11*
お互いがステージに立って、向かい合う。
夏の日差しは今年はいつも以上に厳しく、俺の首筋をじりじりと焼いた。ただ立っているだけで疲労が蓄積していくような感覚がある。
久しぶりに真正面に見たアルベルトは、俺だって背が伸びたのにも関わらず、やはり頭一つ分背が高かった。見下ろすような視線に俺は真っ向から見返した。
けれど、こちらの気負いなど少しも関係ないという風に彼はそこに居て、俺が見つめる先にある彼の瞳は夏の空のように青く澄んでいた。それが太陽の光を反射して輝く。体格はもうすっかり大人だというのに、その表情だけはまだいくぶんか子供っぽさを残しているように思われた。
彼の輝く金の髪の毛が柔らかく風になびいている。
こうしていざアルベルトと対面すると、しかし心が竦みそうになる。それは、彼我の実力差のせいでもあり、体格の差が明確に認識できたからでもあり、彼に対する負い目故でもあったと思う。
それに、こうして対峙してよくわかる。その体つきは以前よりもがっしりとしていて、もう去年の彼とは別人のようだった。無意識に彼の腰に当てる腕の太さと自分の腕とを比べてしまう自分に気付く。
その一目ではっきりとわかる差がそのまま勝敗へと繋がることは分かっていた。
分かっていてなお、俺はやれることをやるつもりだった。この日のために、訓練を積んできたのだから。絶対に一矢報いてやるつもりだった。
竦みそうになる心を叱咤して、俺は冷静を装う。
観客席から、落胆したような、憐れむような声が聞こえてきている。誰から見ても、勝敗は分かり切っているのだ。
俺は目を閉じて心の中で自分に喝を入れる。
落ち着け。やれる。そのために今まで練習してきたんだ。勝つんだ。勝たねばならない。アルベルトに、少しでも己の価値を証明してみせなければいけない。
そう心の中で自分に言い聞かせて、気持ちを落ち着けるために閉じていた目を開いた。目に力をいれて、相手を見据える。
審判が俺たちに注意事項を伝える。
その声を聞きながら、俺は緊張が高まっていく。
心臓の鼓動の音が耳に届いた。
そこでふと俺は気づいた。さきほどからずっと落ち着き払って立っているように見えていたアルベルトが、少しだけ緊張しているようだということに。彼が何か言いたげに俺を見つめている。しかし、何を言わんとしているのかは分からなかった。ただ、固く結ばれた口元の緊張感と揺らいでいる青い瞳が、俺に彼の動揺を知らせてくれる。
俺が彼に練習で勝ったことが無いと知っているのに、何がそんなに不安なのだろうか。
深呼吸する。気持ちを切り替える。
今はそんなことはどうでもいい。動揺しているということは付け入る隙があるということだ。やれる。理由は分からないが、いつもと違う状態のアルベルトになら勝てる見込みはある。
集中しろ。呼吸は大丈夫。全身の筋肉も問題ない。指先まで程よい緊張が行き渡っている。大丈夫だ。いける。
俺は審判を見る。彼の手が高々と上げられている。夏の空を背景に、確かな緊張感を持って揃えられた指先が太陽を指している。
爽やかな夏の風が吹き過ぎていった。背の高い雲が空に立ち上っているのが目に入る。
――はじめ!
試合開始を告げる声と同時に、審判の手が振り下ろされた。
俺は即座に抜刀して構える。
アルベルトが出遅れたのが見えた。
俺はそれを認めると、即座に一歩踏み出して突きをお見舞いする。
俺の攻撃に気付いたアルベルトが少し遅れて剣を抜き去ると、体を逸らして辛くも剣先を避けた。
その動きは予測済みだったので、突き出した剣の柄を持ち替えて横薙ぎに払う。
アルベルトの剣がそれを馬鹿正直に受け止めた。剣と剣がぶつかって、硬質な音が響いた。金属と金属がぶつかる衝撃から相手の力の強さが分かる。
俺の剣が受け止められたけれど、俺はそのまま剣に力を込めていく。受けた構えが良くない形になってしまったアルベルトは、その押しつけをうまくいなせずにいる。
彼の動きにわずかな違和感を覚えたけれど、それについて深く考える余裕がない俺は、さらに剣を握る手に力を込めて、距離を詰める。
アルベルトがそれを見て、俺の剣を力任せにはじき返して距離を空けた。俺はそれも予想していたので問題なく対応する。態勢が中途半端なアルベルトに向かって再び一歩の距離をつめる。
俺の動きに気付いている様子なのに、相手はまだもたもたしている。調子がよくないのだろうか。夏バテか訓練中の怪我か。どちらだろうかと一瞬考えた。
しかし、そんなことは今はどうでもいい。彼に構えを修正させる余裕を与えてはいけない。すぐに、がら空きになった胴体目掛けて剣を横薙ぎに振る。アルベルトがすぐに反応して剣の持ち方を変えると、わずかな遅れの後でぎりぎりで俺の攻撃を受けた。
再び違和感を感じる。彼の剣はびくともしなかった。
握る両手に力を込めて、剣を押し込む。王子がはじき返しも受け流しもせずただ俺に圧されて後退していった。
俺は彼を押しやりながらふとその顔を見た。見なければ良かった。
俺はここでやっと気づいた。気づいてしまった。
その目は、戦う男の目じゃなかった。瞳が揺れている。
俺はこの目を知っている。
子どもの頃、幾度となく街中で見た目だった。俺たち孤児院の子供らに向けられていた目だった。
かわいそうな者を見る目だった。
俺はそれが大嫌いだった。
そのことを思い出した。そして、同時に彼の考えを理解する。俺の視線に、アルベルトが目を逸らした。試合中だと言うのに。
真剣勝負の最中だというのに……。
あぁ。
俺はなんて馬鹿なんだろう……。
悲しみと怒りがこみ上げてくる。
俺は怒りに任せて何度も何度も相手の剣に向かって自分の剣を振り下ろした。惨めな音が響いた。
息が切れるまで、繰り返し繰り返し。気が済むまで、叩きつけた。
こいつはわざと負けようとしている。そう気づいた。理由は分からない。でも俺を騙して、うまく負けるためのタイミングを計っているんだ。
そうして、息が切れ腕がしびれて剣を振り下ろせなくなったとき、唐突に全てどうでもよくなった。こいつは結局俺のことを馬鹿にしているんだと思った。息を切らして攻撃を中断し隙を晒しているのに、こんなに隙だらけなのに、こいつは全く攻め込んで来ようとしなかった。釣り行動に対する警戒では決してなかった。上から見下ろすような余裕がある者の振る舞いだった。
他の奴らと同じだ。
腹の底からふつふつと湧き上がってくる怒りと、頭の芯から冷え冷えとするような静かな諦念とがあった。
俺はそして、剣を振るうのを止めた。最初から、俺のやろうとしていたことに意味など無かったと分かったから。この一試合だけでも、本気で勝つつもりで挑んだけれど、それは全くの無駄だった。
アルベルトが怪訝そうな顔をしてこっちをみている。どうしようもない茶番だ。
俺は持っていた剣を捨てた。乾いた金属音が耳に届いた。
ざわざわと周囲から訝しがる声が、波の音のように聞こえてくる。
俺は審判に向かって手を挙げる。
「棄権します」
はっきりとそう言った。
「なっ、キース!何を言っているんだ!」
アルベルトがうろたえる振りをした。馬鹿にしている。
審判が試合の終了を宣言しようと、片手を持ち上げる。それを見た、アルベルトが審判の手に、自らの手を重ねて待ったをかける。
「待ってくれ。キース、どうしたんだ。まだ全然試合は終わっていない。勝負は決してはいない!」
柄にもなく大きな声を彼が出した。こんなに大きな声を、焦った声を出すのを俺は初めて聞いた。
「勝負は決まったよ。お前の勝ちだ。おめでとう。お疲れ様」
俺は冷たく言い放った。心の奥底では怒りが燃え盛っていたけれど、口をついて出た言葉は酷く投げやりで少しの熱も持ち合わせてはいなかった。
「なんで……」
呆れたことを目の前に立つ男が言う。
「なんで?」
俺の問いかけに、しかし彼は答えなかった。
「あんな下手な演技で俺を騙せると思っていたのか?もう少しうまくやるべきだったな」
俺の言葉にアルベルトが目を伏せた。
「あぁ、お前もやっぱり他の貴族連中と同じだったんだ。最初の頃から何一つ変わっていなかった。反省したふりをして、俺のことを馬鹿にしていたんだな」
「な、なにを……」
「お前は俺のことを、自分が本気で相手をするまでもないような相手だと思っているんだ。だから、簡単に勝負を諦められる。本気で勝つ必要がないから」
「そんなつもりは……」
「本当に?じゃあ、何故手を抜いた?どういうつもりだった?教えてくれ。俺を馬鹿にする以外のどんな意味があったのか説明してくれ」
「馬鹿になどしていない」
「それなら何故なんだ?俺に勝ちを譲ろうとしていた。それはお前自身が一番分かっているはずだ」
アルベルトは無言になった。唇を嚙んでいる。
「お前がどんな意図を持ってわざと負けようとしたのかはしらない。しかし、それは俺を否定する行いだ。俺がお前に勝てるわけがないとお前自身が思っているからできる振る舞いだ。それは俺を憐れんでのことなのか?なんで、なんでお前は分かってくれないんだ。俺は譲られた勝利など欲しくは無かった!勝利を譲られるくらいならば、潔く戦って負けたかった!お前にとって、俺との勝負はそんなに安いものなのか?俺は、俺は、この日のために訓練してきた!必死に!なのに、お前はそれが全て無駄だと言う。そう、態度で示した!そうすることが、どれほどの侮辱であるのかを、お前は少しでも考えてくれなかったのか?俺のために?俺はお前からそうされなければならないほど、哀れな人間なのか?教えてくれ!俺は、可哀そうな人間なのか?」
アルベルトは俯いていた。
「やっぱりお前と俺は違うんだ。勝利を必要としない人間に、勝利が必要な俺の気持ちはわからないんだ。俺は本気で勝ちに来ていた。今日!お前を倒すつもりでここへ来た。それは、そうしたいと思ったからだ。そうしなければ、お前の隣に立てないと思ったからだ。俺は、お前をライバルだと思っていた!あぁ、笑ってくれ。体も大して大きくもなく力も弱く技術も拙い俺がお前に勝てるなんて、本気で思っている愚かな俺を笑ってくれ。お前はが馬鹿にしている、俺が大事だと思っているものを笑ってくれ。お前はそれをいとも容易く捨て去れる。俺が必死に手に入れようとしているものを。そういう人間なんだ。容易く自分のものを他人に差し出せるんだ。それは、優しさじゃない。自分に必要がないからだ。俺のように何物も持たない人間にはそんなことできない。容易く捨てるなんて、容易く誰かに差し出すなんてできないんだ。いつだって必死に追いすがろうとする。日々を生きるための糧を得るために、毎日必死に働く。貴族から見たらそれは本当につまらないものかもしれない。けれど、誰にも頼らずに自分の足で立つためには必要なんだ。そんな人間に施しを与えることは正しいことなのか?俺は恵んでくれとは言っていない!俺は欲しいとは言っていない!言わなかった!一度たりとも!必死に生きる俺はみじめで滑稽な存在なのか?以前あなたに問うたことだ!教えてくれ!俺は……俺は……可哀そうな人間なのか?同級生から憐れまれなければいけないほどに?」
「やめたまえ!不敬だ。それにここは神聖な試合会場だ。関係のない話は慎みたまえ!」
審判員が割って入ってきた。
「俺の言葉はお前に届いていなかった……」
言いたいことを言いきった俺は、審判に謝罪の言葉を述べると困惑している審判を後目に、俺はさっさと舞台を後にする。これ以上ここにいたくなかった。
もう顔も見たくなかった。背後から審判の俺を呼ぶ声がしたけれど、聞き流した。
くそくそくそくそくそ!
俺は泣きたかった。
けれど、突き刺すように俺を見つめる観客たちの視線にさらされて、これ以上の醜態を晒すのだけは避けたかった。
足早に会場を後にする。幾人もの人間とすれ違ったが誰も声を掛けては来なかった。
会場を抜け、林を抜けて、寮が見えてきた辺りで俺はやっと小走りに駆け出した。
古びた扉を開けて、見慣れた玄関ホールに駆け込むと、不快な音を立てて鳴る階段を一足飛びに全力で駆け上がった。すれ違う者はいなかった。息を切らせて俺は自分の部屋の扉にぶつかるようにして開けると、乱暴に後ろ手に扉を閉めた。震える手で中から鍵をかける。そして、古くて小さくてギシギシ言うベッドに身を投げ出すと俯せに寝転んだ。
早鐘のように打つ鼓動と荒かった呼吸が、じっとしていると徐々に収まっていく。そして、それに伴って今度は、後から後から悔しさと惨めさが襲ってきた。
いつぶりだろうか。子供のころ以来の涙が流れた。その涙は、押し付けた枕に、そのまま吸い込まれていった。
馬鹿みたいに大声を張り上げて泣きたかったけれど、もう泣き方も思い出せなかった。
俺はただ嗚咽を噛み殺しながら枕に顔を押し付けてただ泣いた。
この学園にきてから積み上げてきた努力や自尊心や誇りや勇気や悲しみや喜びなどのあらゆるものが一気に崩れて行くのが分かった。
必死に積み上げてきたものは、ただの道端に落ちている石ころと同じだったのだと思った。いびつな石は、いくら積み上げても何ものにもならず、何かになれたと思った瞬間には、音を立ててあっという間に崩れていくだけなんだ。そう分かった。
そうやって、ただ泣きに泣いて、気付くと俺は眠っていて、目が覚めた時、夕方の赤い日差しが部屋を血の色に染めていた。
後には、ただ、むき出しの自分だけが残された。
自分が酷くちっぽけな人間のように思われた。