37
数日馬車に揺られて僕はデミアンの実家から王宮へと戻ってきた。延べ七か月も取り組んでいた課題から解放されて、僕は目標を失い毎日をただぼんやりと過ごしている。
朝目が覚めて、カーテンを開ける。着替えをして朝食をとり、家庭教師の授業を受けて昼食をとり、午後は体を動かしたり、剣や魔法の訓練に勤しんだり、散歩をしたり、そうやって時間を過ごして、夜晩餐を取った後に、一人部屋に籠る。
部屋では、執務机に腰かけてこまごまとした先々のことを準備して、近々の予定を確認したり、明日の空いている時間の予定を組んだり、勉強の復習をしたり、あるいは何かしら考え事をしてそれから眠りにつく。
そんな風にして日々を過ごした。
全く集中できているとはいいがたく、作業は遅々として進まなかったが。
以前は、週に一度は会員制クラブに行って時間を潰したりもしていたけれど、今はもうしばらく顔をだしていない。なんとなく行く気にならなかった。
起伏のない毎日は、ぜんまい仕掛けのように一定の速さで過ぎて行った。
自分が求めるものを自分ではわかっているのに、それを見ないようにしていた。それでもふとしたときに、例えば朝目覚めて朝日を浴びたときや、昼に家庭教師の授業が終わった瞬間や、夜明かりの下で文字を追っているとき、そして眠りにつく前のシーツの中で、知らず彼のことを考えていた。
ただ、彼が幸せな夢をみていることを祈った。
そんな風に怠惰な日々が過ぎて行って、暦は着実に年末へと近づいていった。
人々が慌ただしくしているこの年の瀬のある日、僕は王都最大の教会へ馬車で向かっていた。
本格的な冬がここ王都に到来し、雪はとめどなく降り続け、久しぶりに王宮の外へ出てみると、いつのまにか街全体が真っ白に塗り替えられていた。全ての人と建物と生活と歴史と人の思いとを、全て雪はその下に覆い隠してしまっている。馬車の窓から見える普段とは全く違う風景に、新鮮な気持ちを覚えた。
今日は教会のミサに参加する予定だった。何か月も前に王家に届いていた招待状に、僕の名前で出席の返事をしていた。雪で遅れてしまうかもしれないとのことだったので、早めの昼食後、クリストフに手伝ってもらって僕は外出着に着替えると、開始時刻よりもかなり早い時刻に王宮を出た。
危惧した通り、馬車は遅々として進まなかった。解けかけた雪の上にさらに雪がつもり、それを馬車の車輪や人々の靴が踏みつぶし、またその上に雪がつもって、往来は随分と悪路になっている。車輪がとられてなかなか進めないようだった。
早く出たおかげで、僕は酷い揺れにに悩まされながらもなんとか時間ぴったりに教会へ入ると、待ち構えていた教会の者に王族用の観覧席へと案内された。揺れない座席にほっと一息ついて、そこで僕は静かに祭儀が始まるのを待った。
僕の居る二階席からは、詰めかけたたくさんの市民の姿が見え、会場は満員であることがわかる。僕は上の席からそういった人々の楽し気な様子を眺めた。
しばらくして司祭が入場する。初めに祈りがあった。僕は言われるがままに目を閉じて人々の安寧を祈った。
それから聖歌隊や市民の讃美歌を聴き、子供らの小さな劇を見た。
途中募金箱が僕の元へ流れてきたので、小切手に適当な金額を記入してそれに入れた。
二時間以上にわたる演目の一つ一つが滞りなく進んでいき、司祭の説教と共にこの日のミサは終了した。今年最後のミサは盛大にそして恙なく終わった。
終わりを知らせる挨拶とともに、人々は帰り支度を始める。そして三々五々連れ立って歩き、会場を後にしていく。人々の流れが、ゆるやかに会場内に生まれ、楽し気な笑いや満足そうな声があちらこちらから聞こえ、遠ざかっていく。家族や恋人や同僚や親せきやそういった人々が塊になって、教会から出て行く。
僕は急いでいなかったので、司祭に呼ばれた奥の部屋でお茶を飲み少しばかりの会話を楽しんだ後に、ゆっくり教会を出た。外に出ると、すぐに僕の正面に馬車が横付けされる。置かれた台を踏んで馬車に乗り込むとき、どこか離れた場所で騒ぎが起きたようだった。視線を向けた先ではなにやら人々が忙しくしている。官憲の怒声や市民のざわめきが僕の耳にも届いていた。年末なのに罰当たりなことだ、と誰かが言った。
王宮に到着して、僕はその足で図書館へ向かった。本当は自室へ直行するつもりだったのだけど、ふと足の向かう先を図書館へと変えた。
王立図書館へいくのは実に久しぶりのことだった。久しぶりに僕がそこへ行こうと思ったのは、帰りの道中にキースのことを思い出したからだ。
年末で翌日からしばらく王立図書館は閉鎖されてしまう。この機会を逃せばキースに会えないまま今年が終わってしまうと、突然気付いた。二学期の最後のほうは学園に行けなかったので、久しぶりにキースの顔を見たいと思った。いるかどうかはわからないのに行こうと思ったのは、いたらいいなと思う程度の、軽い気持ちからだ。
なんとなく勤勉なキースなら、いるんじゃないかと思った。
僕は浮かれていたのだと思う。一つ問題が解決して、だから会いたくなってしまった。
けれど図書館にキースはいなくて。閉館時間までまだ時間があった。僕はなんとなく閉館ぎりぎりまで閲覧席に座って待っていた。読むつもりのない本を無意味にめくったりとじたりしていた。時間は信じられないほどゆっくりと流れて行った。
日が落ちた窓の外は真っ暗で、黒い夜を切り取る窓に僕の姿が室内の灯を背に映し出されていた。閉館時間が来て、僕は仕方なく外にでた。辺りは暗闇に満ちていて、その中に街灯の灯がぽつぽつと灯っていた。頼りない光の中、白い雪はいまだにちらついていて、気温は寒く、僕はその冷気にぶるりと体を震わせた。
そして、帰途に就いた。
大晦日と元日は家族とともに過ごした。毎年の恒例だった。いつもと変わらない穏やかな時間だった。
それから新年の三日目には王宮の一角で一般参賀が執り行われた。王宮の庭園の一部が一般市民に開放され、集まった市民に向けて国王が新年のお祝いの言葉をかけるという行事だった。
僕も両親にならって東庭園に面する宮殿のバルコニーから手を振った。新年だからだろう、上から見た人々の顔はどれも晴れやかだった。
そんな風にして年末年始は過ぎて行った。
一月六日に久しぶりに僕は会員制クラブへと足を運んだ。数か月ぶりだった。
そこでは貴族の男たちが酒を飲んだり、ダーツやビリヤードやカードなんかをして時間を過ごす。あるいは社交界の噂話、競馬や狩猟などの娯楽、株や投資などの儲け話、国際情勢や国内の問題などの政治の話など、そういった種々雑多な事柄についてお喋りをしたりする、そういう男だけのクラブだった。
僕は知り合いに囲まれて適当な話をした。僕が壇上に立って話した議会の件は、ほとんど触れられなかった。僕も話したくはなかったので丁度良かった。
途中競馬の話を振られたが、生憎と馬の所有にはあまり興味がなかった。投資の話も僕は断った。
ただ、オペラの話は面白く、久しぶりだったために大いに盛り上がってしまい、予定よりも長居をしてしまった。
引き留められたのをなんとか断ってやっと締め切った空間から外へでると、冷たい空気が肺に入り込み、僕は身震いした。
なんとなく歩きたい気分だったので、帽子をかぶり、外套の襟を立ててマフラーを巻く。手袋を身に付けてステッキを持つ。上を見上げると小雪がちらついていたが大した勢いではないので傘は不要だった。
護衛を伴って僕は歩いた。風がないので歩くのに都合が良かった。暗くなり始める前の微妙な時間帯で、街の街頭がぽつぽつと灯り始めている。
目的もなく、安全のために広い通りを選びながらただ歩いた。
革靴が雪を踏みしめるぎしぎしという音が足元から響いてきている。
転ばないようにゆっくり慎重に歩いていると、滑らないように気を付けて歩く以外、他のことを考える余裕もなくなった。逆にそれが、考え事をしたくない僕には丁度よかった。
カインに言われたことや、デミアンに言われたことや、キースのことが頭の中でぐるぐるしていたから、しばらく頭をからっぽにしたかった。
右足、左足、右足と交互に足を出して進んでいく。なぜかそんな単純で当たり前のことが、ひどく面白かった。まるで自分の心がたった六歳の子供のように思われて、一人苦笑してしまった。あの少女たちのことをどうこう言えないなと思った。
雪道を長く歩いて、足先が冷たくなってきた。どこか丁度いい場所で、馬車を呼んで王宮へ帰ろうか。
気づくと、以前ミサで訪れた教会のある噴水広場に通じる通りにきていた。広場はもうすぐというところだった。寒さに辟易して、あそこで馬車を呼ぼうと思いたった僕はそのまま前へ進む。
まだ小雪はちらついていた。
ざくざくと軽快な音を立てて僕は進む。体の芯まで凍えそうで足は自然と速くなった。
視線の先に、大きな噴水が見えた。夏場は涼を求めた人でいっぱいになる噴水がそこにあった。ただし、今は水が止められたそれは、雪に覆われてもう見る影もないままに沈黙を守っている。
遮るもののない噴水広場は風の通りがよく、冬の寒さもあって通り過ぎて行く人ばかりだった。誰もかれもうつむいてただひたすらに足を動かして進む。立ち止まっている者などほとんどいない。
そのとき一陣の雪混じりの風が僕の視界を塞いで通り過ぎて行った。僕はとっさに目を閉じた。風の吹き抜ける音だけが聞こえている。
それからしばらくの後、やっと風が収まって、僕は閉じていた目を再び開いて伏せていた顔を上げると前を見た。
僕の視線のずっと先に、彼が居た。全く気付いていなかった。
息が止まる。
時が止まったような噴水広場の中央、そこの噴水の縁にキースが腰かけていた。
息をすることも忘れて、僕はただ彼を見つめているしかできなかった。
いや、そんなはずはない。僕の思い過ごしだ。だってまだこんなに離れているのだから、誰かなんてわかりようがない。
僕はそう自分に言い聞かせて歩くのを再開する。
まだ十分に遠く、人違いの可能性のほうが高かった。きっと人違いだろうと思った。けれど、心臓は大きく脈打っている。
人違いであってほしいような、キース本人であってほしいような、どちらともつかない思いが胸の中で鬩ぎ合っている。もし仮に本人だったとして、何を話したらいい?挨拶する場面を想像してみたが、そのあとに続く話が思い浮かばなかった。だったらいっそ別人であってほしいとさえ思った。話しかけずにそのまま気付かないふりをしてもいい。
一歩一歩、徐々に彼我の距離が近付いて行って、それにつれていよいよ自分を誤魔化せなくなる。
もうはっきりと、キース本人だと言えるくらいの距離まで来てしまった。
僕は広場の手前で足を止めた。
まぎれもない現実だということが分かる。見間違いなどではなかった。
僕は心が決まらなくて、その場で棒立ちになっていることしかできなかった。足を別の方へ向けようとして、しかし体は思うように動いてくれない。
僕の目はすっかり彼にくぎ付けになっていた。
僕の目にはもうはっきりとキースの姿が映っていた。噴水の縁に彼は腰かけて、動かずじっと前を見ている。特段背が高くも低くもないキース。けれど、そのすらりと伸びた手足と小さめの頭が、いつも標準的な体格の彼を実際以上に大きく見せていた。そして、彼はいつも堂々としていて、何憚ることなど自分にはないのだと言う様子で歩く。だから、実態以上に彼は大きく見えた。彼のすぐ近くに立つような時には、印象よりも小柄なことに驚かされたものだった。
なのに、どうしてだろう。今の僕の目には、彼がどうしようもないほど小さく映っていた。
頼りない、今にも風に吹かれてどこかへ行ってしまいそうな、そんな危うさがあった。
彼は僕が見ていることにも気づいていないようで、ただじっと前だけを見ていた。その姿が、あまりに異様な光景に僕の目に映った。その必死な様子に、僕は目が離せない。
鼓動が跳ねた。
感じたのは違和感。その違和感が何なのかを僕は考えた。
そして、気付いた。それは僕の妄想だと思う。けれど、なぜか真に迫る実感がこもっているような気がした。
僕は一歩を踏み出す。彼の方へ。
鼓動が早まる。不安が押し寄せる。
なぜなら、その姿が、僕には泣いているように見えたから。
突然、抑えきれぬ恐怖が僕の胸に去来した。
僕はもう一歩を踏み出す。ぐしゃりと雪が踏みつぶされる音がした。
彼が、今、一人で泣いているのだと思った。
僕はその理由が知りたくて、彼の視線を追いかけると、その目は教会を見つめていた。教会の尖塔に固定されていた。
その視線の意味はなんだろうと僕は思った。
祈り?
違う。
とっさに僕はそう否定していた。
彼の眼には何の感情も浮かんではいなかった。ただ静かに、教会を見ていた。
「キース!」
思わず僕は走り出す。それと同時に、彼に向って声を張り上げていた。僕の心に抑えきれない焦燥感がわいてきていた。恐怖が、焦りが、不安があった。
僕の声が届いているだろうに、けれど彼は僕の呼びかけに全く反応しなかった。
一人にしてはいけない。そう思った。
僕は急いで彼の元へと近寄る。足を何度か雪に取られそうになった。急ぎすぐ傍に立った僕に彼は気づかない。
僕は呼吸を整えながら、キースを見下ろしていた。彼の顔が真っ青なことが見て取れた。頭にも肩にも膝にも雪が積もっている。どれほどここにいたのだろうか……。
「キース……」
僕が再度その名前を呼ぶと、やっとキースは虚ろな目で僕を見上げて来た。
それはあの最後の瞬間を僕に思い起こさせた。
空洞のような目だった。僕を見ているようで見ていない。瞳に僕が映っているようで、何も映ってはいない。
「キース……ここで何をしているんだ?」
僕の白い吐息が空中に浮かんで消えて行く。
無言。
彼の腕に手をかけると、その体は冷え切っているようだった。僕は自分の存在に気付いてほしくて彼の両腕を掴んで体を揺すってみる。彼は抵抗するそぶりを全く見せず、僕の動きに合わせて上体を揺らしただけだった。彼に積もっていた雪が落ちた。
彼は沈黙を守っていた。
「このままでは風邪をひいてしまう。帰ろう」
無言。
「送るよ。僕と一緒に帰ろう」
身じろぎすらしない。
「何かここにいる理由があるのかい?僕に……」
言葉に詰まる。
「……僕に話してくれないか?」
僕の声は震えていた。
彼は僕の声が聞こえているのかいないのか、無言でそこにあり続けた。
「お願いだ。キース」
僕の願いもむなしく、彼は何も言わなかった。
それでも根気強く何度も彼の名を呼び続けていると、ふいにキースが小首を傾げるようにして小さく口を開いた。瞳が開かれた。僕を見た。繰り返しの声掛けにやっとキースが反応を返してくれた。
それは、今まさに僕の存在に気付いた、そういう反応だった。
しばらく呆けたように僕を見て、幾度か瞬きを繰り返して、そして彼の口が何事かを言うように動いたが、僕にはその声は聞こえなかった。
僕は手袋を外して、彼の血の気の引いた頬に手を当てる。氷のように冷たかった。
「こんなところで何をしているんだい?風邪をひいてしまうよ。さぁ、僕と一緒に帰ろう」
僕はできるだけゆっくりと、彼の反応を確認しながら話しかけた。そして、彼の冷え切った両手を僕の手で包み込む。
僕の体温が、彼に伝わるように、祈る気持ちで両手で握り込んだ。
彼は僕にされるがままにしていた。そして、しばらくして唐突にぽつりと言葉を落とした。それはとても小さな囁きだったけれど、はっきりと僕の耳に届いた。
彼は言った。
――自分のしようとしていることに、意味があるのかと考えていました。
キースが、夕闇が迫る広場で、一言そう言った。
再び一陣の風が吹いて、僕らを通り抜けていった。それは僕らの体を芯まで凍えさせるような冷たさだった。
辺りは夕闇に沈み始めている。空には厚い雲が広がって、その雲間からはらはらと真っ白な雪がわずかに降っている。
僕はただ寒さで青ざめているキースの顔をじっと見つめていた。
泣いていると思った。
実際には全くそんなことはなかったけれど、僕にはどうしてか、噴水に腰かけている彼が泣いているように見えた。
このままにしてはおけない。
咄嗟に強くそう思った僕は、護衛に馬車を呼ぶよう叫んだ。すぐに彼らは動き出す。馬車を手配するまでの間、僕はずっと彼の傍にいた。僕の帽子やマフラーや外套を彼に着せて、これ以上冷えないようにした。額に手を当てると熱があるのが分かった。
少し経ってからどこか近くに控えていただろう馬車が僕らのすぐ近くに横づけされる。
一言しゃべったきり無言になってしまった彼の手を僕は引っ張ってみたが、彼は自身の意志で立ち上がるそぶりを見せなかった。僕がそのまま強引に彼の体を抱えあげると、抵抗もせず僕の腕の中に納まる。その体は随分と軽かった。
僕はそのまま彼を抱いて馬車まで運ぶと、王宮まで走るよう命令した。
座席の上でキースは、荒い呼吸を繰り返している。馬車が走り出してすぐに気を失ったようで、ぐったりとして彼は動かなかった。




