29
15話で折り返し地点と言ったな。あれは嘘だ。
予定よりも話が伸びに伸びてここが折り返し地点です。
真っ暗だった。鉄格子の向こうでぼんやりと明かりが灯っている。その光は俺のもとには届いていない。
俺は足に鎖を繋がれて、じっと固い石畳の上に座っていた。
二月の地下牢はとても冷たかった。
入れ替えられることのない淀んだ空気は、過去の犯罪者たちの怨嗟と後悔と悲しみと絶望とを孕み、それが俺の呼吸と共に体に入っていく、そんな気がした。
ただのくだらない妄想だ。
ここに入れられて何日が過ぎたのだろうか。
皮が破れ血が出ていた拳は、今はすっかりかさぶたに覆われている。じんじんと鈍い痛みがある。それは、俺の後悔と同じ周波数で痛みを伝えている。
痛いということは、生きているということ。
なんで俺は生きているんだろうか。
そう思った。
怒りが、まだ俺の心にくすぶっている。
夢をみた。夜に見る夢ではない。
それは、幸せな夢だった。
孤児院のみんなが楽しそうに笑って、院長先生が嬉し気に微笑んで、そうしてずっと穏やかな時間が流れて行く。俺が、みんなを守っていく。
そんな夢だった。
夢は結局のところ、夢でしかなかった。
夢をみた。昼間起きてみる夢だ。
アルベルトがいた。
彼は澄んだ青い瞳で、金色の髪を風になびかせて、無邪気に笑っている。俺はその横に立っている。
そんな夢だった。
愚にもつかない、下らない妄想だ。
冷たい壁に背を預ける。ごつんと俺の後頭部が硬い石壁にぶつかって音をたてた。
雪が降っている。
俺の心の奥底に、悲しみとやるせなさと諦めと絶望とがない交ぜになった雪が降る。もう、ずっと振り続けている。止むことはない。
雪解けの予感は、無い。
そういうものだ。
ずっとそうだった。きっとこれからもそうなんだろう。
そんな予感がしていた。
光を掴んだと思った。
孤児院を出て、学園に入ったときに。夢破れて辺境へ流れ着いて、そして、大きなことをなしたときに。
けれど、俺は今ここにいる。
あの愚かな男のために、俺はここにいる。
殺しきれなかった。とどめを刺す前に止められてしまった。
拳がじわりと痛んだ。
あの日、俺が町に到着したとき、孤児院の中はひっそりと暗闇に沈んでいて、中には誰もいなかった。
あの暗闇が、俺の頭にこびりついて離れない。
そして、静寂があった。俺の呼びかけに答える者はいない。
俺は狼狽えた。何が起きたのか。子供たちはどこへ行ったのか。先生は?最悪の事態を想定した。そして、焦る気持ちのまま孤児院のぼろ屋の中を探し回ったが、やはり誰もいなかった。それから、慌てて周囲の家々を回って話を聞いて、すぐにわかった。
先生は、死んでしまっていた。風邪をこじらせて。近くの墓地に埋葬されたという。
そして、その地を治める伯爵が来て、子供らをどこかへ連れ去ったと聞いた。
俺は貴族の屋敷へ走った。
やってきた俺に向かってあいつは言った。子供らは売り払ったと。
その時の絶望と怒りを、俺は表現する言葉を持たない。どれほど悲しかっただろうか。どれほど心細かっただろうか。どれほど、恐ろしかっただろうか。頼るもののない子らの、寄る辺ない気持ちを思うと、胸が張り裂けそうだった。
気づくと俺は力の限りそいつを殴りつけていた。辺りは血の海になっていた。
俺の手からも血が出ていた。
けれど痛みはなかった。ただ、怒りとやるせなさだけがあった。
そして、俺は地下牢に入れられた。
後は刑の執行を待つだけだった。
もう希望などはありはしなかった。
あぁ。俺の人生なんて、そんなものだった。くだらない人生だった。
なのに、今こうして鎖に繋がれてただ暗闇の中じっとしていると、思い出したくもない過去が思い出される。思い出が、次から次へと俺の脳裏に翻る。
思い出は眠っていてはくれない。
嫌なことも、楽しいこともあった。俺の人生、嫌なことの方が断然多かったのに、今こうして思い返してみると、楽しかったことばかりが思い出される。
不思議だ。何故だろう。
寒い。
凍えるように寒い。
吐く息が白い。
きっと外は雪がふっているだろう。ありありと思い浮かべることができる。
全く、嫌になる。
あぁ、先生。
俺を許して欲しい。俺がのうのうと寝こけていた三か月の間に、こんなことになっていたなんて思いもよらなかった。
早くに知らせてくれたら良かったのに……。そうしたら、俺はきっと全てを投げうって、駆け付けたのに。
そこまで考えて、でも、という俺の声が頭に響いた。
マーカス、ジャン……。
俺はどっちを選んだだろうか。もし、知っていて、未来を知っていて、そうしたら、どっちを助けることを選んだだろうか。
過去を変えられるとして、どっちを助けようと思っただろうか。
思考は毎回堂々巡りをする。いつもここで袋小路に入り込む。
悲しみの雪が、心の奥に降り積もる。
どれほど、こうしてここにいるのか、もう分からなくなっていた。
目覚めている間中、ずっと意味のないことばかりを考えていた。
死んでしまいたかった。
そんな時、いつもの衛兵とは別の足音が聞こえて来た。あいつらはがちゃがちゃと煩い鎧の音を響かせてやってくるからすぐに分かる。
それとは違う足音が、二人分。
俺は、灯る小さな明かりの向こう、暗闇の中にある階段から、誰が来るのかと、俯けていた顔を持ち上げて待った。
見ていると、階段を下り切り、狭い通路を通って俺の独房の前まで人がやってきた。質の良い服に身を包んだ男が二人。
デミアンと、アルベルトだった。
「ここまででいい。後は私たち二人で、彼と話がある。お前は上に戻っていろ」
デミアンがそう言った。
その言葉に渋る衛兵は二人の身の安全のことを慮ってのことだったのだろうが、しかし、苛立ちを含んだデミアンの視線に、とうとう彼は折れてその場から立ち去っていった。
二人が、変わり果てた姿になっているであろう俺を見下ろしている。彼らの表情は逆光の為にうかがい知ることはできなかった。
それでいい。二人の顔を見たくなかった。二人に会いたくはなかった。
彼らがじっと俺を見ているのがわかる。
奇妙な沈黙があった。しばらく、誰も口を開かなかった。
そして。
「キース……」
王子が俺の名を呼んだ。
「キース」
返事をしない俺に、もう一度アルベルトが俺の名を呼んだ。
俺は聞こえていることを知らせるために、わずかに視線を動かして二人の顔を交互に見た。表情はやはり見えない。
「どうして……」
彼の言葉はそこで途切れた。
どうして?
それは俺が聞きたかった。どうして、孤児院を……。あいつは……。
「どうして、あんなことをしてしまったんだ、キース」
アルベルトが言った。
「君がけがを負わせたドラム伯爵は助かったよ」
「そうか。死んでいれば良かったのに」
「なんてことを言うんだ!死ななかったから良かった。極刑を減刑してもらうよう頼むことができる」
「いらないよ」
俺の言葉は冷たく響いた。
「そんなことは、しなくていい」
「馬鹿なことを言うな。彼の為したことはこちらでも調査している。調査結果が出そろい次第、告発する。だから……」
「あぁ、ありがとう。そうしたら、売られていった子供らを探してやって欲しい。きっと辛い思いをしているだろうから」
「あぁ、分かっている」
「ありがとう」
俺はそれだけを言った。良かった。
「キース」
彼が再び俺の名を呼んだ。もう俺に話すことはなかった。
「キース、僕を見るんだ」
震える声で、彼が言った。
「お願いだ」
俺は、ぼんやりとアルベルトの顔を見上げた。
「お願いだ、キース。諦めないでくれ。生きることを諦めないでくれ」
俺の目を見ながら彼が言った。
「僕らが何とかして見せる。君が助かるよう手を尽くすから。君が助かる未来はあるはずだ。その可能性が!」
そう、彼が言った。
未来?
俺はその言葉を自分の中で繰り返す。
なんだか、他人事のような、自分に関係のない言葉のように思えた。
「未来?」
「そうだ!キース!君には未来があるだろう!?」
アルベルトが俺の言葉に反応して言葉を重ねる。空虚な言葉を。
俺は顔を上げた。そして、あっという間にあらゆる感情が一気に吹き上がって、爆発した。
気付くと俺は怒鳴っていた。
「俺は!最初から!最初から未来など信じてはいない!一度たりとも!」
二人が息をのむ気配が伝わってくる。
「売られてしまった子供らの未来はどうなるんだ……」
あぁ、怒りが俺の心を満たしていく。悲しみが心の奥に降り積もる。
「俺のことなんて、俺はどうでも良かった!どうせ幸せになど、なれはしないのだから」
叫び声が地下牢にこだまする。久しぶりに発した声は、ひどくざらついていて、耳障りな響きを持っていた。
「俺は助けたかった。俺が感じてきた孤独や苦しみや嫉妬や切なさややるせなさや空腹や痛みや絶望から、子供たちを救いたかった。彼らが、俺と同じ気持ちになることのないよう、この苦しみが俺を最後に終わるよう、それだけを願って今日までやってきた。なのに!」
怒号を止められない。
アルベルトの言葉も、もう俺の心には響かない。
「それをあいつは破壊してしまった!永遠に!」
涙が零れた。
「どうしてそんな酷いことができるんだ?どうして?」
どうして。
どうして。
どうして。
どうして!
「俺の努力は、全部無駄だったというのか!」
俺は喉を枯らして叫んだ。涙がとめどなくあふれていく。
「社会福祉局への入局も邪魔された!今、俺のよりどころである孤児院を救うという俺の夢もまた邪魔された!どうして!どうして!どうして!」
口から飛び出した怨嗟の言葉が止まらない。
「俺は何も!何も!何も為せない!どんなに努力を重ねても!何を投げうっても!」
吐く息が白い。
「キース……」
アルベルトが困惑の声をあげる。
そして、その場を沈黙が支配した。
誰も口を開かない。
そんなとき。
「キース、やめるんだ。それ以上はいけない」
突然デミアンが口を開いた。
俺はもう何も言えなかった。ただ、心の奥底で荒れ狂う俺自身の気持ちに翻弄されていた。自分でも抑えきれない、悲しみや怒りの感情だけがあった。
俺は、叫び疲れてぼんやりと二人を見上げていた。
二人がそわそわとしだした。
「キース、聞け!その魔力を止めるんだ!」
デミアンが叫んだが、俺には何を言っているのか理解できなかった。
「その魔力を止めろ!放出を、止めるんだ!」
焦る二人に、俺はふと周囲を見回してみた。
きらきらと、光を受けて輝くものが、ほんの小さな光のかけらがあちこちに浮かんでいるのが見えた。
何だろうと思ってみてみると、それは氷の結晶だった。
それは薄暗い牢獄の中にあって、ひどく幻想的な光景だった。
光を受けて、きらきらと。
その瞬間、牢内に風が吹き荒れた。氷雪を含んだ風が。
それは荒れ狂い、あっというまに壁や床を氷漬けにしていった。
「キース!」
アルベルトが叫んでいる。
俺はぼんやりと頭を巡らせて、その風の発生元を探してみた。それは自分だった。
俺を中心にして、風が吹き荒れている。
アルベルトが、必死の形相で鉄格子の隙間から手を差し出して来た。俺の方に。
「僕の手を掴むんだ」
彼がそう言った。
「魔力が……」
俺はなんとなく自分の手を前に伸ばした。
俺は壁に背を預けるようにして座っていたから、伸ばしてもアルベルトに届くはずはない。
ただ、言われたままに伸ばしただけだった。数日ろくに食べていない俺には腕を持ち上げるのも億劫だった。
そして、俺は気づいた。伸ばした右手は、白く凍り付いていた。左手も、同様だった。
二人が、それをみて目を見張る。
俺は、ただ自分の手と二人の顔を見ていた。
衛兵が慌ただしく階段を駆け下りてくる。魔法を感知したか、二人の叫びが聞こえたかしたのだろう。
「アルベルト」
俺はかろうじて彼の名を呼んだ。
見ている間に、俺の手は砕け散っていく。
手だけではない。足も。
視界に奇妙なひび割れが入った。ぶつけたガラスにいびつな線が入るように。
アルベルトが絶叫する。
俺の耳に、ひどくぼんやりとその声が届いた。
俺はもうどうでもよくなっていた。
体が軽い。
寒さの中、俺は知らず口に出していた。いつかの言葉。
「氷の女王。氷雪の主。死の導き手」
俺はうわごとのようにつぶやく。それは祈りの言葉。
「どうか、優しい夢を。雪解けの予感を、春の訪れを……信じさせて」
ごとり、という音とともに、俺の意識はそこで途切れた。




