25
はじめて足を踏み入れた宮殿はあまりに大きく広く絢爛だった。全くの別世界に迷い込んだのかと思った。豪華なシャンデリアが煌々と灯り、屋内を明るく照らし出している。この建物の中には影がないのかと言いたくなるほど、たくさんの灯が灯され、よく磨かれた床が光を反射している。
貧乏人の俺からは全く価値の計り知れない絵画や壺や柱や彫刻があちこちに飾られている。俺は絶対にあれらには近づかないぞと心に決めた。
お上りさんよろしくきょろきょろする俺に一緒に参加するマティウス中隊長がここまで同行してくれていた。俺は彼の後を進みながらこれ以上馬鹿な顔をさらさないよう、驚きと困惑を内心に押し込めて、いたって平常心を心掛けた。デミアンに言われた一言を思い出していた。俺はもう大人なのだ。同じ轍は踏まない。
さらに、奥へ奥へと俺とマティウスは案内に連れられて進む。靴底から響く高い音が一歩足を踏み出すごとに響き渡り、俺の存在を嫌が応でも強調する。くそ。新品の靴と大理石の床は相性が良すぎるようだ。できるだけ音を立てないように歩きたいという無駄な願望を抱えながら、俺は取り澄ました顔で進まねばならなかった。
なぜなら、周りにいるのはほとんどが貴族位を持つ者かそれに連なるもので、ただの平民の参加者は今この場におそらくは俺しかいないだろうから。
彼らは何事かをひそひそと話をしながら、こっそり俺を見ているような気がした。みんなが俺を見ているような気がした。そんなはずはないのだが、こういう場に慣れていない俺には周囲の様子が気になって気になって仕方がない。
横目に見る貴族たちの華やかな装いは素晴らしく、普段から着慣れている者特有の雰囲気があった。それに比べて俺はきっと浮いてしまっているだろう。
今日俺は本当は支給された普通の軍服で出るつもりだったが、それでは格式に合っていないとして、新たに第一礼装の軍服を支給された。一週間ほど前のことだ。
俺の入院中に採寸は確かにされたが、それは俺の新しい普通の軍服を誂えてくれるからだと思っていた。実際軍服は礼装でもある。だから俺も新しい制服にちょっとした飾りをつけて今日の式典と夜会に参加するものと思っていた。
普通の軍服にサッシュや飾緒や肩章をつけているガスやヴィオラなどは見かけたことがあったが、彼らが第一礼装を身に纏う姿は一度も見たことはなかった。
なのに今マティウス隊長とお揃いの格好をしている。俺が彼と同じ格好をしているのが、彼に対してなんだか申し訳ないような気がした。
俺は鏡に映った自分を思い出す。雪のように真っ白な布地に瀟洒な飾りが縫い付けられ、立て襟まで金糸で刺繍が入れられた豪華な品だった。いったいいくらするのかと俺はそれを初めて見たとき恐れおののいた。
表地裏地どちらも手触りがよく、特に裏地は絹でできていた。そのことに気付いた俺が届けてくれたガスを窺うように見ると、お前にも絹が分かるのか、と彼は少し驚いていた。
曖昧に頷きながら、その高級な礼装を手に持ったまま途方に暮れている俺がよほど面白かったのだろう。ガスが俺の顔を指さして笑った。
持ってきた彼に促されるままにそれを試着すると、採寸してきちんと縫製されたそれは俺の体にぴったりと合っていた。そして、馬子にも衣装だなと彼に揶揄われた。
そして、とうとう式典の今日。真新しい衣装を身にまとい俺は会場へ続く回廊を進む。宮殿はあまりに広すぎる。入口を入ってすぐの広いところで式典をやればいいじゃないかと思った。
奥へ奥へと進んでいくにつれ、人の数が増えて行く。男も女も若者も老人も、貴族という貴族が集まっているのではないかと思われた。緊張がやばい。冷汗が止まらない。
途中でバートラム隊長と出くわした。彼もこの式典に参加するらしい。マティウスは知り合いだったようでお互いに気軽に会話を交わしている。
それからバートラムが俺に声を掛ける。彼は相変わらずあまり顔に表情を出さない。
近況や体調、あの後の処理など、全く式典に関係のない話題について話し合いながら、俺たちは三人揃って目的の場所に到着した。
控室で待つこと一時間。
やっと始まるようだった。俺たちは誘導に従って会場入りする。
目も眩むほど輝かしい会場には、豪華絢爛の衣装を身にまとった沢山の貴族がいた。
俺たちをちらちら見ている人がかなりいたのに気付いたが、俺はできるだけ目を合わせないよう、じっと前だけを見ていた。
それから、王族が入場してきた。
先頭から国王、王妃、アルベルトに第二王子のセオドアだ。
アルベルトは両親のいいとこどりという感じなのだろう。どちらにもよく似ていた。特に王妃陛下に似ているだろうか。青い目は国王から、金の髪は王妃から受け継いでいる。弟のセオドアは父親によく似ていた。そっくりと言ってもいい。もうそろそろ学園を卒業する年なのではないだろうか。
その後、式典は滞りなく進み、国王陛下の挨拶の後、とうとう褒章の授与になった。
緊張が高まる。
辺境の非常事態にあって、その守りに貢献した辺境軍全体へのお褒めの言葉があり、特に活躍した討伐隊と俺の所属する部隊の大隊長とマティウス中隊長が呼ばれる。隣にいたバートラムが前へ進み出てお言葉と目録を賜っている。次いでマティウス中隊長が進み出る。
色々の人物が呼ばれた後、最後に俺の名が呼ばれた。
俺は緊張しながら前へ進み出た。ほぼ全ての人間の視線が俺に注がれているのが分かる。粗相のないように、ただそれだけを考えていた。緊張しすぎて、国王がなにごとかの言葉を俺に賜ったが、よく覚えていない。ついでに何かすごい金額がもらえるらしいことは理解した。俺はただ、はい、ありがとうございますと答えただけだった。
その間もアルベルトがじっと俺を見ていることに気づいていた。
そのことが俺をますます緊張させた。
そして、俺は貴族たちの万雷の拍手に包まれながら、国王陛下の御前より離れた。
式典は恙なく進み、閉会の挨拶が国王よりなされ、やっと長かった式が終わった。
そして、夜会が始まる。
会場は先ほど通り過ぎた大広間へと移った。
再び、国王一家が衣装を変えて登場し、各々の席について和やかな歓談が始まる。たくさんの貴族がご機嫌伺いのために列をなしている。
マティウスやバートラムたちは知り合いへの挨拶があると言って去っていった。夜会の終わり頃に迎えに来てくれると約束してもらえて、俺はほっとする。
俺はそれを後目にテーブルに並べられた食事を食べるために移動する。緊張から解放されて俺は空腹だった。
給仕に料理を盛ってもらい、ワインを飲もうと思ったが、白い礼服にシミが着いてはいけないと考え直して、白ワインを受け取った。
ただ、やはり粗相をしてはいけないという気持ちが強く、あまり食べられなかった。俺は手持ち無沙汰の中、周囲にいる人を観察して時間を潰すことにした。
そうしていると、次から次へと王立軍のお偉方が俺のところにやってきた。佐官クラスどころか将官クラスの大物もやってきて、俺を労った。会話自体は一言二言だったが、俺には一生分の神経をすり減らすに十分な時間だった。辺境伯から褒章を頂いたときにも辺境軍の佐官クラスや将官クラスの人たちと会話をしたが、どうあっても慣れることなど出来そうになかった。
そういう雲の上の人たちからお声がけいただいた後で、今度は全く知らない男たちが幾人か別々にやって来て俺に声をかけてきた。彼らは一方ならぬ称賛の言葉を矢継ぎ早に俺に投げかけてきた。何が言いたいのだろうと思っているとやっと本題を話し始めた。要は俺が手に入れた金を投資に回さないかという話らしかった。
俺は金の使い道はもう決めていたので、彼らの誰も相手にはしなかった。ただ、有名になったり地位が上がったりすると、こういう輩が集まりやすくなるんだなと思った。
それから、人に声をかけられることに辟易して、俺は会場の隅の方、壁を背にして立ち、残りの時間を目立たぬように過ごした。
それからしばらくして、人が居なくなったテーブルを見て、俺が何か食おうかと考えていた時に、懐かしい人物が俺のところへやって来た。
宴も終盤といった頃合いだった。三々五々人が捌け始めていた。
足音のする方に俺が顔を向けると、視線の先に立っていたのはデミアンだった。
彼も彼で、アルベルトと同じように昔よりも大人らしくなっていた。表情の作り方や立ち居振る舞い、纏う雰囲気などが立派な紳士のそれだった。
「キース」
彼は昔のように俺に声を掛けてきた。
「お久しぶりです。デミアン卿」
俺は頭を下げる。
「キース。私はお前に言ったはずだ。敬語は不要だと。忘れたか?」
デミアンは以前と変わっていなかった。温かい気持ちが胸に広がるのを感じた。
「覚えています。改めて、久しぶりだな、デミアン」
デミアンがほっとしたように笑み崩れた。
「ところでこんなところで何をしている。今夜の主役が一人でこんなところで油を売っているなんて」
「一人が気楽でいいんだよ」
「そうかもしれないが、いい歳をした大人がそんな風ではいけないぞ、キース」
「平民の私と親しくなりたいと思う貴族はいないさ」
「それは自分の価値を低く見積もりすぎだ。さっき王立軍のエイブラム大佐やアルノー中将と話しているところを見かけたぞ。彼らがお前の言うただの平民が話をできる相手なもんか。私だって直接お話したこともないんだぞ。お前は本当に……」
デミアンがため息をつく。
「お前はもっと人を利用することを覚えたほうが良い」
「私には分からないよ」
真実俺には分からない。人と付き合うときに、一々こいつは使えそうだ、使えなさそうだと考えるものなのか。人はそれほど傲慢になれるものなのか。
デミアンがじっと俺の顔を見ている。そして、言った。
「あぁ、お前は変わっていないようだ」
その言葉の響きには一つの確信が込められていた。
「そうかな?だいぶ変わったと自分では思っているんだけどな」
「見た目とか立ち居振る舞いとかそういう外側は確かに変わったな。私も変わった。だろう?」
「いえ。あなたは変わってない。磨きがかかったというんだよ、それは」
またデミアンが笑った。
「そうか。ありがとう。本当にお前は変わっていないな。中身が昔のままだ」
「それは内面が成長していないとか、そういう……?」
「まさか。いい意味で言っている。お前は本当に素直な男だよ。お前のような人間を俺は他に知らない」
「そうですか」
「昔を思い出させる。お前と話をすると、気持ちが昔に戻るようだよ。不思議だ。ほんのわずかな時間一緒にいただけなのになお前は……。その、どうだった?この六七年会わない間のことだ」
「見ての通りさ。なんでか軍人なんてものをやっている。そうそう英雄にもなったぞ」
俺がニヤリと笑うと、デミアンもつられて笑う。会わないでいた時間が、俺たちの間のわだかまりや隔意や些細な差異を押し流してしまったようだった。以前では考えられない。俺も成長したということなのだろうか。
「英雄は良かったな。いや、まさかお前があんな偉業を成すとは、失礼な言い方かもしれないが思っても見なかった。お前は争いごとがそんなに好きではなかっただろう?」
「まぁ、そうだな」
「だから余計不思議だった。アルベルトも訝しんでいた。なぜお前が辺境軍にいるのかと。理由を聞いても?」
「……理由などないよ」
俺は嘘をついた。
「……そうか。悪かったな。答えにくいことを聞いてしまったようだ」
「いや、気にしていないよ」
「ありがとう。本当はまだまだここでお前とのお喋りに興じていたいのだが、この後予定が入っている。本当はもっと早く話しかけたかったのだが、知り合いと話をしていたら来るのが遅れてしまった。立場上そういうわけにもいかなくてね」
「忙しいのに、わざわざ声を掛けてくれてありがとう。デミアン。嬉しかった」
「私もだ。話せて良かった。また今度時間を作って会えるか?」
「どうだろう。私はこの夜会が終わったらすぐに帰るんだ。王都には特に用事はないからな」
「なるほど。まっすぐ辺境伯領へ?」
「いや、途中寄るところがある」
「そうか。どうしても今夜はすぐに帰らないといけないのか?この後全く時間がない?」
「いや、無いわけではないんだが、今日はグレイホルン卿が私に付き添ってくれたんだ。私はこういう場所に慣れていないから。それで、帰りも一緒にホテルへ帰ることになっている。長めの休暇をもらっているので、二三日はこっちでゆっくりしてから用事を済ませても問題ない。だから急いで戻らないといけないということも本当は無いんだが、何故そんなことを聞く?」
「なるほど。実は、その……なんだ」
デミアンが言い淀む。
「お前が良かったら、なんだが」
「うん」
「アルベルトが会いたがってる」
「あぁ……」
「もし時間があるのなら、会ってやってくれ。部屋で一緒に飲もうと言っている。どうだろうか。過去のわだかまりは忘れて……」
「いいよ。私は気にしない」
「本当か?」
「あぁ、本当だ。ただ、もしそうするのなら、グレイホルン卿に一緒に戻れない旨を伝えないといけない」
「それは大丈夫だ。それは私から伝えておく。お前は心置きなくアルベルトのところへ行ってやってくれ」
「ありがとう。君から伝えてもらえるのなら角も立たないだろう。助かるよ」
「あぁ、まかせてくれ。今から案内する。着いてこい」
そうして、俺はデミアンに先導され、王宮の奥深くへと足を踏み入れた。
デミアンは複雑な経路を迷いなく進む。俺にはもう帰り道が分からない。同じようなタイルと壁の模様、窓からは暗闇しか見えないせいで、自分がどこをどう進んでいるのかすぐに分からなくなった。
途中、王家一族の肖像画の並ぶ回廊を通った。アルベルトが言っていた通り、本当にたくさん飾られているんだと思った。アルベルトの肖像画も見つけた。
そして俺は、しばらく歩き回ってやっとアルベルトの私室へと辿り着いた。俺は妙に緊張していた。




