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12*

最後の夏休みは、この学園で過ごした二年の時と変わらず同じように始まった。寮内は徐々に人が居なくなっていく。少しずつ活気を失い火が消えたようになっていく雰囲気。あれだけ騒がしかった寮内は、それまでの様子が全く想像できないほどの静けさに満たされる。静かな朝。静かな夜。


今年は例年にないほど暑い夏だった。もう何日も寝苦しい夜が続いていた。


毎日気温は恐ろしく高く天気は嫌になるほど良かった。真っ青な空には背の高い雲が立ち上がって、その雄大さに目を奪われる。この街に着て、知らぬ間に俺は空を見るようになった。


けれど、そんな暑さには負けてなんかいられない。俺にはこの夏休み期間にやらねばならないことがいっぱいあった。俺の夢の実現のために、やっておくべきことがたくさんあった。


今も変わらない、ずっと変わらない俺の夢は、社会福祉局に入局して、孤児院の制度や仕組みを変えることだ。現状様々な問題を抱えている孤児院を、どんなに時間が掛かっても良い、救いたかった。


そのために今まで血のにじむ思いで学業に励んできた。


剣術大会や魔法大会に出場して入賞することを目指したのも、自分の名前を売り込むためだった。何のコネもない平民の俺が国の機関で働くことは、成績上位者に与えられる学校推薦枠を利用したとしても難しいと聞いていたから。これは入学式後の説明会で聞いたとき、すぐに確認して知っていた。


それから、なんとかこの三年間、年間の総合成績で十位以内を守った俺は学校から推薦してもらえることになった。その確約を既にもらっている。それでも、学園の事務局から国家官吏として採用されるかどうかは保証できないと、念を押すように言われた。


覚悟はできていた。そのためにこれまでやってきたのだから。それに、自分の努力次第で結果が変わるのだというのなら、努力しても変えられないことの多いこの世の中、随分優しいことだと言えるだろう。


俺が調べて確認できた、各省庁に採用される可能性を上げられる手段は三つあった。


一つは学校推薦を勝ち取っていて、かつ行きたい部門に関連する成績が上位であること。これは、希望の省庁へ送る書類の中に学園の成績証明書を同封する関係上、採用担当者の目に触れるからだ。心証の問題だと言ってしまえばそれまでだけれど、やはりこれからやろうとしていることが不得意なのは印象が悪い。これから軍に入隊するというのに、剣術も馬術も碌にできない人間が何を成せると言うのか。ただし、俺の希望するところは特に注意すべき科目がないので、全体的にバランス良く成績が取れていることでアピールになると考えている。


二つ目は、剣術大会や魔法大会で入賞し大会を見に来た貴族に名前を覚えてもらうことだった。これが、コネの代わりになる。知らない人間の応募書類よりも、わずかでも聞き覚えのある人間の書類のほうを力を入れて見たくなるのが人の性というものだと思う。全くやりきれないことだけれど。


最後は省庁訪問をして好印象を与え、かつ、志望する省庁の提出書類に自分の研究レポートを添付してそれが評価されることだ。レポート自体は必ずしも送らなければいけないというわけではないけれど、平民は自己アピールとして送ることがほぼ必須だと言われている。


ただし、貴族の子息ならばこんなことはしなくてもいいらしい。まぁ、貴族社会とはこういうものだろう。親族のコネさえあれば、簡単な面接だけで採用されるのが常なのだそうだ。つくづく社会は不公平だと思った。


俺は去年から、ちょっとずつ資料を集めて書類に添付するレポートの準備を進めていた。児童福祉についての論文だった。今年の夏休みはこれを完成させることを目標としている。


それから、省庁訪問のためのスーツを用意すること。これは今まで頑張って貯めた金があるから大丈夫だ。オーダー品なんて買えないから、身の丈に合った既製品を買う予定だった。


三つ目は、最後の魔法大会のために準備をすることだった。


剣術大会以降、一時やる気は完全に失われていたけれど、あの日の屈辱を晴らしたいという怒りの感情が徐々に湧いてきて、それが気づけば萎えていた俺のやる気を回復させてくれた。俺の目標を思い出させてくれた。今度こそあの王子をあっと言わせてやろうと思っている。


そういう目標を持って日々を過ごすと、時の流れはあっという間だった。仕事の辛さも、もうすぐ辞められるという希望があればこそ、苦ではなかった。


しかし、これだけやっても希望の省庁に入れるとは限らないため、社会福祉局以外にも書類を提出するつもりだった。レポートの件もあって、並行して準備するのは公衆衛生局一つに絞った。公衆衛生が向上すれば、人々の死亡率も下がり孤児の数自体が減る。それは俺の夢の実現の、一つの形だと思ったからだった。


同学年の平民仲間の多くは商会等に就職するものがほとんどで、彼らは既に就職先が決まっている。重圧から解放されて、伸び伸びと夏を満喫している彼らの姿がまぶしくもあり羨ましくもあった。


もともとは俺もどこかの商会を一つくらい受けたいと思っていたけれど、官吏の採用時期の遅さからその考えは早いうちに断念していた。


そういった事情から、今年の俺の夏休みは仕事と実技演習場での魔法の訓練が中心だった。もう図書館で調べ物をする時期は過ぎた。レポートも、ほぼ出来上がっていて、残る作業は誤字脱字や文言の修正と、それの清書をするのみというところまできている。


馬の世話ももう辞めていた。だから、仕事のない日は一日中実技演習場で魔法の練習をすることができた。一日中といっても、魔力には限りがあるので、午前と午後の間に休憩の時間を多めにとる必要があった。夏の日差しで体力もごりごり削れていく。休まずには何もできなかった。


その訓練で俺が一番に練習したのは学園で習う基礎的な魔法だった。もちろんそれなりに高度な魔法の練習もしたけれど、最も時間をかけたのは基本的なことだ。


他人を攻撃する魔法が好きではないので、人を楽しませる方向で演技の内容を構成していくことは早い段階で決まっていた。それには高度な魔法や攻撃的な魔法は必要なくて、その代わりに、繊細な魔力操作と集中力とが重要になる。そのための技術を磨く必要がでてきた。


だから、俺はほとんどの時間を、思ったままに魔力を操るための練習に費やすことにした。こういうことをしたいと事前に頭の中で明確にしておき、それを実現するためにはどういう風に魔力を操るのか、どのタイミングで魔法を発動させるのか、魔法の維持の仕方、魔力の出力を一定に保つやり方など、本当に地味なことを繰り返し繰り返し行った。


そうすると徐々に自分の現在の限界が見えてきた。魔法を安全に長時間安定して出力できる範囲を見極められるようになった。


ある程度の目途が立つと、今度は全方位から見て何が起きているのかが分かるよう見せ方と演技の構成を考えた。思い描くやりたいことと、今の自分の実力、現在使える魔法との兼ね合いから、できないことはできないとしてきっぱりと諦め、それに代わる代替案を模索した。さらに、少しでも実現の可能性のありそうなことについては、図書館で文献に当たるなどして、自分に能う限りのことを試した。


そんな日々の中、孤児院から手紙が届いた。先生からではなかった。封筒に書かれた幼い文字を見た瞬間、胸騒ぎがした。


中を開けて読むと、それはチビたちの一人からだった。院長先生が夏の暑さで体調を崩したという知らせだった。動揺と不安が現れた支離滅裂な文章と震える文字、そして子供らしい少ない語彙で、切々と助けを訴える内容が綴られていた。


俺はすぐさま荷物をまとめ、とるものもとりあえず寮を飛び出すと町へ向かった。運よく目的の方向へ向かう馬車の便があったので、それに乗り込むと最悪の事態を想定してしまいそうになる自分の考えを否定しながら故郷の町へ帰った。片道馬車で四日、その後徒歩で一日かかった。道中俺はずっと先生の無事を神に祈っていた。


長い時間をかけてやっと到着した懐かしい町は相変わらず寂れていて、どの家屋も王都と比べればくすんでいる。そこに暮らす人々の心も変わらずすさんでいるようだった。俺は街の真ん中を通るでこぼこの目抜き通りを進んで、目的の場所へ急いだ。


視線の先に懐かしい教会の鍾塔といくつかの小さな尖塔が見えた。逸る心のままに足を動かして教会を通り過ぎると、その向こう町の外れにある孤児院の建物は相変わらずぼろくて、俺は悲しい気持ちになった。


懐かしい建付けの悪い扉を開けて中に飛び込むと、子供たちがまるでお通夜でもあったかのように、食堂に一塊になっているのが目に入った。ふさぎ込んだ様子でうつむいて座っていた彼らは、俺の登場にも驚かず虚ろに顔を上げてこちらに目を向けてきただけだった。


これから先の不安に押しつぶされそうになっているのだとすぐに分かった。


少し間をおいて、俺が誰なのか気づいた子供が、あっと声を挙げて椅子から立ち上がり俺の方へ小走りにやってきた。そのガタンと椅子が鳴らした小さな音が、部屋の中に大きく響いた。俺の知らない子供たちの視線が、その子に集まる。


俺にはすぐに誰か分かった。三つ下のエマだった。彼女が子供たちの中で最年長で俺に手紙をくれた子だった。そして、もうすぐこの家を出て行く。


彼女は矢継ぎ早に俺に事態を説明しだした。それは動揺のためにあまり意味はわからなかったけれど、言いたいことは分かった。


それを見た子供らが、遅れて俺がやってきた理由を察したらしく、後から後から俺の周りに集まってきた。それからしばらくは泣きじゃくる子供たちを宥めることに時間を使った。


そして彼らの気持ちがある程度落ち着き泣き止んだのを確認すると、幾人かの年長の子らに後を頼んだ。それから急いで院長先生の寝室へ向かうとエマが後からついてきた。


孤児院はさして広くない。廊下を進んで懐かしい扉を開くと、院長先生はベッドに横になっていたが、起きていた。騒ぎを聞きつけて起き上がっていたようで、声を掛けると大きくはない声ではあったけれどしっかりした声で返事をした。


俺はそれだけでほっとしてしまった。ほっとしたせいで緩みそうになる涙腺をなんとか抑え込んだ。


先生は俺が誰だか認めると、にっこりと微笑んで俺の名を呼んでくれた。穏やかで優しい声。ゆっくりと話すその話し方が懐かしかった。


「大丈夫ですか?」


俺は慌ててベッド脇へ進み出ると、荷物を放り出して床に膝をつく。そして差し出された細く骨ばっていて枯れ木のようなその手をそっと握り込んだ。温かい。


「ええ、大丈夫よ。わざわざ来てくれたの?遠かったでしょう。本当にありがとう」


先生はそう言って、一度言葉を区切ると、ベッド脇にあるサイドテーブルの上の水差しから水を飲みたがったので、代わりに俺が汲んで一口飲ませた。


「ありがとう。大丈夫よ。キース、随分大人の顔付きになりましたね。最初分からなかったくらいよ。あぁ、でもね。あなたが来てくれて嬉しいけれど、大変な迷惑をかけてしまったわね。大事な時期でしょう?エマが呼んだのね?エマ、心配をかけたわね。ありがとう。それからキースもごめんなさいね。ちょっと熱中症になっただけなの。外で畑の作業をしていたから」


彼女は一息にそれだけ言う。


「でも、ベッドから起き上がれないって」

「ええ、でも、もうだいぶ良くなってきたの。みんなの看病のおかげ。本当よ」

「ええ、分かります。分かっています。ですが、もうしばらくは様子を見ましょう。大事をとって。ね?お願いします。僕が子供たちの面倒を見ますから。任せてください。僕は子供の扱いが上手いんです。知っているでしょう?」

「ええ、そうね。ごめんなさいね。お願いするわ。あなたはいつだって優しくて責任感があって、みんな頼れるお兄ちゃんだったわ。私はいつもあなたに頼ってばかりで」


先生が力なく微笑む。


「そうです。だから、今回も僕に頼ってください。僕は今丁度夏休みで、時間はいっぱいあるんです。せめて、僕がいる間だけはゆっくりしていてください。お願いします……どうか」


祈るような気持ちで言う。


「ありがとう。泣かないで?大丈夫よ。私は大丈夫だから」


彼女の手が俺の頭の上に置かれた。そして、そっと、小さい子供を安心させるようにやさしくなでた。懐かしくも確かな俺の思い出と同じように。


「そうだ。喜んでください。少ないですがお金を持って来たんです。これで元気になってください」


そういいながら俺は、荷物の紐を緩めると中から金の入った財布を取り出して見せる。先生は怪訝そうな顔をした。


「キース。それはどうしたの?そんな大金……」


先生の顔が曇るのを見て、俺は慌てて言った。


「安心してください、先生。盗んだとかだまし取ったとか、そういうやましいことをして得た金ではないんです。僕がコツコツ働いて貯めてきたお金です。これを受け取ってください」

「そんなこと思ってはいないわ。ただ、あなたが頑張って貯めたお金なんでしょう?それを簡単には受け取れないわ。それに、それはあなたに必要なお金ではないの?」

「大丈夫です。自分の為の金はきちんと確保しています。これで元気になってください。じゃないと、子供たちが悲しみます。僕も、エマも悲しいです。この孤児院がなくなってはみんなが困ります。だから、早く元気になってください。先生が元気になるまで僕が手伝います」

「……ありがとう」


先生は少し逡巡する様子を見せて、けれどエマの期待するような顔を見て、やっと受け取ってくれた。


俺は先生が負い目を感じないようそっと笑顔を作りながら手渡した。本当は卒業後の生活のために貯金していた金だったけれど、そんなことはどうでもよかった。金なんてまた貯めればいいから。


エマの嬉しそうな声に先生がつられるように微笑んだ。俺は、この笑顔のためならなんだって捨てられると思った。


それから、夏休みの間ずっと孤児院に泊まり込んだ。


先生は日に日によくなり、それに合わせて子供たちの顔には少しずつ笑顔が戻っていった。


俺は彼らの食事を作り、掃除をし、庭仕事をした。子供たちはよく躾けられていて、みんな率先して俺を手伝ってくれた。彼らの笑顔を見ると、何も苦しいことなどなかった。


それから、空いた時間に読み書き計算の勉強を見てやり、寝る前に物語を語って聞かせた。


夜、寂しさに泣く子供の相手をするのは久しぶりだった。


毎夜毎夜もっとほかの話を聞かせてとせがまれたけれど、生憎と学園では勉強しかしてこなかった。彼らの喜ぶような新しいおとぎ話や作り物語は何一つ仕入れてこなかったことを後悔した。


王都も暑かったけれど、この町も今年の夏の暑さは格別で子供たちは夏バテを起こしがちだった。


だから、俺は魔法で氷を作ってやった。最初は体調を崩してしまった子らと先生のために、それから夜の寝苦しさで眠れない子のために出すだけだった。


しかししばらくすると、日中ことあるごとに魔法を見せて欲しいとせがまれるようになった。俺の魔法に子供らは無邪気にはしゃいで喜んだ。娯楽の無いところなので俺の魔法が面白いらしく、すぐに子供たちは勉強や手伝いそっちのけで俺に魔法をせがむようになった。


最初は人見知りしていた子らも俺の周りに集まるようになった。


俺は請われるがままに次々と魔法を披露した。ただの氷では満足できなくなった子らに、彼らの顔を模した氷像を出して見せたりもした。最初はいびつで全然そうは見えず、子供たちはおかしそうに指をさして笑う。その顔が見たくて、俺は次々に氷のなにがしかを作る。


最初の内はへたっぴと言われるばかりだったけれど、少しずつ慣れて行って徐々にそんなことは言われなくなっていった。俺は俺で、細部にまでこだわろうという変な気持ちが湧いてきて、最終的には、孤児院の子供みんなから太鼓判をおされるほど上手くなってしまった。


まぁ、ガキなんてちょろいもんだ。


俺の作った氷の剣でちゃんばらごっこをするクソガキどもを後目に、女の子たちは綺麗な氷の花をせがんでくる。みんなそれぞれに違う花を欲しがった。これが本当に難しかった。


さすが女の子というべきか、きれいなものに対する飽くなき情熱には、微笑ましく感じつつも同時に辟易とさせられた。ガーベラやユリ、バラあたりが一番人気だった。風の魔法で細かく削って形を整える技術まで身につけてしまったし、何度も何度も繰り返し作らされたせいで、最後には見なくても形をとれるようになってしまった。


俺がきてから十日も経つと、先生もだいぶ体調を持ち直して、ベッドから起き上がって簡単なことは自力でできるようになった。孤児院の中は子供らの笑い声で満たされた。


それからさらに十日孤児院に滞在した。先生が本当に大丈夫なのか心配だったからだ。


そして、いざ学園に戻るという日の前日。別れるのが寂しいとぐずる子供たちを全員寝かしつけた後、院長先生に呼ばれて俺は院長室へと向かった。


先生はきちんと着込んで、椅子に腰かけて俺を待っていた。ランプの頼りない灯の中で姿勢良く威厳を保って座る姿は、俺の知っているいつもの先生だった。


「そこにお掛けなさい」


先生が言った。


「あなたが学園に旅立つ日の前日を思い出すわね。あなたはみんなから愛されて、慕われていて。あの日も今日みたいに、みんな泣いてあなたがいなくなるのをやめさせようとしていたわ」

「はい。覚えています」

「あの頃はまだ幼い顔立ちをしていたのに、今私の目の前にいるキースはもう立派な大人ね。きっとたくさんのことを私の知らないところで経験してきたのでしょう。経験が人を成長させます」


何か、物思いにふけるような表情で先生はそう言って言葉を切った。


「私たちを助けるために戻ってきてくれてありがとう」

「こんなの何でもありませんよ。ここが僕の家だからです。もう戻れないと思っていた。けれど、今またこうして、子供たちの世話ができて僕は楽しかったです」

「あなたはいつも他人のことばかり」

「そんなことはありません」


先生が首を振る。


「キース、お別れの前にもう一度言わせて。本当にありがとう。あなたのおかげで子供たちも精神的に安定してきました。私も無事に体調を回復させることができました。まだまだ頑張っていけそうよ。あなたには、どれだけ感謝してもしきれない。ありがとう。ただ、それだけに胸が痛いの。もうすぐ卒業だというのに、これから大事な試験があるというのに、あなたの大切な時間を奪ってしまったわ。あなたにとっては人生にかかわる大事な時期なのに……」

「いいえ、先生。僕の方こそ、この孤児院には、特に先生にはよくしてもらいました。いつか、恩返しがしたかった。今回、その夢を叶えることができました。それに、問題はありません。僕は論文の準備もそれ以外の準備も去年から進めてきているので、大丈夫です。あとは最後の仕上げだけなので帰ってから取り掛かっても間に合います」

「そう、良かった。間に合わないのではないかと心配だったのですが、さすがキースね。あなたの有能さには毎度驚かされると同時に、とても鼻が高いわ」

「いえ……」

「もっと誇りなさい。あなたは素晴らしい人間よ」

「そうでしょうか」

「もちろんよ」

「そう言ってくれるのは先生だけです」

「そんなことはないはずよ。学校のみんなも、あなたの優秀さには気が付いているはずです」

「……ですが、僕は結局一度も一番にはなれませんでした」

「あら、そんなこと大した問題ではないのに……。でも、確かにあなたは子供のころから負けず嫌いでしたね。勉強で一番になれないと泣いて悔しがって、そして、気づくと一番できるようになっているの」


懐かしい話を先生がする。あの頃はそれだけでよかった。みんな俺を褒めてくれた。


「学園の生徒はみな優秀で、僕程度では全然駄目でした」

「一番になることは素晴らしいことですけれど、それほど重要なことではありませんよ」

「でも、僕にとっては重要なことです」

「どうして?」

「一番になれば、誰もが納得してくれる。誰にも馬鹿にされない」


先生は悲しそうに押し黙った。


「それが、平民の僕が、みんなを納得させられる一番簡単な方法なんです」

「それでも、そのままのあなたを認めてくれる人はいるはずよ」

「それじゃあ駄目なんです」

「どうして?」

「僕には何もないんです。僕は何も持っていない。人からも認められるようなものは何も。たった一つで良かった。せめて人に誇れる何かが欲しかった」


涙が零れそうになる。先生は優しいから。つい甘えてしまう。それじゃあだめだ。僕は一人でも大丈夫だと、先生にはそう思っていてもらいたいのに。


「どうしてそこまでして何かを欲するの?それがなければ困ることでもあるというの?」


あいつらの、あの貴族たちの視線が思い出された。くすくすと笑うあの嫌な顔が。


「認められればもう誰からも馬鹿にされない。誰も僕を侮らない。僕は誰にも馬鹿にされない人間になりたかった。認められたかった」

「そう。そうね。あなたの言いたいことは分かります。でもなぜ?どうして他者に認められることに、そんなにも拘っているの?他人の評価を気にするなんて、なんだかあなたらしくないみたい」


考える風に先生は頬に手を当てた。探るような視線にさらされて、俺は居心地の悪さと気恥ずかしさを感じた。


「僕も大人になったんです」

「ええ、そうね。そういうことだと思うわ。でも……。他者からの承認は確かに生きる上で重要よ。でもそれは本当の目的ではない。もっと大事なことを、人の役に立つようなことを為すとき、それについてくるものが称賛や承認なの。ねぇ、キース。あなたは賢いわ。あなたは目先の利益に惑わされて本質を、本当の目的を見失うような人間ではないと私は思っています。少なくとも昔のあなたはそうだったわ。……ねぇ、キース。何か悩みがあるんじゃない?それは何?話してみて?もしかしたら力になれるかもしれない」


先生は優しい声で、教え諭すようにそう言った。彼女の声の柔らかさは、いつも僕らの頑なな心をほぐした。今もまたそうだ。


「……僕のせいで馬鹿にされてほしくないんです」

「ええと、それはお友達のこと?」

「友人ではありません」

「そう。その人に、ええと、男の子?女の子?」

「男です」

「そう。分かったわ。その人が、どうしてあなたのせいで馬鹿にされるの?あなたが誇れるような何かを手に入れることと、その人とがどう関係してくるの?」


俺は言葉に詰まった。何と言ったらいいのだろうか。それよりももっと根本的な問いが、何故俺はあいつの評判を気にしているのだろうという問いが、ふと頭に浮かんだ。


しかし、考えてみてもそれらしい答えはみつからなかった。


「わかりません」

「わからない?」

「今先生に質問されて、自分で考えてみました。ですが、答えは見つかりません。自分でもよくわからないんです」

「そう……。なんだか複雑なのね」

「やっぱりいいです。すみません」

「いいえ、キース。なんだか大切なことのように私には思われるわ。だからよく考えてみましょう」

「そんなことをする必要はありません。あいつと僕とはもう関係がないのだから」

「馬鹿にされると言ったわね。その人の評判をあなたが気にする理由は何かしら?友達でもないのに?」


先生は僕の言葉を無視して続けた。その目は誤魔化しを許さない目だった。


「……一時だけ友人に近しい存在でした。今はもう違います」


全て自分のせいなのに、こうして言葉にすると悲しくなる。


「そうなの。でも、どうしてその人とは友達ではなくなったの?」

「僕が悪いんです。彼の好意をふいにしてしまったから」

「親切にされたのね?」

「はい。僕が孤児だと知っても、普通に接してくれて、とてもよくしてくれました」

「それなのに、どうして友達をやめてしまったの?」

「一緒にはいられないと思ったんです。その資格が、僕にはなかった」

「友人同士の関係に、資格が必要だとは私は思いません。私は子供たちみんなに教えてきましたよね?忘れてしまいましたか?」

「いいえ。損得ではなく真心でつながるのが友達というもの、ですよね」

「ええ、そうよ。もし喧嘩をしても、仲直りをすればいいの。難しいことではないわ」

「でも、僕にはできません。彼に冷たいことを言いました。厳しいことを言いました。きっと彼を傷つけた」

「でもわざとではないんでしょう?あなたは誰にでも誠実に振る舞う子よ。理由がなければあなたは酷いことを言ったりなんてしない。違うかしら?」

「……釣り合わないんです。僕と彼とでは」

「その子は貴族なのね?」

「……そうです。彼は僕にいろいろなものを与えてくれた。でも、僕は何も返せない……」

「友人は普通そんなこと気にしたりはしないわ。それに、あなたはあなたにできることで返していけばいいのよ?」

「僕に返せるものなんてありはしません。何でも持っている人なんだから。それに、その人はすごいんです」

「そうなの?」

「はい。彼はなんでもできるんです。僕とは全然違う。みんなから慕われている。彼の周りは空気が違うんです」

「なんでも?あなたがそんなことを言う相手なんて信じられないくらい。その子は勉強も良くできる子なの?」

「勉強も運動も、何でもできます。いつも僕より順位が上なんです。……一度も勝てたことがありません」

「一科目も?」

「はい。全部です」


そう言ったとき、自分でも説明の難しい悲しみがこみ上げて来た。それはやるせなさだろうか。不甲斐なさだろうか。


「まぁ、それは本当にすごいわ」

「僕は何一つ、その人には及ばないんです。ずっと勝ちたかった。一つだけでも。でも、無理でした」

「そうなの……。それがつらいの?あなたは負けず嫌いだから、いつか勝ちたいのね?勝てないのが辛い?許せない?」

「はい。いえ、どうだろう」


自分の中に逡巡が生まれた。僕は本当にアルベルトに勝ちたかったのだろうか。頭の中が混乱する。


「あら、曖昧なのね」

「わかりません。勝てないことが辛いのかわかりません」

「なんだか矛盾しているわ。勝ちたいと言って、でも勝てなくてもいいと思っているみたい」

「わかりません……」

「そう。ねぇ、あなた気づいてる?自分のことは一つも良く言わないのに、その子のことは手放しで褒めるのよ」


先生の声音が優しくなった。


「私ね、去年の夏ごろにあなたからもらった手紙を読んで思ったの。あなたの手紙がいつもよりも生き生きしていたときよ。書かれてはいなかったけど、やっと友達ができたんだと思った。その後、冬に手紙をもらったときは、いつものあなたの手紙に戻っていた。もしかして、その時の子かしら」

「そんなことまでわかりましたか?」

「もちろんよ」


先生が得意そうな顔をして見せた。そのおちゃめな表情に僕は泣きたいような笑いたいような気がした。


「でも、もう友達ではありません」

「そうね。だったら、夏休みが終わったら声をかけてみたらどうかしら」

「いいえ。もう良いんです、先生。相手は貴族でしたから、どうせ長くは付き合えませんでした。住む世界が違うと思い知らされました」

「そう……」

「それに」

「それに?」

「いいえ。僕がいけないんです。だから、もういいんです」

「だめよ、良くないわ。大事なことなの。もしかしたら、向こうはあなたをまだ大切な友達だと思っているかもしれない」

「そんなことはあり得ませんよ」

「はっきりと決別したの?相手に嫌いだと言った?あるいは、嫌いだと言われた?友達じゃないって言葉で言われたの?」


アルベルトの最後の顔が思い出された。


「でも、嫌われることをしました。ひどいことを言ってしまったんです。剣術大会で、僕は彼に酷いことを言ってしまいました。彼が本気を出していなかったからです。僕に勝ちを譲ろうとしているのだと、試合の最中に気付きました。気づいたら、そうされなければならない自分が恥ずかしくなってしまって、酷いことを言ってしまった。それに、もし仮に、嫌われていないとしても、僕はだめなんです」

「何が?」

「この僕の性格が許さないんです。対等でない関係に我慢ができないんです。僕は勝ちたかった。彼に何か一つでも勝ちたかった。それによって、僕に価値があることを証明したかった。なのに、彼は僕に勝ちを譲ろうとした。いらないものを下げ渡すみたいに。僕はただ、彼と友人であることが恥ずかしくないような、釣り合う価値が自分にあるのだと証明したかった。負けっぱなしは嫌だった。僕は与えられてばかりは嫌だ。僕には何も与えられない。彼からもらった優しさや思いやりやそういったものを返してあげられない。僕は人に与えたい。そんな人間になりたかった」

「でも、お友達はあなたがそういう人間と知って付き合おうとしてくれたはず。なら、彼らはあなたに何も求めていないんじゃないかしら。あるがままのあなたで付き合えば良いんじゃないかしら」


俺は首を横に振る。それは実に子供じみた振る舞いだったと思う。


「僕は誇れるものがほしい。自分が恥ずかしくない、みじめな存在ではないと証立てできる実績が。他人に自分を誇れる何物かが欲しかった。彼に恥ずかしくない人間になりたかった」

「そうね。その気持ちはわかるわ。崇高な気持ちだと思います。でも、でもね、キース。それじゃあ、あなたは友達に、自分と同程度の能力を求めるの?自分よりも何かが劣るような人は友達とは認めないのかしら?そんなことをしたら、ほとんどの人があなたと友達にはなれないわ。それは、付き合う人間を選別するのと変わらないんじゃないの?」

「そんなつもりはありません。僕は、人を選り好みできるような立派な人間じゃない」

「でも、そう思うのならなぜ?なぜそうまでしてつり合いにこだわるの?その矛盾にあなたが気づかないはずがない」

「わかりません」


頭が混乱してくる。先生の問いかけが頭の中でぐるぐると回っているようだった。


「なんだかあなたの話を聞いていると……」

「僕には友達がいません。孤児院のみんなは家族みたいなもので、僕には友達がどういうものなのかよくわかっていないんだと思います」

「そう?」

「きっと相手が貴族だからかもしれません」

「そうね。貴族が友達だったら、私も気が引けてしまうかもしれない。でも、あなたは立場で関係を変えるような人間ではないし、相手の地位に惹かれるような人間でもない。そうまでして頑張らねばならない相手と、あなたは無理に付き合いたいと思うかしら?」

「どういう意味ですか?」

「釣り合う人間にあなたはなろうとした。でも、なれなかった」


諭すようにゆっくりと先生が言葉を紡ぐ。


「つまりね、それはきっと、その人が、あなたが頑張りたいと思うような相手だから、あなたは必死に何かを成し遂げようとしているんじゃないかと、そう思ったの」


先生は穏やかな声が耳にこだまする。


「あなたは、確かに人一倍負けず嫌いだったけれど、そんなに誰かに執着するような子ではなかった。私はそのことがずっと心配だった。けど安心したわ。その友達のおかげであなたは変わったのね、きっと」

「もう友達ではありません」

「それにね。どうしてその子はあなたに勝ちを譲ろうとしたのか、考えてみた?どうしてわざと負けようとしたのかしら。冷静に考えて、彼には、あなたに負けることによる得られることなんて一つも無いわ」

「そんなの僕にはわかりません」

「あぁ、あなたを学園に入るよう言ったのは間違いではなかった」


先生が何か俺の知らない確信をもって言葉を紡ぐ。


「あなたは変わった。きっとその子のおかげで。私は、あなたのその疑問の答えはきっとすぐ近くにあると思うの。それは、あなたが気づいてくれるのをじっと待っている。一度じっくり考えてみて。そうしたら、いつか、あなたは自分の本当の気持ちに気付く日がくる。絶対よ。それを信じて」


穏やかに笑う先生の言いたいことが、俺にはわからなかった。


「その時がきたら、仲直りができるわ」

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