23
黒い雨が降る。
街の外側には青空が広がっているのに、街の上には黒い雲が広がっている。黒い霞が渦を巻いている。
そこから、雨粒が落ちてきた。
最初はぱらぱらと、そして徐々に激しく降りだす。地に建物に雨粒がぶつかり、その一粒一粒が小さな音を鳴らす。
思いもよらない驟雨に生き延びた人々が慌てふためく。必死に黒い雫から自らを庇い逃げまどう。
街の上に、建物の上に、人々の上に、俺の上に、黒い雨が降り注ぐ。
雨粒の落ちたところにぽつぽつと不気味な黒い染みが出来ていく。
痛みはない。この雨はなんだろうと思った。
魔法を使える者たちは自らの上に魔法で障壁を渡して雨を避けている。風がないため雫はまっすぐに落ちてくるから、それである程度は防ぐことが可能なようだった。
アルベルトもそうやって雨を避けていた。
徐々に俺はずぶ濡れになる。
静かに静かに、雨は降り注ぐ。俺の視線の先で、竜の首に結び付けていたロープが、飛行中の負荷で切れかけていたのだろう、そこから雨粒がしみ込んで、あっという間に劣化しぶつりと切れて地に落ちた。
俺の体は支えを失って、竜の背から転がり落ちてしまった。
俺が足元に落ちたのに、ダークドラゴンが気づいた様子はなかった。俺は上を見上げる。
すると、その黒い竜もまた、俺と同じように上を見上げていた。じっと空を見つめて動かない。
「キース!」
アルベルトがもう一度俺の名を呼んだ。俺は声のする方を見た。
全身の痛みに顔がゆがむ。地面に両手をついて体をなんとか起こす。それからそっと自分の手を見る。
黒い雫が俺の手の上で蒸発してぼんやりと消えていった。
これは何なのだろう。
その答えはすぐにわかった。
力が抜けていく。上体を支える腕から、痛む体から、立ち上がろうとする足から力が抜け落ちて行く。命が零れ落ちていく……。黒い雨粒はますます激しく降り、俺の体に当たるとすぐに蒸発し、黒い霧となって消えていった。それにともなって、少しずつ体にけだるさが広がっていく。
あぁ、そうか。
俺は思った。
良かった。
そう思った。
あいつらは痛みもなく苦しまずに逝けたのだ。
良かった。
ふがいない隊長で済まない。守る力のない俺で済まない。
ライリー、ルイス、ミヒャエル、ウィリアム、バン、ハンター。済まなかった。今あいつを……。
「キース」
俺は彼の声に、アルベルトの方へ視線を向けた。
「何故君がこんなところに……。いやそんなことよりも!すぐに魔法障壁を頭上に張るんだ。この雨に当たってはいけない!そんな程度の魔法、君なら簡単だろう!」
大声で目の前の男が言う。いつもにもなく、柄にもなく焦った様子で言う。
俺は目の前に立つ男をみながらゆっくりと立ち上がった。痛む体をなんとか操って、ゆっくりと立ち上がる。
そうしている間にこちらへ歩き出そうとするその男を、俺は視線で制した。歩き出した一歩が中途半端な距離で止まるのを見ると、俺は長い時間をかけてしっかりと立つことができた。
久しぶりの邂逅だったけれど、生憎と俺から話すことは何もなかった。会えるとはこれっぽちも思っていなかったから、話す話題が見つからない。
だから、大事なことだけ言うことにした。決意を言葉にしなければ、これからやろうとしていることを俺には為せないような気がしたから。
「後は頼んだぞ、王子様」
彼が訝し気な顔をする。
「何を……」
言葉を紡ごうとする彼を無視して俺は意識を集中する。ヴィオラに教えてもらった魔法を試みる。今の俺にできるか怪しかったけれど、今しか使うタイミングはない。
大きく息を吸う。もう魔力はぎりぎりだ。上手く発動させられないかもしれない。それでもやらなければいけない。
俺にできるかはわからないけれど、試してみなければ分からないだろう。戦わなければ生き残れない。
俺は声を張り上げる。最後の仕事だ。
「いと高き御方」
体内の魔力がざわりと蠢いた。
「氷の女王。氷雪の主。死の導き手」
俺の中の残された魔力が吸い出されていく。
「今まさに冬の到来を目前にして、冬の訪れを汚すかの者に、死の抱擁を。暴虐の限りを尽くして、死を振りまきあなたの領分を犯す黒き竜に、氷の罰をお与えください。氷雪の下に閉じ込め、永遠の冷たさをお与えください」
「キース……」
俺の周囲の気温が急激に下がった。氷がドラゴンの足元から生まれ育ち伸びて行く。
魔力の消費とともに、氷が成長し、ドラゴンの体表を覆っていく。
黒い雨をはじきながら、上へ上へと成長していく。
全てを凍り付かせる魔法。それが、ヴィオラから教えてもらった魔法。
魔力の消費が激しく普通の人には扱いが難しい魔法。俺はそれを吐き気と眩暈に耐えながら発動している。
唐突に、昔先生に言った自分の言葉を思い出した。
—―僕は人に与えたい。そんな人間になりたかった。
今ならなれる気がした。
俺はそっとアルベルトを見た。
今なら与えることができる。彼に返すことができる。俺にも、与えるものがあった。
良かった。
それだけを思った。
あの夏の思い出の礼を、今返そう。
そう思った。
あの夏の楽しかった日々が、俺をずっと支えてくれていたから。
あぁ。そうだ。
俺は突然笑いたくなった。
自分の思いつきが突拍子もなさ過ぎて、可笑しくて、悪戯を思いついた子供が笑うように、俺も笑いたくなった。
これでお前に一つ勝つことができたと俺が言っても、お前は怒らないだろう?
馬鹿馬鹿しい、ただの子供の意地だ。もうすっかり忘れていたあの日の決意。
今となっては笑える決意。
でも、お前に勝ったと思っても良いよな?
それから全身の魔力を絞り出す。最後の一滴までも。
氷がついにドラゴンを覆いつくした。
俺の意識が曖昧になる。立っていられない。まだ、やるべきことがあるのに。
周囲から驚く声と深いため息が聞こえてきた。
「ドラゴンを倒したのか?」
誰かが言った。
ざわめきが広がる。それは歓喜に彩られている。
けれど、まだ駄目だ。まだ足りない。
魂までも凍り付かせなければ、すぐに目覚めてしまう。
だから俺は、まだ魔法の発動を止められない。
「汚れ無き魂。冬の女神よ。私の魔力を糧にどうか……」
俺はここで考え直す。
「私の命を糧に、どうか奇跡をお与え下さい」
胸に感じたことのない痛みが走った。刺すような、握りつぶすような、破裂するような、言葉にできない痛みが一時にやってきた。
俺の鼓動は早鐘のように打ち、汗がとめどなく流れるのが分かった。呼吸が長距離を全力で走った後のように苦しい。
胸が苦しい。心臓が痛い。頭が痛い。
「キース!やめるんだ!」
俺は片膝をつく。体の震えが止まらない。痛みは全身に及んでいた。知らぬ間に俺の口から獣の咆哮にも似た声が漏れ出ていた。迸る苦痛の叫びを止めることができない。
視界が徐々に暗転していく。力が抜け落ちて行く。奈落の底へ自分の体が落ち込んでいくような不思議な感覚があった。
それでも俺は途中でやめるわけにはいかない。絶叫を飲みこんで、痛みを抱え込んで、俺は最後の言葉を紡ぐ。
近づいて来ようとするアルベルトを睨みつけながら。
「魔物の脅威に怯える人々に白き安らぎを。飢えに苦しむ子らが夜の眠りを妨げられぬよう、孤独に震える子らがこれ以上生まれぬよう。そして、寒さに凍える子らに優しい夢を、雪解けの予感をお与えください。必ず春はやってくるのだと信じさせてください」
最後の方はもう途切れ途切れで、かすれた声でなんとか言い切る。自分の中が空っぽになったのが分かった。
脱力感と虚無感が全身を蝕んでいる。
その瞬間、世界に突風が吹き荒れた。その風は俺の髪を巻き上げ、頬を鞭打つように吹き始めた。
氷雪を含んだ凍える風が、街の中を荒れ狂っている。街の全てを氷漬けにし、人々を凍えさせる風が俺を中心に吹き荒れている。そしてその風は次の瞬間には一気に空へと舞いあがると、上空に垂れこめていた黒雲をあっという間に消し去った。空の彼方へ追いやってしまった。
そして後には雲一つない青空が広がっていて、柔らかな秋の日がこの街に差した。暖かな日差しが降り注いだ。
「後を頼んだぞ、アルベルト」
俺は自分を支えることもできず、地に倒れ込む。
最後にもう一度。
俺はアルベルトを見遣る。もうあまり見えなくなった目で見た。
「キース!!!」
彼が俺の方へ駆けてくるのがかろうじて見えた。
それが最後だった。




