に小麦色に日焼けしている。
「一緒に遊んで」
可愛らしい口を開いて彼が、気付いた僕に言った。
「あれ、テオドール。ハリスはどうしたんだい?」
「あっち」
僕が問うと、弟は元気に来た方を指さした。遠くには日差しの中をとぼとぼと歩いてくるハリスの姿があった。相当お疲れらしい。
「テオドール。ハリスはもう若くないのだから、あまり無茶をさせてはいけないよ」
「させてないよ」
そういって、弟がくすくすと笑った。なかなかのやんちゃ坊主だ。テオドールは日陰に座る僕のとなりにどすんと腰を落とした。
僕らが見守る中、時間をかけて疲れ切った顔のハリスがこちらまでやってきた。少し肩で息をしている。
「やっと追いつきましたよ」
「ハリス、お疲れ様。大変だね」
「アルベルト様、お気遣いは不要です。この程度、疲れたうちに入りません」
「それで何をしていたの」
「動植物の観察です。テオドール様は話を聞くよりも実際に目で見た方が良いだろうと思いまして。野外授業です」
「避暑地に来ても授業とは恐れ入る。こんなに暑いのだから、体には十分気を付けてくれ」
「もちろんそのつもりです」
「で、なぜ駆けっこを?観察ではなかったのかい?テオドール」
僕がそ知らぬふりをしている弟の方を振り返りながら指摘すると、首を竦める仕草をした。
「授業から逃げ出したのかい?」
「逃げたんじゃないよ」
そう否定する言葉は勢いがなく、気まずそうに眼を伏せた。
「ハリスがこんなに汗をかいて君を追いかけていたのに?授業をさぼるようなら部屋の中で授業してもらうよう、父さんと母さんに進言しようか?」
「そんな」
弟が絶望したような顔をした。
「ハリスは君の遊び相手ではないんだよ?父さんと母さんに頼まれて君の授業をしてくれているんだ。彼だって、君の授業がちゃんとできなければ困ったことになってしまうんだ。自分勝手はいけない」
僕の言葉にテオドールが口を噤む。
「ハリス、テオドールの勉強の進みはどうだろう。弟はちゃんと勉強しているだろうか」
「はい。頑張っておりますよ」
「そうは見えないけれど……」
僕の言葉にハリスが苦笑いした。
「忖度はいらないよ。僕はあなたを叱る立場ではない。みんなには内緒にしておくから、率直な意見を聞かせてくれ」
「まぁ、正直に言いますと、少しばかり堪え性がありませんな。それと集中力もございません。そのせいでテストはあまり芳しい結果とは申せません。それから、好きでない授業は今日のように途中で抜け出そうとなさいます」
想像以上にわんぱくだった。ハリスの苦労が偲ばれる。
「本当なのかい?テオドール」
隣に顔を向けて聞いてみると、ちょっとだけだよ、という返事が返ってきた。
自覚はあるようだ。
「ハリスのことが嫌いかい?」
小さな頭が左右に揺れる。
「勉強は好きじゃない?」
頷くのと首を振るのと。
「体を動かすのは?」
「好き!」
「そうかぁ。好きなのがあることは良いことだけどね、好きじゃないことも同じくらい頑張らないといけないよ。ハリス、テオドールは勉強が決してできない子ではないと思うんだ。どうか見捨てないでやって欲しい」
「見捨てたりなどいたしません。私はテオドール様には期待しておりますから」
「良かった。ありがとう、ハリス」
「全ては集中力の問題なのです。体を動かすことのほうが好きですので、じっと座って話を聞いたり手を動かすだけというのが、性に合わないのでしょうね。授業をしていて、理解力は十分にあると感じますし、難しい事柄も、驚くほどすんなり飲みこむことも多々ございます。ただ、反復練習や復習といったことが大嫌いですので、習ったことを忘れてしまいがちです。ですがまぁ、心配は無用でしょう。この年頃の男の子にはよく見られる傾向ですから」
「そうなんだ」
「年齢を重ねられれば、落ち着いてきます。ちょうどアルベルト様と同じように」
「あぁ、うん。そうだったね」
いたずらな光がハリスの目に輝いた。その表情は昔を懐かしむようでもあり、楽しそうでもあった。
一方、話題のテオドールは、僕の隣で自分には関係のない話だとでも言うように草を毟っている。
僕は弟に向き直る。
「もっと勉強を頑張ろうね。じゃないと立派な王様にはなれないよ」
「ならないからいいの」
「分からないじゃないか」
僕の言葉に首を傾げている。そんな彼の汗を拭くためにハンカチを取り出す。
「さぁ、少し休憩したら授業に戻ろう。ハリスの言うことをきちんと聞いて真面目に取り組むんだよ」
「はーい」
「もし残りの時間を、ハリスの言う通りにしてちゃんと勉強したら、午後は一緒に遊ぼうか」
「やった」
玉のような雫が幾筋も流れる額や首筋なんかを丁寧にぬぐっていくと、くすぐったそうな声が響く。
「兄さんはここで何をしていたの?」
「うーん、考え事かな」
「何を考えていたの」
「先のことだよ」
「先?」
「そう。未来。君が大人になった後のことだよ」
「大人」
「テオドールはどんな大人になりたい?」
「騎士!」
元気に声を張り上げて彼が言った。それは希望に満ちた声だった。本当に何にでもなれると無邪気に信じている、そんな響きがあった。
「そうかぁ。かっこいいからね」
テオドールが嬉しそうに笑う。
「絶対なりたい。そのために、兄さんみたいに剣の練習をするんだ」
「そうだね。もう少し大きくなったらね」
僕は彼の小さな手を見ながらそう言った。
「テオドールは王様に興味はないのかい?」
「王様?なんで?」
「なんでって、王族に生まれた男は王になる可能性があるんだよ。そのために勉強しないといけないんだ」
「でも王様には兄さんがなるんだよ」
テオドールが可笑しそうに笑った。本当におかしいという笑いだった。そうなることを全く疑ってもいない。
「そうかな」
「当たり前のことだよ。兄さんは知らなかった?皆言ってるよ。次の王様は兄さんだって。だから僕は騎士になりたい」
「そう」
「そして、王国を守るんだよ」
「御伽噺みたいに?」
「そうだよ」
僕の話を聞いているのかいないのか、彼は自分が毟った草を僕の手に押し付けて来た。
「でも、もし、王様になれるとしたら?」
「ならないよ」
「どうして?」
「僕は騎士になるんだから。そして、兄さんが王様になるんだ」
弟が間髪を入れずに答えた。
「そうか」
僕は手渡された草の葉を自分の掌の上に乗せると、そっとそれを息で吹き散らした。うまく風にのって少し舞ったかと思うと、千切れた葉はすぐに地面に落ちた。
「午後は湖に行こうか」
「うん。泳ぎたい!」
悲鳴にも似た大声で叫ばれた。その後すぐに立ち上がって飛び跳ねている。
「泳ぐのは危険だから駄目だよ」
耳を抑えながら僕が言うと、テオドールが急に大人しくなって、またどすんと僕の隣に座り込んだ。
「じゃあ行かない」
「泳ぐのは駄目だけれど、水に足をつけるくらいなら大丈夫だよ」
ハリスを見上げると、頷いている。
「冷たくて気持ちいいよ」
「行く!」
すっかりその気になった弟を連れて、ハリスは授業をすべく戻っていった。
一時間半後、僕らは一旦屋敷へ戻った。途中話を聞くと、約束通り残りの授業はきちんと受けたというので、昼餐を終えた後、僕はテオドールを連れて近くの湖へ行った。
メイドや従僕たちが、おやつや飲み物、着替えの準備をして僕らの後に付いてきた。
そこはのんびり徒歩で向かっても十五分もあれば到着する。青い水をたたえた湖は日差しを反射してきらきらと輝いていた。僕らはすぐにボートに乗り、水遊びをしてから、大きな日よけ傘の下で午後のおやつを食べた。
この年頃の子供らしく無際限の体力でテオドールは遊びまわったけれど、日が傾く頃に、突然ぜんまい仕掛けのねじが切れたように眠ってしまった。
とても楽しかったようで、その寝顔は至極満足気だった。
ぐにゃりと力の抜けた体を僕は抱き上げる。夏の日差しは相当だったようで、弟は信じられないほど真っ黒になってしまっていたが、よくよく見てみれば、僕もこの短時間ですっかり日焼けしてしまっていた。
帰ったら風呂に入って晩餐の予定だが、自分の過去の経験から、一悶着あるだろうなと僕は思った。
寝入ったテオドールをおんぶしたまま屋敷へ戻ると、丁度良く弟が目を覚ました。眠い目をこする弟に、汗で汚れた体を綺麗にするように言うと、危なげなく浴室へ向かって行く。
さて僕も晩餐に向けて準備をしようと思った矢先、危惧した通りの事態になった。浴室前で従僕やメイドらがなにやら騒いでいるのに気づいて声をかけると、弟が風呂から出てこないのだという。
一向に浴室から出てこないテオドールに、僕も外から声を掛けると、中では日焼けした体が痛いとテオドールが泣き言を言っているのが聞こえた。火照った肌にはぬるま湯でさえ刺激が強くて汗を流すのもままならない様子だった。
さすがに家族の集まりに遅れてはまずいと思い、みんなに盛装の準備等を頼んでから、僕が浴室に足を踏み入れると、弟は浴室の白い湯気の中で途方に暮れていた。
時間もないので、僕は弟を入浴させる傍ら、自分も体を洗ってしまおうと服を脱ぐ。
そうして、一緒になって裸になると、痛いと騒ぐ彼をなんとか宥めすかして僕は彼の汗をゆっくりぬるま湯で落としていく。
それから、髪の毛、顔、体の順で洗っていく。テオドールがくすぐったいと笑ったかと思うと、日焼けあとが痛いと悲鳴を上げて、一丁前に論理だてて文句を言ったりする。一向に止むことのない言葉の洪水に僕は辟易してしまった。しかも弟は一時もじっとしていないので、何をするにも時間が要った。
僕が黙々と作業を進めていく間に、今日の楽しかったことや好きなもの、苦手なことなど他愛も無いような事柄を一人で延々話し続けている。僕はそれに適当に相槌をうっているだけだったが、彼にとっては僕が聞いていようがいまいが関係無いようだった。
そして、今度は僕が自分の髪や体を洗ってやっている最中ずっと僕のことについて延々質問され続けたのにも辟易してしまった。厄介なことに、途中からどうしてあそこに毛が生えているのかだとか、自分のと比べて大きいのは何故なのかとか、なんとも答えにくい質問に晒される事態となってしまった。僕は純粋無垢な弟の怒涛の質問に適当に答え続けた。
急いで自分の全身を洗い終わりテオドールを連れて浴室から出ると、待ち構えていたクリストフらがいた。彼らに手伝ってもらって身支度を素早く整え、やっとのことで食卓に時間通りに着く。
僕と弟が食卓についてしばらくすると、両親も盛装して食堂へと入ってきた。
王宮にいる間は、テオドールは家族の食事に同席しないが、ここでは今年からそれが許されることになった。初めての家族四人での食事に、弟は大いにはしゃいでいたが、マナーは事前によくよく言い含められたおかげで大きな失敗をすることもなかった。カトラリーの扱いも及第点を与えていいくらいきちんとしていた。
僕はそれをみてそっと胸をなでおろすと、食事に集中する。
父と母が中心の会話の時々に、子供らしい話を持ち出すテオドールのおかげで、楽しく食事が進行していく。
「二人ともそんなに日焼けしてしまって、ここへ入った時はどこの子が座っているのかと思いました」
母がやはり気になっていたのだろう、晩餐も中盤に差し掛かったころにそう話題を振ってきた。
「アルベルトも見違えたな……。山賊か何かかと思ったぞ」
父の言葉に母がくすくすと笑う。
「昔を思い出しますね」
「本当に」
両親が僕らを眺めながらそう言った。その顔には昔を懐かしむような表情があった。
「今日は、兄さんと一緒に湖で遊びました」
人の機微など頓着しないテオドールが、肉の最後の一切れを飲み込んでそう言った。
「湖で?危なくはなかったか?」
父が僕を見ながら言う。
「はい。足を水につけるくらいで、泳がせませんでしたので大丈夫です」
「テオドールはやんちゃだから、遊ぶ際はよく見ておいてやってくれ」
「お願いね」
「はい」
「ボートに乗りました!」
「あら、涼しくて良いわね」
「兄さんはボートを漕ぐのが上手いのです。あっという間に向こう岸に着いてしまいました」
「まぁ、そうなの。それじゃあ、今度は私も乗せてもらおうかしら」
「はい。いつでも」
「あなた、私も湖に行きたいわ」
「それじゃあ後で予定を確認してみよう。たしか何もない日があったはずだ」
「楽しみだわ」
「日差しがとても強いので、日避けになるものを必ず持っていったほうがいいです。帽子や日傘なんかを。じゃないと僕らみたいになってしまいます」
「そうね……。その時にはエマにしっかりと日差し対策をしてもらう必要があるわね。そうだわ。この前新しく手に入れた帽子があったのだったわ。飾りがたくさんついていてとても鍔の広い。流行りですのよ。それを持っていきましょう」
両親が揃って僕らを見ている。
「テオ、そんなに日焼けしてしまって、お風呂は問題無かったかしら?昔アルベルトが日焼けした時は散々てこずったものよ」
「大丈夫でした」
ふんぞり返って弟が得意げに言う。
「お前、そんな嘘がよく言えたな。体中が痛いって大騒ぎだったじゃないか……」
「兄さんも痛い痛いって言ってた!」
「いや、僕はひりひりするとしか言っていないよ。それにお前みたいには騒がなかったろう?」
「あら、二人でお風呂に入ったの?」
「ええ、まぁ、そうです。痛みのせいでテオドールの入浴が全く終わりそうになかったので。もたもたしていると晩餐に間に合わないと思い手伝いました」
「そう、良かったわね、テオ」
母が微笑んだその隣で、ワインを飲みながら父が言った。
「あまり兄の手を煩わせてはだめだぞ」
「はい!」
弟の返事だけは素晴らしかった。浴室内での彼のやんちゃぶりと騒々しさを思い出しながら僕はため息をついた。
「一緒にお風呂に入って楽しかったです」
「そう。良かったわね。でも、大変じゃなかった?アルベルト」
「まぁ、それなりには」
「兄さんの筋肉がすごかった!」
「まぁ」
「腹筋が六つに割れていて、とても硬かったです。いつか八つにしたいって言ってました。それから、兄さんが背中のオークを見せてくれました」
こうやってと、僕がしてみせたのを真似して見せる我が子に、父が笑った。
「そこまでいくともう戦士だな」
「太腿も腕も丸太みたいに太くて、なのに、兄さんが騎士になるならこれ以上を目指さないとダメだって言いました。僕は騎士になりたいんです」
「そうなのか」
「おっぱいもすごく大きかったです。それと、それと、ちんちんの周りの毛がぼーぼーでした!」
調子良く喋るテオドールにみんなが微笑ましく思っていたところに、その一言で室内が沈黙で満たされた。皆の視線がテオドールに集まったが、周りの様子に気付かない弟は無邪気に話を続ける。
「それから、兄さんのちんちんがすっごく大きくて、僕の腕くらいあったんだよ」
「腕……?」
父が言った。
「弟は誇張して言っているんです……」
僕は恥ずかしさを堪えて、何とかそれだけ言った。
「こちょうって何?」
「物事を実態よりも大げさに言うことよ」
「誇張してないよ!ほんとに大きかったんだから。足の間にこう、三本目の腕みたいにぶら下がってて、髪の毛を洗ってる間じゅうぶらんぶらん揺れてたんだ!」
身振り手振りを交えて臨場感たっぷりに語る弟に、僕は顔が熱くなった。そして、口の渇きを感じてワインを少し口に含んだ。それが良くなかった。
「それで、兄さんが言うんです。自分が本気を出したらもっとでっかくなるんだよって」
僕は飲みかけのワインを吹き出した。給仕係が慌てて駆け寄って僕にナプキンを手渡す。
「兄さん、マナーは守らないと」
「まぁ、大丈夫?」
母の心配そうな声がした。
「見たいって言ったんですけど、それは大事な人にしか見せられないから駄目だって言うんです。僕は兄さんにとって大事じゃない?お母さんは見せてもらった?」
今度は父がワインを吹き出した。別の給仕が父の元へ走った。
「お父さん大丈夫?だから、僕聞いたんです。それなら、どうやったら僕のちんちんが兄さんくらいの大きさになるのかって。それで、騎士の訓練をしたら大きくなるって言われました。なので、僕も早く騎士の訓練がしたいです」
立ち上がっている僕に部屋中の視線が集まっているのを肌で感じた。その中には困惑した両親のものもあった。僕は身じろぎもできずにただ突っ立っていた。
「まぁ……」
母の間延びした何とも言えない声が小さく響いた。僕は居たたまれなくなって俯くことしかできなかった。
それなのに、問題発言をした当の本人はきょとんとした顔をしているのが恨めしい。
「それは知らなかった」
父が口の周りを拭きながら言った。
「それじゃあ私も騎士の訓練に励もうかな」
「一緒にやろう!」
父の発言に、嬉しそうな弟が無邪気にそう言った。その後、僕はデザートを辞退してそそくさと部屋へ戻った。
その夜は早めにクリストフらを下がらせた。
夕暮れとともに夏の暑さはなりをひそめ、すっかり昼間の喧騒も彼方へと去り、僕は一人部屋にいた。
ここへ来てからのことを思い出していた。
忙しい両親と一緒に過ごすことの少ない弟はここへ来てからずっとはしゃいでいる。
毎年夏に訪れているこの避暑地の別邸は、僕にとってはもはや珍しくもなんともないが、弟にとってはまだまだ目新しい。毎日あちこち探検して、その旺盛な好奇心を満たしているようだった。
普段忙しい両親や僕が、自分の相手をしてくれることも、弟がここへ来るのが好きな理由の一つだろう。それに食事も、人目の少ないここでは彼だけ別室ということもなくて、家族みんなで同じ食卓に着いて食べられることも、彼の喜びに拍車をかけている。
まぁ、今日の会話はいただけなかったけれど、あの喜び様をみたら叱るにも叱れなかった。
時計を見ると十時。昼間の疲れもあって彼は今はもう夢の世界に旅立った後かもしれない。
使用人たちも夜番を除いて、もう仕事が終わり部屋へと引き上げたはずだ。
僕は部屋の灯を落とす。
辺りは暗闇に沈み、ただ静寂だけが僕の周囲に存在していた。夏の別邸は沈黙に満たされている。
湖があるからだろうか。涼しい風が吹いている。
開け放った窓の向こうには夜空が広がっていて、星々が砂金のように散らばっている。その光は小さく、しかし無数に存在して、夜の中にひしめいている。それらは賑やかで美しく、荘厳ささえ感じさせるほどだったけれど、その一つ一つはささやかな光で、星と星との間には確実に闇が横たわっていた。
何のつながりもない星々を繋いで星座を考え出した先人たちは、何を思ってそんなものを生み出したのだろうか。孤独の星々を見えない線で繋いで、彼らもまた孤独だったのだろうか。
いて座にこと座、白鳥座やさそり座。
昔ハリスに教えてもらった夏の星座を思い出す。
どれがそれだっただろうかと思いながら夜空を眺めてみると、再び室外から柔らかな風が一陣部屋へと吹き込み、僕の髪を揺らした。
結局その思い浮かべた星座のどれをも見つけられなくて、僕はただじっと椅子に腰かけている。ほとんど無音の闇夜の向こうで、時折警備の者たちの交わすやりとりの声が聞こえてきたが、それ以外は本当に静かだ。
手元の卓には、ワインの入ったゴブレットが一つとワインボトルが一本だけ置かれていた。
とりあえず用意はしてみたけれど、一向に酒は進まない。
かすかに時計の針が規則正しく時を刻む音が耳に届いている。
椅子に腰かけながら、僕は夜の暗闇をじっと見つめる。
僕は目を閉じる。程よい疲れは感じていたが、眠気は一向に訪れなかった。
いつの間にか、キースのことを考えていた。
僕が取り上げた孤児院を取り巻く問題や、それにともなう法律の改正や、夏休み以降の彼の進路についてや、そういったとりとめもないことをつらつらと考えていた。
それなりに時間がかかって、打てる手は全て打った。
もう僕が彼にしてあげられることは何も無かった。




