22
眼下に広大な森が広がっていた。
こんな高高度から世界を見たことなど生まれて初めてのことで、その恐ろしさに身も心も竦む。
見渡す限り一面の青い空に白い雲が浮かんでいて、その下には色鮮やかな紅葉が美しい森がどこまでも続いていて、その光景は平常時なら美しいと思えたかもしれないが、今は無理だった。
景色が恐ろしい速度で後方へ流れ去って行く。風が信じられない勢いで俺の体を揺さぶる。
初めての空の旅に、俺はただひたすら、どうやったら無事に振り落とされることなく地面へ戻ることができるのかと、そればかりを考えていた。
なぜなら、上空は地上よりも空気がずっと冷たいようで、高速で飛び回るドラゴンにしがみついている俺の体はあっという間に冷え切ってしまったからだ。かじかむ指先と震える体に力を込めてなんとか振り落とされずに済んでいるという状況だった。
逆上した手負いの黒竜はその全身を支離滅裂に動かし、俺が与えた左目の痛みに抗っているように見えた。今もまだ左目の傷からは血がとめどなく流れている。その血の雫もまたどんどん後方へ流れ去っていった。
断続的に繰り返される安定飛行ときりもみ飛行との合間合間に、もしかしたら、こいつはしがみついている俺に気付いていて、俺の手を振りほどこうとしているのかもしれないと思った。そうとしか思えないほど支離滅裂な動きを繰り返していた。
高速での飛行で俺の体は恐ろしい勢いをもって振り回される。気を付けていなければ、意識を持っていかれるのではないかとさえ思える瞬間がたびたびあった。強く受ける風のせいなのだろうか、体が重い。こいつが右へ左へ旋回をするたびに、尋常ではない負荷がしがみつく俺の腕や太腿に、体全体に頭に重く掛かる。
黒龍の細い首の後にひしとしがみついてはいたが、もう長くはもちそうになかった。
どこへ飛んでいるのだろう。行く宛があって飛んでいるのだろうか。俺にはさっぱり分からなかった。
まずい。手がもう痺れてきた。限界を感じる。
俺は急いで携行していたロープをなんとか竜の首に回して己の体と合わせて固定する。
それは実に頼りない固定ではあったが、無いよりはよほどましだった。この細いロープが今の俺の命を繋ぎとめる全てと言っても過言ではない。予断は許されないがやっと一息つくことができた。これ以上はもう器用に指で何かをするなんてことはできそうになかったし、握る手にも力が入らず振り落とされかねない状態だったから。
突然落下することは防ぐことができそうだったが、それでも俺の体温と意識が地上に降りるまで持つかは全くの賭けでしかなかった。強風と低い気温のせいで徐々に体温が奪われていくのはどうにもできなかった。
しかも肋骨にひびが入っているのだろう。時折バランスをとるために上半身に力を籠めると激痛が走ることもあって、快適な空の旅とは言えなかった。ただ、この痛みが逆に俺の意識を繋ぎとめていた。
それからどれくらいの時間がたったのか。寒さですっかり頭がぼんやりしてきたころ、気付くと思っていたよりもずっと近くに街が見えた。
ドラケンヴァルトの首都だった。
街を視界に収めた瞬間、意識が混濁しかかっていた俺は一気に覚醒する。
慌てて太陽の位置を確認する。あまり太陽は移動していないように見える。飛んでいた時間は一時間は超えているが二時間はたっていないはず。まさかこんな長い距離をこれほど早く飛んでこられるとは思っていなかった。馬で進んでも森から街までは三四日はかかる距離だ。俺はドラゴンの飛翔能力の高さに恐れおののくとともに、このまま街へ向かって飛んでいくことを恐れた。
何故かはわからないが、こいつはまっすぐに街を目指して飛んでいるのだと俺は思った。もう黒竜は右へ左へふらふらと飛び回るなんてことをしていなかった。意思を持ってまっすぐ街を目指して飛んでいる。
なんとかしなければいけないと思った。
今街は祭のためにたくさんの人で賑わっている。国中のあちこちから多くの人間が集まり、一年でもっとも活気のある時期だ。しかも今年は第一王子のアルベルトが来ている。人の出は例年の比ではないはずだ。
このままでは確実に混乱は避けられない。
いや、もう目の良い警備兵が街の周囲を囲う堅牢な城壁から俺たちを見つけているかもしれなかった。
どうか、被害が出る前に避難誘導が進んでいることを願うしかなかった。あの凶悪なドラゴンのブレスを街の上空で吐き出されては、街は壊滅してしまうだろうと思った。
しかし俺にはどうすることもできない。かろうじてしがみついているのがやっとという状態で、冷え切った体はもはや思い通りには動いてくれそうにはなかった。
その上、魔力ももう残りわずかだ。
徐々に近づく街の景色に伴って、人々の声が聞こえてきている。
もうかなりの距離近付いてしまっている。
そのとき、町の上空に魔法の花火が打ちあがる。それは警戒と避難の合図だ。
警備兵が気づいたのだとわかる。それと同時に、人々の楽し気な歓声が徐々におさまり、その後しばらくして恐怖の喧騒に切り替わった。
遠目に、街の広場が見えた。
それはあっという間に目と鼻の先というほどの距離まで狭まる。とうとう俺の目からも人々が視認できるほどになった。
祭の広場では人々が慌ただしく走り回り、ある者はこっちを見やり正体を見極めようとしているようだった。
そして、その広場の北側にはこの祭りのための舞台が設営されている。貴族や王族のためのステージ。
この慰霊祭では、毎年臨席する賓客が死んだ兵士の魂を慰めるために、辺境を守る兵士と街の人々を労うために、魔法を披露するのが習わしだった。
その役目が今年は第一王子であるアルベルトに回ってきていた。王子の臨席とあって今年は特に盛り上がるだろうと噂されていたが、実際その通りで、例年にない人の数であることが、空の上からもわかった。
どうしたら、と俺が思い悩んでいる間に、ドラゴンはもう街の上空に到達してしまっていた。警備隊の隊員たちが矢を雨あられと打ち込んできているが、硬い鱗に阻まれて、こいつは全くの無傷だった。
こんなものは気休めにもならない。それでも、目に見えて効果がないと分かっていても、放たれる矢は止まらない。魔法兵団が到着するまで、まだ間があるのだろう。ただの時間稼ぎだとわかる。
そうしていると、俺は眼下にアルベルトが臨時に組まれたステージ上に立っているのを見た。見つけてしまった。
ちょうど彼が民衆のために魔法を披露するタイミングだったのかもしれない。
なんという間の悪さだと、俺は運命を呪った。
いくら魔法が得意とあっても、討伐隊ですら手傷を負わせることができなかったのだ。いくらアルベルトでも今の竜を止められるとは思えない。今は彼が何もせずに逃げることを祈るしかない。逃げて、体制を立て直したのちに、全軍でこいつをたたくしかないと俺には思われた。
それなのに、アルベルトは動かなかった。
じっと上空を見ている。
ただ見ているくらいなら逃げればいいのにと俺は腹を立てた。側近たちがアルベルトに何事かを言っている。逃げろとでも進言しているのだろう。そんなような様子が見えた。
しかし、彼はがんとして譲らずその場から動こうとしない。ただ、突如として飛来した竜を見上げている。
その黒竜はさきほどからずっと広場の上空を旋回している。
ざわざわと人々の声、女性や子供の悲鳴がひっきりなしに聞こえてくる。
竜の飛行する高度がわずかに落ち、人々の声が何を話しているのかが辛うじてわかる程度にまでなった。
「ドラゴンだ!」
真っ先に耳に飛び込んできたのはその言葉だった。口々に人々が驚愕と共にその名を呼んでいる。
恐慌状態になった人々の悲鳴にも似た叫び声。
そりゃそうだよな。最後の目撃例が百年前近くも前のことで、ほとんど御伽噺や神話の中の存在みたいなものだからこの反応は当然と言えた。
「人が乗っている!」
「本当だ」
「誰だ!?」
「軍服を着ているぞ」
そう叫ぶ群衆の声が聞こえてきた。
いや、逃げろよと俺は思った。
その最中、魔力の高まりをしがみついている相手から感じた。ダークドラゴンが何かしようとしているのだと察する。
言うまでもない。禍々しいドラゴンのブレスだ。
まずい。この場でブレスを吐かれれば、この街に直接降り注ぐ。そうすればこの街全体が被害を被り、最悪壊滅してしまう。まだ俺たちの下にはたくさんの人間が残っている。アルベルトも。
「ドラゴンの攻撃だ!逃げろ!」
俺は地上に向かってあらん限りの大声で叫んだ。聞きとれるかわからないが、叫ばずにはいられなかった。
「アルベルト!今すぐ避難するんだ!街の人を誘導しろ!ドラゴンのブレスが!」
俺の指示が聞こえていればいいと思いながら必死に叫んだ。
駄目だ。間に合わない。
ドラゴンがその口から尋常ではない魔力の奔流を吐き出し始める。宵闇のブレスが一気に街へと降り注ぐのが目に入った。
それを見たアルベルトが即座に魔法障壁を上空へ張り巡らせた。それは遠目に見ても素晴らしい完成度だった。
そして、彼にわずかに遅れて側にいた男たちも同調して一斉に防御魔法を展開する。さすがというべきか、見たこともないほどの巨大な魔法の壁が現れた。しかしその巨大さがあってもなお、広場を覆うのがやっとだった。
吐き出されたブレスはその魔法障壁にぶつかり波のように砕ける。しかし障壁に阻まれた黒い汚泥がすぐに消えるわけではない。広場にいる人々の上に降り注ぐことは免れたが、ブレスは障壁にぶつかりそのまま跳ね返り、広場を破壊する代わりに、広場周辺の家屋や建物、施設の上へと降り注いだ。
上空から汚泥を大量に振りまいたように黒い濁流が街に流れ込む。家々を押しつぶし、細い路地へ侵入し、屋台や荷車を押し流した。人々が巻き込まれ流されていく。
阿鼻叫喚が起こる。犠牲者の金切り声や逃げ惑う人たちの恐怖の叫びが俺のところまで届いた。
それから、生成したブレスを吐き切ったのだろう。ひと時の沈黙が訪れる。
下から怒声とブレスによって負傷した者たちの悲鳴とがまだ響いている。泣きわめく子供の姿もあった。
俺はそれを眺めおろしながら、どうすべきかを必死に考えていたが、動かない体ではどうすることもできない。魔法も硬い鱗に阻まれる。
俺が手をこまねいているその間も、こいつは狂ったように飛び回っている。時に建物すれすれの高度で飛び、巨大な翼の羽ばたきによって巻き起こる風が人々の足元を攫い、また建物を倒壊させる。
被害が拡大していく様をドラゴンの背からただ見ていることしかできなかった。必死に振り落とされないようしがみついていることしかできない。
俺は胃の中のものを戻しそうになるのをこらえ、遠心力や負荷を全身に受けて気絶しそうになりながら、じっとしがみついていたが、その間も兵士の矢による牽制は続いている。辛うじて俺にはまだ一本の矢も当たってはいなかったが、巨大な竜の体に幾本も降り注いでいる。しかし、それは全く効果がなく、ただ硬い鱗にはじかれ落ちていくだけだった。
すると、突如火球が多数飛んできてドラゴンの翼に直撃し、衝撃に耳障りな叫びをあげた。魔法兵団が到着したのだ。
俺はその叫び声の大きさに耳を塞ぐこともせず、ただ自分に直撃しなかった幸運に感謝した。
当たらなかったのは本当にただの偶然だった。心臓が恐怖のせいであり得ない速度で脈打っている。自分がまだ生きていることを確かめると、後から冷汗がどっと吹き出てきた。
一度に多くの魔法攻撃を受けたドラゴンは空中で態勢を崩しはしたがすぐに持ち直す。俺は振り返って魔法の着弾した箇所をみてみた。黒竜の体は広範囲の火傷を受けていたが、よく見てみれば表面だけのようで、行動を制限するほどのダメージになっているようには思えなかった。
ドラゴンは変わらず今までと同じように空を飛び回る。
魔法兵団による攻撃の効果が小さかったのはおそらく街と王子への二次被害を恐れて、威力を制限しているからだ。場所が悪すぎる。ここが何もない荒れ地や森であったならもっと大規模な魔法を打ち込んでいただろう。それならもしかしたら致命傷を負わせ、あわよくば倒すことも可能だっただろう。
またぞろ別の方角から魔法が飛んできた。今度は巨大な氷塊が降り注ぐ。見えていたそれを魔法障壁で防いだおかげで俺には当たらなかったが、いくつかはこいつの頭部に直撃した。かなりの質量の物体による物理的な攻撃は、かの竜にもわずかに効果があったのが見て取れた。
まだまだ魔法兵団の攻撃は止まない。未だ空中を飛び回る巨体目掛けて次から次へと魔法が放たれる。俺は波に翻弄される小舟の気分だった。体は冷え切って思うようには動かせず、もう力も体力も、意識を保っていることすらもやっとというありさまだった。
地上では、アルベルトの側近たちが防御魔法を展開しながら逃げるよう彼を説得を続けているらしい。やっとアルベルトが彼らに従って避難を開始しようとしたそのとき。
繰り返される魔法にとうとうこいつの怒りも頂点に達したようだ。今までで最も大きな咆哮が辺りに響き渡った。それは俺の耳をつんざき、鼓膜が破れるかと思うほどだった。
それから突如急降下が始まる。俺は危うく舌をかみ切りそうになった。
ぐんぐんと高度が落ちて行く。地上が急速に近づいてくる。街並みが人がはっきりと見え、人の顔を見分けられるほどに近づいていく。
地上では、落ちてくるドラゴンを見てまだ避難していなかった一般市民が逃げまどい、兵士たちが慌てふためき走り回っている。しかも、その兵士も一般兵がほとんどだ。もっと戦闘に慣れたやつらはまだ来ないのか。
そして、衝撃と衝突音とを起こしながら竜が地上に墜落した。いや、器用に翼の羽ばたきで勢いを殺して、着地したのだ。俺は急下降とその後の急停止による巨大な負荷に必死に耐えていた。気を抜けば一瞬で意識を手放してしまいそうだった。
なんとか意識を手放さずに持ちこたえ、暗転した世界から脱して俺が目を開くと、ステージ上にいるアルベルトと目が合った。
竜の背に乗る俺に気付いた彼の目が、驚愕に大きく見開かれている。でも絶対に俺が誰かまでは分からないだろう。もう何年も会っていないのだし、俺自身は茶色の髪に茶色の目のどこにでもいる見た目で他と区別できるような特徴もない。それに、俺は学園の制服ではなく軍服を着て、顔は土埃に塗れ、髪だってぼさぼさのはずだから。
それに、俺がここにいて兵士をやっていることなど彼には知られたくなかった。
黒竜の巨大な翼の羽ばたきに周囲の物が巻き上げられる。その風圧は大人でさえも宙へ吹き飛ばしてしまう。俺がそうされたように。
アルベルトの周囲の物が風圧で吹き飛ばされる。ブレスに晒され急激に劣化した建物がギシギシと嫌な音を立てている。その中で、衝撃を耐えた王子の幾人かの護衛たちが彼を取り囲み魔法障壁で対応している。
しかし彼らは気づいていなかった。彼らの真正面にいる俺からは見えていたけれど、彼らの後方にあるせいで舞台背景がぎしぎしと揺れていることにまだ気づいていない。その音は周囲の他のものが立てる音に紛れて判然としないせいもある。
まずいと思ったときには、既に特設ステージの背景部分がぐらぐらと揺れアルベルトの方へ倒れ掛かっていた。
「アルベルト!」
俺は咄嗟に叫ぶと、倒れ掛かってきた建造物を魔法で凍らせる。俺の魔法は期待した通りに周囲の物を凍らせ、倒れ掛かった材木が折れて彼らを押し潰すのを防いだ。良かった。
アルベルトと護衛たちが、何が起きたのかを確認するように周囲を見回している。そして、慌ててステージから飛び降りて、警戒しながらドラゴンを見た。
警護の者たちがドラゴンの動きに鋭い目で注目しているその中にあって、アルベルトだけは俺を見ていた。
彼はあの頃よりもずっと大人の顔付きになっていた。少しだけ頬の肉が落ちて精悍な顔つきになっているようだ。
けれど、どれだけ時間が経っていても、透き通る青い瞳と金の髪は昔とちっとも変わっていなかった。
ほんのわずかの時間、俺はぼんやりしてしまっていた。気づくと護衛たちが魔法の発動準備に入っている。
さすが王家の護衛。無駄な動きなど一切なく、綺麗に揃って魔法をこちらに目掛けて放ってきた。それは過たず全てドラゴンに命中した。俺はその衝撃に必死に耐えた。下手に動くと直撃を受けてしまう。折角無事に地上へ降りられたと言うのに、逃げ出す機会を完全に失ってしまっていた。
炎や氷や岩が無数に飛んでくる。その詠唱の素早さと正確性は称賛に値するが、今だけはどうか俺に当てないでくれと必死に祈ることしかできなかった。
「キース!!」
俺の名を呼ぶ声がした。
地上でアルベルトがやめろと護衛たちに叫んでいる。俺はそんなことよりも、とっととその場から離れてほしかった。
どうしたらいいか焦る自分を必死落ち着かせようとしていた時、ふいにすぐそばで魔力の高まりを感じ取った。それはあまりにも強大で、背筋が寒くなるほどの魔力量だった。
何故こいつが抵抗もせずに魔法攻撃を受けて続けているのかということに気付いていなかった。こいつは何か仕掛ける心積もりだったのだ。
アルベルトたちも異変に気付いたらしい。顔色がさっと変わった。
またあのブレスがくると思ったとき、ふいにダークドラゴンの漆黒の体の輪郭がぼやけ始めた。それは巨大な体から立ち上る黒い闇の陽炎だった。その怪しく空へと立ち上っていく黒い煙のような魔力は徐々に大きくなり、そして上空でゆっくりと渦を巻き始めた。
どんどんと黒い魔力は空へと昇っていく。そしてその魔力が生み出す渦もまた巨大な雲となり、見ている間に徐々に薄く広範囲へと広がり始めた。闇の薄いヴェールが街の上空を覆い始めた。
何が起きているのかさっぱりわからなかったけれど、何かが起ころうとしていることだけは理解した。
そして、ぽつりと最初の一滴が落ちた。




