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28、29話の二話更新です。
翌日、前日よりは早い時間に目覚めた。アルベルトが自らを厳しく律してくれたらしい。ありがたいことだ。ドラケンヴァルトに帰るまでもってくれよ、俺の体!
さて、隣で寝ている男に声をかけると、今日は素直に起きてくれたアルベルトが部屋のカーテンを開けた。
まだ二月。一年で最も寒い季節で、窓の外には雪が積もっているけれど、昨日と打って変わって今日の天気は晴れ。眩しい日差しが部屋に差し込んで、部屋にこもる夜の気配を和らげてくれた。
日差しを背にしたアルベルトが俺の方を向いた。今日はどうしようかと思ってベッドの上でぼんやりしていると、彼が何やら至極満足気に俺を見ていることに気付いた。
「何?」
「いや。何もないよ」
俺は彼の視線に何か察するものがあったので、彼にそれを問うたけれど、アルベルトは含み笑いをしながら知らぬ素振りを決め込んだようだった。
「シャワーを浴びよう。一緒にどう?」
「一人で大丈夫」
俺はにべもなくその提案を退けて、昨夜脱いだ下着を探す。それは丁度ベッドの陰になるところに落ちていた。
俺は腰を折って屈む。そして拾おうと手を伸ばして気付いた。腕に赤い花びらのような跡が無数についていた。そのことにぎょっとしてしまって、動きが一瞬止まる。これはなんだろうと、俺はまじまじと自分の右腕を見て、それから左腕もみると、やはりたくさん赤い痕がついている。
「なっ……え?」
俺は慌てて腕以外の部分も見る。胸や太腿や腹にもついている!この調子だと背中や首筋にもあるかもしれない。
体を捻ってあちこち確認しているとアルベルトの小さく笑う声が聞こえた。ヤツの仕業だと遅れて気付いた。俺がすぐにしでかした張本人であろうアルベルトのほうを振り向くと、彼のニヤニヤ顔が目に入った。
「なんだよこれ!」
「キスマークだよ。知らない?」
「知るか」
まじまじとキスマークというやつを確認する俺に、アルベルトが言葉を続ける。
「大丈夫。すぐに消えるよ」
「何の意味があるんだよ……」
ぶつぶつと文句を言う俺にアルベルトは何かを言おうとして、しかし何も言わないままその口を閉じた。
そんなやりとりをしているタイミングで、クリストフが起きている俺たちに気付いて扉をノックした。
「入ってくれ」
馬鹿アルベルトがまだお互いに全裸だというのに、従僕を部屋に招き入れやがった!
さすがの有能な彼でも、扉を開けた直後面食らったような顔をして一瞬固まってしまっていた。しかしすぐに我に返ると、いつもの穏やかな笑顔に戻って、何もないかのように朝の挨拶をしてきた。
どうすんだよこの空気。
フルチン男が二人部屋にいて、その内自分の主が寝起きに騒いでいる状況は厳しいものがある。しかし、有能なクリストフは、見事にそれを切り抜けた。
「まだお時間に余裕はございますが、そろそろお支度をなさいませんと、お昼の回に遅れてしまう可能性がございます」
「分かった。すぐに準備しよう。その前にシャワーを浴びたい」
「はい。万端整っております」
「キース。行こう。時間がないそうだ」
「時間?」
何のことだろう。
「これから一緒にオペラを見に行かないか」
「オペラ……?」
「嫌かい?」
「いや、嫌ではないけど」
「僕が好きな演目が少し前から始まっていてね。まだ観に行けていなかったんだ。すごくいいものだから、君にも是非見せたいと思って勝手に予約をしてしまったんだ。ダメだったかな……?」
アルベルトがこちらを窺うような顔をしている。その顔に俺は弱いんだ……。
「そんなことないよ。オペラは初めてだから、楽しみだ。誘ってくれてありがとう」
「よかった」
ほっとしたような顔。
それからさっと長い脚で俺の横まで来ると背中に手を回して、俺の額にキスをしてきた。
一瞬の出来事に驚いて声もない。
いや、この男は本当にすごいよな……。こんなことをこんなにも自然にやれるものなのか。
変なところで感心している俺に服を着させたアルベルトが、うきうきな様子でシャワーに連れて行く。
「あれ、でも仕事とかはないのか?」
「問題ない」
「そっか。王子って忙しいんだろ?無理はしないでくれよ」
「大丈夫だ」
そんな会話をしながら通路を進む。別のことに気を取られていた俺はアルベルトの策に気付かないまま浴室に誘導されてしまっていた。俺はそこでアルベルトに服を脱がされているときにそのことに気付いたが、後の祭りで、一緒にシャワーを浴びるはめになった。
ぎゃーぎゃー騒ぎながら二人して汗を流して、部屋に戻ると昼食を食べた。
それから新しい軍服に着替えて、アルベルトと一緒に王宮の外へと繰り出した。お忍びと言うこともあり、昨日俺が乗ったのと同じく、一番地味に見える馬車に乗せられた。
浴室でのあれこれがあったけれど、劇場には余裕をもって到着した。支配人が俺たちを王族専用のボックス席に案内してくれて、二人並んで席に座る。
本当にアルベルトはオペラが好きなようで、馬車の中で、そしてボックス席について幕が上がるまでの時間、芸術に疎い俺のためにオペラの楽しみ方を丁寧に伝授してくれた。俺はありがたく彼の説明に耳を傾けた。
一生懸命話す彼の言葉が耳に心地よかった。
アルベルトの好きな歌手を何人も教えてもらった。その内の二人がこの劇で主役を張っているのだと楽しそうに話す彼の顔を見ていると、あの時に帰ったような気がして、なんだか温かい気持ちになった。
幕が上がり、ついにオペラ劇が始まった。
荘厳な音楽、素晴らしい歌声、迫力ある演出、重厚な脚本。どれをとっても一級品の出来なのだと素人の俺にも分かる。
ストーリー自体はいたってシンプルな王道の恋愛ものだった。何も持たないが情熱だけは人一倍に持ち合わせた男がある女を心から愛し、結婚を願った。しかし女は家の都合で遠くへ行かねばならなくなる。彼女には家の決定に逆らう力はなかった。貧しかった男は女との再会を約束し、時間をかけて資金を貯めると、女を探して旅にでる。そして、さまざまな困難やたくさんの人との出会いを通じて成長し、最後には女性を見つけ出し結ばれるという話だった。
シンプルであるがゆえに、そのテーマははっきりと伝わってくる。
それは、どんな困難にも負けず、未来を信じて進み続ける男の心の強さと女への愛情の深さだ。
さらには随所で歌われる登場人物の気持ちを克明に表した歌が素晴らしかった。その歌は直接的な歌詞ではあったが、歌い手の力量の高さが聴衆を圧倒した。時に情熱的に、時に切なく、時に激しく響き、さらにそれを支える素晴らしい演奏に後押しされて、聞いている俺の胸にこみ上げてくるものがあった。
幕が下りると、拍手喝采はなかなか鳴りやまなかった。
「オペラがこんなにも素晴らしいものだとは知らなかった。今日見られて本当に良かった……」
俺は帰り際にアルベルトに伝えた。
「うん。僕もこの演目は大好きで、上演の度に一度は見にくるんだ。君が気に入ってくれて僕は嬉しい」
「本当にすごかった。ありがとう、アルベルト」
俺たちは深い感動と満足感とに満たされて、帰路についた。
その夜、俺たちは一悶着あった。夕飯を外で食べて、アルベルトの部屋に戻ってきた後のことだ。寝る前に風呂にはいったりして、連日のように二人で酒を飲んでいるときだった。
事の発端は俺の発言。
俺はアルベルトに、明日ここを出て行くと伝えた。孤児院へ一度顔を出したいと正直に伝えた。俺はもうずっと院長先生に顔を見せていないし、入院中送金もできていなかったことから、どうしても行きたかった。ドラケンヴァルトへ戻る前に一度立ち寄るのが俺の本来の予定だった。
先生には入院する旨の手紙と、退院したことを知らせる手紙を書いていた。きっと心配しているだろう。
それに孤児院の子供たちの様子も久しぶりに見ておきたかった。こういう機会が無ければ、顔を見せることはできなかったから。
そして、俺には今金がある。この金で先生を助けたい。
しかし、俺はずっとこのことを彼に言い出すことができず、とうとう夜になってしまっていた。
俺の言葉に、アルベルトは動揺していた。
「ドラケンヴァルトに戻る前にどうしても一度俺のお世話になった孤児院にも顔をだしておきたいんだ。次、いつ顔を出すことができるか分からないから」
俺はアルベルトに同じことを繰り返し言って聞かせた。
「でも、急いで向こうへ戻る必要はないだろう?もうしばらくここに居ても」
「先生の所へ行ってから辺境へ戻るので俺の休暇はぎりぎりなんだ」
「でも、そんな。僕はもっと君といたい」
それは拒絶しがたい誘惑だった。
彼の言葉と表情に絆されそうになったけれど、俺はわかったといってしまいそうな弱い自分を押し隠す。
「そう言ってもらえるのは本当に嬉しいんだ。でも、できない」
「たった二日だ……オペラ以外にも君とでかけるつもりだったんだ」
「……また次に会えたら一緒に」
「次はいつ会える?」
「……分からない」
その場しのぎの言葉が口から出かかったけれど、なんとか堪えた。
「辺境軍を辞めてこっちに来ないか?」
「いつかは、辞めることもあるだろうけれど……」
「君さえよければ、ここにずっと居てもいいんだ。一年でも二年でも。ずっとでもいい」
「ありがとう。でもそれは今じゃない。俺には部下もいて、彼らを育てるっていう義務がある。そんな無責任なことはできない。それに」
俺は一呼吸置く。
「そんなことにはならない。だろう?」
俺はアルベルトの目を見て行った。彼の目が見開かれる。
「今はまだ婚約者がいないって聞いてる。王子なのにって。今は良い。でもお前はいつか――」
「わかった」
俺の言葉を遮るようにしてアルベルトが硬質な響きの声を出した。傍に控えていたクリストフが目を丸くしている。
思いのほか冷たい声をだしてしまったことに自分で驚いているのだろう。アルベルトが目を見開いて沈黙した。
「悪かった、済まない。無茶を言ったりして」
アルベルトが言った。
彼は無言でこっちを見ている。思いつめたような目をしている。俺は言葉に迷った。彼だってそれが無理なのは分かっている。
「わかるよ。君が言いたいことは分かる。でも、言葉にしないでくれ」
そうアルベルトが言った。
俺はその時、頭の中で様々のことを考えていた。
でも思ったことは結局一言も言えなかった。彼の顔をみたら、言えなかった。だから、自分でも卑怯だとは思ったけれど、結局その場しのぎの案を口に出してしまっていた。
「アルベルト。今思い出したんだけど、昨日実は俺の上司から、休暇を少し伸ばしても良いって言われていたんだ。だから、孤児院で用事を済ませたら、一度ここへ戻るよ。それでいいか?」
アルベルトがほっとしたように一つ頷いた。
その晩、俺たちは初めて静かに眠った。俺はなかなか寝付けなかった。というのも、ずっと考えていたからだ。俺の責任について。
俺がさっき言おうとしたのは、一昨日の夜聞きそびれたことだった。聞こうと思って、その時結局聞けなかった。
――でもお前はいつか、王子として結婚しなきゃいけないだろう?
俺はその質問を避けてしまった。酒に逃げてしまった。だからこんなことになった。
アルベルトは一切悪くない。悪いのは全て俺の方だった。
翌朝、アルベルトが見送ってくれた。馬車を出そうかと言われたけれどそれは断った。別れの際、必ず一度戻ることを約束させられて、俺は朝早くに王宮を出た。
「戻ったら、君に話したいことがあるんだ」
彼がそう言った。
俺はわかったと答えた。
馬車で三日、徒歩で一日かけて俺は孤児院のある町へ戻った。
俺はアルベルトのことを引き摺っていたけれど、四日もたつと気持ちが随分落ち着いた。
今はただ、懐かしい先生の顔を見られることを考えていた。やっと会えるんだと思うと、逸る気持ちを抑えるので精いっぱいだった。足取りは軽い。懐は温かい。
きっと先生は喜んでくれるだろう。子供らも喜ぶはずだ。俺は、俺が来たことに喜ぶみんなの顔を思い浮かべた。
俺は懐かしい町へ入ると、目抜き通りをまっすぐに進んだ。見飽きた寂れた嫌な町だったけれど、今日はそんなことも気にならなかった。
一番大きな通りを進んでいくと懐かしい教会の鍾塔といくつかの尖塔が見えてきた。
俺はでこぼこ道に足を取られないように気をつけながら、懐かしい俺の家を目指した。
もう懐かしい孤児院は目の前だった。
先生に、これからのことを相談しようと思った。




